大阪府立北千里高等学校天文部17年のあゆみ


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1979年4月天文研究同好会として発足(創立者 2期生市場昭彦)顧問として地学担当の山田健教諭、物理担当の薮原典子教諭を迎える。発足当時の人数は4名。天文に関する勉強会を毎週開くなど、真面目な雰囲気だった。文化祭にもポスター発表などの展示を行う。
1980年4月3期生入学。天文部にも4名(男1名、女3名)の新入部員が入部。
1980年8月初めての合宿を長野県の『星の家』で開催。今だから書けるが、勉強会などをやってた割には、極軸望遠鏡の使い方がわからず、オーナーから『君ら本当に天文部?』と、呆れられた。飲み過ぎで吐血した部員が出たという噂が伝わっている。
1980年9月合宿での醜態に呆れたのか、1年女子部員は全員退部。活動が低迷する。
1981年4月4期生入学。新入部員は10名(男子4名、女子6名、うち3名退部)。活動は相変わらず低迷していたが、草創期のクラブを盛り上げていこうという機運が1年生の間から高まり、やがて太陽観測などが始まる。都合のいいことに、夏休み中には部分日食が見られた。夏合宿は滋賀県のマキノ町で行う。また、観測会も開くようになり主に茨木市北部の泉原(いずはら)で行っていた。
1982年2月天文部から初の卒業生巣立つ。
1982年4月5期生入学。新入部員は6名(男子2名、女子4名、うち1名退部、後に2名が入部)。理解のある先生方に恵まれ、顧問教諭の車を連ねて観測会に出かけるなど、顧問と部員の親交が深まった年であった。合宿は大阪府・能勢で行った。
1982年9月文化祭で初めてプラネタリウムを上映。ドームは塩ビパイプと布で作った1/4球タイプのものを横から見てもらった。半球ドームを作れなかったので、窮余の策であったが、今から考えるとブームになっている一方向座席のはしりであったのかも知れない。
1982年10月機関誌『てんもんぶ』創刊。学内向けの発行であったが、外部の天文団体(当時大阪南部で活動していた『くりくりぼう』など)との交流の手段として、機関誌を贈呈していた。この機関誌の発行がやることのない昼間の活動意識を高めることになった。
1983年4月6期生入学。新入部員は8名(男子4名、女子4名)。順調に部員は増えていたものの、急速に活動は雑談クラブと化していく。前年までコンスタントにやっていた太陽観測も途切れがちになる。
1983年5月IRAS・アラキ・オルコック彗星大接近。1年生部員は学校主催の宿泊校外学習と重なり、神鍋高原で勇姿と対面。なお、天文部として開いた観望会では、双眼鏡の視野の中に映ったピントのぼけた木の葉を彗星と勘違いし『すごい!核が分裂してる』と大騒ぎだった。日周運動をしていないと気づくまで5分かかる。なお、この観測会以来、合宿以外では千里北公園を利用することが慣例となり、『星達の見える丘』という愛称まで付けられた。
1983年8月神鍋高原で夏合宿。日中から宵のうちにかけて夕立に見舞われたが、夜明けにかけては晴天に恵まれた。
1983年9月文化祭に参加。プラネタリウムの星数を増やす。他に日時計、大望遠鏡の模型等を展示。
1983年12月機関誌を『アストロ用心棒』と改名。『美しい星空を守る用心棒』という解釈が後についたが、実際には辞書を適当にめくってたまたま目についた言葉を選んだというものである。
1984年4月7期生入学。新入部員は4名(男子3名、女子1名 後に女子2名が入部)。
1984年6月クラブのお金が盗まれる。犯人は結局不明なまま、迷宮入りに。このことをきっかけに低迷していた活動がさらに雰囲気まで悪化させた。夏の合宿は最悪のムードの中で、顧問教諭に『ここの星空はこれまでの合宿で最高やったけど、君らの態度は最低や!』と評される。
