■日本海軍沿革3(明治26〜36年)明治2〜15年 明治16〜25年 明治37〜大正2年 大正3〜 10年 大正11〜昭和7年 昭和8〜14年 昭和15〜17年 昭和18〜20年●明治26年 1月、衆議院、軍艦建造費否決のち修正可決。 2月、軍艦建造費補充のため官吏俸給1割納付および内廷費下賜の勅下る5月、海軍軍令部条例が公布された。天皇に直隷する海軍軍令部長をおき、軍令事項を掌握するというものであった. ついで、海軍省官制も改正公布された。海軍大臣の権隈を海軍軍政に限り、海軍参謀部を廃止し、軍令は海軍軍令部へ移すことにしたものであった。 また、戦時大本営条令も公布。「戦時の最高統帥部であり、海陸大作戦の計画は参謀総長の任とする」という規定であった。 9月、枢密院議長山県有朋、海軍大拡張必須との意見書提出。 11月、在留日本人保護のため軍艦浪速をハワイに派遺。 このころ海軍省主事大佐山本権兵衛、海相西郷従道のパックアヅプのもと、海軍内の大改革にのり出す。山本は、海軍兵学校出身の若手を第一線にそろえることを主眼に、将官8、佐、尉官89、計97人にのぽる人員整理を断行した。このとき、海相西郷従道は「これほど大々的な整理をしたら、一朝有事の際に困りはしないか」と質問したが、山本は平然と「いや、このリストにあるものは無為無能、さもなくば病弱者ゆえ海軍にあるとかえって足手まといになる者ぱかりです。また新教育をうけた若手がどんどん育っていますから、ご心配は無用に願います」と答えたといわれる。ちなみに東郷平八郎もリストの末尾にのっていたが「この男はもう少し模様をみましょうか」ということになり、横須賀に係留中の予備艦浪速の艦長に補された。 また、海軍の軍令系統を陸軍の参謀本部と同格に昇格させようとする軍令部独立案は海軍の宿願であった。軍令は傭兵、作戦に関する内容の命令をさす(明治憲法第十一条)。陸軍の軍政・軍令の二元主義に対し、海軍は英国の海軍軍政にならって一元主義であった。陸相大山巌の強硬な反対に「敢て陸軍を凌駕せんとする意はないが、海軍は軍の性質に鑑みて別に見るところあり」として遂に天皇の裁可を得る。 ●明治27年 7月、常傭艦隊と西海艦隊をあわせて違含艦隊を編成、連合艦隊司令長官は伊東祐亨、ちなみに東郷平八邸(大佐)は第一遊撃隊浪速艦艦長であった。同艦隊は豊島沖で清国軍艦を攻撃(豊島沖海戦)、浪速、英国船高陞号を撃沈している。 8月に入って、清国に宣戦布告(日清戦争)。 9月、連合艦隊、清国北洋艦隊主力遭遇5艦を撃沈(黄海海戦)、『勇敢なる水兵』はこの海戦のときのことである。豊島沖海戦は宣戦布告に先立つこと7日。日露戦争でも宣戦布告2日前に仁川沖海戦の第一弾が発射されている。真珠湾の奇襲後、米海軍の高官に「日清、日露の戦史をもっと研究するぺきであったしとこぼしたといわれるが、こうした奇襲作戦は日本海軍のお家芸であった。 ●明治28年 2月、水雷艇による威海衛夜襲(第二次まで)、清国北洋艦隊旗艦定遠を擱坐させる。この損害により、清国北洋艦隊は連合艦隊に降伏した(北洋艦隊司令長官丁汝昌自殺)。 7月、自由党代議士総会、海軍拡張、遼東半島還付やむなしと決議する。三国干渉のくやしさを忘れないために、ひげをそり落としたものの、また遂に生やしたなどいろいろの工夫をこらしたそうである。「臥薪嘗胆」が流行語となったのもこのときのことであった。 ●明治29年 ●明治30年 |