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             海軍兵学校人物伝 11

最後の連合艦隊司令長官小澤治三郎 

 明治19年宮崎県生まれ。42年、海軍兵学校第37期卒。卒業時の成績は、199人中45番。専門は水雷術。海軍大学校長、南遣艦隊長官を歴任し、昭和17年11月第3艦隊長官。19年3月から11月まで第1機動艦隊兼第3艦隊長官。19年11月、軍令部次長。20年5月、日本海軍最後の連合艦隊司令長官に就任。海軍内の渾名はその風貌から「鬼瓦」。
 小澤は、幼少の頃より柔道に勤しみ、宮崎中学に通う頃には、教師を含め向かうところ敵なしの強さを発揮した。ところが、腕に自信があるため、ある時、数人のやくざに絡まれるや、これを橋の上から次々に川の中に叩き落とす。これが、地元紙に大きく報じられ、困った学校側は、小澤を放校処分とする。その後、小澤は東京の私立中学に転校するが、神楽坂の夜道で酔漢にまたもや絡まれ、物の見事に投げ飛ばした。この相手が、実は後年の三船久蔵十段と言われている。この小澤の正に武勇伝が、定かであるかは別にして、小澤の柔道の腕前がいかに凄かったかを物語っている。
 小澤は海軍大学教官時代、上級士官必読とされていた「海戦要務令」を読まなくとも良いと公言し話題となる。日本海海戦を手本とした艦隊決戦思想では、不測に事態の連続である実践に役立たないばかりか、固定観念を持つことになるとの理由からだ。小澤は、水雷術が専門であったが、山本五十六、大西瀧治郎らの「大艦巨砲主義から航空第一主義」への思想に大きく影響を受けていた。昭和14年11月から1年間航空司令官として空母「赤城」に乗船した際、空母を中核とする独立した機動部隊の編成を主張する意見書を、各艦隊長官及び軍令部総長宛提出した。この意見具申が、艦隊派の反対に遭いながらも、連合艦隊司令長官山本に採用され、「赤城」以下6隻の空母からなる、第1航空艦隊の実現となり、真珠湾攻撃をした空母部隊の元になる。
 サイパン島上陸の米軍に海空決戦を挑んだ、「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)に際し、小澤中将は「・・・もし今次の決戦にその目的を達しないならば、水上艦艇はたとえ残存しても、その意義がない・・・」と全軍に「皇国の興廃この一戦にあり」との決意で、最後の決戦に向け訓辞をした。小澤は、敵に先んじて航続距離の長い「彗星」「天山」で、距離400カイリ(約740`)といった長い間合いを取りながら、米艦隊を攻撃する「アウトレンジ」戦法をとる。
 「図上の理論としては筋が通っている。兵術としては、よく母艦航空戦の本質にかなっているであろう。しかし、それは駒がよく動いての話である。・・・こちらのヤリを繰り出す。敵のヤリはまだとどかない。・・・まず粗ごなしに敵空母の全部に漏れなく一撃を与える。母艦の脆弱性をついて、その発着艦機能を奪うのがねらいである。こうして、敵の飛行機を飛べないようにしておいてから、全軍近迫して思う存分たたきのめしてやろうというのが、アウトレンジの戦法である。・・・ただ問題は、それを遂行するのにふさわしい精鋭の駒を必要とするということだ」「敵はこの日、わが艦隊に対する空襲を見合わせて、迎撃一点張りの戦法に出たのではあるまいか。そして、レーダーを全幅活用するとともに、全搭載戦闘機を集中使用し、絶対有利の態勢で待ちかまえ、アウトレンジの戦法のために遠距離からヨタヨタとたどりつくわが攻撃隊を、かたっぱしから食ってしまったのではあるまいか」(『機動部隊』)
 この「あ」号作戦は、「海軍乙事件」と呼ばれる古賀峯一連合艦隊司令長官機遭難事件の際、命の助かった福留繁参謀長が、セブ島のゲリラの捕虜となり、作戦機密書類がゲリラを通じて米軍にわたり、情報が事前に筒抜けになっていたと言われてる。
 「小澤長官は海軍大学校校長までし、実戦でもその令名をうたわれた海軍戦術の大家であり、これを補佐する参謀長以下も、歴戦有能の士ばかりではあった。が、しかしただ一つ、私の気にかかっていたのは、小澤部隊の長官、参謀長、首席参謀、作戦参謀、それに二人の航空参謀を含めて、いずれも空母部隊司令部としては実戦の経験のない人たちばかりだったことである。その上、航空参謀のほかには、航空出身者がひとりもいなかった」(『機動部隊』)
 この戦いで、総トン数3万4200d、水線の長さ253b、速力33.3ノット、搭載機数81機の世界でも第一級の、日本海軍が建造した最強の航空母艦・旗艦「大鳳」はじめ空母3隻、航空機430機を失った。米海軍の損失は、艦艇の沈没ゼロであった。こうして、「あ」号作戦は、日本海軍の大敗北により終了する。小澤中将は、辞表を提出するが容れられなかった。
 「連合艦隊をすりつぶしても、戦艦が港湾に「殴り込み」、敵の輸送船を撃破する」「捷」号作戦(レイテ沖海戦)で、小澤は囮作戦の主役となる。この作戦は、小澤部隊が米海軍の主力を北方に誘き出し、その間にレイテ島に上陸した米軍とその機動部隊を撃破し、比島を奪還する目的で実行された。これまで、レイテ沖海戦については多くの戦史家にに指摘されているが、根本的には軍事戦略・戦術上無謀なものであった。また、小澤の囮作戦は一定の成功を収めるも、栗田建男中将率いる第1遊撃隊による、謎の3度にわたる反転により、19年10月24日から4日間にわたるレイテ沖海戦は、決定的な敗北に帰す。日本海軍は、空母4,「武蔵」を含む戦艦3,重巡6,軽巡4,駆逐艦11隻、輸送船17の合計30万d、なけなしの航空機215機を失い、7475名の戦死者を出した。レイテ沖海戦の敗北は、日本海軍の終焉でもあった。
 昭和19年軍令部次長となり、陸に上がる。20年5月、日本海軍最後の連合艦隊司令長官となる。大将の進級は固辞し、中将で終戦を迎える。戦後は、部下に対して自決を戒め、自らも「敗戦の責任はあるが、開戦の責任はない」とし、生き延びる道を選ぶ。昭和41年11月、80歳で逝去。
 
参考文献 『日本海軍の興亡』『機動部隊』『歴史群像・太平洋戦史シリーズ』他
 
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堀 悌吉
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