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■日本海軍沿革8(昭和15〜17年)

明治2〜15年  明治16〜25年 明治26〜36年 明治37〜大正2年 大正3〜10年 大正11〜昭和7年 昭和8〜14年 昭和18〜20年
◆昭和15年
1月、海軍の長老米内光政が組閣。英国軍艦、干葉県沖で浅間丸を臨検し、ドイツ人船客21人を引致。右翼の反英運動ふたたび高まる。
4月、海軍、第四艦隊をバラオ集結のため出航させる。
5月、アメリカ艦隊ハワイ常駐を
7月、米内内閣辞職。第二次近衛
内閣成立。海相には吉田善吾が就任する。時に山本五十六は連合艦隊長官として旗艦長門の上にあった。山本が海軍大臣ならば、日独同盟も対英戦争も反対したといわれるが、洋上にタナ上げされ、後事を吉田に託したのだったが、この吉田も内外の神経戦に健康を害し、まもなく退任。変わった及川海相は陸軍と妥協的で、海軍も戦争への道を歩みだすのだ。
8月、海軍初の零戦隊、重慶を空襲。

11月、紀元二干六百年記念特別観艦式を横浜沖で挙行。参加艦艇98艦、527機。これが連合艦隊最後の観艦式となった。おなじころ、海軍は16年度艦隊実行編成実施。出帥準備第一着作業着手、商船23万d徴用開始、野村吉三郎元海軍大将を駐米大使に任命。
12月、空母瑞鳳竣エ。

◆昭和16年
1月、海軍は第十一航空艦隊を編成。野村吉三郎大使、ハル米国務長官と日米交渉開始。
4月、海軍軍令部総長に永野修身大将就任。海軍、第一航空艦隊を編成。
6月、大本営「対南方旛策要綱」決定。
8月、航空母艦翔鶴竣工。
9月、御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。太平洋戦争への第一歩がふみだされる。@自存自衛のため、対米(英蘭)戦争を辞さざること。ほぽ10月下旬までに戦争準備を完了する。A米英に外交手段をつくし、10月上旬になお要求貫徹せざるときは、ただちに開戦と決定した。この会議のあまもなく、近衛は開戦論を押えぬとし首相を辞任。東条が代わった
11月、機密連合艦隊に作戦命令下る。23日海軍機動部隊、極秘裏に単冠湾集結。その陣容は、空襲部隊(南雲中将)、空母赤城・蒼龍・飛龍・瑞鶴・翔鶴。支援部隊三川中将)、戦艦比叡・霧島、重巡利根・筑摩。警戒部隊(大森少将)、軽巡阿武隈、駆逐艦谷風・浜風・浦風・磯風・霞・霰・陽炎・不知火・秋雲。補給部隊(極東丸特務船長)、給油船極束丸・健洋丸・国洋丸・東邦丸・東森丸・日本丸。その他、航路哨戒に今泉大佐の潜水艦3隻と、ミッドウェー航空基地破壊に、小西大佐の駆逐2隻が派遺された。26日、海軍機動部隊、単冠湾を出撃。
12月、ソ連、日ソ中立条約遵守を通告。御前会議、対米英藺戦争を決定。8日、真珠湾奇襲攻撃、同時に対米宣戦布告。午前6時、第一波83機が熟練された技術を見せ飛びたつ。3時間余の攻撃で、米太平洋艦隊に与えた損害…沈没戦艦ウエスト・ヴァージニア、アリゾナ、同カリフォルニア、同オクラホマ、同ネヴァダ。巡洋艦以下6隻。大中破=戦艦メリーランド、同テネシー。巡洋艦以下4隻。残艦ことごとく小破。敵飛行機の破壌は219機。
マレー沖海戦。英2
戦艦撃沈。日本側は海空軍基地航空部隊95機。英国側は新鋭戦艦プリンス・オプ・ウエルズとレパルスの2隻(他に護衡駆逐艦3隻)。決闘1時聞半にして不沈戦艦と誇称された巨艦は撃沈され、世界はこの戦果に驚いた。世界海戦史二千年の間の革命的事件で、その後の海戦では航空兵力が力になるのである。世界最大の戦艦大和呉工廠で竣工。

