閑話休題

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海軍大将 宜侯(ようそろ) 大本営発表 指揮官先頭・率先垂範 
奇跡のキスカ撤退 戦艦「陸奥」謎の爆沈 『戦争論』 山本五十六と「逆立ち」
水交会 『ラバウル戦線異常なし』 新名丈夫 伊藤正徳 一枚の写真 続・一枚の写真

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☆海軍大将

 海軍における最高位。天皇が直接親任する。総理大臣・海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官・特命全権大使・軍事参議官・侍従武官長など各分野のトップと同様に、天皇直属の役職。単に中将の上ではなく、権威・名誉・責任はその比ではない。大将に与えられる正三位という殿上人の位は、左大臣・右大臣・近衛大将という格であり、政府のナンバー5である。平安時代の藤原氏でも正三位以上はあまりいない。
 
 昭和10年頃の大将の年棒は、約6,600円。因みに、少尉の年棒は、750円。普通の会社員の平均月給が、5〜60円の時代である。

 日本海軍には、77人の海軍大将が生まれたが、この中に、大将になるのを拒んだ軍人がいる。井上成美小澤治三郎だ。井上は、米内光政海軍大臣からの申し入れに対し、「戦やぶれて大将ありですか、・・・この戦局なのに大将なんか出来たら国民はなんと思いますか。・・・米内大将もやはり月並みな男だななどと、笑われないように、とくとお考えになったらよいでしょう」と、断っている。しかし、その後天皇の裁可が降り、米内に向かって「当たり前なら大臣のお取りはからいにお礼を申しあぐべきでしょうが、私は申しません。」と言い放ち、しぶしぶ終戦間際の5月15日、最後の海軍大将となる

 しかし、小澤は、大将になることを頑強に拒み続けた。

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☆宜侯(ようそろ)

 「おもかじいっぱーい」「とりかじいっぱーい」「ようそろー」
・・・これは操船のときの号令だが、海軍の号令は、陸軍の怒鳴るような調子と違って、どことなく悠長である。このスローな号令に、抑揚がついているから、なおさらのんびり聞こえるが、この抑揚は艦上では波のしぶきで聞きとれなくても、その節回しで意味がわかるようにという配慮もある。

 ところで、「面舵」は、船を右に向けること、「取舵」は左へ転進させること。「宜侯」は、左右に向ける必要なく真っ直ぐに進め、というときに使う。読んで字の如く「宜しく候」である。

 これは足利時代の八幡船に使っていたのが、そのまま受けつがれてきたものとされている。ハイカラ海軍にも、やはり日本の古いものも生きていたというわけである。 

引用 『別冊1億人の昭和史・日本海軍史』



☆大本営発表

 大本営発表は、太平洋戦争中846回行われている。開戦当初は、現実の戦果や損害に大きな開きはなっかった。しかし、ミッドウェイ海戦を境に、敗戦の色濃くなるにつれ、その発表は、驚愕するほど実際との乖離がある。国民は、戦後この事実を知ることとなる。

ミッドウェイ海戦(昭和17年6月15日午後4時30分発表)
艦 種 兵力 損害発表 ( )は損傷数 実際 ( )は損傷数 艦 名
日本 空 母・正規
     補助

1           (1) 加賀、赤城、蒼龍、飛龍
戦 艦 (1) 榛名
巡洋艦・甲
     乙

1         (1) 三隈(沈没)、最上(大破)
駆逐艦 33 (2) 荒潮、朝潮
潜水艦 16 イ164号
飛行機 372 35 322
死 傷 3,200
米国 空 母 ヨークタウン
甲 巡
駆逐艦 14 ハマン
潜水艦 20
飛行機・陸上機
艦上機
121
180
約150 37
113
死 傷 307

マリアナ沖海戦(昭和19年6月23日15時30分発表)
艦 種 兵力 損害発表 ( )は損傷数 実際 ( )は損傷数 艦 名
日本 空 母・正規
     補助

2        (1)
1        (3)
翔鶴、大鳳(沈没)、瑞鶴(大破)
飛鷹(沈没),隼鷹,瑞鳳,千代田(中破)
戦 艦          (1) 榛名
巡洋艦・甲
     乙
11
         (3)
駆逐艦 32          (1)
潜水艦 15
飛行機・陸上機
     艦上機
250
328
50 137
293
油槽船 2        (1) 玄洋丸、清洋丸(沈没)、連吸(小破)
米国 空 母 1          (4)          (4) 4隻が軽微な損害
戦 艦
巡洋艦 13
駆逐艦 58
潜水艦 15
飛行機

