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                  朝霧が深い。山荘から、流れへ降りる階段の手すりは、ぬれて冷たかったが、志保子は、足許のすべりそうなのを支えて、手すりに片手を進めていった。 
                 真珠が溶けた様な霧の海から、ホイッテイアーの詩が、じょじょに近づく帆舟の様にあらわれてきた。志保子は涼しく誦んだ。 
                「私はいにしえの調べ美しい歌を愛す。 
                 それらは柔らかに幾時代を経て流れている。 
                 スペンサーの黄金時代のうた 
                 アルカディアを描いたシドニーの銀の句 
                 それらは私達の日ざかりを爽やかな朝露で濺ぐ」 
                 階段を降りきって、五六歩、詩の一章が終り、サンダルの皮緒が、しめって、むやみにきつくなるのを、しゃがんで露をはらうついでに、志保子は、ひょいとお勝手のあたりをふりかえった。 
                (山荘のおしゃれリボン)だとマコ叔母様がいうランタンが、まだ灯ったまま、霧をすかして、ボウッと、いく重にも光の輪になって、かすんでうるむ。あの下では、十二才の弟ペコチンが、炬にまた薪を燃し足して、ほのほを大きくしているだろう。 
                 ― ゆかいな、山荘の三人の住人 ― 
                志保子は、手の水おけをゆり、ホイッテイアーの第二章を誦みたくなった。 
                「でも、私の静かな時にそれら素ばらしい調らべを、 
                 私は歌おうと試みるけれど、空しい努力だ。 
                 私はそれらを感ずる、さながら葉や花が 
                 黙して露のそそぎを感ずるように 
                 そして、喜ばしい無言の唇で 
                 空の祝福をのむように 
                 志保子は霧を息いっぱいに吸った。おいしいジューウスの様に。するとおどろいた。まるで、吸われてうすくなった霧の合い間から、霧の中にゐる魔をみた心地がした。 
                 流れのふちに、ボロボロの着物、あかだらけの髪から横顔、くぼんだ目のふち 
                (生けすの鯉を盗もうとしている) 
                 老女の盗人をみつけた志保子は、ぞうっとして凍ったみたいに立止った。 
                 むこうも気配をさとったらしい。サッと流れをまたいで、霧のむこうに、つまさき走りに、逃げて遠ざかった。 
                 しばらく、志保子は、老女の盗人が消えた霧の箇所を、じっとみていた。目がはなせなかったのだ。やっと、しびれが解けてくると、志保子は、ひどく急いで、水を汲んだ。 
                 いつもは、ここへ来ると、まず、歯にしみる水で、口をすすぎ、目を洗い、ほほを赤ずませ、ゆっくりと好きなうたを唄いながら、ゆうべ、ねしなに冷しておいたハダンキョウをすくってたべて、それから、ハダンキョウの粒を、そっくり水おけに汲みこむまでに、相当たのしい時を費やす。 
                 今日は怖しくて、いきなり汲んだ水さえ、妙に重く、やっと階段へ近づくと、あとでバカにされる。残念を忘れて、つい 
                「ペコちゃん、むかえにきて」 
                 ランタンの灯へ、すがりたかった。 
                「よう、シボ姉ちゃん、熊に追かけられた?」 
                 おどけたペコちゃんが、弓をかまえる手つきで、階段をかけおりてくる足首が、とてもたのもしかった。志保子に、シボ姉ちゃんとアダ名がついたのは、すぐ朝顔がしぼむみたいに、しょげるたちがあるからだ。 
                「なァんだ。熊はもう霧に食はれちゃったのか、よかったな、シボ姉ちゃんが、熊に食れたんでなくて」 
                 相かわらず、やたらにからかいたがる。 
                「― 本当なのよ、声も出なかったの」 
                 ヘットリと力が抜けた両手で、志保子は階段の手すりに、体をづり上げてもらう様に、昇りはじめた。 