1984年9月文化祭で初の半球ドームに挑戦。しかし、時間が足りず、文化祭1日目に公開できない事態になる。
1985年2月この年の卒業式から卒業生をものすごい量の紙吹雪で送り出すのが慣例になり、この後10年間続けられた。大暴れするので、毎年一人は鼻血などの怪我をしていた。
1985年3月女子部員を観測会から帰宅させるのが遅れ、保護者が激怒。(この観測会が学校非公認だったから、さらに問題が大きくなった。)翌日幹部3名が女子部員の保護者のもとへ謝罪に出向き、許された上、酒まで振る舞われ、上機嫌で帰宅した。
1985年4月8期生入学。新入部員は12名(男子7名、女子5名、男子1名、女子2名が後に退部)。この結果、クラブの雰囲気は急速に盛り上がり“第2次黄金時代”といわれた。学校に内緒の“自主観望会”が頻繁に開かれた。
1985年8月和歌山県・生石高原で合宿。
1986年2月6期生卒業。卒業してからも、しばらくの間、頻繁にクラブに顔を出し、『ええがけんに引退してくれ』という批判もあった。
1986年3月OB・OG会正式に発足。2〜6期生まで28名でスタートする。会誌『天文部通信』は以後4人の編集長を経て、現在51号まで発行されている。
1986年4月9期生入学。新入部員は4名(男子1名、女子3名、男子2名が後に入部、女子1名が退部)。前年度の盛り上がりが3年生の主導ということもあって、活動は次第に衰退する。
1986年8月合宿は兵庫県・生野高原で行う。OB・OG会の発足と相まって、卒業生の参加が大幅に増加。しかしこの頃から、クラブを主導する8期生と卒業生の中心となっていた6期生の間でしばしば卒業生の部活への干渉にからんだトラブルがあった。
1987年4月10期生入学(男子1名、女子2名、男子1名は後に退部)。入部者数の少なさから、いよいよ廃部が懸念される。
1987年10月文化祭後の落ち込みが激しく、部長一人で活動する日が続く。
1987年12月現役生全員参加で、奈良県・三本松でのブラッドフィールド彗星を目的として、遠征徹夜観望会が開かれる。この観望会が部員の結束を強める結果になり、これ以降再び盛り上がる兆しをみせる。
1987年12月大晦日に卒業生が集まって、年越しドライブを行うイベントがこの年から始まる。この年はプレアデス食を観測した後、六甲山にドライブに行った。慣れない山道の運転に縁石に乗り上げタイヤをパンクさせる者もいたが、そろってポートアイランドで初日の出を見た。この後、瀬戸大橋や氷点下10度の青山高原などに毎年出向き、最近ではメンバーも大人になっておとなしくはなったが、毎年大晦日には初詣ドライブを行っている。
1988年4月11期生入学(男子4名、女子4名)個性の強い新入部員がそろい、急速な盛り上がりを見せた。また、新2年生が女子だけで、単独での部長就任を渋ったため、2人で部長を務めることになった。結果として、この2人はまれにみるリーダーシップを発揮した。
1988年8月合宿はOB・OG会と合同で和歌山県・中辺路町で行う。天気はすぐれなかったが(ペルセウス群の極大日だったが、1日しかも夜半前に晴れただけだった。)、肝だめしや、増水した川での危険な水遊び(下流では釣り客が流されて亡くなっていた)など存分に楽しんだ。現役生が帰った後卒業生はもう一泊したが、その夜の天気も悪く、貸し切りのバンガローの中で卒業生は大酒乱に陥った。
1988年10月この年の文化祭の後、プラネタリウムのエアドームを作る計画がスタートする。直径5mのエアドームの制作が、卒業生の資金援助と現役生の肉体労働で始まった。
