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つむじまがり(宮武外骨著)

つむじまがり(宮武外骨著)

つむじまがり(宮武外骨著)

宮武外骨の著作である『つむじまがり』の一部をテキスト化したので掲載します。

旧字はすべて新字に変更しています。それ以外に手を加えている箇所はありません。

掲出した文章は、短文でかつ甚だしく差別的表現をしていないものに限っています。書誌情報は末尾に示しています。

  • 人性は悪なり巧に悪をなせ(甲)
  • 官吏は国家の雇人なり
  • 国家の「公僕」と称すべし
  • 勤続五十年の乞食あり
  • 人道は頽廃に非ず
  • 紙屑買の大馬鹿者
  • 卒業生よりも落第生を発表せよ
  • 偏狭思想の同県人懇親会
  • 是非改めたき風習
  • 芝区役所に対して一銭五厘の債権あり
  • 大審院誤判録

(2010年1月 金森国臣)


人間の本性は善であると云ひ、悪であると云ひ、又善でも悪でも無いと云ふ折衷説もあるが、我輩は人性は悪に相違ないと思ふのだ、孟子が性善説を唱へたのは教化上の都合から出た方便であつて、荀子の性悪説は哲学上の真理を発露した確乎不抜の論である。

人性の悪なることは、教育を受けない所謂生れた儘の小児の動作を見れば直ぐに分る、社会学上の一原則に「個人の心身発達の順序は社会進化の程度を趁ふものなり」と云ふ事のあるのは、野蛮時代の有様を知りたければ小児を見るがよい、小児が他の小児の持つて居る物をヒツタクツたり、盗んだりするのは、野蛮時代の人間が強奪と窃盗を事として居た有様を代表して居るのだとの論である、されば原人の本性が悪なる事は確である。

然るに利益上から交際を好む人間共が寄合ふて社会をなすに至つた時、お互に強奪や窃盗をやつて居ては、骨折つて鳥獣を捕へたり穀物を作つたりする者がツマラナイ、これは何とか規則を設けねばならぬと云ひ出したのが起りで、道徳の制裁、法律の制裁など云ふ事が出来て、強奪や窃盗を禁じ、之を犯す者を名附けて悪人と云ひ、其本性を枉げる者を名附けて善人と云ふ事になつたのである。

であるから、人間の行為の善悪なるものは、ツマリ人間が得手勝手に拵へた名義である、けれども人間が社会的動物となつた以上は、其悪なる行為を懲し善なる行為を勧めなければならぬ、そこで世界万国天下到る所に制裁法なるものが出来、我々人間は其本性を枉げて悪なる行為を避ける事になつた。

然るに我国現今の有様は如何であるかと云ふに、殆ど悪人跋扈の時代で、賄賂を取つても、公金をクスネても、ユスリをやつても、詐欺をしても、法律上の制裁を受けないのみか、道徳上の制裁をも受けずに居る者が多いではないか、オマケに謹厳家の知事とか、理想的の市長とか、公明なる良吏とか、或は成功したる新聞屋、名誉ある紳士など称へられて尊崇されつヽあるではないか。

コンナ有様では、制裁法の無かつた野蛮の原人時代と同様だから、諸君は各々其本性の悪に立復つて、思ふ存分悪い事をし給へ、「時節相応」何でも旨くやつて一生を安楽に送り給へ、我輩の様に年柄年中癇癪を起したり、糞腹を立てたりする独り力みの偏屈は愚の頂上であるぞ。

金森註記:巧(たくみ)、人性(じんせい)、趁う(おう)、確乎不抜(かくこふばつ)、枉げる(まげる)、立復る(たちかえる)


今日の如く官吏が威張るのは、強者が非権力者たる平民を圧制し之を虐遇した時代の余弊であつて、立憲布制の開明時代には頗る不当の状態である、とは今日殆んど何人も認める所の定諭であるが、それにも拘はらず、木ッ葉役人共が矢張り其狐威を弄して国民を侮蔑し、不遜の態度言語を以て之に臨むの風があるのは、誠に不埓至極の奴輩といふべしである。

