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             海軍兵学校人物伝 10 

  豪放磊落   大西瀧治郎

 明治24年生まれ。兵庫県氷上郡芦田村(現在の青垣町)出身。日露戦戦争の際、「海の軍神」と称賛された、広瀬武夫中佐に心酔し、海軍兵学校に入校。第40期、明治45年7月卒業。同期には、無二の親友山口多聞中将はじめ、宇垣纏中将、福留繁中将らがいる。大西は、同期生144人中20番目の成績で卒業。因みに、山本五十六は、海軍兵学校第32期で、大西の8年先輩にあたる。大西は、海軍士官の第一歩から一貫して、航空畑一筋の道を歩む。山本の知恵袋と言われた。
 大西は、「サイレント・ネービー」と言われるスマートな海軍軍人の中では、極めて異彩を放っており、個性の強い武人として、数々の武勇伝を残している。海軍兵学校の名物でもあり、現在の運動会でも現存する「棒倒し」で、殴る蹴るの暴れ者として、山口多聞と並び称され、兵学校内で畏怖された。後に「喧嘩瀧兵衛」の異名をもらうことになる。
 大西は、海軍大学校を2度受験するが、不合格になっている。一説には、3度の受験との説もあるが(最後の受験は、大正13年)、いずれも、不合格の理由は、素行不良。酒の席での武勇伝が理由となっている。学科試験に合格し、口頭試問を待つ間、横須賀の料亭で芸者をあげてドンチャン騒ぎを演じたまでは良かった。しかし、芸者の態度が気に食わぬと、頭をポカリとやったことが原因で、気の強かった当の芸者「ぽん太」が、憲兵隊に訴えでた。これ幸いと、「ぽん太」の「旦那」が新聞社に売り込みを図り、各紙に大きく記事が出てしまった。たまらず大西は、友人達や各方面に印刷物を配布し、釈明に努めたが、これが逆効果となり、「泊まれと言ったが、断られたのでつい手がでたのだ」と尾ひれがつき、万事休すとなる。素行不良の理由で、落第通知が来て、大西の海軍大学への道は、永遠に閉ざされることになる。
 これを機に、大西は身を固める決心をし、才媛との見合いをする。見合いの席に大西は、顔に真新しい傷を付けて現れ、芸者を大勢呼んでの乱痴気騒ぎ。縁談も破談かと思われるや、これが姑に大いに気に入られ、目出度く祝言をあげることになる。しかし、結婚後も大西の、酒を飲んでの取っ組み合いの喧嘩は、日常茶飯事で、壮年まで続いた。
 大西と山本五十六の出会いは、霞ヶ浦航空隊であった。大正11年ワシントン軍縮条約の調印により、「大艦巨砲主義」全盛の時、戦艦の保有量を対米の6割に制限された。日本海軍は、米海軍に対する劣勢を、制限外の基準排水量1万d以下の艦艇を多数建造するとともに、航空機を増強することで活路を見いだそうとした。そのための航空機の増産は勿論、多数の搭乗員を訓練せねばならなかった。大正13年10月、大西大尉は霞ヶ浦航空隊に赴任。同年12月少佐に昇進、翌年1月、正式に教官となる。大正13年12月1日、山本五十六大佐は、副長兼教頭で赴任する。大西は、航空に対する経験と知識に浅い山本の補佐役として活躍した。この時の1年間の勤務が、二人の信頼関係を築きあげた。その後昭和10年、山本が海軍航空本部長に就任するや、片腕として、航空第一主義を唱えていた、側近中の側近大西を教育部長に指名した。しかし、山本が海軍次官に就任しても、「大艦巨砲主義」に歯止めはかからず、当時の国家予算の3%にあたる建造費を費やし、世界最大の6万dの戦艦「大和」の建造が決まる。このころ大西は、「・・・戦艦などさっさとやめて、戦闘機の1000機もつくれってんだ。いまに見ておれ、すでに凄い飛行機が出来ておる」と、零戦の原型となる96式艦上戦闘機について語っている。
 昭和16年1月、当時第11航空艦隊参謀長を務める大西は、山本から真珠湾攻撃の具体的な作戦計画の立案を依頼されている。この時、大西は山本の指揮系統になく、いかに大西が、山本から信頼されていたかが窺いしれる。山本は、航空主兵論を唱える大西に「海軍大学校を出ていないから自由に発想できる貴官に期待する」と前例にとらわれない大西の発想に期待した。
 しかし、大西は真珠湾攻撃に賛成しなかった。第1航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将とともに、当時の連合艦隊旗艦「陸奥」を訪れ、次のように山本に作戦を中止するよう進言している。「・・・米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒らせてはいけない。もしこれを敢行すれば米国民は最後まで戦う決意をするであろう。蛇足を加えるならば、日本は絶対に米国に勝つことはできない。米国民はこれまた絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地はまったく失われる。最後のとことんまで戦争をすれば日本は『無条件降伏』することになる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない」と。昭和16年12月8日、の真珠湾攻撃の後も、大西は「真珠湾攻撃は失策」との考えを改めることはなかった。
 昭和17年3月、大西は海軍航空本部総務部長にに転出し、太平洋戦争終盤まで、航空機増産に尽力する。昭和19年10月、第1航空艦隊司令長官になる。マニラに赴任した大西は、わずか可動約40機の航空兵力を前に愕然とする。大西は、日本本土と資源地帯の南方との連絡線をなんとしても死守するために、零戦に250`爆弾を搭載し、隊員もろとも米艦に体当たり攻撃をする「特攻隊」をすぐさま編成する。直ちに、関行男大尉以下24名の搭乗員が決定し、大西から訓辞が行われた。「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、私のごとき長官でもない。それは諸子のような若く純真で気力に満ちた人たちである。皆は体当たりの結果を知ることができないのが心残りであるに違いない。諸子の戦果はかならず見届けて上聞に達するようにする。一億国民にかわってお願いする。しっかり頼む」。特攻は、大西が後に台湾へ転出、昭和20年5月、軍令部次長となった以降も、「非常手段」でなく、当たり前の攻撃として続けられた。しかし、大西は、この作戦を「統帥の外道」とし、あってはならない作戦と言ってる。
 大西は、「特攻隊生みの親」として、戦後「暴将」「愚将」の汚名を着せられたりもしている。「人間の声価は棺を覆うて定まるというが、自分のような者は、百年ののちも知己はないだろう」と予言していた。しかし、特攻は大西がマニラに着任する前から、海軍内で検討されてきており、様々な特攻兵器も開発され、大西が発案者ではない。しかし、武人・大西瀧治郎中将は、一切の責任を一身に負い、昭和20年8月16日未明、渋谷区南平台の軍令部次長官舎において、介錯なしで割腹自決をする。大西は「特攻隊の英霊に曰す、善く戦ひたり深謝する・・・」ではじまる、特攻隊員に感謝し、遺族に詫びた遺書を残している。

参考文献 『別冊歴史読本・山本五十六と8人の幕僚』『歴史群像・太平洋戦史シリーズ』『増刊歴史と人物 実録・太平洋戦争』『山口多聞』『回想の大西瀧治郎』 他
 
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