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             海軍兵学校人物伝 4

海軍育ての親 山本権兵衛

 1852年鹿児島に生まれる。文久3年薩英戦争に12歳で砲弾運びなどをし、戊辰戦争には15歳を18歳と偽り、島津忠義の軍に従軍し、鳥羽・伏見の戦いに参加し、越後、奥羽と転戦している。
 明治2年、18歳の時、藩侯から東京遊学を命ぜられ上京。西郷隆盛から海軍志願を薦められ、紹介状をもらって勝海舟に師事。海軍兵学校第2期生。
 山本英輔大将は甥である。
 西南の役に従軍覚悟で帰省したが、西郷に説得され復学。海軍兵学寮時代「山本権兵衛首謀となりて、しばしば教官排斥の運動を起こし、教官室に乱入し、あるいは教官と乱闘し、あるいはテーブル、イスなどを破壊し、流血の暴挙を演ずるに至れり」と、武勇伝を残している。また、夜陰に乗じて遊郭に乗り込み、女郎を足抜けさせ、女房とするが、山本は、これを終生隠すことがなかった。
 明治維新以降、国内には旧士族による反政府運動や、農民による反乱が続いて起こった。佐賀の乱、萩の乱、神風連の乱などを背景に、陸軍は、海軍とは異なり、対外的よりも国内の治安維持装置としての役割性が強く、明治政府の基礎を兎にも角にも固めることが第一の目標であった。国内統一、内地作戦が建軍の本旨であった。明治5年の陸軍の予算が900万円に対し、海軍は50万円と、明治初期は陸軍中心の時代であり、西南戦争で長州閥が天下を握ることにより、陸軍優位の時代が続いた。
 参謀本部が明治11年に独立し、参謀本部条例の改正と続き、海軍は陸軍に従属するような立場にあった。これに対し、山本は海軍軍令部の独立を計った。山本は、陸軍の参謀本部が、独立機関であるのに対し、海軍参謀部は、海軍大臣の下に置かれているのを昇格させ、海軍参謀本部の設置を計画したが、陸軍の猛反対に直面する。山本の論は「島国の国防は海上権を先にすべきであるのに、我が国は陸を主としているが、今は主従を争わない、せめて対等にすべきである」と、極めて明快なものであった。当時の陸軍中枢は、時の参謀総長有栖川熾仁親王、次長中将川上操六、陸軍大臣大将大山巌、次官少将児玉源太郎、バックには山県有朋と、そうそうたる人物がきら星の如く名を連ねていたが、山本は海軍大佐だが一歩も引くことはなかった。その間10年、海軍大臣となり宮中に参内した山本は、天皇に上奏し、ついに陸軍の譲歩を引き出し、海軍軍令部の独立は裁可公布となり、山本の執念が遂に、ここに実を結ぶこととなる。山本は、陸主海従から陸海平等へと大改革を断行した。
 もう一つの山本大佐の改革は、空前絶後の行政整理であった。諭旨により予備役編入(引退)されたものは、将官8名、佐尉官89名、合計97名に及んだ。その大部分は、兵学校で正規の課程をふまぬ者や、維新の際の各藩出身者、陸軍からの転出者、とりわけ山本と同じく薩摩出身者がもっとも多かった。山本は、日本海軍の将来のため、維新の論功行賞に依る人事を排し、大鉈を振るった。因みに、後の元帥東郷も、危うくこの97名のリストに入れられる寸前であった。
 日露開戦を控えて、いわば窓際とも言うべき舞鶴鎮守府長官であった東郷は、海軍大臣山本から、連合艦隊司令長官を任命される。しかし、「風采のあがらん小さな男が、ヨボヨボ下を向いて」着任したことで、物議が海軍内外に起こった。予備役編入寸前の東郷では「凡才でとても大任が果たせない」との声は明治天皇の耳にも届いていた。天皇は、山本を呼びだし真意を問うと、「東郷は運の強い男ですから使いました」と山本は述べた。これだけの理由で、山本が東郷を起用したのではないことは言うまでもない。
 山本権兵衛は、明治26年から大正2年までの現役時代に、日本海軍の制度・人事・造艦・造機・艦隊編成・戦略に至る全てにおいて采配を振るい、まさに日本海軍育ての親と言える。一面では、長州陸軍閥に対する挑戦でもあり、山本は首相時、シーメンス事件の責任をとり辞職するが、これも積年の陸軍との確執による陸軍側の一大反撃であったとも言える。

参考文献 『別冊一億人の昭和史・日本海軍史』『日本海軍の興亡』『伯爵山本権兵衛伝』他
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