                「やれやれ、ずるい姫君、さも働き者の様に、からの手おけをさげて降りたくせに、霧に食はれっちまうヤクザ熊を、おとりに連れだったりして、水の入った手おけは、正直な真の働き者に、かつぎ上げさせる算段じゃ」 
                 シェクスピア劇を、野外でやった時の、セリフわしをまねながら、身ぶりも芝居っけたっぷりに、ペコちゃんは、わざとよろけたりして、ヨチヨチと、山でもひきあげさせられる重げな様子で、水おけに階段を少しづつ上らせた。階段の上にはマコ叔母が出て来た。 
                 「なにしてゐるの、このオドケ茸達、切角のおん叔母上のお手なみスープが、まずくなっちゃうじゃないの、オドケ茸達が、さわげば、是非またカントクカンたるマコベも、出張しないわけにゆかないでしょ。その度にお鍋をおろすと、とんでもなくしくじるのよ」 
                 おしゃもじをもった右手で、調子をとって、足は軽くステップのけいこをしている。 
                「うまいなァ、さすが、女子大社会科だけの文句だって、パパも感心してるもん、マコ叔母テキは、とかく、オドケ茸の仲間入りがしたくって、オニョオニョしてるんじゃないか、だもんだからさ、僕たちが、ピッてっても、すぐ踊りの足どりで出かけて来っちまう」 
                 ペコチンは、水おけの重さを、アクタレに代えて報いる。 
                「そうと価がきまれば、もっと前進せずばなるまい。どれどれ、ヘコタレ共をむかえに参ろう」 
                 チチタ、タ、ラララ、リ、マコ叔母は二人の所まで降りてきた。 
                 志保子は、手すりにうつぶしそうであった。 
                「あれッ、どうしたの、シボちゃん、しっかり、キトクじゃないの、真にせまってちと青い顔色よ、心臓がどうかしたんじゃない、おどかさないでよ」 
                 マコ叔母様は、志保子の脇の下から手をとおして、かづき上げる様にのぞいた。志保子はいっそう、ぐったりしながら、肯いた。叔母様は、ペコチンに、 
                「水おけより、シボミん坊を、かつぎ上げる手伝してよ、すみやかすみやか」 
                 叱るみたいだ。ペコチンは、 
                 「やっかいだな」 
                 と水おけを途中へおいて、志保子の左手をひっぱり上げに来た。そばえきて、びっくり 
                「おや、ほんとだ。めまいがする? シボレー」 
                 志保子は、両方からいたわられると、返事も一寸、出来なかった。グングン炉のそばにはこばれ、クッションを、具合よくならべた上にねかされて、毛布をかけられた。 
                「急に、つめたい霧ん中へ出かけていったからでしょ。だから、出る前に炉ばたへ、へばりつくのは禁物よ、息が苦しくなってよ」 
                 マコ叔母は、山のソーナン者を、扱ひなれた人みたいに、峠のジンベイ爺さんに貰った山ぶどうの汁へ、熱い湯をわってのませた。志保子は、手をもちそえられてグッとのんだ。 
                「シボだからなァ、根っからシボ的だから」 
                 心配そうに、それでもペコチンは、志保子をはげます様に悪口をやめずに火を焚く。 
                「あのね、みちゃったのよ、みつけちまったの」 
                 プドウ酒が血管をまわり出すと、やっと志保子はその勢で、ものをいい出した。 
                「なにをよ、まさか宇宙の神秘の鍵のヒモとか、天のヘソでもみつけたんじゃあるまいし」 
                 これもまたシボミん坊へのマコ叔母様の、キツケ注射だ。その尻にのってペコチン 
                「三本足の、五つ目小僧が、ホーヅキにのって飛んでたろう、シボレー」 
                「ウソウソ、そんなどこじゃないの、本ものよ、ぞうっとしちゃった」 
                「あたりまえじゃないの、夢だって、みてるうちは、ほんものよ、さァもったいぶらないで、スープがこげちまう」 
                 もう、マコ叔母様はスープ鍋をカギへかけて、かきまわしている。早く食べさせて、元気つけたいから。 
                「ドロウよ、ボロだらけの、お化けみたい」 
                「まッ、どこに」 
