海軍兵学校人物伝 13軍縮論者 岡田啓介明治元年福井藩士の家に生まれる。18年海軍兵学校入学。第15期卒。この後、海上勤務を経て、海軍大学水雷科を卒業する。日清、日露戦争、北清事変、第1次大戦に出征。水雷戦隊司令官、佐世保海軍工廠長、、艦政局長を歴任、ワシントン会議の際は艦政本部長。高橋是清内閣で海軍次官代理、加藤友三郎内閣で次官。内閣総理大臣時代、2.26事件に遭遇。大正13年大将に任ぜられ、第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官となるが、事故はほとんどなかったが、「保安艦隊」と陰口をされるほど、無理な演習は避けた。廃棄駆逐艦「弥生」と「初春」を標的に夜間演習が行われ、「長門」「山城」「川内」「由良」から計百数十発の砲弾が発射されたが、一発も命中することがなかった。新聞は「由々しき失態」と書きたて、海軍部内では「岡田や古賀などがやるから、あんなことがおこる」と非難された。岡田は、ワシントン軍縮会議当時海軍次官代理、古賀峯一も軍縮支持者であったことから、とくに艦隊派からの非難は厳しかった。15年横須賀鎮守府司令長官、昭和2年田中義一内閣で海軍大臣となる。 昭和3年6月4日、関東軍は北京から満州へ引き上げる張作霖を乗せた列車を、奉天で爆破、張作霖を爆殺した。張作霖の帰奉の直前、満州の治安維持を名目に、陸軍は山海関に一個師団の上陸を計画した。政府閣議が了承しようとしたとき、岡田啓介海軍大臣は、陸軍が張作霖軍を阻止し、満州を簒奪する計画を見抜き「北京、天津地方への駐兵については国際間の取決めがある。そんな ことをすれば英米との戦争になる」として、猛反対し計画を頓挫させた。前日に、陸海外三者会議で、陸軍の案を聞いた、軍令部第3班長米内光政少将が、軍令部長鈴木貫太郎大将に報告、岡田海相に連絡があったものだが、これを境に、鈴木、岡田、米内は陸軍の目の敵とされる。 昭和4年7月、田中義一内閣総辞職後は、軍事参議官。5年1月ロンドン軍縮会議が開催され、ワシントン会議に引き続き、補助艦についての制限が討議されることとなる。日本は、三代原則として、対米水上補助艦7割、大巡7割、潜水艦78000dを主張したが通らず、結局合計6割9分5毛で妥結した。海軍は、条約派と艦隊派に分裂し、岡田はただ一人の現役大将として奔走し、内大臣牧野伸顕(吉田茂の岳父)を訪ね「日本のために決裂は困る」との天皇の意向を知り、また、元老西園寺公望の励ましを受け、条約のまとめ役として奔走した。艦隊派の強硬派は、大将伏見宮博恭王を中心に、軍令部総長加藤寛治、次官末次信正らは、元帥東郷平八郎を抱き込み7割に固持し、「国防が危うい」と条約に反対した。しかし、岡田は「航空機に力を入れれば、これでやれぬことはない。それよりも、海軍の反対で政府を倒すことになれば由々しい大事だ」と主張し、強硬派を退けた。岡田は、海軍の神様的存在である、東郷元帥に傷を付けぬよう細心の注意を払った。時の総理大臣浜口雄幸も、「海軍の意向は聞くが、決定は政府がする」と毅然たる態度で対応し、10月1日ようやく枢密院で可決し、翌日批准された。浜口は、翌年1月15日、東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され死亡する。その後、続々と条約派の優秀な人材が、予備役(クビ)に編入されていった。昭和7年財部彪大将(山本権兵衛の娘婿)、8年3月山梨勝之進大将、同年9月谷口尚真大将、9年3月左近司政三中将、同年4月寺島健中将、同年10月堀悌吉中将等が、予備役に編入された。 岡田の軍備に対する持論は「軍備というものはきりのないもの、これで大丈夫という軍備はない。米英を相手に戦うだけの仕度は、国力の劣る日本には出来ない。出来ないならばなるべく楽にしていた方がよい」というものであり、「ロンドン軍縮のあと、私はさらに軍縮をやるつもりだった」とも述べている。艦隊派の加藤寛治は、ロンドン軍縮会議の条約交渉の委員として出席していたが、帰国後、東郷元帥に「申し訳ありません」と手をつくと、「馬鹿者、訓練に制限はない」と叱られたエピソードが残っている。その艦隊派の頭目加藤が、晩年、軍縮論に傾斜したのは歴史の皮肉だ。 昭和7年5月、斎藤実内閣の海軍大臣となり、8年1月、65歳定年で現役を去り、海軍大臣を辞任。9年7月、斎藤内閣総辞職後、内閣総理大臣に就任する。昭和11年2月26日午前5時、栗原安秀中尉・野中四郎大尉らの率いる歩兵第1・第3・近衛歩兵第3各連隊などの下士官・兵隊役1400名が反乱を起こした。世に言う、2・26事件である。反乱軍は、首相官邸・陸相官邸・警視庁はじめ政府首脳や重臣の官私邸を襲撃した。当時の新聞には、岡田啓介首相、斎藤実内大臣、渡邊錠太郎教育総監ら即死、高橋是清蔵相、鈴木貫太郎侍従長負傷、牧野伸顕前内大臣行方不明とされていた。後藤文夫内相は留守のため、被害に遭わず、直ちに総理大臣臨時代理に任命されている。この後、高橋は死亡。牧野の生存も確認されるが、死亡確認されたはずの岡田が生存していたことが判明する。射殺されたのは、容貌が岡田にそっくりの、義弟で秘書の松尾伝蔵であった。岡田の娘婿で秘書官の迫水久常(戦後参議院議員)は「全く千古の謎というより外申し上げる言葉もありません。亡くなった松尾は、私にとっては妻の関係から叔父に当たりますし、殊に私の妹がその倅に嫁いでいるので、私自身も何時も『叔父さん』と呼んでいました。義父が亡くなったと思ったのが叔父になったのですから、私としては嬉しいんだか悲しいんだか判りません。 (略)」と複雑な心境を語っている。岡田は、女中の機転で女中部屋の押入にもぐり込み、反乱軍の目を欺いた。岡田は、反乱軍に占拠された首相官邸の押入の中で、いびきをかいて寝ていた、との説も流れるほどの豪勇であった。この後、岡田は変装をし、首相官邸から車で逃れた。軍法会議の結果として公表されたところによれば、4日間のクーデターに参加した兵力は、将校21名・見習士官3名・準士官下士官91名・兵1358名で、民間人は「日本改造法案大綱」(大正8年)の著者・北一輝とその門下で予備騎兵中尉の西田税を含めて10名であった。 その後岡田は、表舞台に立つことはなかったが、重臣の一人として日米開戦に反対し、米内光政等と共同で東条英機内閣打倒を画策し、鈴木貫太郎内閣の和平工作では影の力となった。 評論家の新名丈夫は、井上成美との対談で、日本海軍5人の英傑として、勝海舟、山本権兵衛、加藤友三郎、岡田啓介、米内光政を挙げている。井上に異論はなく、これに山梨勝之進を加えている。 昭和27年10月10日逝去。86歳。 参考文献 新名丈夫(評論家)緒論文 『太平洋戦争史 2』 『別冊1億人の昭和史 日本海軍史』 『朝日新聞に見る日本の歩み』他 |