海軍兵学校人物伝 6提督の中の提督 山口多聞明治25年東京生まれ。旧松江藩士の父が、楠木正成の幼名、多聞丸から、命名する。海軍兵学校第40期、入学時は150人中21番。卒業時は、144名中2番。同期には連合艦隊参謀長・宇垣纏、特攻隊生みの親・大西瀧次郎らがいる。山本五十六の秘蔵っ子で米内光政のラインでもある。山口はプリンストン大学に留学している。因みに、山本はハーバート大学で学んでおり、両者とも、駐米武官を経験した国際派である。また、愛妻家、子煩悩としても知られている。山口が2年間の駐米武官の際に、最も関心を抱いたのは、日米の歴然とした国力の違いであった。開戦前昭和15年時、米国の原油の生産量は日本の150倍。日本の石油の消費量の90%は輸入に依存していたが、その内の70%は米国からのものであった。また、備蓄量は連合艦隊の2年分しかなかった。石炭の産出量は、米国は日本の約9倍弱、鉄鋼に至っては、日本の500万dに対し、米国は6500万dであった。こうした、我国の資源不足(国力)で、米国との戦争になれば、当然の帰結として、それを南方に求めざるを得ず、戦線の拡大は不可避だ。米国の現状をつぶさに見た山口もまた、米内、山本、井上らと同様に、日米避戦論であった。 しかし、第2航空戦隊司令官として、山口は航空母艦「飛龍」に乗り、真珠湾攻撃に出撃することになる。この時、旗艦「赤城」には、東郷艦隊のZ旗にあたる「DG」(皇国のの興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ)の信号があがった。第1次攻撃に成功した淵田美津雄中佐は「われ奇襲に成功せり」(トラ、トラ、トラ)と「赤城」に発信した。 米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が戦後記した『太平洋海戦史』によると「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう」とある。山口は、2ヶ月前の「長門」での図上会議の際、第3次攻撃として燃料タンク、修理施設への攻撃を主張したが、南雲忠一司令長官は黙ったままだった。実際の真珠湾でも、山口は第3次攻撃の体制に入ったが、旗艦「赤城」からの応答はなく、やむなく断念し、北北西に進路を反転することになる。山口は、地団太ふんで悔しがった。また、米海軍の空母は全く無傷であった。 ミッドウェー海戦に先立ち山口は「ここは日米両海軍の決戦と見なければならない。従来の艦隊編成を抜本的に改め、空母を中心とする機動部隊を編成し、空母の周辺には戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、敵機の襲来に備え、少なくとも三機動部隊を出撃させるべきである」と、「大和」での研究会で述べた。しかし、山口の提案はうやむやにされ、採用されることはなく、アリューシャン作戦による戦力の分断により、ミッドウェーは真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻での空母での作戦となる。日本艦隊の動向を完全にキャッチしていた米海軍に対し、日本海軍は連戦連勝による慢心から、いくつかの米艦隊の情報を把握しながら見過ごし、作戦に生かすことがなかった。そして、不用意に敵陣のまっただ中へ突入することとなる。 ニミッツは後年この海戦について次のように述べている。「ミッドウェー海戦の勝利は、主として情報によるものであった。奇襲を試みようとして、日本軍自身が奇襲を受けてたのである。その上、日本軍は重大な過失を犯し、米軍指揮官はたいした誤りもなく、日本軍の誤りを巧みに利用した。この敗戦は日本にとって大敗北であった。空母「ヨークタウン」と駆逐艦「ハンマン」の米軍損失に対し、日本は四隻の空母と一隻の重巡を失った。米国は150機の飛行機を失ったが、日本は空母とともにその乗組員を失い、飛行機の損失は322機に達した。米国の戦死者307人に対して日本は3500人の生命を捧げ、そのなかに100名の第一線パイロットが含まれていた」 空母「赤城」「加賀」「蒼龍」を瞬時に失ったあと、山口は「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ち、無傷の空母「飛龍」を率いて、「ヨークタウン」を大破炎上させ、一矢を報い良く戦ったが、「飛龍」は、満身創痍となり沈没を待たず、軍艦旗と山口少将旗をはずし、自軍の発射した魚雷により、ミッドウェー沖海底深く沈むことになる。山口提督、加来艦長は、提督精神の発露から、全員を避難させ(後日談がある)「飛龍」と運命をともにする。国民の戦意低下を恐れた大本営はミッドウェー海戦の敗北を隠蔽すべく、山口の死の公表を1年後の昭和18年4月22日にした。情報漏れを防ぐため、負傷し帰国した者は、1年近く各地の海軍病院に軟禁された。 参考文献 『山口多聞(空母「飛龍」に殉じた果断の提督)』 |