フィリピン沖海戦(昭和19年10月27日16時30分発表)
艦 種 兵力 損害発表 ( )は損傷数 実際 ( )は損傷数 艦 名
日本 空 母・正規
     補助

1           (1)
瑞鶴
瑞鳳、千歳、千代田
戦 艦 1           (1) 武蔵、山城、扶桑
巡洋艦・重
     軽
13
6

愛宕、摩耶、鳥海、最上、鈴谷、筑摩
多摩、能代、阿武隈、鬼怒
潜水艦 13
駆逐艦 36 11 浦波、若葉、満潮、朝雲、山雲、野分
藤波、早霜、秋月、初月
輸送船 17
飛行機 716 126 215
米国 空 母 32 8           (9) 3        (1) ガムビーア・ベイ、セイント・ロー、プリンストン
戦 艦 13             (1)
巡洋艦 12 4           (2)          (1)
駆逐艦 60 4           (3) ホール、サミュエル・B・ロバーツ、ジョンソン
潜水艦 20
輸送船 53
飛行機 500 125

                                        『大本営発表にみる太平洋戦争の記録』による



☆指揮官先頭 率先垂範

 日本海軍には、「指揮官先頭、率先垂範」の伝統が脈々と生きており、戦後、海軍出身者が、各分野でその良き伝統を守り、継承してきた。海軍では、司令官、司令長官は全て、その階級に相当する将旗を、駆逐艦や潜水艦など佐官クラスの指揮官は司令旗を、マストの一番高いところに翻した。指揮官は、2隻以上で隊を形成して行動する場合、必ず先頭の艦に乗船した。

 「指揮官先頭」の歴史は、日清戦争(1894〜95年)の直前、単横陣(船が横に一本線)と単縦陣(縦一本線)の訓練を繰り返し行った結果、「指揮官の乗る先頭艦に続け」との単縦陣が常に勝利を得た。それ以降の戦争では、この単縦陣が採用され、日本海軍の伝統となった。しかし、この単縦陣戦法もイギリス海軍の伝統でもあった。 

 単縦陣戦法は、陣形としては有利でも、戦闘になれば敵からの攻撃は、指揮官の乗る旗艦に集中し、危険率は旗艦が最大である。日露戦争の「203高地」作戦は、指揮官は全く弾の届かない、遙か彼方の安全地帯に作戦本部を設置し、山頂から機銃掃射を加えるロシア軍に対し、為すすべもなく、突撃命令を発するのみで、死屍累々の被害をだしたが、これとは、大きな違いがある。

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☆奇跡のキスカ撤退

 「キスカ島の無血撤収作戦については、すでに幾人もの人が書いている。伊藤正徳はむろんその著作の中で触れているし、作家の筆になるものとしては、戸川幸夫氏の『霧のキスカ撤退』という作品がある。元聯合艦隊参謀・千早正隆氏の『太平洋海戦最大の奇跡』は、同氏の著書『呪われた阿波丸』の中に収められて広く読まれ、これをもとにして昭和40年には、東宝が三船敏郎主演の『キスカ』という映画を製作した」と阿川弘之は著作『日本海軍に捧ぐ』の中の「私記キスカ撤退」で述べている。

 アッツ島玉砕で、キスカ島守備隊は完全に孤立し、5艦隊司令長官・河瀬四郎中将の命により、急速撤収することとなる。
 「日本内地で朝かかる霧はいわゆる放射霧で、北方の霧とは全然性質がちがう、千島やアリューシャンの霧は、海霧、又は移流霧といって、あたたかい南風にふくまれた水蒸気が北の海面で冷却されて生まれるものだ。・・・ベーリング海に張り出して来る低気圧を事前にオホーツク海でキャッチすれば、幌筵にいつ霧が発生するかの予想が立ち、幌筵が霧になればプラス2のセオリーでそれから2日後にキスカ方面が霧になる」(同書)