                 ひくめたマコ叔母の慎重そうなあわてぶり、持ったおしゃもじが、微にふるいている。 
                「にげてったのよ、にらんだら、鯉を盗む所だったの」 
                「にらめるもんか、にらまれて青くなったんだろ、でも、僕だったら、そうっととってかまして、リュウサン球をぶっつけたろうから、その盗人、カタワになりそこなったな、これから、流れにやたらに冷せないね、鯉も夜は家ん中に入れなきゃァ」 
                 ペコチンは一人で、二人を元気づける。 
                「どんな人」 
                 ややあって、マコ叔母様のおしゃもじは、鍋の中をおよぎ出した。 
                「目のくぼんだ、シブ紙色に日にやけた、髪ぼうぼうの、ちぎれて落ちそうなボロだらけ」 
                 なるべく、くわしく、見た通り告せようとするのだが、怖しさが、自分の一言づつに、よみがえってくる。 
                「藤左衛門のおかかだわ、モヨっていう」 
                 マコ叔母は、ひとりごとの様にいう。 
                 「炭をもってくる藤助のお母さん?」 
                 ペコチンは、藤助少年と、親友になりたがっていた。藤助少年は、はしこい足どりで、ペコチンに、食べられる蜂の子の巣を教え、サビクの枝で、うさぎわなを作ってくれた。 
                「そう、鯉をあすこへ放したのを。必っと、藤助からきいて、知っていたのよ」 
                 翌朝から、ペコチンが、水汲役であった。 
                 「ドロボ来い来い、ドロボ来い来い、ドロボウ来い、来いったら来い、来い来い来い。 
                 ランタンの下で、ペコチンのドロボウ払いの唄をきく、マコ叔母様と、志保子は、 
                 「あれじゃァ、鯉売じゃァないの、盗人へ、鯉をすすめているんじゃない」 
                 と、おかしがった。 
                 ペコチンの唄は、ききめがあった。そのドロボウが、すなおに、ペコチンの唄に招かれでもした様に、風のある夜、山荘へ、三人を訪ねてきたのだから、三人はドギマギした。 
                 「ごめんして、けらっしゃいす」 
                 すきま風がもれる位な、やさしい声であった。 
                 外は十四日の月明りだ。 
                (あけようか、どうしょう) 
                 炉のまわりの三人は顔をみ合せた。志保子はまばたかず、マコ叔母様は決心に至る 
                 途中の時のくせの耳に全精心をあつめた様なさまをし、ペコチンは唇をキッとしめてヅボンのバンドをつかんだ。 
                「― が、たいへんですがな」 
                 扉をたたいて、あわただしげに急がす。ペコチンは立上った。 
                「どなた」 
                 意外な大声だ。 
                「藤助のとこのおかかですがな」 
                 三人はギョッとした。マコ叔母は決心した足どりで扉をあけた。ペコチンも続いた。志保子はペコチンの肩に手をかけてのぞいた。 
                 くぼんだ目が月光を背にしてギロリとし、ボロ着物が風にはためいていた。 
                「鯉がそっくり盗まれた様で、いませんがな」 
                 三人は苦笑した。鯉は一匹鯉コクにし、あともう一匹はジンベ爺さんをたのんで、糸づくりにして、とっくに二匹とも食べてしまったのだ。藤助のおかかは今夜も盗みに来たのだろう。それにしてもなぜわざわざ報らすのだろうと三人は、乞食の様な相手をみた。 
                「あの鯉はな、七枚目のうろこに金が入っている龍にもなるって鯉でしたがな」 
                 三人はまだ無言で、心の中で無電を打ち合っていた。放送も、受信も、すべて、疑問符がつき、苦笑が伴った。 
                (このおかか、盗みたかった鯉が、外に盗まれたと残念がっているんじゃない?) 
                (でも、それを告白するとはおかしいな?) 
                (七枚目の金うろこ、龍鯉は我々の身になっちゃったと知らせたらどう?) 
