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■日本海軍沿革4(明治37〜大正2年)

明治2〜15年 明治16〜25年 明治26〜36年 大正3〜10年 大正11〜昭和7年 昭和8〜14年 昭和15〜17年  昭和18〜20年              
●明治37年
2月、連合艦隊は旅順港外の露艦隊を攻撃。仁川沖では露軍艦2隻を撃沈。
同月第一次旅順港閉塞作戦実施。
3月、第二次旅順港閉塞作戦実施、広瀬少佐(戦死後中佐)戦死。
4月、軍隊輸送中の金州丸、元山沖でウラジオストク艦隊に撃沈される。ついで対馬海峡で陸軍運送船常陸丸、和泉丸も撃沈される。
8月、連合艦隊は黄海沖にて露艦隊と海戦。主カを再ぴ旅順港内に敗走させる。露軍の戦艦など7隻を膠州湾及ぴ上海、サィゴンにて奪捕する(黄海海戦)。
ついで第
二艦隊も蔚山沖にてウラジオストク艦隊と海戦。1隻を撃沈、2隻を撃破する(蔚山沖海戦)。従軍画家東城鉦太郎『三笠臆上の東郷司令長官』を描く。

●明治38年
5月、連合艦隊が日本海でロシアのパルチック艦隊を破る(日本海戦)。7月、露国降伏。
8月、軍用船金城丸が大分県姫島沖にて、英汽船パラロング号と衝突沈没。満州よりの帰還兵小堀少佐以下155人死亡。
9月、軍艦三笠、佐世保港内で火災により沈没。死者約300人。
10月、横須賀海軍工廠で組立てた米国製ホーランド型潜水艦5隻、艦籍に入る。東京湾上で海軍凱旋式による大観艦式挙行。参加艦艇200隻。
12月、大湊を要港とする旨公布。
海軍平塚火薬製造所、テンテリュー式接触法により硫酸を製造。

●明治39年
1月、「5月27日」(日本海海戦
)を海軍記念目とする。
2月、石川島造船所職工750人賃上げ要求で同盟罷業。
8月、呉海軍工廠の造兵部職工300人、戦時手当の廃止に反対してさわぐ。造機、造船部に拡大し月末に解決。
9月、旅順鎮守府条例公布。

●明治40年
月、呉海軍工廠、装甲巡洋艦筑を完成。国産12インチ砲を装備(13750d、20.5ノット、火砲技術自立の起点)。
10月、防備隊条例公示8鎮海湾、永興湾に防備隊をおく)。

●明治41年
4月、改正海軍刑法公布。
10月、東航中の米太平洋艦隊、日本の招待により横浜に来航。
米艦隊の招待を決定するまで、複雑な日米関係への微妙な配慮が含まれていたといわれる。しかし、アリカ大統領セオドール.ルーズベルトは「日本人は私が日本人に恐れを抱いていると思っているようだから、ひとつ私の実力を示してやろう」と考えていたのだという。とくに、米陸軍のH・リー将軍は『日米戦争』を著わして排日熱に火をつけた格好となった。

のような日米国交の危機感を背景に、接待役の日本海軍の気のくばり方は大変なものであった。小学校生徒にまでアメリカ国歌をおぽえさせ、合唱させたという。

●明治42年
4月、水雷団条例公示(各軍港に水雷団をおく)。
11月、呉海軍工廠、装甲巡洋艦伊吹を完成(1万4636トン、2万4000馬力の力ーチスタービンを装備。22・5ノット)。
この年か
ら45年にかけて、1万トン、2万トンクラスの大艦が続々と竣工したが、イギリスではドレッドノート型・オライオン型軍艦が建造されており、日本海軍が苦心して造りあげた新鋭艦も、旧式にすぎなくなってしまった。
以後大艦巨砲主義全盛となる。

●明治43年
4月、広島湾で佐久間艇長ら15人乗組みの第六号潜水艇、潜航せるまま浮上せず(死の寸前まで艇内の状況を克明につづった同艇長の遺書は、軍人の鏡として称賛され)。
12月・日韓併合にともない対馬.朝鮮沿岸を第5海軍区とし、鎮海を軍港、永興を要港とする旨公布。

●明治44年
9月、駆逐艦海風に艦本式重油専焼ポイラ・混焼ポイラを装備。

●明治45年(犬正元年)
3月、横須賀海軍工廠、最初の弩級戦艦河内を完成(2万823トン12インチ砲12門、20ノット)。
7月、摂津竣工(2万1500トン12インチ砲12門、20ノット)。
明治天
皇崩御。

12月、海相斎藤実が海軍拡充計画の延期を非として、留任を拒絶ようとしたが、天皇より留任の勅語出る。

■大正2年
2月、山本権兵衛、桂首相に辞職勧告。
山本内閣成立(初の海軍出身内閣総理大臣)。

8月・英国のヴィッカース杜日本海軍最後の外国製主力艦金剛を竣工(最初の14インチ砲搭載、2万7500トン)
           
           大正3〜10年



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