■日本海軍沿革5(大正3〜10年)
明治2〜15年 明治16〜25年 明治26〜36年 明治37〜大正2年大正11〜昭和7年 昭和8〜14年 昭和15〜17年 昭和18〜20年
■大正3年
1月、島田三郎(同志会)衆議院予算委員会で、シーメンス号事件につき政府攻撃。
2月、東京地方裁判所検事局、ヴィッカース社員ウインダーを召喚(漬職掌件拡大)。ついで海軍大佐沢崎寛猛を同事件で拘禁。呉鎮守府司令長官松本和も家宅捜索をうけ収監される。衆議院、海軍拡張費3000ガ円を削減して予算案可決。
3月、費族院が衆議院修正の予算案から、さらに海軍拡張費4000万円を削減。旅順要港部条例公示(旅順鎮守府は廃止)。山本内閣総辞職。清浦奎吾組閣の大命を拝受。しかし海相候補加藤友三郎、軍艦建造費950万円の支出を入閣条件として提出したため、清浦組閣辞退。
5月、海軍大将山本権兵衛、斎藤実を予備役に編入。海軍軍法会議、シーメンス号事件に有罪判決(松本和海軍中将に懲役3年)。
7月、大正3年度所要軍艦製造費予算652万円公布。
8月、ドイツに宣戦布告。
9月、海軍モリス・ファルマン水上飛行機、青島戦参加(日本最初の実戦使用)。
10月、日本海軍、赤道以北のドイツ領南洋緒島を占領。海軍用靴製造の大塚工場など4工場の職工240人、賃上げで3日間罷業。
11月英国、日本艦隊のダーダネルス海峡派遣を申入れるも、日本拒絶する。
12月、衆議院、軍艦建造費を可決。山本権兵衡の予備役編入については東郷平八郎、井上良馨両元帥をはじめ、政敵であった加藤高明すら反対したという。しかし、時の海相八代六郎大将は「黙想すること一週間」ののち、自己の所信を貫いたが、後年、当時をふりかえって「自分はこれまで東郷元帥を神様のように思ってきたが、元帥もやっぱり人間であった」述懐、嘆息したといわれる。
■大正4年
6月、衆議院、軍艦新造費の追加予算案を可決“海軍造兵廠、1.5bの測距儀を製作。
11月、靖国丸、八阪丸など相次いでドイツ海軍に撃沈される。
■大正5年
1月、中国動乱にそなえ、第三艦隊を上海に派遺。
2月、英外相がインド洋、シンガポール方面への日本軍艦派遺を要請(3月末に8隻をシンガポール方面に派遣)。
3月、海軍航空隊令公示。
4月・横須賀海軍航空隊設置。青島攻略戦にファルマン機4機が参加して、その偵察能カは十分認められたが、攻撃能力についてはさっばりであったといわれる。しかし、この飛行機の未来来を洞察して、戦艦無用論を喝えた者があり「金剛級戦艦1隻をもって3000機の飛行機製作し得べく、この3000機に魚雷を携行せしめれば、その力はるかに金剛に勝れり」と論じたという。
■大正6年
1月、英国が日本艦隊の地中海派遣を要請。
2月、日本艦隊地中海へ出発。
7月、大正6年度追加予算成立。(大正6〜12年にわたる八四艦隊計画を含む)。
11月、八八艦隊案発表(戦艦8、巡洋艦8の構想)。このころ地中海派遺の第二特務艦隊活躍。ただし実際はテイのいい傭兵艦隊であったらしい。マルタ軍港を基地として、主にマルセイユ…マルタ・・・アレキサンドリア間、タラント・・・アレキサンドリア間の船団護衛がその任務であった。艦隊の一ヵ月の行動日数は約26日、航程6000カイリにおよび、ドイツ潜水艦と戦闘を交えた回数36回、うち13回は有効な攻撃を加えたと報告されている。日本艦隊の損害は、駆逐艦2隻損傷、戦病死者78人であった。
■大正7年
1月、居留民保護を理由に、ウラジオストクに軍艦2隻を派遣。
3月、大正7年度予算成立(八六艦隊編成のため6年間に2億5000万円追加)。
4月、日英陸戦隊ウラジオストクに上陸開始。この年、海軍造兵廠光学ガラスの製造に成功。同じく飛行隊5隊増設。
■大正9年
3月、尼港事件起こる。
11月、呉海軍工廠超弩級戦艦長門を竣工(16インチ砲搭載の最初。3万8000d)。
■大正10年
3月、海軍燃料廠令公布(山口県徳山の海軍煉炭製造所を改称、拡大)。
7月、米国が日英仏伊に軍備制限・太平洋、極東問題討議のためワシントン会議の開催を非公式に提議。
8月、ワシントン会議全権に加藤友三郎(海相)、徳川家達、幣原喜重郎を任命。
10月、原敬首相と加藤海相渡米中、海相臨時事務管理に就任(陸軍は反対)。
11月、川崎造船所神戸工場で戦艦加賀進水(16インチ砲10門、3万9900d)。ただしワシントン条約により大正12年建造を中止し、航空母艦に切り替える。世界最初の空母鳳翔となる(大正11年12月竣工)12月、ワシントン会議で加藤全権、太平洋防備の現状維持を提案。佐世保航空隊新設。
大正11〜昭和7年
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