 第1水雷戦隊司令官木村晶福少将は、旗艦軽巡「阿武隈」を先頭に、この霧を利用しキスカの守備隊全員の救出活動にあたる。「・・・救出艦隊(木村艦隊)がZ点に到達したころ、・・・第5艦隊旗艦(河瀬艦隊)「那智」も、北方部隊の主隊である巡洋艦「摩耶」「多摩」、駆逐艦「野風」「波風」の4隻を率い、水雷戦隊の支援に任じるという名目で幌筵を出撃した。こういうのはしかし、正直なところ、私には何のことかよく分からない。ただ、Z点近くまで進出して帰って来たらしいが、貴重な油を使い、ほんものの作戦部隊(木村艦隊)に3日遅れで出ていって、果たして何かの役に立つのかどうか。開戦時聯合艦隊旗艦「長門」がいわゆる柱島艦隊の全艦隊を率いて、機動部隊の支援と称し、瀬戸内海の泊地を出、小笠原列島の線まで行って何もせずに帰って来たのとよく似ている。露骨に言えば、勲章が目あてで行動の実績を作り上げるためだったとしか思えないが、・・・」(同書)

 第1次撤収作戦は、充分な霧の発生が無く、1水戦は途中引き返し、失敗に終わる。この時、木村少将は、「帰ればまた来られるさ」と先任参謀の有近六次中佐に語った。この木村の作戦に、大本営海軍部、連合艦隊司令部、第5艦隊司令部は、一斉に非難した。しかし、この引き返しが、後の「奇跡」とうたわれる作戦の成功を収める伏線となる。米艦隊は、キスカ島に艦砲射撃を加えていたが、たまたま補給のため1日だけ包囲網を解いていた。第2次作戦は、これと、偶然にも霧の発生が重なり、米軍に木村艦隊を発見されることもなく、完全無血で5200の将兵を救出した。

 この後、米軍は日本軍の撤退に気づかず、2週間にわたり無人のキスカ島に攻撃を加えた。昭和18年8月13日、上陸を開始した米軍は、同士討ちにより、100名以上の戦死傷者を出したあと、島がもぬけの殻であることを知った。

参考文献 『日本海軍に捧ぐ』
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☆戦艦「陸奥」謎の爆沈

 昭和18年6月8日、瀬戸内海離島に仮停泊中の戦艦「陸奥」は、第3砲塔付近から突如白煙を吹き上げ、大爆発を起こした。これにより、「陸奥」は船体が切断され、39,130dの巨体を海中に没した。1,474名の乗員の内、救助されたのはわずか353名でしかなかった。

 「陸奥」は大正10年10月24日、横須賀工廠で竣工し、40a(16インチ)砲8門、14a砲18門、12.7a高角砲8門、25_機銃20挺、53a魚雷発射管8門等の主要兵装で超々弩級戦艦であった。因みに、大正2年英国で竣工した巡洋艦「金剛」(27,500d)が、14インチ砲で日本初の超弩級。「陸奥」以降、戦艦「大和」「武蔵」は18インチ砲で、超々々弩級と言える。

 ワシントン軍縮会議で、「陸奥」はすでに竣工していたが、米国は未成艦と主張し、「陸奥」を生かすため、米国は建造中の16インチ砲戦艦「コロラド」、「ウェスト・バージニア」の2艦の竣工を認めさせ、英国は、新しく16インチ砲戦艦「ネルソン」「ロドネー」2艦の建造を決定することになった因縁の戦艦である。昭和12年に大改造し、主要兵装は、戦艦「長門」とほぼ同じであった。

 「陸奥」の謎の沈没は、戦争中の事件であり、原因究明に査問委員会が設置されたが、真相は解明されないまま、事実は極秘扱いにされ、戦後、事実を知ったマスコミにより、いろいろな推理や仮説が立てられた。