                 が、ついにマコ叔母様の口から出た言葉は、 
                「御親切に、どうもありがとう」 
                 あやうく、ペコチン、志保子はふき出しそうだった。おかかはボーボー髪のくびをふり、 
                「いやいや、なんの、あんまりもったいなくてね、ジンベ爺が幾年も冬越しさせた鯉な、おらも、とっくからあれにァ目をひかれてた」 
                 三人はとうとうふき出した。藤助のおかかは、けげんそうに三人をみていたが、やがてつりこまれて、ニヤッと笑った。気味がわるい。さすが人なっこい三人も入れと言いかねた。 
                「それでな、鯉と煮て食ふとうまい凍み太根買ってもらうべいと持ってきたが、いるまいな、鯉は盗られちまったし」 
                 遠慮そうだ。そうだったのか、早くその順序を言えばわかったのに、と三人は、あらためて顔をみ合してしまい、ちとわるいなと後悔し、 
                「頂くわ、どれ、いかほど」 
                 ボロの背中から、降したのは二貫目もある。三人とも、いままで、その荷物が、ボロ着物の背にあるとは、誰も気づかなかった。 
                「娘がね、お嬢さん方みてぇなクツ下ほしいっていうでね、お父うはきかないでね」 
                 ウコギの白い花を髪にさしたりしている志保子より二つも多い年頃の、ポカンとした娘だ。 
                「うんと安くていいぞな、で、よ、炭もよこすで、もし、くつ下の古いのでもあったら、取かえて貰はれめぇか、先達中から、娘にごねられて、頭がやめるで」 
                 ほんとうに頭痛がしていそうだ。藤助少年がペコチンに、姉が母をこまりきらせるとなげいていた。志保子は、マコ叔母様と肯き合って、マコ叔母様は、 
                「志保子の配給のくつ下が、東京の家にあるから、送って貰って、上げるわ、すぐ」 
                 干太根の価は別に払った。おかかは、くぼんだ目玉をよせて、意外そうにおどろき、何度もおじぎをし、ずるそうに札をしまった。 
                「娘さんにも遊びにいらっしやいってね」 
                 マコお叔母様はやさしく言い足した。 
                「はい。どうも、あいつは、人のいうこと、すなおにきいたためしがねぇで」 
                 また暗い顔つきをした。ペコチンが、 
                「いいよ、僕、来させてみせるから」 
                 おかかは、ほっとほほえんで戻った。 
                 月明りに、ボロとボウボウ髪を風に吹かれて草の中をゆくおかかの後姿は、不幸のシンボルめいた。見送った三人は、 
                「気の毒ね、バカな娘さんね」 
                「ほとほと手をやいてるらしいのね、白痴に近いんでしょ、おまけに意地まがりで」 
                「僕に計画があるよ、ここへ来させて、マコベ叔母様や、シボレーをみたら、ずっとよくなるよ、あの娘のアコガレのマトは、シボレーと、マコ叔母的なんだから」 
                「まァ、そのおバカさんのアコガレのマト」 
                が、自分達二人だときいて、二人は口をあいた。 
                「ハハハハ、さうさ、あの娘の大好きなのは、おしゃれと、流行歌と、食べること、なんだ。山荘のお嬢様方は、うたがうまくて、おしゃれがうまくて、料理がうまいとさ」 
                 よく唄ふ二人は、得意のソロや合唱が、流行歌といっしょにされて、苦笑し、 
                「おしゃれじゃないわよ」 
                「美しいってことさ、それから、藤助にみやげにやったワップルさ、ペコチン、天の智恵をもって、バカ娘を招きよせてみせるよ」 
                 自まん通り、藤助少年に、ペコチンが翌日渡したビラはふるっていた。つるつる紙に、サクランボの図案でふちどって、片手でおしゃれをし、片手でごちそうをつまみ、口からは音符がとび出ているマンガを右よりに、 
                「うつくしくなりたい人、上手にうたいたい人、うまいものたべたい人は、ペコ山荘へ」 
                 とおどった字で、まるで印刷した様にていねいにかいてあった。 
                「これが、招待状だよ」 
                 志保子とマコ叔母は、クスクス笑い、藤助は嬉しそうに走って持ちかえった。 
                 十六夜の月が、山の端にかかったうすぐれ、流れの岸に、ポカッと月見草が咲いたみたいに、藤助の姉が立っていた。来るときめるまでに一日半かかったのだ。みつけた志保子は、サンダルのつまさきをぶっつけたりして、いそいそとむかえにいって、肩に手をかけた。 
                「ようこそ、待ってたわ」 
                 階段の上からマコ叔母も、声をむかえによこした。 
                「さァさァ、どうぞ、あなたが水のそばに立っているのは、ずいぶんきれいよ、すてきよ」 
                 娘はきまりわるげに笑って、志保子と足なみを合せて、山荘の階段を上った。ペコチンは、招待状が効いたキゲンよさで、こまめに、マコ叔母様と、志保子の助手をした。 
                 コケモモのジャムをはさんだパイと、カクテルジュースのごちそう。藤助の姉ウメヨは、舌をならしてチビチビ大事そうにのみ、口ばたにジャムをくっつけて遠慮そうにたべた。志保子はクリーム色のふちかがりをした自分のとおそろいのハンカチをくれ、ウメヨの髪を、三つあみにして、冠りの様に頭へまいてやった。 
