海軍大将 宜侯(ようそろ) 大本営発表 指揮官先頭・率先垂範 ☆海軍大将 海軍における最高位。天皇が直接親任する。総理大臣・海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官・特命全権大使・軍事参議官・侍従武官長など各分野のトップと同様に、天皇直属の役職。単に中将の上ではなく、権威・名誉・責任はその比ではない。大将に与えられる正三位という殿上人の位は、左大臣・右大臣・近衛大将という格であり、政府のナンバー5である。平安時代の藤原氏でも正三位以上はあまりいない。
|
艦 種 | 兵力 | 損害発表 ( )は損傷数 | 実際 ( )は損傷数 | 艦 名 | |
日本 | 空 母・正規 補助 |
4 3 |
1 (1) | 4 | 加賀、赤城、蒼龍、飛龍 |
戦 艦 | 4 | (1) | 榛名 | ||
巡洋艦・甲 乙 |
3 4 |
1 (1) | 三隈(沈没)、最上(大破) | ||
駆逐艦 | 33 | (2) | 荒潮、朝潮 | ||
潜水艦 | 16 | 1 | イ164号 | ||
飛行機 | 372 | 35 | 322 | ||
死 傷 | 3,200 | ||||
米国 | 空 母 | 3 | 2 | 1 | ヨークタウン |
甲 巡 | 8 | 1 | |||
駆逐艦 | 14 | 1 | ハマン | ||
潜水艦 | 20 | 1 | |||
飛行機・陸上機 艦上機 |
121 180 |
約150 | 37 113 |
||
死 傷 | 307 |
艦 種 | 兵力 | 損害発表 ( )は損傷数 | 実際 ( )は損傷数 | 艦 名 | |
日本 | 空 母・正規 補助 |
3 6 |
1 | 2 (1) 1 (3) |
翔鶴、大鳳(沈没)、瑞鶴(大破) 飛鷹(沈没),隼鷹,瑞鳳,千代田(中破) |
戦 艦 | 5 | (1) | 榛名 | ||
巡洋艦・甲 乙 |
11 2 |
(3) | |||
駆逐艦 | 32 | (1) | |||
潜水艦 | 15 | 9 | |||
飛行機・陸上機 艦上機 |
250 328 |
50 | 137 293 |
||
油槽船 | 8 | 2 | 2 (1) | 玄洋丸、清洋丸(沈没)、連吸(小破) | |
米国 | 空 母 | 5 | 1 (4) | (4) | 4隻が軽微な損害 |
戦 艦 | 7 | 1 | |||
巡洋艦 | 13 | ||||
駆逐艦 | 58 | ||||
潜水艦 | 15 | ||||
飛行機 |
艦 種 | 兵力 | 損害発表 ( )は損傷数 | 実際 ( )は損傷数 | 艦 名 | |
日本 | 空 母・正規 補助 |
1 3 |
1 (1) | 1 3 |
瑞鶴 瑞鳳、千歳、千代田 |
戦 艦 | 7 | 1 (1) | 3 | 武蔵、山城、扶桑 | |
巡洋艦・重 軽 |
13 6 |
2 | 6 4 |
愛宕、摩耶、鳥海、最上、鈴谷、筑摩 多摩、能代、阿武隈、鬼怒 |
|
潜水艦 | 13 | 5 | |||
駆逐艦 | 36 | 2 | 11 | 浦波、若葉、満潮、朝雲、山雲、野分 藤波、早霜、秋月、初月 |
|
輸送船 | 17 | ||||
飛行機 | 716 | 126 | 215 | ||
米国 | 空 母 | 32 | 8 (9) | 3 (1) | ガムビーア・ベイ、セイント・ロー、プリンストン |
戦 艦 | 13 | (1) | |||
巡洋艦 | 12 | 4 (2) | (1) | ||
駆逐艦 | 60 | 4 (3) | 3 | ホール、サミュエル・B・ロバーツ、ジョンソン | |
潜水艦 | 20 | ||||
輸送船 | 53 | 4 | |||
飛行機 | 500 | 125 |
『大本営発表にみる太平洋戦争の記録』による
|
月割額 | 未亡人 | 3,500円 | 2,630円 | 1,750円 | 880円 | ||||||||
個 人 | 5,000円 | 3,750円 | 2,500円 | 1,250円 | |||||||||