 しかし、当時の海軍当局の判断では、搭載していた三式弾(主砲対空弾・焼夷弾)の自然発火による爆発による事故とされていたようだ。これを裏づけるように、事件当時、「陸奥」爆沈の急報により、前線の艦隊に、一斉に三式弾の陸揚げ命令が発せられた。過去、艦内の火薬庫爆発事故は、明治38年から大正7年にかけて、三笠(2回)、松島、日進、筑波、河内と続いている。「陸奥」の事故は、25年ぶりのことであり、戦争中とのことも重なり、海軍部内に大きなショックを与えた。

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☆『戦争論』 

 戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない

 「そこで戦争は、政治的行為であるばかりでなく、政治の道具であり,彼我両国のあいだの政治的交渉の継続であり、政治におけるとは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。してみると戦争になお独自のものがあるとすれば、それは戦争において用いられる手段に独自の性質に関するものだげである。ところでかかる場合に、戦争術が一般に要求できること、そしてまた個々の場合には将帥が要求して差支えないことがある、それは・・・政治の方向と意図とがこれらの手段と矛盾しない、ということである。とは言えこの要求は、実際には決して些々たる事柄ではないのである。しかしかかる要求が政治的意図にどれほど強く反映されるにせよ、そのようなものがいちいち政治的意図を変更し得るなどと考えてはならない。政治的意図が常に目的であり、戦争はその手段にすぎないからである、そして手段が目的なしにはとうてい考えられ得ないことは言うまでもない。」『戦争論』(クラウゼヴィッツ)
ここに言うところの政治は、内政ではなくてもっぱら外交を意味する。

 クラウゼヴィッツ(1780ー1831)
1780年、当時のプロイセン国マクデブルグ市に生まれる。ナポレオン(1769ー1821)の生誕におくれること11年、モルトケ(1800ー91)に先立つこと20年である。『戦争論』は、ベルリンの一般士官学校(陸軍大学校)の校長時代に著述したものだが、生前に刊行されず、クラウゼヴィッツの死後、彼の妻マリーによって世に出された。『戦争論』の哲学的考察は、その後の将帥や思想家、革命家に大きな影響を与えた。影響を受けた代表的軍人には、ドイツのモルトケ、シューリフェン、ヒンデンブルグ、ゼークト、フランスのフォッシュ等がいる。また、唯物論的立場から、エンゲルス、レーニン等も高く評価した。
日本で『戦争論』がはじめて紹介されたのは、森鴎外の訳により、明治30年の初めの頃とされている。その後、陸軍士官学校・陸軍大学校、海軍兵学校・海軍大学校の教材として使用され、日本陸海軍士官のバイブル書になる。

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☆山本五十六と「逆立ち」

 「逆立ちは山本五十六の得意芸の一つで、少佐として始めてアメリカへ渡る旅客船内のパーティーでは、日本人がだれも芸を出さないので、サロンの手すりをつかんで逆立ちした。失敗すれば階下へ落下する危険な場所で、体操選手なみの力とバランスが要求される。

 五十六は見ている人をハラハラさせるのが好きで、しかも茶目っ気があって、急流を流れ下る川舟の舳先など、落ちたら大ケガをするようなところで突然逆立ちして驚かせた」

 後半の部分は、映画「山本五十六」の一場面として、三船敏郎演ずる五十六と、辰巳柳太郎演ずる船頭とのやり取りとして、描かれている。

 山本は、花柳界で、黙って茶目をすることから、「だま茶目」の綽名がついていた。

引用 『歴史群像シリーズ 山本五十六』



☆水交会

 会員に毎月送られてくる、会報『水交』の執筆記事は、資料としても貴重な寄稿文が数多くあります。’01.5月号で、「山本五十六元帥と父・山口多聞」山口宗敏(山口多聞中将のご子息)、7・8月合併号では、「『陸奥』を忘れない」日下万里子(沖原秀也中佐・「陸奥」航海長のご令嬢)などの記事があり、とくに貴重な資料と言えます。また、定例講演会も、各界から講師を招き実施されています。
 参考までに、水交会の入会案内(全文)をご紹介します。
 なお、当サイトは水交会とは一切関係はありません。 
 お問い合わせは、水交会へ。

