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絶対他力の信仰

絶対他力の信仰 : 清沢満之先生遺稿

絶対他力の信仰:清沢満之先生遺稿

絶対他力の信仰:清沢満之先生遺稿

『絶対他力の信仰:清沢満之先生遺稿』をテキストにしました。底本には、国会図書館の近代デジタルライブラリーにある資料を参照しました

  1. 他力の救済
  2. 我が信念
  3. 絶対他力之大道

自分の参考のために作成したので、表記は基本的に新字・新仮名遣いに変えています。自分にとっての難読漢字はひらがなにしています。したがって引用には適しません。

書誌情報などは、末尾に記載しています。

ご注意:

編集されたものは、清沢満之の言いたいことの真逆だったりすることがあるそうです。自筆文が使われている岩波文庫『清沢満之集』あるいは岩波『清沢満之全集』を参考にすべきだそうです。研究者のかたから、ご指摘いただきました。

確かにそのとおりで、「全集」などについては、信頼できる出版社および編集者によるものを選ぶべきで、そのことをすっかり忘れていました。

(2013年7月 金森国臣)(2017年7月誤記訂正 顕倒 → 顛倒)


一。他力の救済

我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉づ。

我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲のために迷はさるること少く、我、他力の救済を忘るるときは、我、物欲のために迷はさるること多し。

我、他力の救済を念ずるときは、我が処するところに光明照らし、我、他力の救済を忘るるときは、我が処するところに黒闇覆う。

嗚呼、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟逹安楽の浄土に入らしむるが如し。我は実にこの念によりて現に救済されつつあるを感ず。もし世に他力救済の教えなかりせば、我は終に迷乱と悶絶とを兔れざりしなるべし。しかるに、今や濁浪滔々との闇黒世裡に在りて、つとに清風掃々の光明海中に遊ぶおるもの、その大恩高徳、あに区々たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや。

(明治三十六年四月東京にて開かれたる親鸞聖人御誕生会の祝詞に代へて。同年六月十日発行『精神界』所載)


二。我が信念

私は常々信念とか如来とか云うことを口にしていますが、その私の信念とは如何なるものであるか、私の信ずる如来とは如何なるものであるか、いま少しくこれを開陳しようと思います。

私の信念とは、申す迄もなく、私が如来を信ずる心の有様を申すのであるが、それに就いて、信ずると云うことと如来ということと、二つの事柄があります。この二つの事柄は、丸で別々のことの様にもありますが、私にありてはそうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。私の信念とはどんなことであるか、如来を信ずることである。私の云う所の如来とはどんなものであるか、私の信ずる所の本体である。分けて云えば、能信と所信との別があるとでも申しましょうか、すなわち、私の能信は信念でありて私の所信は如来である、と申して置きましょう。あるいはこれを、信ずる機と信ぜらるる法との区別である、と申してもよろしい。しかし、能所だの機法だのと云う様な名目をかつぎ出すと、かえって分ることが分らなくなる恐れがあるから、そんなことは一切省いて置きます。

私が信ずるとはどんなことか、なぜそんなことをするのであるか、それにはどんな效能があるか、と云う様な色々の点があります。まずその効能を第一に申せばこれを信ずると云うことには、私の煩悶苦悩が払い去らるる效能がある。あるいはこれを救済的效能と申しましょうか。とにかく、私が種々の刺激やら事情やらのために煩悶苦悩する場合に、この信念が心に現れ来る時は、私はたちまちにして安楽と平穏とを得る様になる。その模様はどうと云えば、私の信念が現れ来る時は、その信念が心一ぱいになりて、他の妄想妄念の立ち場を失わしむることである。如何なる刺激や事情が侵して来ても、信念が現在して居る時には、その刺激や事情がちっとも煩悶苦悩を惹起することを得ないのである。私の如き感じやすきもの、特に病気にて感情が過敏になりて居るものは、この信念と云うものがなかったならば、非常たる煩悶苦悩を免れぬことと思われる。健康人にても苦悩の多き人には、ぜひこの信念が必要であると思う。私が宗教的にありがたいと申すことがあるが、それは信念のためにこの如く現実に煩悶苦悩が払い去らるるの、よろこびを申すのである。

