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             海軍兵学校人物伝 14

  「大和特攻」    伊藤整一  

 福岡県出身。明治41年9月海軍兵学校入学、44年7月卒業。第39期。148名中ハンモックナンバーは、15番。海軍兵学校では、目立つ存在ではなく、海岸大学校を卒業するあたりから、メキメキと頭角を現した。鉄砲屋の出身。5隻の重巡、戦艦などの艦長を歴任するとともに、霞ヶ浦航空隊副長、第8戦隊司令官を歴任。人事、教育関係や米国、中華民国、満州国と外国駐在が長く、国際感覚を備えていたと言える。昭和16年9月軍令部次長、10月中将。19年12月海軍大学校長から第2艦隊長官となり、20年4月7日、戦艦「大和」を率いて沖縄に向け、特攻出撃し戦死。大将に昇進。
 昭和2年5月、伊藤少佐が米国に着任した当時、以前から面識のあった大使館武官・山本五十六大佐が赴任していた。
 昭和4年7月から6年12月まで、伊藤は永野修身校長の下、海軍兵学校の教官兼生徒隊監事を務めた。井上成美が海軍兵学校長の時代、鉄拳制裁を一切禁止したことはよく知られているが、伊藤も私的制裁を一切厳禁した。海軍兵学校68期卒の作家豊田穣は『江田島教育』『海の紋章』など著作のなかで鉄拳制裁について描いている。伝統として、先輩から後輩へと受け継がれながらも、皇室から入学した宮様についても、同様に鉄拳制裁が加えられた事実は、判明しない。
 昭和16年9月、少将として軍令部次長に昇進、51歳であった。従来から、古参中将がこのポストを占めるのが慣例となっており、日本海軍の歴史の中でも異例のことであった。しかも伊藤は、作戦課員、作戦課長、作戦部長などの役職を経験することなく、いきなり海軍統帥のトップに上り詰めたのである。
 昭和20年4月5日、第2艦隊の旗艦「大和」のキャビンでくつろぐ、第2艦隊司令長官伊藤整一のもとに、連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将が訪問した。「第2艦隊は4月6日内海を出撃し、沖縄嘉手納沖のアメリカ部隊に対して、水上攻撃を敢行せよ。攻撃は4月8日夜明けに予定せらる。燃料は片道分とす。特攻作戦と承知ありたし」と、草鹿は伊藤に伝えた。しかし、伊藤が第2艦隊に赴任する前から、指揮下にある第2水雷戦隊司令部と協議が重ねられ「満足な航空機の援護のない水上部隊を出撃させても、ただ無為に壊滅するだけである。この際艦隊を解散して、艦自体を浮き砲台とし、不要な人員弾薬は陸揚げして本土決戦に備えるのが、もっとも有利な方策である」との結論を得ていた。伊藤は、この結論を自分が籍を置いた軍令部に意見具申をする前に、沖縄の戦況の悪化を憂慮した連合艦隊司令部の「大和特攻」命令を受けたが、これに強く反対をしていた。「大和」以下10隻の艦艇と、7000名の将兵を無為に犠牲にすることは避けたかったからだ。伊藤の頑強な抵抗に業を煮やした連合艦隊は、鹿屋基地に出張をしていた、参謀長・草鹿龍之介中将と作戦参謀・三上作夫中佐を徳山沖に派遣し、伊藤の説得工作を試みた。
 草鹿龍之介(当時第1航空艦隊参謀長)は、真珠湾攻撃作戦計画に当初から関わった大西瀧治郎(当時第11航空艦隊参謀長)とともに、山本五十六司令長官にその投機的な作戦を止めるよう進言した人物である。しかし、山本の揺るぎない信念を知り、これを機に反対論を収めた経緯がある。草鹿龍之介が反対した作戦、真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は、終焉を間近にし、投機的と言うよりも冒険的な「大和特攻」の実行を伊藤に迫っていた。