                              
          水 交 会 入 会 に つ い て

 財団法人水交会は、旧海軍、自衛隊関係者及びその家族ならびに本会の趣旨に賛同される方々の団体であります。その目的は、国に殉じた方の慰霊の顕彰、海洋思想の普及高揚、旧海軍のよい伝統精神を受継いで、会員相互の親睦を図り、社会の各方面に貢献しようとするものであります。
 わが海軍は形の上では終戦をもって一応終止符を打たれましたが、八十年の歴史が育んだ精神はまことに立派なものがありました。伊藤正徳氏はわが海軍を評して「いい軍艦と多くのいい軍人から成っていた。……艦と人とは去ったが、魂は死なしてはならない」といわれ、また、司馬遼太郎氏は「わが海軍は、明治時代以降に日本が生んだ最大の文化財である」といわれております。
 私共は、この文化的遺産を永久に保存し、祖国の興隆に寄与する旧海軍を総合的に代表する団体として、政治的には中立の立場を堅持しつつ厳正に運営しております。かつての海軍や自衛隊に籍をおかれた方々及び現に自衛隊に在籍中の方はもちろんのこと、社会の第一線で活躍しておられる有志の方々もこぞって入会され、海を職場とする「ネービー」の美風を伝える強力な団体として末永く維持発展させていただきたいと存ずる次第であります。

1,ご入会の際は、入会申込書をご送付いただき、年会費(末尾参照)をお払込みくだされば会員として登録し、毎月お送りする機関誌『水交』誌上にご紹介いたします。
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1、当会のクラブ施設(結婚式及び同披露宴も実施可能)を集会等に使用することができます。

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(参 考

 1,年会費について
  @一般  年額 5,000円
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  Aご入会の際の入会金は不要です。
  B年度途中のご入会は、入会月により次のようになります。

月割額 未亡人 3,500円 2,630円 1,750円 880円
個 人 5,000円 3,750円 2,500円 1,250円
入 会 月 10 11 12
     当  該  年  翌  年

  (注)亡くなられた会員の夫人にかぎり未亡人会員になれます。
 2,団体又は会社名で入会される場合は年会費50,000円を申し受けます。



☆『ラバウル戦線異常なし』(草鹿任一中将)

 補給がまったく途絶えたラバウル地区では(海軍四万、陸軍六万といわれる)現地自活を始めたが、草鹿任一中将(当時南東方面艦隊司令長)の『ラバウル戦線異常なし』から、その自活ぶりをいくつか拾ってみよう。
 -----(主食に選んだイモ栽培)長官も参謀長も一ように、まず手始めに三、四十坪を担当して、朝は日出少し前から耕し、日出後一時間くらいまでやり、昼間軍務が終ると夕方また耕しに出る。農耕中に敵機が来れば、付近に設けてあるタコ壷式の穴に飛び込んで、彼が頭上を過ぎるとすぐまた飛び出して耕す。土地の都合で、遠方に農地を選ばなければならない所は、農耕員を半月交替くらいで派遣して、そこにニッパ・ハウスを建て、別荘に行くような気持でやるというあんばいであった。(富岡参謀長の述懐による)

 -----梅干の代用品として大変いいものが現地
で出来た。それはローゼルという草の実を塩漬けにしたもので、梅干そっくりの酸味、紫蘇で染めた通りの鮮紅色の色彩、それにシャリシャリした歯ざわりなどは、むしろ梅干をしのぐ素晴しいものであった。

 -----酒も・・・・・一番普遍的なものは椰子酒で、いも焼酎も造られた。たまには陸稲から濁酒を造るものもあったようだ。・・・・・日常労働の後の一服の煙草、一杯の酒、それは理屈を超越した醍醐味がある。況や御国をあとに数千里の前線で、一意敵に対して張り切っている親愛なる強者どもには、なろうことならば酒も煙草も充分に満足せしめたかったのである。

 -----(魚は)ようやく一カ月に二回くらい入る程度で、お話にならず、余り期待されなくなった。・・・・・ある日爆音に驚いたのか何に戸惑いしたのか、鯨の子供が三疋連れ立って港の奥に向かって突進し、海浜に乗り上げてしまった。その辺にいた通信隊の兵員は、思わぬお客様に面喰らったが、早速緊急呼集で皆つかまえて大喜び。子供でも鯨の子供だから相当なもので、一番大きいのは全長三メートル四十、小さいので二メートル半もあり、その付近の部隊で一食くらいはお陰を被ったらしい。引き続いてまた来ないかと、いく分あてにしていたが、そう何度も、柳ではない椰子の下に鯨は来なかった。

