(この物語はフィクションです。)
文明開花の足音も此地には遠く、まだ江戸時代の気風が強く残る明治初めの頃のことです。
私の曾祖父は、当地で渡船業を営む傍ら、漁業にも勤しんでおりました。
伝え聞いたところによれば、ある年の四月も半ばを過ぎた頃であったそうです。日和もよく、波も穏やかであったため、晩飯のおかずにでもと思い立ち、舟を出しました。
空には白雲が棚引き、遠くには浄土寺の朱の御堂が霞む、まことに穏やかな光景が拡がっておりました。高く鳶が啼く声を背に受け、二度、三度と網を打つうち、目当ての桜鯛の他にも隣近所に配れるぐらいの小魚が獲れ、これを最後にと思って打った網を引き揚げようとした時のことです。
ググっとした、今までとは違う手応えを感じたのだそうです。何か大物でも掛かったのかと思い、早る気持ちを抑えながら網を手繰り寄せると、白くぼんやりと光るものが浮かび上がってきます。
訝しく思いつつも、渾身の力を込めて引き揚げてみると、海藻に覆われてはいるものの石の塊りのようでした。仔細に見ると、どうも仏像のようであります。しかし本当にそうであれば、厄介なことにもなりかねないと、海に戻そうかどうか、雑念がふと胸をよぎったそうです。
兎やせん、角やせん。と思う間もなく、一閃の雷光とともに風が吹き荒れて舟は激しく傾ぎ、危うく海へ転落しそうになりました。空はにわかに掻き曇り、雨さえ降って嵐の様子を見せています。
もしや仏罰かも知れぬと恐懼して、心に念仏を唱えながら、急ぎ兼吉の渡し場まで漕ぎ帰ったそうですが、わずか百尋余の距離とはいえ、波は激しく泡立って、まことに萬里の波濤を乗り越える想いであったそうです。
仏像と思われる石塊は、近隣に頼んで陸に引き揚げてはみたものの、これが吉事であるのか、はたまた凶事であるのか、その夜は悶々として一睡もできなかったそうです。
まだ夜も明け切らぬうち、朝飯もそこそこに地元の古老を訪ね歩きましたが、「長く生きているが、このような不可思議な出来事は初めてである」と、皆一様に首を捻るばかりです。老幼男女ともに集まれば、終いには郡の役人までが出張る騒ぎになりました。
「このままでは埒が明かぬ、餅は餅屋であるから住職に知恵を借りるのがよかろう」との声に励まされ、寺に人を走らせることにしました。
何事かならんと駆け付けた住職は、ひと目見るなり、
「これは有り難い文殊菩薩像である。因深情合して御守りすべし。本来は知恵の仏様であるが、事の経緯を鑑みれば、航行安全の御本尊とするのがよかろう。努々粗略に扱ってはならぬ」
と説き諭されれば、一同は大いに安堵して、早速岩清水にて仏像を洗い清めるとともに、石の台座を設えて安置することに衆議一決しました。
この椿事は忽ちにして遠近に轟き、島内はおろか、奥の御調村からも御参りに訪れる人があり、門前市をなす賑わいであったそうです。参詣の便宜も考えて、暫くは戸外に安置されていましたが、日夜雨風に打たれるのもお寂しかろうとのことで、現在の地に御堂を建立し今日に至っています。
御陰様にて地元有志の方々に手篤く御守り戴き、近年では試験合格のみならず認知症防止にも霊験あらたかな仏様として信仰を集めており、感謝の念に堪えません。
拠るべき島民の心魂を後世に永く伝えるべく、此処に文殊菩薩堂の由来を記すことに致しました。
小歌島運航代表拝
平成二十六年五月吉日
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