元来官吏なるものは、之を国家学上からいへば、国家行為の実行に与る為政機関の一部であるが、此国家なるものは吾人国民に依って組織せられた一の団体であるから、国民意志の集合即ち国家の意志である、官吏は即ち此意志を体現するが為めに、吾人が俸給を以て任用した所の労役者であつて、公法上と私法上の区別こそあれ、彼れ等役人共は、我輩国民の眼から見れば正に一個の雇人である、それが己の身分をも顧みず、主人たる国民に対して倣慢に威張り散らすのは、無礼の極である。

欧州などの文明国では、審判官が被告人を審訊するにも、必ず対等の言語を用ゐて決して不遜の態度を示さないさうだ、雇人としては誠にさもあるべき事で、吾人の見を以てすれば、我国従来の悪風たる官尊民卑の弊を除かんが為めには、右の如き官民同等にするよりも、寧ろ大に民尊官卑の良風を養成することを至当と認めるのである。

故に没分暁の役人が若しも舊弊時代の思想を以て国民に臨み無礼暴慢の態度を示すならば、「何だ、役人の癖に生意気な、其方等は我々が税金を出して養つ居る雇人ぢやないか、御主人たる国民様に対して無礼なことを云ふな」と叱つてもよいことにし、尚国家は彼等を懲戒すべき法律を制定して威張らせない事にしなければ、迚も憲政国の完美は望まれない。

金森註記:雇人(やといにん)、狐威(こい)、奴輩(どはい)、為政機関(いせいきかん)、己(うぬ)、没分暁(わからずや)、舊弊時代(きゅうへい)、迚も(とても)


「官吏昇降口」とか「人民控所」とかいふ札が今尚役所に存在して居る、これは言ふ迄もなく、舊弊思想の遺風であるが、此官尊民卑の弊風を矯正するには、第一「官吏」といふ語を改めねばならぬ、官はツカサドル、吏はオサムルだから、専制時代の用語たることは明瞭である、隨つて官の字には圧迫的の意味が附加され、吏といふ字には民衆よりも尊いやうな意味がある、それ故今の役人共が同家の雇人たる事を忘れて傲慢に成るらしい、宜く之を改めて「公僕」といふ事にすべしである、公はオホヤケであるが、公衆公共など称し、平等な意味を有して居る、その僕といふのだから、決して人民に高ぶり驕るべきでないと云ふ意もあらはれて、彼等の暴慢を戒める一助となるであらう。

金森註記:舊弊思想(きゅうへいしそう)、隨つて(したがって)、宜く(よろしく)、尊い(たっとい)、僕(しもべ)


凡そ国家治政の上に於て最も重んずべきものは賞罰であつて、賞罰其当を得ざるは、即ちこれ国家綱紀壊敗の基ゐである、然るに近者我国政府者の行動を見るに、賞罰其当を得ざる例が甚だ多い、これ実に国家の為め吾人の深慨すべき一大事であると思ふ。

見よ、政府は現に如何なる者を賞し如何なる者を罰して居るかといふに、実例の証する所に依れば、其賞せらるゝ者は概ね皆彼等政府者の仲間たる官吏共であつて、罰せらるゝ者は大抵普通国民たる者のみである、実にこれ奇怪至極の偏頗沙汰である。

元来政府なるものは国家機関の一部分であるから、其普通国民たると官吏たるとを問はず、賞すべきは之を賞し、罰すべきは之を罰して、以て国家の秩序を正しくすべしである、然るに其官吏たる者に対しては、其職務を或年限間勤続したといふ一事を以て妄りに之を重賞し、多額の賞金や勲章を授け、爵位の授与を奏請するなど不当の恩典を与へ、甚だしきは賂賄御殿を建築せし者、石の缶詰製造者等までにも、此恩賞を及ぼしたのは、抑もこれ何の為めであるか。

