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■日本海軍沿革6(大正11〜昭和7年)

明治2〜15年  明治16〜25年 明治26〜36年 明治37〜大正2年 大正3〜10年 昭和8〜14年 昭和15〜17年   昭和18〜20年                  
■大正11年
2月、ワシントン会議で海軍軍備制限条約調印。同軍縮条約に基づき、戦艦土佐など9隻に建造中止命令。
3月、衆議院で国民党提出の海陸軍大臣の武官制廃止建議案を修正可決。
11月、旅順防備隊令公示(旅順要港部は廃止)。造船業界、海軍軍縮実施により大打撃をうけ、不況に沈む。同月霞ケ浦航空隊新設。
12月、大村航空隊開設。海軍軍備制限協定大要。この年に、日本海軍が発表した海軍軍備制限計画は@主戦艦の比率は五・五・三なる事 A太平洋上の砲塁海軍根拠地は香港を含み現状縫持。但し布、新西蘭、豪州、日本本土、加奈陀及び合衆国の沿岸は自由に防傭を施し得る事 B日本は、「陸奥」を残し「摂津」を廃棄する事 C米国はコロラド、ワシントンを残し、デラウェア、ノース、ダコタを廃棄する事 D英国に新たに三万五千噸の戦艦二隻を建造しエリン、キング.ジョージ、センチュリオン、エジャックスを廃棄する事 E建艦休暇は十年とする事 F右の結果主戦艦め隻数は日本十英国二十米国十八となる、といものだった。

■大正12年
3月、5海軍区を3海軍区とし、舞鶴、鎮海両軍港を要港とする旨公布。
7月、佐世保海軍工廠で軽巡洋艦夕張竣工(3141トンで5000級の武装)。
8月、山本権兵衛第二次内閣組閣
9月、関東大震災。呉より物資も軍船ではこぶ。

■大正13年
2月、第一期廃艦リストを発表。
4月、在郷海陸軍将校が恢弘会を結成。在郷海軍将官・洋々会を結成。
5月、海軍省に軍事普及委員会設置。山本五十六(大佐)霞ケ浦航空隊副長に任命され、勘による航空の否定。

■大正14年
5月、青島の在華紡罷業に関し、旅順より駆逐艦2隻を派遣。
6月、海軍航空隊が一三式艦上攻撃機で霞ケ浦ー旭川間1185`bを無着陸飛行。
12月、海軍航空研究部設計の全金属機KB型飛行艇、試験飛行を行なう。

■大正15年
3月、三菱造船長崎造般所、重巡洋艦古鷹を竣工(7100トン、20a6門、平賀譲設計)。
4月、海軍軍縮実施に伴う損害補償法公布(総額2000万円、国債で交付)。
11月、横須賀軍港で、日本海海戦の旗艦三笠の保存工事完成し、記念式挙行。

◆昭和2年
月、中国革命軍と大衆デモが、漢口のイギリス租界に侵入。日本の砲艦鳥羽出動。さらに第二四駆逐隊も出動を準傭。英大使、上海防衛のため共同出兵を提議したが、幣原外相は拒否する。
2月、政府は米国にジュネープ会議参加を回答。
3月、中国国民革命軍の南京入城にさいし、日本領事館に暴行を受け、海軍軍人も無低抗で武装を解除される(南京事件)。この事件のため、揚子江下関に停泊中の米・英艦が南京を砲撃。日本の海軍第一艦隊の一部も出動し、陸戦隊も上陸して北代軍と交戦。この事件は領事館の武官荒木海軍大尉が責任を負って自決するという騒ぎにまでなった。
4月、漢口で中国人と陸戦隊衝(漢口事件)。中国各地で排日運動起こり、邦人引揚げ。海軍航空本部令公布。
6月、ジュネープで日・英・米三国軍縮会議開会。首席全権斎藤実。
7月、ジュネープ軍縮会議決裂。
8月、連合艦隊夜間演習で軽巡洋艦神通、那珂、駆逐艦蕨、葦が衝突。蕨は沈没して死者119人。神通の艦長水城大佐は引責自刃した。
10月,海軍特別大演習、この年、海軍は艦上戦闘機として、中島飛行機研究所のダロスター・ガンベット改良型を採用しており、この演習にその雄姿をみせていた。
12月、中国共産党広東市に決起、そのため目本陸戦隊上陸する。

◆昭和3年

2月、海軍青年将校、天皇を奉じた国家改造をめざし王帥会を結成
3月、航空母艦加賀完成。ワシントン条約により未成戦艦を改造したもの。
11月、日本海軍初の1万d級重巡洋艦那智竣工。
12月、横浜沖で大礼特別観艦式挙行。この演習には186隻の艦艇、130機の飛行機、2隻の飛行船が参加し、日本における最大の観艦式となった。またこの年、赤城、鳳翔をもって、初の洋上航空戦隊が編成され、連合艦隊に編入されていたので、司今官高橋三吉少将のもと、この航空戦隊も気をはいていた。

◆昭和4年
4月、空母赤城搭載機、済州島沖に編隊のまま墜落。渡辺正弘大尉ら4人が殉職した。

◆昭和5年
1月、ロンドン海軍軍縮会議開会。若槻首相、財都海相ら出席。
4月、ロンドン海軍軍縮条約に調印。この会議は英首相マクドナルドの提唱で開かれ、主カ艦の比率はワシントン条約を守ることとし、補助艦艇はその比率を英・米は各10、日は6.97で、5カ年間制限となった。しかし、この条約には軍部や枢密院等に反対が起こり、軟弱外交との非難が沸騰。海軍軍令部の承認なしに政府が条約に調印したとして、統帥権の干犯問題にまで発展し、若襯から代わった浜口首相が、のちに右翼の一青年に暗殺される事件まで起こったのである。
6月、海軍少年飛行兵第一期生入(予科練のはじまり)。
10月、ロンドン軍縮条約批准。事参議官の岡田啓介や海軍次官梨勝之進、侍従長の鈴木貫太郎海軍出身の和平論者が政府に協力、ついに批准までこぎつけが、このシコリはあとあとまで海軍と右翼や陸軍との抗争を呼遠因になった。

◆昭和6年
3月、陸軍桜会の橋本欣五郎らが、軍部内閣実現のクーデターを企図するも未遂(三月尊件)。軍部の青年将校は徐々に台頭し、十月事件、さらに翌年の五・一五事件へとつづく。最初は陵軍の将校が中心だったが、五・一五の犬養首相暗殺には、海軍の青年将校が重要な役をはたした。
4月、海軍軍縮で、海軍工廠およぴ工作部の職工大整理。
9月、.満州事変はじまる。
12月、海軍参謀総長に閑院宮載仁
親王就任。

◆昭和7年
1月、上海で海軍陸戦隊、中国第一九路軍と交戦開始(上海事変)。満州事変で国民政府は無低抗方針をとったが、上海の労働者は激し抗日運動を展開。日本軍はこれを断圧、上海占領を企てた。この事変で日米の対立がきわだってきた。
2月、野村吉三郎中将下の第三艦隊を上海に派遣。陸軍とともに総攻撃を開始。蘇州上空で初の日中空中戦。小谷海軍大尉戦死。翌月停戦命令。
5月、古賀清志海軍中尉ら海軍将校と陸軍士官学校生徒らが、首相官邸などを襲う。海軍出身の斎藤実、拳国一致内閣をつくる。
               昭和8〜14年


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