 -----動物性蛋白の補給としては(成長期間の長い豚よりは)鶏でいこうということになった。・・・・・一年余りで、一人当り一羽半か二羽くらいにはなっていたように覚えている。私も,初め今村(均)大将にすすめられて、幕僚達の食卓用を引き受ける決心でやり始め、大いに奮励努力した。・・・・・何時の間にか三、四十羽に殖えて、時々卵の一つずつくらいは食卓にならべられるようになって本当にうれしかった。

 -----(塩は)火山の麓の海岸に熱湯の出る場所があ
り、その付近に穴を掘って、湧き出る熱湯の中にドラム缶を幾つも並べ、これに海水を汲み入れておけば白然に塩が出来るという寸法である。煙も出ず、敵機が上空から見ても、うまくカムフラージュしておけばなかなか判らぬので爆撃の心配も少く、比較的苦労せずして塩が採れることになり、これは大成功であった。

 その他バナナの茎を材料に、オクラの根を糊にして美濃紙の類を一日四千枚生産した話し、ギンゴジカという灌木から採った繊維で布を織り、照明弾底部の黄燐と火山の硫黄でマッチを製造した話なども描かれている


引用 『別冊歴史読本 特別増刊 日本海軍艦隊総覧』

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☆新名丈夫

 戦後、評論家として知られる新名丈夫は、毎日新聞(東京日々新聞)政経部記者時代、戦局混迷を深める昭和19年2月23日付一面に、前日の東条首相の閣議演説を報じる『皇国存亡の岐路に立つ 首相・閣議で一大勇猛心強調』との記事に続き、次のような執筆記事を掲載し、国民に真相を知らしめる、勇気ある努力をした。

「勝利か減亡か 戦局は茲まで来た 眦決して見よ、敵の鋏状侵寇……国家存立の岐路に立つの事態が、開戦以来2年2ケ月、緒戦の赫々たるわが進攻に対する敵の盛り返しにより勝利か減亡かの現実とならんとしつつあるのだ、大東亜戦争は太平洋戦争であり海洋戦である……本土沿岸に敵が侵寇し来るにおいては最早万事休すである… 竹槍では間に合はぬ飛行機だ、海洋航空機だ
 ……今こそわれらは戦勢の実相を直視しなければならない……
ガダルカナル以来過去1年半余わが忠勇なる陸海壮士の血戦死闘にもかかわらず太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来た血涙の事実をわれわれは深省しなければならない ……敵が飛行機で攻めに来るのに竹槍をもっては戦ひ得ないのだ、問題は兵力の結集である……」(毎日新聞2月23日)

 東条は、この記事を目にし激怒した。理由は、「海軍に好意的だ」との単純なものだった。これに追い討ちをかけるように、その日の夕刊に、新名丈夫のスタッフ清水武雄海軍担当記者の記事が載った。

「……正に帝国隆替の岐路に立つ……現戦面よりも早一歩たりとも後退は許されぬ、この超重大戦局を超剋……するの途はただ一路、海洋航空兵力を急速に飛躍せしめよ、船舶を速かに大増産せよ」

東条の怒りは頂点に達し、記事中の「一歩も後退許されず」というのは統帥権の侵犯であると抗議した。
 新名記者は、ますます陸軍ににらまれ、この3日後、37歳の年齢で陸軍から懲罰とも言える召集を、二等兵として受けることになる。しかし、皮肉にもこの記事は、情報局、海軍当局には好評で新名記者は吉岡編集局長から特賞を受けている。
 新名丈夫は、石川達三の小説『風にそよぐ葦』や東宝映画『激動の昭和史 軍閥』(堀川弘通監督)の中にモデルとして登場している。昭和56年、74才で逝去。