◆昭和17年
1月、日本軍、マニラを占領。フィリピン侵攻作戦は本間雅晴中将の率いる第十四軍により開始。日本海軍航空部隊はルソン島のクラーク・フィルドとイパの両空軍基地をたたき、B17爆撃機など米空軍を最初の一撃で壊滅させた。・第十四軍の輸送船団は76隻にのぽり、重巡・特設水上機母艦・軽巡各1隻、駆逐艦22隻が援護。第十四軍の電撃作戦で2日、マニラは占領された。セレベス島メナドに海軍落下傘部隊奇襲降下。ラパウルに上陸開始。空母祥鳳竣工。
2月、シンガポールの英軍降伏。ジャワ沖海戦。パリ島沖海戦。水艦によるカリフォルニア沿岸攻撃。スラパヤ沖海戦。当時、南北作戦における海軍の任務は、上陸作戦をまず支援することにあった。近藤中将の率いる主力艦隊の編成は次のとおり。戦艦金剛・榛名、重巡12隻、軽巡7隻、駆逐艦40隻、潜水艦15隻。これらが本隊、仏印部隊、護衛部隊、四つの急襲部隊、空襲部隊、機雷部隊の9隊に分割され、南方攻略をした。スラパヤ沖海戦には、この第五戦隊(重巡那智、羽黒、第二及び第四水雷戦隊)があたった。太平洋戦争の初の艦隊海戦だが、田本海軍の93式強力魚雷が威力を発揮、一挙にオランダ巡洋艦デロイテルとジャワ、英駆逐艦エレクトロラ、蘭駆逐艦コルテネールなどを撃沈させた。敵はこれを魚雷とは信じえず、機雷に触れたものと戦後まで思っていたという。
3月、パタビヤ沖海戦。第七戦隊(重巡熊野、鈴谷、三隈、最上、第五水雷戦隊)は56隻の船団を護送中、米アジア艦隊の旗艦ヒューストンなどに遭遇、砲撃によりこれをことごとく撃沈。重巡の8インチ砲は高い命中率を示した。飛行艇によるハワイ空襲敢行。日本軍、ラングーン、ジャワ、スマトラ島メダン、アンダマンなど次々と占領。
4月、インド洋海戦。海軍はインド洋に進出中の英国艦隊にも一撃を与え、間接的にビルマ作戦を支援することを決定。インド・ベンガル湾を掃討し、ついでコロンボを急襲、脱出した英巡洋艦2隻を撃沈。引きつづきトリンコマリを空襲、基地の空軍・船舶・施設を粉砕して、さらにセイロン東岸を遁走中の空母ハーミスを撃沈した。この攻撃はいずれも命中率80l以上というウソのような記録で、海空軍の高い技術を示した。
このころ、新聞に"美談。がつぎつぎと登場。血の操縦桿を握ったまま戦死した飯沼飛行士、若鷲伸倉中尉の母の涙の陥落の祝辞など「軍神」「軍国の母」が紙面をにぎわした。ただし、大半は大本営のデッチあげ。
5月、大本営、。ミヅドウェー島、アリューシャン列島西部の攻略を命令。コレヒドール鳥の米軍降伏。珊瑚海海戦。8日未明、両軍の索敵機は互いに相手機動部隊を発見。開戦以来最初の艦隊航空戦が展開された。日本側=瑞鶴、翔鶴、米側=レキシントン、ヨークタウン、ともに新鋭空母の太刀打ちだった。が、技術は日本側が圧倒。戦闘で失われた日本側の飛行機38機だが、米側は66機失い、空母レキシントンは撃沈、ヨークタウンも中破した。が、本側は前日に輸送船団の上空護衛を担当していた祥鳳が沈んだが、あとは小艇を失っただけだった。空母隼竣工。空母雲鷹竣竣工。
ミッドウェー海戦。太平洋で第一段作戦が終了し日本が優勢を保っていたとき、米爆撃機の首都空襲を受けて軍部は驚愕。そのため制海水域を拡大する必要に迫られ、ミッドウェー攻略戦を決意した。
その陣容は@空母部隊(南雲忠一中将)、空母=赤城、加賀、蒼龍、飛龍、戦艦=榛名、霧島、重巡=利根、筑摩、軽巡=長良、駆逐艦=16隻。A主力部隊(山本五十六大将)、戦艦=大和、陸奥、長門、伊勢、日向、扶桑、山城、空母=鳳翔、雷装巡=北上、大井、軽巡=川内、潜母=千代田、日進、駆逐艦=12隻。B攻略部隊(近藤信竹中将)、戦艦=金剛、比叡、空母=瑞鳳、重巡=愛宕、鳥海、鈴谷、熊野、最上、三隈、妙高、羽黒、軽巡H那珂、神通、駆逐艦=28隻、空母=千歳、神川丸、輸送船=16隻。Cアリューシャン部隊(細萱戊四郎中将)、この計百余隻の精鋭は、5月27日29日に広島湾を出撃した。が、出発のときから米潜水艦に姿をみられ、また暗号も解読されていた。そのため米太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、ハルゼー機動部隊を南方から呼びもどし万全の態勢で待つことになった。さらに作戦の手ちがいから、日本側は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻をアッというまに失った。6月5日のことである。この海戦でミッドウェー作戦は中止になり、戦局の転機となった。アリューシャンのキスカ鳥占領。アッツ島占領。
7月、空母飛鷹竣工。
8月、米海兵一個師団、ソロモン群島ツラギ及びガダルカナルに上陸。第一次ソロモン海戦。米軍のソロモン群島進出に驚いた軍は、第八艦隊を急派し、ルンガ泊地の米豪連合艦隊に夜討ちをかける。みごと虚をつき大勝利となった。第二次ソロモン海戦、両軍とも空母をー隻ずつ失う。これ以後ソロモン海戦は消耗戦の様相を呈してくる。
9月、潜水艦搭載機、アメリカ西岸オレゴン州を爆撃。アッツ島守備隊キスカに移駐。
10月、サポ島沖夜戦。ガダルカナル島攻防をめぐり南太平洋海戦。アッツ島再占領。
11月、第三次ソロモン海戦。空母沖鷹、龍鳳竣工。ルンガ沖海。               
                昭和18〜20年

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