第二。なぜそんな如来を信ずると云う様なことをするのか、と云うについては前に陳ぶるが如き効能があるから、と云うてもよろしいが、なおそれより外の訳合があるのである。効能があるからと云うのは、すでに信じたる後の話である。まだ信ぜざる前には、効能があるかなきかは分らぬことである。もちろん、人の効能があると云う言葉を聞いて、信ぜられぬ訳でもないが、人の言葉を聞いただけでは、そうでもあろう位のことが多い。真に效能があるか無いかと云うことは、自分に実験したる上の話である。私が如来を信ずるのは、その效能によりて信ずるのみではない、その外に大なる根拠があることである。それはどうかと云うに、私が如来を信ずるのは、私の知恵の窮極であるのである。人生の事に真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云うことを惹起したのであります。信念を得るには、強ちこの如き研究を要するわけでないからして、私がこの如き順序を経たのは、偶然のことではないか、と云う様な疑いもありそうであるが、私の信念はそうではなく、こ順序を経るのが必要であったのであります。私の信念には、私が一切のことについて私の自力の無効なることを信ずる、と云う点があります。この自力の無効なることを信ずるには、私の知恵や思案の有り丈を尽くして、その頭を挙げようのない様になる、と云うことが必要である。これが甚だ骨の折れた仕事でありました。その窮極の達せらるる前にも随分、宗教的信念はこんなものである、と云う様な決着は時々出来ましたが、それが後から後から打ち壊されてしもうたことが、幾度もありました。理論や研究で宗教を建立しようと思って居る間は、この難を免れませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何にも分らないとなったところで、一切の事を挙げて、ことごとくこれを如来に信頼する、と云うことになったのが、私の信念の大要点であります。

第三。私の信念はどんなものであるかと申せば、如来を信ずることである。その如来は、私の信ずることの出来る、また信ぜざるを得ざる所の、本体である。私の信ずることの出来る如来と云うのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、その無能の私をして私たらしむる、能力の根本本体が、すなわち如来である。私は、何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分ける能力のない私、隨って、善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だの、と云うことのある世界には、左へも右へも、前へも後へも、どちらへも身動き一寸することを得ぬ私、この私をして、虚心平気に、この世界に生死することを得しむる、能力の根本本体がすなわち私の信ずる如来である。私はこの如来を信ぜずしては、生きても居られず、死んで往くことも出来ぬ。私はこの如来を信ぜずしては居られない。この如来は、私が信ぜざるを得ざる所の如来である。

私の信念は大略この如きものである。第一の点より云えば、如来は私に対する無限の慈悲である。第二の点より云えば、如来は私に対する無限の知恵である。第三の点より云えば、如来は私に対する無限の能力である、かくして私の信念は無限の慈悲と無限の知恵と無限の能力との実在を信ずるのである。無限の慈悲なるがゆえに、信念の確定のその時より、如来は私をして直に平穏と安楽とを得しめたまう。私の信ずる如来は、来世を待たず現世において、すでに大なる幸福を私に与えへたまう。私は他の事によりて多少の幸福を得られないことはない、けれども、如何なる幸福もこの信念の幸福に勝るものはない。ゆえに、信念の幸福は、私の現世における最大幸福である。これは、私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はまだ実験しないことであるから、ここに陳ぶることは出来ぬ。

次に、如来は無限の知恵であるがゆえに、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給う。従来の慣習によりて、私は知らず識らず、研究だの考究だのと、色々無用の論議に陥りやすい。時には、有限粗雑の思弁によりて無限大悲の実在を論定せん、と企つることすら起る。しかれども、信念の確立せる幸には、たとえ暫くこの如き迷妄に陥ることあるも、またたやすくその無謀なることを反省して、この如き論議を抛擲することである。「知らざるを知らずとせよ、是れ知れるなり」とは実に人智の絶頂である。しかるに、我等は容易にこれに安住することが出来ぬ。私の如きは、実におこがましき意見を抱いたことがありました。しかるに、信念の幸恵により、今は「愚痴の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云う御言葉を、ありがたく喜ぶことが出来、また自分も真に無智を以て甘んずることが出来ることである。私も以前には、有限である不完全であると云いながら、その有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や無限なる実在を研究せんとする、迷妄を脱却し難いことであった。私も以前には、真理の標準や善悪の標準が解らなくなっては、天地も崩れ社会も治まらぬ様に思うたことであるが、今は、真理の標準や善悪の標準が人智で定まる筈がない、と決着して居ります。

