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             海軍兵学校人物伝 2

寡黙剛毅    山本五十六

 海軍兵学校32期。成績は192人中13番。日露戦争には少尉候補生で参加,左手の指を2本失っている。同期は山本ほか、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾と4人の大将を輩出している。また、海軍兵学校創立以来の秀才といわれた山本の盟友、堀悌吉中将も同期。
 明治45年、海軍大尉で兵学校卒業生と共に、遠洋航海に向かう軍艦「宗谷」に乗り込んだ。後の総理大臣鈴木貫太郎は、この時「宗谷」の艦長(大佐)であり、候補生の中に井上成美、マリアナ沖海戦の総指揮官小沢治三郎、陸戦隊指揮官として活躍した大川伝七、航空畑の武部鷹雄、桑原虎雄らの名があり、古賀峯一(後の連合艦隊司令長官)も中尉で乗り込んでいた。山本の部下の指導は、「やってみせる。やらしてみる。言って聞かせる。」方法で、自分ができもしないことは、部下に求めず、観念論ではなく、実践に基づく教育指導であった。
 鈴木貫太郎は、軍艦「宗谷」時代の山本について回想し次のように語っている。
 「別段目立ちたる点なきも、寡黙剛毅、不撓不屈、真面目に勤務に当たり、不言実行をもって候補生を指導したり。時に指導官の会議にさいしても容易に発言せざりしが、一旦口を開けば論旨明晰、主張強固にしてその意見はおおむね採用せられたり。これをもってその熟慮断行の性格に富むを知るべきなり。余はこの青年将校こそ大器晩成、他日良将軍たるべきを信ぜり」。
 そして後年の山本について、鈴木は「元帥は多年航空方面の各級要職につき、航空部隊の建設教育に熱血をそそぎたるはもちろん、海上作戦に航空機を最大限に活用して、速戦即決を期し、すみやかに勝利を得るの途を考究し、常に新戦法を胸中に蔵して、極度に艦隊を訓練し、もってこれが実施の時期を待ちたるものの如し、これけだし古来名将の用兵と軸を一にするものなり」と述べている。 
 日独伊三国同盟に反対し続けた海軍トリオ、米内、山本、井上らは、海軍中央から追われ、山本は連合艦隊司令長官となる。それから1年後、陸軍との一戦をも覚悟し反対した、日独伊三国同盟は締結された。
 戦争は、国力=生産力の戦いでもあり、日米開戦当時の米国は日本に比べ、艦艇建造能力4倍半、航空機生産力6倍、鉄鋼生産力10倍という比較にならない力の差が歴然とあった。「だから戦争をしてはならぬ」が山本の持論でもあった。要は、「むやみに戦争をしてならない」、海軍は戦争抑止力としてあり、「我が国の防衛線は、敵国の海岸線にあり」との、米国海軍のマハン大佐の論に反するものだった。
 しかし、山本は臥薪嘗胆、止む終えず、米国と戦争をせざるを得ない場合は、伝統の大艦巨砲主義の思想では必敗であり、「日米開戦に於いて我の第一に遂行せざる可からざる要項は、開戦劈頭、主力艦隊を猛攻撃破して、米国海軍及米国民をして救う可からざる程度に、その志気を沮喪せしむること是なり」と説き、「小官は本ハワイ作戦の準備ならびに実施に方りては、航空艦隊司令長官を拝命して、攻撃部隊を直卒せしめられんことを切望するものなり」と、海軍大臣・及川古志郎大将に意見具申している。
 これは、総力戦では勝ち目のない米国との戦争には、緒戦で徹底的に敵の戦意を喪失させる一撃を与え、早期に外交の場に引きずり出しで決着をつけようとの考えに基づくものだ。こうして、まさに「桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行う」真珠湾攻撃が実施されたが、現実は皮肉にも、山本の意とは逆に米国の志気を高めることになった。
 これを契機に、米国は個人的にも山本を徹底的にマークし、昭和18年4月18日、山本を乗せた一式陸攻は、ラバウルの東飛行場を飛び立ち、トラック島へ向かう途中、米軍機に待ち伏せ攻撃を受け、撃墜される。
 盟友堀悌吉中将に山本は、「陸軍との争いを避けたいから同盟を結んだというが、内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい」と、三国同盟締結時、言葉を残している。

参考文献 『日本海軍の興亡』他

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