 「『もし、途中にて非常なる損害を受け、もはや前進は不可能という場合には艦隊はいかがすればよいか』まさしく伊藤長官は『もし』と言った。換言すれば、万が一にもという意を含んでいた。一抹の不安があるという意でもあろう。だが、より正確に言えば、『必ず』と伊藤長官は断ずるべきであった。制空権もなく、制海権もない大洋へ、空からの援護なしに白昼まる一日、艦隊はその身をさらさねばならぬ。アメリカ海軍がどうしてこれを見逃そう、それは文字どおりの自殺行なのである。」「・・・その日旗艦・大和で開かれた各司令や艦長の会合では、この出撃にたいして激越な反対論が次々にとなえられた。まこと当然のことであった。列席する者すでに次の出撃にて帰り得ぬことを、腹の底に叩き込んでいる武人である。また、そのつもりで己の死に場所を待っていた歴戦の猛将たちであった。時と場所さえ得れば、散るを潔しとする決意は眉宇にある。『我々は命は惜しまぬ。だが帝国海軍の名を惜しむ。連合艦隊の最後の一戦が自殺行であることは、絶対に我慢がならぬ』冷静な朝霜艦長・杉原与四郎中佐までが怒った。ここにも、『日本海軍の栄光のために』がまざまざと生きている」。
 「大和特攻」の生き残り「矢矧」艦長・原為一大佐は「とにかく、ほとんど全員が反対しました。犬死になど絶対にご免だって・・・それで第1回の会合は終わったのです。草鹿参謀長は黙って聞いていました。その後続いて第2回の会議が再び大和艦上で開かれたのですが、この時始めて草鹿参謀長はおずおずと、『これは実は連合艦隊命令なのだ』と打ち明けたのですよ」と語っている。草鹿参謀長の「一億総特攻の魁となってもらいたい」との一言に、「そうか、よし、それならわかった」と、伊藤中将は頷きながら答え、すべては決した。
 出撃が決まり、伊藤司令長官の最後の訓辞の後、草鹿参謀長は「・・・私にも何か言えと言われたが、今さら言うこともなく・・・やむなく激励の言葉を述べたのだが、正面にいた有賀幸作大和艦長が、肥えた下腹を叩きながら、わかってるわかってるというようにニコニコ笑って・・・私にはあの顔がどうしても忘れられないのだ」と、後に当時を回想している。
 「海上特攻隊」は次のような編成となった。
 第2艦隊(伊藤整一中将)戦艦「大和」
  [第2水雷戦隊](吉村啓蔵少将)軽巡「矢矧」
   <第41駆逐隊>(吉田正義大佐)駆逐艦「冬月」「涼月」
   <第17駆逐隊>(新谷喜一大佐)駆逐艦「磯風」「浜風」「雪風」
   <第21駆逐隊>(小滝久雄大佐)駆逐艦「朝霜」「霞」「初霜」
 駆逐艦8隻は、寡兵を承知で湊川に出陣した、楠木正成の故事に倣い、楠木家の家紋「菊水」のマークを舷側に白く描き、沖縄へ向け出撃した。
 米第5艦隊司令長官スプールアンス大将は、明治40年、アナポリス海軍兵学校を卒業し、少尉候補生として戦艦「アイオワ」にのり、遠洋航海に出て、横須賀に入港した。候補生達は、日本連合艦隊旗艦「三笠」を礼訪し、全世界海軍軍人の憧憬の的であった、司令長官・東郷平八郎に謁見した。「スプールアンス大将は、いまや日本海軍は、ほぼ壊滅状態にあり、出現した”ヤマト”は日本海軍が持つ戦力の最大かつ最後の要素だ、と指摘した。『しかも、”ヤマト”は世界一の大艦でもある。私は、私の尊敬するトーゴーが育てた日本海軍の誇りを、トーゴー・スタイルで葬ることがトーゴーの霊魂にたいする手向けであり、日本海軍の名誉ある最後にもなると思う』 だから、”ヤマト”は飛行機では沈めたくない、とスプールアンス大将は強調した」
 武士道精神を発揮したスプールアンスの意図に反し、「大和」はミッチャー中将率いる、第58機動部隊の航空機に発見され、スプールアンスは「ユー、テイク、ゼム」(貴官がやれ)の、米海軍史上最も短い命令をミッチャー中将に発した。
 昭和20年4月7日、12時30分過ぎに米海軍航空機の攻撃を受け、14時23分、建造当時の国家予算の3%を費やした巨艦は、6万4000dの大きな鉄の塊となって、鹿児島県・坊ノ岬南西方の東シナ海に没した。「矢矧」「浜風」磯風」「霞」「朝霧」は沈没。「冬月」「雪風」「初霜」ほとんど無傷。「涼月」は大破。「大和」の生存者は、3000名余の内269名。「海上特攻部隊」の戦死者4037名。
 伊藤整一長官の一人息子、叡中尉は、父の戦死の報を聞いた後、4月28日特攻機に搭乗し、沖縄に出撃し未帰還となる。

参考文献 亀井 宏(評論家)諸論文 『山本五十六と8人の幕僚』『戦艦大和』『完本・列伝 太平洋戦争』『歴史群像太平洋戦争シリーズ』他
 
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