入 会 月 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 1 | 2 | 3 | |
当 該 年 | 翌 年 |
(注)亡くなられた会員の夫人にかぎり未亡人会員になれます。
2,団体又は会社名で入会される場合は年会費50,000円を申し受けます。
補給がまったく途絶えたラバウル地区では(海軍四万、陸軍六万といわれる)現地自活を始めたが、草鹿任一中将(当時南東方面艦隊司令長)の『ラバウル戦線異常なし』から、その自活ぶりをいくつか拾ってみよう。
-----(主食に選んだイモ栽培)長官も参謀長も一ように、まず手始めに三、四十坪を担当して、朝は日出少し前から耕し、日出後一時間くらいまでやり、昼間軍務が終ると夕方また耕しに出る。農耕中に敵機が来れば、付近に設けてあるタコ壷式の穴に飛び込んで、彼が頭上を過ぎるとすぐまた飛び出して耕す。土地の都合で、遠方に農地を選ばなければならない所は、農耕員を半月交替くらいで派遣して、そこにニッパ・ハウスを建て、別荘に行くような気持でやるというあんばいであった。(富岡参謀長の述懐による)
-----梅干の代用品として大変いいものが現地で出来た。それはローゼルという草の実を塩漬けにしたもので、梅干そっくりの酸味、紫蘇で染めた通りの鮮紅色の色彩、それにシャリシャリした歯ざわりなどは、むしろ梅干をしのぐ素晴しいものであった。
-----酒も・・・・・一番普遍的なものは椰子酒で、いも焼酎も造られた。たまには陸稲から濁酒を造るものもあったようだ。・・・・・日常労働の後の一服の煙草、一杯の酒、それは理屈を超越した醍醐味がある。況や御国をあとに数千里の前線で、一意敵に対して張り切っている親愛なる強者どもには、なろうことならば酒も煙草も充分に満足せしめたかったのである。
-----(魚は)ようやく一カ月に二回くらい入る程度で、お話にならず、余り期待されなくなった。・・・・・ある日爆音に驚いたのか何に戸惑いしたのか、鯨の子供が三疋連れ立って港の奥に向かって突進し、海浜に乗り上げてしまった。その辺にいた通信隊の兵員は、思わぬお客様に面喰らったが、早速緊急呼集で皆つかまえて大喜び。子供でも鯨の子供だから相当なもので、一番大きいのは全長三メートル四十、小さいので二メートル半もあり、その付近の部隊で一食くらいはお陰を被ったらしい。引き続いてまた来ないかと、いく分あてにしていたが、そう何度も、柳ではない椰子の下に鯨は来なかった。
-----動物性蛋白の補給としては(成長期間の長い豚よりは)鶏でいこうということになった。・・・・・一年余りで、一人当り一羽半か二羽くらいにはなっていたように覚えている。私も,初め今村(均)大将にすすめられて、幕僚達の食卓用を引き受ける決心でやり始め、大いに奮励努力した。・・・・・何時の間にか三、四十羽に殖えて、時々卵の一つずつくらいは食卓にならべられるようになって本当にうれしかった。
-----(塩は)火山の麓の海岸に熱湯の出る場所があり、その付近に穴を掘って、湧き出る熱湯の中にドラム缶を幾つも並べ、これに海水を汲み入れておけば白然に塩が出来るという寸法である。煙も出ず、敵機が上空から見ても、うまくカムフラージュしておけばなかなか判らぬので爆撃の心配も少く、比較的苦労せずして塩が採れることになり、これは大成功であった。
その他バナナの茎を材料に、オクラの根を糊にして美濃紙の類を一日四千枚生産した話し、ギンゴジカという灌木から採った繊維で布を織り、照明弾底部の黄燐と火山の硫黄でマッチを製造した話なども描かれている。
引用 『別冊歴史読本 特別増刊 日本海軍艦隊総覧』
戦後、評論家として知られる新名丈夫は、毎日新聞(東京日々新聞)政経部記者時代、戦局混迷を深める昭和19年2月23日付一面に、前日の東条首相の閣議演説を報じる『皇国存亡の岐路に立つ 首相・閣議で一大勇猛心強調』との記事に続き、次のような執筆記事を掲載し、国民に真相を知らしめる、勇気ある努力をした。