官吏なる者は国家の雇人である、多額の俸給を貰つて国民の租税に衣食して居る者である、されば其者が国家の為めに其職責を尽すのは至当の事である、然るに其至当の事を為て居る者に沢山の賞金や勲章を遣つて、職務外に於て献身的に努力した忠誠なる国民には殆んど何の賞する所も無く、偶々賞する事があつても、一片の褒状か三円五円の端た金か、然らずんば低級なる勲章位の薄賞に過ぎないといふ如きは、これ実に何たる不公平の処置であらう、我輩甚だ政府者の依恬心を痛憤せざるを得ない。

勿諭官吏と雖も其当然の職務外身分外に於て特殊の功があつたならば、大いに之を賞して勲章なり爵位なりを与へるのは、是当然の事であるが、現今の如く単に官吏として永く勤続したといふが為めに、或は其位階を進め、或は之に高等の勲章を与へて、之を重賞するといふ必要は断じて無い、若し官吏が月給を貰つて単に当然の職務を尽したのが賞すべき事であるとすれば、百姓が長く百姓として其職業を続けて居る者、商人が長く商人として営業して居る者もあるから、是等に対しても同じく之を勧賞して、これに位階を与へ勲章を授け、進んで之を華族に列せねば成らぬ筈ぢやないか、然るに是等国民に対しては其事なくして、単に其仲間の官吏共或は結托の富豪共にのみ厚賞を与へ重爵を授けるのは、賞罰の正を誤るも実に甚だしい。

斯る不公平の措置を敢てするがため、国民は皆憤概して、彼等の専横を憎み其官僚政治富豪政治を打破せんと絶叫するのである、政府者三省せよ。

これは旋毛曲りの議論でなく、寧ろ正々堂々たる理智の主張である、遮莫シカシ、民間には勤続五十年の乞食もあるではないか、乞食は不生産的の惰民であるが、それでも彼等は自己一身の露命を繋ぐべく、残飯或は零砕の銭を要請した小害民に過ぎない、国家の政治機関に干与する身で、国家を喰物にし、政治を喰物にする大害賊に勲章を与へ爵位を与へるやうな事があるならば、勤続五十年の乞食にもセメテ勲百等貧爵ぐらゐは与へてもヨカあるまいか。

金森註記:近者(ちかごろ)、妄り(みだり)、抑も(そもそも)、端た金(はしたがね)、依恬心(えこしん)、旋毛曲り(つむじまがり)、寧ろ(むしろ)、遮莫(されど)、零砕(れいさい)


現代の憂世家とか慷慨家とか云ふ連中は、今日は大いに人道が頽廃して居る、特に都会の地では其人道頽廃が最も甚だしいなど云つて嘆息して居るから予は近頃東京の市街を歩いて見たが、人道は決して頽廃でない、先づ新橋から京橋までの間を見ると、中央は車馬が多く通るので幾分か荒れて居る所もあるが、左右の人道には煉瓦を敷き詰めて至極平坦になつて居て、頽廃など云ふべき有様は少しも見えない、此外神田橋通りでも下谷五軒町通りでも、乃至本郷牛込麹町四谷赤阪芝日本橋本所深川浅草区内等、何処でも道は平坦で掃除も能く行届いて居る、そして其人道を通つて居る者は、美人の手を引いて悠々と歩く者もあれば、大手を振つて人道狭しと云ふ威勢で歩いて居る紳士もある。

故に予は此有様を見て、都会の地では人道頽廃が最も甚だしいなど云ふ者は、マダ東京の市街を見た事が無いのであらうと思つた、朴訥者が住んで居る山間僻地の人道こそ反つて大いに頽廃して居る所があるかも知れない、故人の齋藤緑雨が「人道を解せない者が多いと云つて嘆息するのはマダ人道の何物たるを解して居ないのだ、能く人道を解して居るのは巡査であらう、彼は大道に立つて左へ左へと叫んで居る」と云つたが、今日人道頽廃など云ふ者もヤハリ人道の何物たるを解して居ないのだらう、嗚呼泰平なる哉、泰平なる哉

