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■日本海軍沿革2(明治16〜25年)         

 明治2〜15 明治26〜36年 明治37〜大正2年 大正3年〜 10年 大正11〜昭和7年 昭和8〜14年 昭和15〜17年 昭和18〜20年               
●明治16年
海軍恩給令が定められ、海軍退隠令を廃止。海軍志願兵徴募規則も制定。
この年に、軍艦筑紫1350dが英国で竣工し、巡洋艦の用語が生まれた。

●明治17年
2月、海軍軍令機関独立。
10月になり、艦隊編成令が定められ、艦隊を大、中、小の3種に分け、2艦隊以上をあわせて連合艦隊を編成するものとされた。
12月、東海鎮守府が横須賀に移され、横須賀鎮守府と改称された。
この年、海防艦海門1358dが横須賀造船所にて竣工。しかし、艦隊乗員にカッケ患者が急増し、海軍に務局が調査したところ。「各自の賄い自由に任せたる結果、兵員は給金の大部分を貯蓄し、著しく粗食に陥りしこと」にあると結論、以後兵員の食糧は現品で給付することとなった。
なお、18年以降米麦混用食の制が定められ、後には、パン食となる。

●明治18年
4月、国防会議条例が定められる。皇族を議長に海陸将官を議員とし、海陸軍共同で全国防御線計画などを審議するものとされた。
この年の暮れ、太政官制を廃止、内閣制度が確立し、海軍卿が海軍大臣となった。

●明治19年
1月、海軍用石炭倉庫建設のため、朝鮮政府と絶影島地所借入契約書が調印され,朝鮮半島への足掛かりとなった。
3月、参謀本部条例が改正され、海陸軍の統合的軍令機関として海軍部、陸軍部をおくこととなった。
4月、海軍条例公布。これは「軍令は参謀本部が参画し天皇親裁、一方軍政は海軍大臣の管掌となり、全国を5海軍区に分け、それぞれに鎮守府をおく」というものであった。
6月、海軍公債証書条例公布。
同じころ、浪速艦3650d、高千穂3650d英国にて竣工。浪速艦引き取りに、伊藤祐亨、山本権兵衛があたる。
12月、フランスで建造し、日本へ回航中の巡洋艦畝傍3650d、シンガポール出航後、行方不明となり、沈没と推定された。ほぼ同じ大きさの、浪速及び高千穂は主砲として26a方2門の装備に対し、畝傍は26a砲を4門装備し、東シナ海の暴風雨を乗り切れず,巨砲主義の悲劇と言える。

●明治20年
6月、軍事参議官条例公布。これは海軍大臣、陸軍大臣、参謀本部長、監事で構成される天皇直属の軍事審議機関について定めたもの。
12月、海陸軍士官は試験を要せずに、文官に任用しうる旨公布された。

●明治21年
5月、海軍参謀本部条例が公布。従来の参謀本部を廃止し、皇族、大・中将より任命の参軍を全軍の参謀長とし、その下に海陸軍両参謀本部をおくというものである。
8月、海軍兵学校江田島に移転する。
12月、海軍刑法が改正され、利敵行為、機密漏洩などの処罰が強化され、海陸軍将校分限令も公布される。

●明治22年
1月、石川島造船所設立。
2月、大日本帝国憲法発布。海軍治罪法公布。
3月、海軍参謀本部条例を廃止し、海軍参謀部条例公布。
4月、海軍技術会議条例及び海軍造兵廠官制を公布。
6月、石川島造船所、海軍造兵廠の職工等、同盟進工組を結成。
7月、呉(2海軍区)、佐世保(3海軍区)の両鎮守府開設、艦隊条例が公布された。これによる常備艦隊の編成は(司令長官海軍少将井上良馨、参謀海軍大尉斎藤実)、旗艦高千穂、挟桑、大和、葛城、武蔵、浪速の6隻。その他の艦隻で演習艦隊が編成されている。
12月にはいって内閣官制公布され、軍機軍令事項の上奏は海陸軍大臣より首相に報告と規定。のち帷幄上奏権の根拠とされたものである。

●明治23年
3月、海軍省官制改正公布。
4月、明治天皇統監によるわが国最初の海陸軍合同大演習実施。このあと神戸沖にて海軍観艦式が挙行。(参加艦隻19、総排水量3万2328d)。6月、軍人恩給法公布。
8月、海陸軍出帥準傭に属する物には、会計検査院法を適用しない旨公布。
9月、樺山海相、海軍力を現有および建造中の5万dから12万dに拡張する案を閣議に提出したが、財政上の理由で一部のみ議会で承認された。

●明治24年

ときの海相樺山資紀は、海軍省経費削減に反対し「蛮勇演説」を行なった。「今日の国家の安寧を保ち、四千万生霊の安全を保ってきたということは、いったいだれの功績であるか。すべて薩長政府のお蔭ではないか」というものであった。
またこの年の夏には、清国北洋艦隊6隻が品川湾に入港。
本海軍の状との差をまざまざと見せつけ、わが朝野に大ショックを与えた。

●明治25年
3月、小野浜造船所(呉鎮守府所管、兵庫県)で軍艦大島を竣工。わが国初の3段膨張蒸気機関を装備した艦。
7月に入って、横須賀海軍造兵廠職工5150人、就業規則に反対して同盟罷業を行なった。
11月には、軍艦千島、英艦ラヴェンナ号と愛媛県深江沖にて衝突沈。乗組員70人余溺死。

              明治26〜36年



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