参考文献『日本新聞通史 新訂増補』

新名丈夫」著書


☆伊藤正徳

 「海戦4年、昭和20年4月には、さしものわが連合艦隊の大小の艦艇はすでに次ぎ次ぎに亡びて、巨艦大和は日本にのこるたゞ一隻の戦艦となつていた。その7万トンの大和は、4月7日沖縄島を志して特攻作戦に出撃し雪風はその護衛艦の一としてその左側方1500メートルの海を南下したといふ。大和の出撃は間もなく敵に偵知され、敵飛行機の大群に襲ひかゝられ、さしもの巨艦も爆弾30余個、魚雷15発以上を受けて遂に沈んだのである。伊藤はその最後を叙していふ。

 『午後2時59分、大戦艦大和は45度近く傾いて、転覆は最早や寸秒の間と思われるのに、その沈下した艦首方面から、高角砲の火線は織るが如く天に向かって奔り、一機たりとも多くの仇敵を射止めようとする勇敢なる戦士の奮闘は、僚艦の将兵に無限の感激を与えた。

 が、運命遂に到り、爆発の大音響と共に、噴煙は大和の艦橋の5倍の高さに天を染めて巨艦は没した。時に4月7日午後3時、坊ノ岬の南方90マイルの地点に、世界最大の戦艦は姿を消したのであった。』

 戦艦大和が比類なき大艦であったやうに伊藤正徳は、比類なき大海軍記者であった。その伊藤の生前最後の文が大和の最期を叙するものであったことは、何か意味あることのやうにも思はれる。伊藤正徳の前に伊藤正徳なく、伊藤の後に伊藤なし。私に不似合な言ひ方かも知れないが、帝国海軍は伊藤の初恋の対象であり、またその最後の恋人であった。」と小泉信三は伊藤正徳著『連合艦隊の栄光』(昭和37年6月発行)の序で述べている。

 伊藤正徳は、明治22年茨城県生まれ。慶大卒業後、時事新報社に入社し、編集局長を歴任。その後、共同通信社・日本新聞協会、各理事長、時事新報社長
、産経時事主幹を経て産経新聞社顧問。昭和31年新聞文化賞受賞(新聞事業の発展に貢献)。昭和37年4月21日、72才で逝去。世界屈指の軍事問題通として知られていた。
『連合艦隊の最後』『大海軍を想う』『連合艦隊の栄光』など著書多数。

引用 『連合艦隊の栄光』

「伊藤正徳」著書



☆一枚の写真

 1945年8月14日(米時間)、日本は降伏した。歓喜する多くの米市民は街頭に繰り出し、長く厳しい戦争が勝利に終わった喜びを爆発させた。息子や兄弟、恋人達が、もう死ぬことはない。兵隊達は、街行く若き娘達に、手当たり次第に、キスの雨を降らした。

 とりわけ、ニューヨークのタイムズ・スクエアで撮られた「一枚の写真」(『LIFE』1945年8月27日号)は、米国全国民の喜びをセンセーションに表現している。カメラマンは、雑誌『LIFE』の専属カメラマン、アルフレッド・アイゼンシュテット。数多くのルポルタージュ写真を撮ってきた彼は、愛用の「ライカ」を胸に、タイムズ・スクエアに飛び出し、「瞬間のドラマ」を求めて走り続けた。一瞬、彼の前を横切る水兵が、うら若き白衣姿の娘を横抱きにし、熱いキスを「お見舞い」した。アイゼンシュテットは、瞬間、立て続けにシャッターを4回押したと言う。この「偶然のドラマ」は、伝説となった。

 この「二人」は、一体何処の誰なのか。全国民の興味の対象となり、以後40年以上にわたって「二人」の消息探しが続けられた。『LIFE』は、全米向け広告で、名乗り出ることを呼びかけた。これに対し、26人の男性が「自分こそ、その水兵だ」と現れ出たが、全員が決め手に欠けた。富と名声を得る絶好のチャンスとばかり、その後も「吾こそが被写体の人物である」と、自称する男女が後を絶たず、その度にタイムズ・スクエアで「再現」が行われた。しかし、どれも本人であることを証明することは不可能であった。