金森註記:此外(このほか)、反つて(かえって)、能く(よく)


風刺とか皮肉とか云ふ中に、旋毛曲りのヒネクレ根性が発揮して居ると、如何な俗人でも痛快に感ずるらしい、去る明治三十六年一月の事である、当時予が発行しつゝありし『滑稽新聞』の新年附録として、一枚の紙屑(古新聞紙)に「滑稽新聞新年附録」と大書し、裏面に「紙屑買の大馬鹿者」と印刷したものを挿入し、尚その説明として、新年の初刊には何処の新聞雑誌も大奮発にて紙数を平常の二倍三倍とし、甚だしきは日刊新聞にして三十二頁とか六十四頁などいふものもある、その中に於て独り我誌のみが平常の通りでは汗顔の至りと存じ、今般大奮発にて別紙の附録を添へる事にしました、何卒御精読あらん事を望みます、尚斯様な附録を御好みなれば、一貫目に代価十五銭の割にて、何程なりとも御注文に応じます」と附記したので、当時大好評を博した事があつた、その後明治四十年一月の初刊には「本誌に新年附録は無い、附録望みの者は他の新聞雑誌を買へ」と題して「これは実に奇抜の文句ではないか、古今無類空前絶後と称すべき破天荒の声ではないか、斯様な思ひ切つた事は我輩でなくば迚も云へまい、本誌の価値は此処にあるのだと、今更ながら感激の涙をこぼすであらう、然り、クダラナイ紙屑同様のものを附けて、業々しく「新年の大附録」石版刷十何度などいふ、コケ威しの絵画などよりは、右の警句が何程好いか分らない、諸新聞雑誌の新年附録などは、一月か二月の後には、何であつたか忘れてしまふ、この「附録望みの者は他の新聞雑誌を買へ」といふ警句は永く人々の記憶に存して、万劫末代までも話の種になり、日本の文芸史にも特筆さるべき異彩であらう。

斯様な滑稽新聞を購読する幾万の者共は、実に仕合せである、新年早々例の趣味と実益のある数多の記事絵画を拝見する事が出来た上、尚右の如き有難い警句を聞かされるなどは、冥加に余つた幸福と思はねばなるまい、我輩が新年附録を添へないのは、附録をあてに購読するやうな馬鹿気た奴を相手にするには及ばぬ、附録は無くても紙数は少くても、是非毎号見なければ気が済まぬ、と云ふ真の愛読者を得たいからである、これが判らないやうな者共は、それこそ真に他の新聞雑誌を買ふがよい云々」

金森註記:旋毛曲り(つみじまがり)、迚も(とても)、価値(ねうち)、コケ威し(こけおどし)、何程(なんぼ)、一月(ひとつき)、二月(ふたつき)、数多(すうた)


近年の諸新聞には、何々学校の優等卒業生などヽ題し、麗々しく写真まで載せて其成績を書き列べ、頻りにオダテ上げる様な事をやつて居るが、さらでだに客気に富んだ青年を、周囲からチヤホヤするものだから、当人は一かど秀才気取りに成り、先輩も糞もあったものかと慢心する様になる、折角有為の才を懐きながら案外平凡な一生を送るといふのも、一は此新聞記事の罪である、我輩は斯くの如き有害の記事を掲載するよりも、寧ろ落第生を新聞で紹介した方が、遙かに有益であらうと思ふ、何故かといふに、彼等を収容する学校では、彼等を教育し其学年を追ふて自然卒業が出来る様に、日々学課を授けて居るのである、されば卒業の際に仮令成績が優等であるにしても、それは普通行ふべき道を行つたといふに過ぎないのであつて、殊更褒めそやすべき理由は毫も無いのである、然るに落第生は、自己の怠慢よりして其結果を招いたのであるから、大いに其罪を責め、世間に少しでも然ういふ馬鹿者を殖やさない様に、其悪成績を公表して他の子弟に警告すべきものである、又学校としても、斯ういふ落第生を出だすのは例外とすべきであるから、其例外を除く為めには、是非共之を公表する必要がある、それを今日まで内々にして居るのは、彼等落第生が概ね貴族や富豪の子弟であるから其尻舐りの教師や新聞記者共が黙して居るのであらう。