「勝利か減亡か 戦局は茲まで来た 眦決して見よ、敵の鋏状侵寇……国家存立の岐路に立つの事態が、開戦以来2年2ケ月、緒戦の赫々たるわが進攻に対する敵の盛り返しにより勝利か減亡かの現実とならんとしつつあるのだ、大東亜戦争は太平洋戦争であり海洋戦である……本土沿岸に敵が侵寇し来るにおいては最早万事休すである… 竹槍では間に合はぬ飛行機だ、海洋航空機だ
……今こそわれらは戦勢の実相を直視しなければならない……
ガダルカナル以来過去1年半余わが忠勇なる陸海壮士の血戦死闘にもかかわらず太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来た血涙の事実をわれわれは深省しなければならない ……敵が飛行機で攻めに来るのに竹槍をもっては戦ひ得ないのだ、問題は兵力の結集である……」(毎日新聞2月23日)
東条は、この記事を目にし激怒した。理由は、「海軍に好意的だ」との単純なものだった。これに追い討ちをかけるように、その日の夕刊に、新名丈夫のスタッフ清水武雄海軍担当記者の記事が載った。
「……正に帝国隆替の岐路に立つ……現戦面よりも早一歩たりとも後退は許されぬ、この超重大戦局を超剋……するの途はただ一路、海洋航空兵力を急速に飛躍せしめよ、船舶を速かに大増産せよ」
東条の怒りは頂点に達し、記事中の「一歩も後退許されず」というのは統帥権の侵犯であると抗議した。
新名記者は、ますます陸軍ににらまれ、この3日後、37歳の年齢で陸軍から懲罰とも言える召集を、二等兵として受けることになる。しかし、皮肉にもこの記事は、情報局、海軍当局には好評で新名記者は吉岡編集局長から特賞を受けている。
新名丈夫は、石川達三の小説『風にそよぐ葦』や東宝映画『激動の昭和史 軍閥』(堀川弘通監督)の中にモデルとして登場している。昭和56年、74才で逝去。
参考文献『日本新聞通史 新訂増補』
「海戦4年、昭和20年4月には、さしものわが連合艦隊の大小の艦艇はすでに次ぎ次ぎに亡びて、巨艦大和は日本にのこるたゞ一隻の戦艦となつていた。その7万トンの大和は、4月7日沖縄島を志して特攻作戦に出撃し雪風はその護衛艦の一としてその左側方1500メートルの海を南下したといふ。大和の出撃は間もなく敵に偵知され、敵飛行機の大群に襲ひかゝられ、さしもの巨艦も爆弾30余個、魚雷15発以上を受けて遂に沈んだのである。伊藤はその最後を叙していふ。
『午後2時59分、大戦艦大和は45度近く傾いて、転覆は最早や寸秒の間と思われるのに、その沈下した艦首方面から、高角砲の火線は織るが如く天に向かって奔り、一機たりとも多くの仇敵を射止めようとする勇敢なる戦士の奮闘は、僚艦の将兵に無限の感激を与えた。
が、運命遂に到り、爆発の大音響と共に、噴煙は大和の艦橋の5倍の高さに天を染めて巨艦は没した。時に4月7日午後3時、坊ノ岬の南方90マイルの地点に、世界最大の戦艦は姿を消したのであった。』
戦艦大和が比類なき大艦であったやうに伊藤正徳は、比類なき大海軍記者であった。その伊藤の生前最後の文が大和の最期を叙するものであったことは、何か意味あることのやうにも思はれる。伊藤正徳の前に伊藤正徳なく、伊藤の後に伊藤なし。私に不似合な言ひ方かも知れないが、帝国海軍は伊藤の初恋の対象であり、またその最後の恋人であった。」と小泉信三は伊藤正徳著『連合艦隊の栄光』(昭和37年6月発行)の序で述べている。
伊藤正徳は、明治22年茨城県生まれ。慶大卒業後、時事新報社に入社し、編集局長を歴任。その後、共同通信社・日本新聞協会、各理事長、時事新報社長、産経時事主幹を経て産経新聞社顧問。昭和31年新聞文化賞受賞(新聞事業の発展に貢献)。昭和37年4月21日、72才で逝去。世界屈指の軍事問題通として知られていた。
『連合艦隊の最後』『大海軍を想う』『連合艦隊の栄光』など著書多数。
引用 『連合艦隊の栄光』
「伊藤正徳」著書
1945年8月14日(米時間)、日本は降伏した。歓喜する多くの米市民は街頭に繰り出し、長く厳しい戦争が勝利に終わった喜びを爆発させた。息子や兄弟、恋人達が、もう死ぬことはない。兵隊達は、街行く若き娘達に、手当たり次第に、キスの雨を降らした。