さてまた、如来は無限の能力であるが故に。信念によりて大なる能力を私に賦与し給う。私等は通常、自分の思案や分別によりて進退応対を決行することであるが少し複雑なことになると、思案や分別が容易に定まらぬ様になる。それがために、段々研究とか考察とか云うことをする様になると、而して前に云うが如き標準とか実在とか云う様なことを求むることになりて見ると、行為の決着が次第にむつかしくなり、何をどうすべきであるやら、ほとんど困却の外はない様なことになる。言葉を慎まねばならぬ、行を正しくせねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壊りてはならぬ、礼儀に違うてはならぬ、作法を乱してはならぬ、自己に対する義務、他人に対する義務、家庭における義務、社会における義務、親に対する義務、君に対する義務、夫に対する義務、妻に対する義務、兄弟に対する義務、朋友に対する義務、善人に対する義務、悪人に対する義務、長者に対する義務、幼者に対する義務等、いわゆる人倫道徳の教えより出づる所の義務のみにても、これを実行することは決して容易のことでない。もし真面目にこれを遂行せんとせば、終に「不可能」の嘆に帰するより外なきことである。私はこの「不可能」に衝きあたりて、非常なる苦しみを致しました。もしこの如き「不可能」のことのためにどこ迄も苦しまねばならぬならば、私はとっくに自殺を遂げたでありましょう。しかるに、私は宗教によりてこの苦しみを脱し、今に自殺の必要を感じませぬ。すなわち、私は無限大悲の如来を信ずることによりて、今日の安楽と平穏とを得て居ることであります。

無限大悲の如来は、如何にして私にこの平安を得しめたまうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるることによりて、私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には毫も限りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私はただ自分の気の向う所、心の欲する所に順従(したが)うて、これを行うて差し支えはない。その行が過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は、私の一切の行為について、責任を負うて下さるることである。私は、ただこの如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に偏満してある。如来の能力は十方にわたりて、自由自在、無障無碍に活動し給う。私は、この如来の威神力に寄托して、大安楽と大平穏とを得ることである。私は、私の死生の大事をこの如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり。富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、この天と命との根本本体である。

(明治三十六年夏、先生三河国大浜町西方寺にあり、自ら筆を執りて、この一篇を草し、後数日を出でずして、病俄に革まり、六月六日午前一時、溘然として寂せらる。然れば此一篇は正に先生の絶筆なり。同年六月十日発行『精神界』所載)


三。絶対他力之大道

自己とは他なし絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。

ただそれ絶対無限に乗託す、故に死生の事また憂うるに足らず。死生なおかつ憂うるに足らず、如何にいわんやこれより而下なる事項においてをや。追放可なり、獄牢甘んずべし。誹謗、擯斥、あまたの凌辱、あに意に介すべきものあらんや。我等はむしろひたすら絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな。

宇宙万有の千変万化は、皆これ一大不可思議の妙用に属す。而して我等はこれを当然通常の現象として、毫もこれを尊崇敬拝するの念を生ずることなし。我等にして智なく感なくば、すなわち止む。いやしくも智と感とを具備してこの如きは、けだし迷倒ならずとするを得んや。

一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香そのものの原起力に因るに非ず。皆彼の一大不可思議力の発動に基づくものならずばあらず。色香のみならず、我等自己そのものは如何。その従来するや、その趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅、また自在なるものにあらず。我等は絶対的に他力の掌中に在るものなり。

我等は死せざるべからず。我等は死するも、なお我等は滅せず。

生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。

しかれども、生死は我等の自由に指定し得るものにあらざるなり。生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり。しかれば、我等は生死に対して悲喜すべからず。生死なおしかり、いわんやその他の転変においてをや。我等はむしろ宇宙万化の内において彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。

