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              海軍兵学校人物伝 9

 「見敵必戦」の猛将 角田覚治

 明治23年9月、新潟県南蒲原郡に生まれる。海軍兵学校第39期。同期に伊藤整一大将、原忠一中将、阿部弘毅中将らがいる。第一次大戦には中尉として従軍。海軍大学(甲)卒。海軍主流の砲術、いわゆる「鉄砲屋」の道を歩く。昭和4年、第1航空戦隊の先任参謀となり、はじめて海軍航空を体験するが、その後も、「鉄砲屋」として「木曽」「古鷹」「磐手」「山城」「長門」艦長を歴任す。それ以降は、航空畑一筋で、3・4航戦司令官を経て、昭和17年7月第2航空戦隊司令官となり、同年11月中将、18年7月第1航空艦隊長官。海軍兵学校教頭も歴任。「猛将」として名を轟かせ、昭和19年8月、テニアン島で戦死。
 海戦当初角田は、小型空母「龍驤」1隻で、ダバオの攻撃、蘭印(オランダ領東インド)の攻略、インド洋作戦に参加し、それなりの役割を果たした。しかし、角田の能力を遺憾なく発揮する場面はなかった。
 ミッドウェーとの同時作戦、アリューシャン作戦を命じられた角田は、1ヶ月前に竣工した日本最大の商船「橿原丸」を改造した航空母艦「隼鷹」に乗り込んだ。「隼鷹」は、主機関が一般の軍艦とは異なっており、特殊であった。経済速力で走行する分には何ら問題がないが、戦場に到っては、航空機の離発着に応じ、絶えず速力を変更しなければならず、不便だけでなく、危険と無理をともなった。角田はダッチハーバー攻撃を実施。別働隊がアッツ、キスカ両島を占領したが、ミッドウェー海戦の大敗北で度を失った連合艦隊司令部の緊急命令で、「隼鷹」が、しばらくミッドウェー方面に向かうというおまけがつき、本作戦は終了する。
 17年10月26日、ミッドウェー開戦以来、再び日米機動部隊が、奇襲や偶然でなく、雌雄を決すべく真っ正面から激突する南太平洋海戦の幕が切って落とされた。米国では、これをサンタクルーズ沖海戦と言う。米空母発見と同時に、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、角田少将部隊(「隼鷹」と15駆逐隊の「早潮」「親潮」「黒潮」)を南雲中将指揮下に入れ、米機動部隊攻撃を命じた。角田部隊は、一路南東の進路を取り、第1航空戦隊に策応しつつ、全速力で米機動部隊に近づく。その距離は、「隼鷹」から約330カイリ(約610`)。角田は、たとえ裸一貫となっても、敵に向かって肉薄するのが身上である。近くの洋上には、近藤信竹中将率いる第2艦隊の32〜33ノット以上の駿足ぞろいの戦艦、巡洋艦がいたが、25.5ノットしかでない商船改造空母「隼鷹」が、わずか3隻の駆逐艦を従え、全速でぐんぐん追い越して行く様は、槍を構えて敵陣に殺到する戦国武者にも似て、精悍そのものに見えたと言われている。
 「角田少将の胸のなかには、ただ敵をいかにして効果的にやっつけるかのほかには、なにもないようだ。できるだけ敵ののふところに飛び込んで、飛行機隊が思う存分働けるようにしてやりたい。この一念で凝り固まっている。先制攻撃を目指して、なるべく早く敵の近くにいる南雲部隊のどれかの母艦に収容してもらう。そうすれば隼鷹は無事である。それも兵術的には立派な答案である。現に隼鷹の甲板に待機している飛行機隊は十分その任に堪え得るであろう。しかし角田少将は、そのような術策はとらなかった。ただ単刀直入、はやる駒を抑えて自ら率先危地に飛び込んでいく。白波をけたてて突進する隼鷹の橋艦には、はつらつとした攻撃精神がみなぎっていた」
 角田は、米空母との距離約280カイリから、第1次攻撃隊(指揮官・志賀淑雄大尉)を飛ばし、すでに大破したホーネットと無傷のエンタープライズを発見し攻撃、エンタープライズを損傷させる。その結果、エンタープライズは、護衛艦隊を引き連れ戦場から避退する。その後、第2次・第3次と繰り返し攻撃隊を編成し、ホーネットに止めをさしている。
 ミッドウェー海戦で惨敗した南雲部隊を「あほう鳥」と侮辱した米国のウィリアム・ウィンターというアナンサーは、「この日ほど悲惨な海軍記念日を迎えたことは、アメリカ海軍創始以来始めてのことである」と、歯ぎしりして悔しがった。
 角田指揮の第1航空艦隊は、本来1600機の大兵力をもって、浮沈空母の各島の基地をを移動し、マリアナ海域で戦勢を一挙に挽回するための、虎の子の航空部隊であった。それが、その後の連合艦隊司令部の猫の目のように目まぐるしく変更する作戦命令と相次ぐ基地移動のため消耗し、19年4月時点では、半数以下の700機を揃えるのがやっとであった。6月には、残存機数わずかに20%であった。米機動部隊の西部ニューギニアのピアク島来攻により、またぞろ連合艦隊司令部は、角田に兵力の小出しを迫る。ところが、大本営の敵情判断は根本的に間違っており、大兵力移動展開中に、米機動部隊がサイパン島を攻撃、上陸するや、第1航空艦隊主力を呼び戻すことはできず、「攻撃を開始せよ」との連合艦隊命令に、猛将角田をもってしてもなすすべもなく、さらに「待避せよ」の命令変更により、サイパン・テニアンから編隊が、トラック、パラオへ移動準備中、米艦載機群の攻撃にさらされる。猛将角田は、目の前で自軍の「待避中」の戦闘機が米軍機の攻撃にさらされている光景に、ほとんど正気を失いかけ、参謀長に連合艦隊司令長官(最後の司令長官・小沢治三郎)の弱腰を非難し、命令違反を承知で「攻撃命令」を出すよう参謀長・三和義勇大佐に訴えたという。圧倒的な米艦載機(1000機)の前には、全機種実働250機ではどうしようもなかったが、「武人ならこのまま自滅するより、刺し違えて倒れる攻撃を選ぶ。とにかく、敵輸送船団が300隻も目の前にいるのだ。一機でも叩き墜とし、一船であれ体当たりで沈めたいのだ」と角田は叫んでいたという。
 「角田中将の闘志は、まことに比類ない珠玉だった。第1段作戦にも、南太平洋作戦にも、遺憾なくその強さを示した。だが、基地航空戦の指導には柔軟性がなければならない。適材適所の人的配置を要する理由がここにある。角田中将は基地航空部隊の指揮官として配するよりは、海上部隊の指揮官とする方がはるかに板についていた。いまにして思えば、この人をマリアナ沖の海戦なり、フィリピン沖の海戦なりの立役者として登場させていたならば、と惜しまれることが数々ある」と淵田美津雄・奥宮正武、両氏は著作の中で述べている。
 昭和19年8月2日、「見敵必戦」の猛将・角田覚治中将は、テニアン島で戦死。
 
参考文献 『機動部隊』 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ』 『日本海軍の興亡』 他
 
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