                「さっぱりしたでせう。似合うわ、耳のそこに、つるテッセンの花でもさせば、王女様よ」 
                 ウメヨは、マコ叔母様に指された耳の上のあたりに手をやって、もえる様な目をした。 
                「つるテッセンなら編みこんでもよくてよ」 
                 志保子は、少しすましたウメヨの横顔にいった。ウメヨはこのもてなしが、すばらしく気に入った様子で、ランタンのあかりがとどく芝へ出て唄ふ時も。一節ずつ先にうたう志保子とマコ叔母の唄を、よくおぼえ様とした。 
                 ペコチンはこの、バカの意地わるを、だんだん美しい娘にかわらす、魔術の計画を、成功さすために、一里半の山みちを、郵便局まで二度、口笛をふいて、往復した。 
                「シホコ、ハイキユノクツシタ、スグ、オクレ」という電報を打ちにと、きちょうめんなお母様は必っとすぐ出すからと、日を数えて、三日目の十九日に、郵便局へそれをうけとりにいったのだ。 
                 ペコチンをだつこの頃から知っている局長さんは、特別、明日配遠の小包みを、 
                「坊ちゃん、違犯ですよ」 
                 とじょうだんまじりに渡してくれた。ペコチンはそれをリレー棒の様にうけとるなり、いそいで日ぐれに山荘へ着いた。 
                 魔術の材料である茶色のくつ下は、一刻も早く、ウメヨの手に、いや足にと、志保子がとどける役になった。 
                「お化けがこわくない?」 
                「大丈夫よ、もう、愛の使節はつよいことよ」 
                 とむねをはり、両手を翼にしてみせて出かけた。木立に、ランタンがすっかりみえなくなると、志保子はみか月さまをみて歩いた。背すじに草の穂がふれても、スーと寒気がした。 
                「ようい。ほうい」 
                 遠くから、ただごとでない呼声がきこえる様でならなかった。それが糸滝の上あたりまで近づくと、次第にはっきり志保子の耳を打ってきた。 
                「ほうい、死がいがあがったぞう」 
                (まさか) 
                 志保子は血がひいてゆくみたいなのを無理にがまんして走った。村人が大勢、茅河原と呼ばれている方へおりてゆく。ハアハア走ってくる一人にきいた。 
                「なんかありましたの」 
                「あ、山荘のお嬢さま.ウメヨのアホが」 
                 志保子はぞうっとしながら、その人に続いた。 
                 河原の人だかりの中に、チョウチンあかりでみたのは、ビショぬれで、そこらの石もぬらしているウメヨの死がいだ。ベタリとしていっそう黒い髪に、つるテッセンが編みこんであった。コケモモがふところからこぼれていた。村人たちはガヤガヤと、 
                「上の渓流へんで、おら木きってるとき、唄がきこえていたがな、唄は違うがウメヨだ」 
                「つるテッセンをとりに岩へのぼったか」 
                「コケモモもとってるで、しゃれと、いやしんぼで命おとしたバカだよ」 
                「なァに、これでもヨおかかの盗みもやむさ」 
                 志保子は辛かった。 
                (白痴の死は解放か、私共は死を通して美しさをねがいはしなかったはずなのに) 
                 むこうからまたチョウチンが走ってきて、 
                「おっかはいないよ、またうす明りの盗みか」 
                 志保子の耳はそんなことを遠くできく様だ。水にぬれて、生々しているテッセンのうすむらさきの花びらに、まじろがず。 
                (ウメヨさん、あなたは、なにをしようとしたの) 
                 それに答える様に村人が、 
                「このアホは、よくしゃがんで、水に手を入れるくせがあったで、魚をとるつもりか」 
                「いや、キラリと、流れる光がとりたいっていってたことがあったぞ」 
                (そう、ウメヨさん、その光は) 
                 志保子は、やっと涙線がゆるんで、ぬれてきた。村人はしゃべらねば落ちつけないらしく、 
                「この二三ちはまた、こいつ、水のそばにばっかりいるのをみかけたがな、水魔かっぱにみこまれてたベいよ」 
                「水かがみしてみんのがもともと好きだったよ」 
                 志保子は切なかったが、テッセンのうすむらさきがぼやけた白にかわったあたりの夜に、少しずつ思うことがふえてきた。 
                (ペコちゃんの美しくしたい計画の魔術は、失敗だったのだろうか) 
                 そうは思いがたい。 
                (水、コケモモ、テッセン、光に手をのべてうたう白痴少女の死) 
                志保子の疑問は、夜とともに深くひろがってゆく。 
                手のくつ下が、それを知るたよりの様に志保子は握りしめた。 
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