請うなかれ。求むるなかれ。なんじ何の不足かある。もし不足ありと思はば。これなんじの不信にあらずや。

如来はなんじがために必要なるものをなんじに賦与したるにあらずや。もしその賦与において不充分なるも、なんじは決してこれ以外に満足を得ること能はざるにあらやず。

けだし、なんじ自ら不足ありと思いて苦悩せば、なんじは愈々修養を進めて、如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず。これを人に請い、これを他に求むるが如きは卑なり、陋なり。如来の大命を侮辱するものなり。如来は侮辱を受くることなきも、なんじの苦悩をいかんせん。

無限他力何れのところにかある。自分の禀受においてこれを見る。自分の禀受は無限力の表顕なり。これを尊びこれを重んじ、もって如来の大恩を感謝せよ。

しかるに、自分の内に足るを求めずして、外物を追い、他人に従い、もって己を充たさんとす、顛倒にあらずや。

外物を追うは貪欲の源なり。他人に従うは瞋恚の源なり。

何をか修養の方法となす。曰く、すべからく自己を省察すべし、大道を知見すべし。大道を知見せば、自己にあるものに不足を感ずることなかるべし。自己に在るものに不足を感ぜざれば、他にあるものを求めざるべし。他にあるものを求めざれば、他と争うことなかるべし。自己に充足して、求めず、争わず、天下何のところにかこれより強勝なるものあらんや、何のところにかこれより広大なるものあらんや。かくして始めて、人界にありて独立自由の大義を発揚し得べきなり。

この如き自己は、外物他人のために傷害せらるるものに非ざるなり。傷害せらるべしと憂慮するは、妄念妄想なり。妄念妄想はこれを除却せざるぺからず。

独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり。殺戮餓死、もとより覚悟の事たるべし。

すでに殺戮餓死を覚悟す。もし衣食あらば、これを受用すべし。尽くれば、従容死に就くべきなり。

而してもし妻子眷属あるものは、先ず彼等の衣食を先にすべし。すなわち、我が有る所のものは、我をおいて先ず彼等に給与せよ。その残る所をもって我を被養すべきなり。ただ、我死せば彼等如何して被養を得ん、と苦慮することなかれ。これには絶対他力の大道を確信せば足れり。かく大道は決して彼等を捨てざるべし。彼等は如何にかして被養の道を得るに到るべし。もし彼等到底これを得ざらんか、これ大道彼等に死を命ずるなり。彼等これを甘受すべきなり。ソクラテス氏曰く、「我セラリーに行きて不在なりしとき、天、人の慈愛を用ゐて彼等を被養しき。いま我もし遠き邦に逝かんに、天あにまた彼等を被養せざらんや」と。

(明治三十五年六月十日発行『精神界』所載)

絶対他力の救済 終


書誌情報など

書誌情報

  • タイトル:絶対他力の信仰 : 清沢満之先生遺稿
  • 著者:清沢満之 [著][他]
  • 出版者:清沢満之先生追恩会
  • 出版年月日:昭和10

西方寺が出版した同一書名の書籍には略歴が記載されています(昭和11年出版)。

言葉のメモ:

扨又(さてまた)

六ヶ敷(むつかしく)

豈(あに)

豈亦(あにまた)

擯斥(ひんせき) 排斥のこと。

只管(ひたすら)

法爾(ほうに)

夙に(つとに)

擔ぐ(かつぐ)

措く(おく)

茲に(ここに)

悉く(ことごとく)

斯くして(かくして)

亦(また)

容易く(たやすく)

愚癡(愚痴)

亙り(わたり)

無礙(無碍)

革まる(あらたまる) 病状が急に重くなる。

溘然(こうぜん)

苟も(いやしくも)

爾(なんじ)

奈何(いかん)

禀受(ひんじゅ) 意味不明の用語。

顛倒(てんどう) さかさまにすること。

瞋恚(しんい) 怒ること。

須く(すべからく)

眷属(けんぞく) 血のつながりのあるもの。

他力の思想~仏陀から植木等まで (叢書 魂の脱植民地化 4)
他力の思想~仏陀から植木等まで


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