金森註記:書き列べ(かきならべ)、寧ろ(むしろ)、仮令(たとい)、然う(そう)、尻舐り(しりねぶり)


自愛心が他愛心と成つて家族を愛し、それが拡大して愛郷心愛国心も起るのであるが、其生地を同じうすると云ふが為めに相集つて徒当を組まねばならぬ理由は無い、予は讃岐人会とか香川県人懇親会といふやうな会へは一切出ない事にして居る、長州人が相結托し、薩州人が相談合するなどを見ても、徒当が国家の進路を妨害することは明確である、我輩は寧ろ互に排擠しつヽある異郷異国異人種と相親睦して、此世界に於ける万国の平和を希望する者である、一国一郷の輩が相結合し其勢力によつて私利壟断の機会を得んとするが如きは、人道の賊であると信ずる。

金森註記:徒当(ととう)、相談合(あいだんごう)、排擠(はいざい)→「はいせい」が正しい読みか? 他を押しのけたりおとしいれたりすること


一昨冬『健全生活』といふ雑誌を発行して居る健全社から、往復ハガキで「我社に於て是非改めたき風習」といふ問題に就ての意見を返事して呉れと申込んで来た、其文句は印刷したものであつて、各方面の人々に出したらしいのであつた、予はこれに対して

「或一問題を設け、その問題につき、未知の人々に対し、往復ハガキにて意見を徴すること、近時雑誌界の流行となれり、此軽佻なる風習を改めたく思ふ」と返事したが、該編輯者は必や怒つて引裂くだらうと予期して居たのに、此全文を他の三十数名の返事と共に誌上に掲出して「直言直筆、之を咎められたるを謝し、頂門の一針とする」と附記してあつたのには、サスガの旋毛曲りたる予も感心した。

金森註記:編輯者(へんしゅうしゃ)


予が今春、面白半分風刺半分に衆議院議員候補者と称して居た当時、東京芝区役所から封書で「貴殿の名は何と訓むのであるか、暇名書きにして御通知下さい」といふ意の照会があつた、これは投票の際、本字を書き得ない選挙民は.候補者の氏名を暇名で書いてもよいと云ふ事になつて居るので、開票の際の準備として「外骨」は「ソトホネ」か「トヒトリ」か「グワイコツ」かを決定して置かうと云ふのであらうと察した、本字を書き得ないやうな愚民が、依頼状も出さず、運動もしない予に投票する筈もなく、又元来が得票などをアテにして居ないのであつたから、態々返事するにも及ばない事だと、打捨つて置くと、重ねて督促して来たから、此ウルサイ奴と思ひながら、郵便ハガキで「外骨の二字は何とでも訓む者の勝手に任し居れり」と返事をし、尚斯様な事は返事せねばならぬと云ふ法律上の規定は無いのであるから「此返信ハガキ代一銭五厘、折返し至急弁償相成度候」と附け書きした、衆議院議員候補者が、区役所に対してハガキ代一銭五厘を要求したのは、前例の無い事で、役人共は「こんなに金を使はないケチな候補者には迚も投票する者があるまい」と笑つたであらうが、それでも当方の要求には応ずべき筈であるに、今に其一銭五厘を弁償しない、予は此芝区役所、即ち同区長に対して訴訟を提起し得べき民法上の権利を有する者である。

金森註記:訓む(よむ)、態々(わざわざ)、打捨つて置く(うっちゃっておく)、迚も(とても)