とりわけ、ニューヨークのタイムズ・スクエアで撮られた「一枚の写真」(『LIFE』1945年8月27日号)は、米国全国民の喜びをセンセーションに表現している。カメラマンは、雑誌『LIFE』の専属カメラマン、アルフレッド・アイゼンシュテット。数多くのルポルタージュ写真を撮ってきた彼は、愛用の「ライカ」を胸に、タイムズ・スクエアに飛び出し、「瞬間のドラマ」を求めて走り続けた。一瞬、彼の前を横切る水兵が、うら若き白衣姿の娘を横抱きにし、熱いキスを「お見舞い」した。アイゼンシュテットは、瞬間、立て続けにシャッターを4回押したと言う。この「偶然のドラマ」は、伝説となった。
この「二人」は、一体何処の誰なのか。全国民の興味の対象となり、以後40年以上にわたって「二人」の消息探しが続けられた。『LIFE』は、全米向け広告で、名乗り出ることを呼びかけた。これに対し、26人の男性が「自分こそ、その水兵だ」と現れ出たが、全員が決め手に欠けた。富と名声を得る絶好のチャンスとばかり、その後も「吾こそが被写体の人物である」と、自称する男女が後を絶たず、その度にタイムズ・スクエアで「再現」が行われた。しかし、どれも本人であることを証明することは不可能であった。
1995年8月、アイゼンシュテットが96才で死んでからは、水兵の服装が冬服であることを根拠に、5月の対独戦勝利の写真ではないかとの説もある。しかし、バックの市民の服装は、どう見ても夏服だ。また、写っている水兵達の服装は、どういう訳か、夏冬バラバラとなっている。仮に、対独戦勝利のものであっても、また、彼がやらせとして、「二人」のモデルを使ったとしても、米国民の「歓喜の一瞬」を表現する、この「一枚の写真」の存在価値は、いささかも揺らぐことはない。
「古来、『愛の女神』が『戦の神』に口づける時、世界に平和が訪れるという。半世紀前、ニューヨークのど真ん中で歓喜のキスを交わしたのは、実はアフロディーテとマルスのカップルだったのかもしれない。」
参考文献 『週刊YEAR BOOK/日録20世紀1945』
「太平洋戦争での対日勝利を祝って、米軍の水兵と看護婦がニューヨークの繁華街タイムズ・スクエアで抱き合う有名な写真は、実は対独戦勝利の際に撮影されたものだった可能性の強いことが14日、写真の水兵だと名乗り出た男性の証言から明らかになった。撮影時に男性は婚約中だったためこれまで写真との関係を否定してきたという。
報道写真家の草分け、アルフレッド・アイゼンシュテット氏によって撮影され、ライフ誌1945年8月27日号に掲載されたこの写真は、第二次世界大戦を勝ち抜き世界の新たな指導者として自信に満ちた米国社会の雰囲気を象徴する作品として知られているが、被写体の男女の身元は、女性の方は最近になって判明したものの、男性の正体はわからなかった。
ロイター通信とのインタビューなどによると、この男性は、シカゴ郊外に住む元米軍信号兵、ジム・レイノルズさん(75)で、1945年5月に英国から帰国しニューヨーク市内を歩いていたところを、アイゼンシュテット氏に頼まれ、近くに居た看護婦の女性とのキス・シーンの撮影に応じたという。
レイノルズさんは撮影の直後に以前からの婚約者と結婚。ライフ誌の写真が有名になるにつれ、妻や友人から「写真の男性ではないか」と疑われたが、同誌が写真を八月の対日戦勝利直後の写真として掲載したために、8月にはニューヨークにいなかったという“アリバイ”が成立し、写真とは無関係と言いつづけてきた。しかし、今年に入って妻が亡くなり、半世紀ぶりに真実を明かすことを決意したという。
レイノルズさんは、写真が5月にとられた証拠の一つとして、写真で自分の着ているセーラー服が夏服の白ではなく、青であることを指摘している。
ライフ誌では、レイノルズさんの指摘について今のところコメントしていない。」
■2007年8月4日10時14分配信 毎日新聞
<米水兵さん>「勝利のキス」身元判明…撮影から62年