 1995年8月、アイゼンシュテットが96才で死んでからは、水兵の服装が冬服であることを根拠に、5月の対独戦勝利の写真ではないかとの説もある。しかし、バックの市民の服装は、どう見ても夏服だ。また、写っている水兵達の服装は、どういう訳か、夏冬バラバラとなっている。仮に、対独戦勝利のものであっても、また、彼がやらせとして、「二人」のモデルを使ったとしても、米国民の「歓喜の一瞬」を表現する、この「一枚の写真」の存在価値は、いささかも揺らぐことはない。
 「古来、『愛の女神』が『戦の神』に口づける時、世界に平和が訪れるという。半世紀前、ニューヨークのど真ん中で歓喜のキスを交わしたのは、実はアフロディーテとマルスのカップルだったのかもしれない。」

参考文献 『週刊YEAR BOOK/日録20世紀1945』



☆続・一枚の写真

■1996年8月15日付『読売新聞』

 「太平洋戦争での対日勝利を祝って、米軍の水兵と看護婦がニューヨークの繁華街タイムズ・スクエアで抱き合う有名な写真は、実は対独戦勝利の際に撮影されたものだった可能性の強いことが14日、写真の水兵だと名乗り出た男性の証言から明らかになった。撮影時に男性は婚約中だったためこれまで写真との関係を否定してきたという。
 報道写真家の草分け、アルフレッド・アイゼンシュテット氏によって撮影され、ライフ誌1945年8月27日号に掲載されたこの写真は、第二次世界大戦を勝ち抜き世界の新たな指導者として自信に満ちた米国社会の雰囲気を象徴する作品として知られているが、被写体の男女の身元は、女性の方は最近になって判明したものの、男性の正体はわからなかった。
 ロイター通信とのインタビューなどによると、この男性は、シカゴ郊外に住む元米軍信号兵、ジム・レイノルズさん(75)で、1945年5月に英国から帰国しニューヨーク市内を歩いていたところを、アイゼンシュテット氏に頼まれ、近くに居た看護婦の女性とのキス・シーンの撮影に応じたという。
 レイノルズさんは撮影の直後に以前からの婚約者と結婚。ライフ誌の写真が有名になるにつれ、妻や友人から「写真の男性ではないか」と疑われたが、同誌が写真を八月の対日戦勝利直後の写真として掲載したために、8月にはニューヨークにいなかったという“アリバイ”が成立し、写真とは無関係と言いつづけてきた。しかし、今年に入って妻が亡くなり、半世紀ぶりに真実を明かすことを決意したという。
 レイノルズさんは、写真が5月にとられた証拠の一つとして、写真で自分の着ているセーラー服が夏服の白ではなく、青であることを指摘している。
 ライフ誌では、レイノルズさんの指摘について今のところコメントしていない。」



■2007年8月4日10時14分配信 毎日新聞

<米水兵さん>「勝利のキス」身元判明…撮影から62年

【ニューヨーク小倉孝保】第二次大戦の勝利を喜ぶ水兵と女性看護師がニューヨークのタイムズスクエアで熱烈なキスを交わす有名な写真で、長年の謎だった水兵の身元が撮影から62年の歳月を経て解き明かされた。地元警察のベテラン科学捜査官が写真を分析し、結論付けた。
 水兵と判明したのはテキサス州ヒューストンのグレン・マクドゥフィーさん(80)。これまでに「水兵」として名乗り出ていた数十人のひとりだった。ヒューストン市警科学捜査課のルイス・ギブソンさんが、有力な数人に看護師の代わりに枕を抱かせ、写真と同じ姿勢を同じ角度から撮影し分析した。
 その結果、耳の位置や顔の骨の形、手首や腕の位置関係などからマクドゥフィーさんと判明した。ギブソンさんは「あらゆる分析結果からマクドゥフィーさんだということがはっきりした」とAP通信に語った。
 同通信によると、マクドゥフィーさんは恋人を訪ねる途中に日本が降伏したニュースを聞き、「うれしくて通りを走っていたら、看護師と目が合った。すぐに彼女のところに行きキスをした。言葉は一切交わさなかった」という。
 写真は1945年8月15日(日本時間)の日本の降伏に歓喜するタイムズスクエアで、2人の様子をカメラマンのアルフレッド・アイゼンシュテット氏(95年に96歳で死去)が撮影。写真雑誌「ライフ」に掲載された。看護師は既に判明している。