海軍兵学校人物伝 3ステーツマン 米内光政明治13年、盛岡生まれ。海軍兵学校29期。成績は57番で入学し、明治34年卒業時のハンモックナンバーは68番。日露戦争に、駆逐艦雷に乗り込み、日本海海戦に参加。首相、海軍大臣(3回)を歴任。酒豪でも有名。『海上権力史論』(明治25年刊)で有名なマハン大佐は「勇気の基礎は知識である。海軍士官たるものは、内政問題に精力を空費すべきではない。海軍の活動範囲は全く国際的である。海軍軍人は同時に政治家でなければならぬ」と言っているが、まさにこれを実践したのが、米内と言える。 第1次世界大戦にはロシアに駐在、ロシア革命を見聞することとなる。林銑十郎内閣の第一次海相時代は、ロンドン軍縮問題で分裂した部内をまとめ、5・15事件以降の国内情勢のファシズム化に動じることなく、海軍を統率のとれた組織体にした。 しかし、第一次近衛内閣の時に勃発した、日中戦争のきっかけとも言うべき廬溝橋事件の際、閣議で出兵を提議する杉山陸相に米内は反対するも、後の五相会議で「5500の天津軍と平津地方のわが居留民が皆殺しにあう」との杉山の発言に、米内は過去の例を繰り返さず、局地解決とともに即時撤兵を条件に渋々出兵に同意することになるが、結果は全く裏切られ、果てしなき大戦争への道を進むことになる。 第一次近衛内閣は和平の機を逸し退陣し、平沼内閣となる。ソ連を仮想敵国とする陸軍は、日独伊三国同盟を提案し、五相会議を開くこと70数回、この間一貫して反対したのが米内であることは言うまでもない。昭和14年8月23日、独ソ不可侵条約が締結され、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」との名文句を残し総辞職する。後に、内奏のため参内した米内に対し、天皇は「海軍のおかげで国が救われたと思う。また今度のことが契機で、陸軍が目覚めることとなれば、かえって仕合わせというべきだろう」と述べたと、平田侍従武官の話として残っている。 この後、陸軍は畑俊六か杉山元を首相にとの意向だったが、米内内閣が発足し、畑は陸相となる。米内内閣時は、一度も三国同盟の話は持ち上がらなかったが、近衛の「新体制運動」がきっかけとなり、陸軍はナチスとの間で着々と話を進める一方、外交上の転換を求め畑を辞任させたうえ、後任を送らず米内内閣を辞職へと追いやる。そして第2次近衛内閣で、日独伊三国同盟が締結される。 太平洋戦争となり、海軍トリオの一人山本五十六は戦死。井上成美は、米内が小磯内閣で海相になると、求められて次官となる。井上は就任し戦況を聞くや否や、米内に対し「この戦争、だめです。今から終戦工作を始めます」と宣言し、高木惣吉少将に終戦工作を命じる。 終戦後米内は、GHQの求めに応じ、次のように証言している。 「■問:戦争の基本計画、緒戦期の進行作戦によって表現されたあの戦争計画について、おうかがいしたいと思います。・・・最初の戦争計画は妥当なものであったかどうかということ、およびその計画に付随する要求に応ずるため、はたして日本国家の能力は十分なものであったかについて、あなたのご意見はどうですか。 ●答:あの戦争計画は当時の情勢や、わが国の戦争能力の実際に鑑みるとき、決して適当な計画ではなかったと、今日に至るまで信じています。 ■問:つまり、あの計画ははじめから、あまりに手を広げすぎた、身のほど知らぬ計画だと考えたわけですか。 ●答:くわしいことは実はよく知りません。しかし、私は、そんな戦争計画は全然、試みてはいけなかったとすら考えたのです。私は堅く信じていますが、仮に当時、私が首相だったとしたら、われわれはこの戦争をはじめなかったでしょう。 ■問:あなたは、この戦争を主として、海上兵力の戦争だったおっしゃるわけですか。・・・ ●答:私は、海軍の戦争だったと信じます。 ■問:閣下、あなたはどこが戦争の転機だったと思われますか。・・・ ●答:きわめて率直に申し上げれば、戦争のターニングポイントは、そもそも開戦時にさかのぼるべきでした。私は当初から、この戦争は成算のないものと感じていました。・・・そこで、いったん、戦争がはじめられてからのことを言えば、ミッドウェーの敗戦か、または、ガダルカナルからの撤退を転機といいたいのです。それからというものは、もはや、挽回の余地はまったくないものと見当をつけていました。もちろん、その後にも、サイパンの失陥があり、レイテの敗北が起こりました。そこで私はもうこれで万事終わりだと感じていました。」 米内の最後の仕事は、降伏後の日本海軍の解体であった。
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