最高法衛の判決として、法律運用の模範たるべき『大審院判決録』といふのは、久しい以前から発行して居るが、大審院の判決にも誤判は有る、法理に精通して居るといふので、高い年俸を給される判事、しかも其判事が五人も寄つて審理合議の結果、飛んでもない間違ひを起した事がある、明治三十六年の末にも、島根県高等女学校長橘量が数科書屋から賄賂を取つた事件に就き、犯罪時日より後に制定した法律に拠つて有罪の判決を下したので、当時の刑法総則に所謂「法律は頒布以前に係る犯罪に及ぼすことを得ず」との条項に違反する事であると攻撃されたので、大審院では大いに狼狽して、院長は判事等と密議の上、竊かに其判決文を改竄し、無罪としたので、其行為は純然たる官文書偽造なり、大審院判事が重罪を犯せりなど、当時大物議を起した事もあつたのだから、そんな事実を集めて、旋毛曲りに『大審院誤判録』といふのを出版したいと考へたので、昨春弁護士花弁卓蔵氏、伊藤秀雄氏等から其材料を貰はうと思つて、先づ伊藤氏を訪問して其話をすると、伊藤氏曰く

「それはダメだ、大審院の判決有効期たる明治二十八年(?)以来、誤判といふのはタツタ一つ(前記の事実)で、其外には無い、強ひて誤判と云はうならば、昨年四月に婚姻予約を有効と認める新判例を作つたので、従来無効として居た判決は、今日から見れば誤判であるから、そんな事でも集めるより外はない」

宮武「大審院の判事が誤りと覚つて訂正した前の判決などを集めては面白くない大審院自からは正当のつもりで居る判決を、新しい法理論によつて、彼は誤判なり、此も誤判なりといふ事を集めたいのである、地方裁判所や控訴院の判決に対して上告した結果、破棄或は無罪の言渡をした判決などは多くあるけれども、一審二審の誤判ではツマラナイ、最高法衛の大審院に斯く誤判ありと指摘したならば、法学研究者の参考にも成るだらうと思ふのですが、一つしか材料が無いとは何たる事です、君等始め花井氏や上告専門の弁護士といふ高木益太郎氏などは、毎月多くの上告事件を引受けて居るぢやありませんか、中には形式だけの上告を頼まれる事もありませうが、大概は民事にしろ刑事にしろ鑑定の上、上告すべき理由ありとして引受けるのでせう、それが棄却になつた時には上告趣意として弁論した主旨を執つて、此判決は不当なり錯誤なりと絶叫したならば、立派な『大審院誤判録』が出来るぢやありませんか」

伊藤氏「さうは行かん、新らしい法理論によつて、批評論議し得られない事は無いが、それで直ちに誤判なりと叫ぶことは出来ない」

宮武「それぢやア君等が引受ける上告事件は、初めから負けるとか、無罪にはならないとか知りながら、高い弁護料を取つて訴訟代理人と成り、刑事上訴人と成つて徒らに金を貪る様な事が多いのですか」

と云ふと、伊藤氏は莞爾と笑ひながら

「それは違ふ、我々は敗訴になるだらう知りつヽ引受ける上告事件も多くあるが、それでも相当弁論すべき法理上の理由があつてする事で、我々弁護人が其法理論を繰返して居ると、何時かは大審院の判例を覆へして、婚姻の予約を有効と認めると云ふが如き新判例を作らせたいといふ意見に外ならないのである上訴人を瞞して単に金を取らうといふ様な意ではない、マア花井君の処へも行つて聞いて見給へ、恐らくは僕と同一意見であらう云々」

斯様な問答で、花井氏を訪問する勇気も失せて『大審院誤判録』といふ施毛曲りの計画は、オジヤンに成つた。

金森註記:竊かに(ひそか)、彼は(あれは)、此も(これも)、莞爾と(にっこと)、瞞して(だまして)、施毛曲り(つむじまがり)


  • タイトル:つむじまがり
  • 責任表示:宮武外骨著
  • 出版事項:東京:山添平作,大正6
  • 形態:188,4p;19cm
  • 著者標目:宮武,外骨(1867−1955)
  • 西暦年:1917

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