1989年4月12期生入学(男子2名、女子6名)この年の新入部員も個性的で、1、2年生共に8人という人数的にバランスのとれた年になった。夏合宿は滋賀県の永源寺で行う。この夏、卒業生は別に奈良県大塔村で合宿を開いたため、現役生の合宿に参加する卒業生は減ったが、現役生の合宿は女性の方が多いということもあって、大変賑やかな合宿になった。なお、OB・OG会の合宿は相変わらず増水した大雨の後の増水した十津川でむりやり泳いだり、泳げる場所を探しにいって崖から転落した奴がいたり(幸い軽傷)で行き過ぎが多かった。
1989年7月OB・OG会、『顧問の先生を囲む会』を開催。これ以後、毎年30名前後が集まり会の恒例行事となった。
1989年9月文化祭のプラネタリウムでエアドームが登場。顧問の先生の名前から『ホワイトドームたけし君』と命名した。これ以後文化祭や新入生歓迎会で大活躍することになる。設置から上映開始までわずか5分でできるようになった。また、観客用の投影の後、部員全員でこの中に寝転がって、満天のプラネタリウムの星空の下、雑談をするのが、部員の楽しみの一つになった。
1989年9月現役生が交通事故に遭い、全治三ヶ月の重傷を負う。これ以降、社会人になっていない卒業生が現役生を車に乗せることを禁止する『交通非常事態宣言』が出た。(ちなみに現役生の交通事故と卒業生とは全く無関係である。現役生を少しでも交通事故の危険から守るための『宣言』であった。)破った場合の罰則は車を没収という厳しいものだった。
1990年2月このころからカラオケボックスが高校生の間でも一般的になり、卒業式後の卒業生を送る会では世相を反映してカラオケ大会になった。
1990年4月13期生入学(最終的に男子6名、女子8名ただし、最初の頃は20名ほどいて正確な人数は把握していない)爆発的な大人数が入部する。恐らく文化系では最大。体育系を含めても5本の指に入った。夏合宿は兵庫県・神鍋高原で行った。参加人数は卒業生を含め30人程になり、天文部史上最大規模の合宿になった。
1990年9月卒業生で初めての結婚。(公になったのはこの時が初めてだったが、この少し前に密かに結婚していた人がいたことが後に判明)
1990年9月文化祭。プラネタリウム以外の企画としては天体写真の無料配布が好評だった。
1991年4月14期生入学(男子5名、女子2名)この年以降、天文部は衰退を始める。人数は多かったものの、活動に次第にメリハリがなくなってきた。
1991年7月卒業生5名が日食観測のためハワイに初の海外遠征
1991年8月夏合宿を生石高原で行い、ペルセウス座流星群の大出現に遭遇。0時台から1時台の大出現に流星を『見飽きて』しまい、3時頃まだHR60は出現しているのに、宿舎に寝に帰ってしまう奴やら、星も見ずにひたすら夜食にありつく奴も出て、大出現は逆効果だったかも知れない。
1991年9月文化祭はエアドームに頼ってしまったことに加え、肝心のプラネタリウムが直前に故障し十分な練習ができなかった。そして他の展示物も今一つで、卒業生からの評判が極めて悪かった。生徒会からは文化祭特別賞を受賞。(天文部から生徒会副会長を送り込んでいたこととあながち無関係ではないかも?)
1991年9月顧問の先生を囲む会、先生3名、卒業生20名参加で盛況。2次会は淀川の河川敷で月見としゃれ込んだ。
1992年2月OB・OG会初のスキーツアー赤倉スキー場にて、参加者7名(+部外者1名)
1992年4月15期生入学(男子5名、女子2名)活動はさらに衰え、活動内容はもとより、参加人数も減った。
1992年8月夏合宿は神鍋高原で行う。卒業生が予告もなしに奇声を張り上げて現役生の観測の輪の中に乱入する『神鍋原人』がこの年から恒例になる。しかし、第1回目のこの年はあまりに驚いた現役生が怒りを爆発させ、卒業生と険悪なムードになった。
1993年4月16期生入学(男子1名、女子4名、男子1名は秋に転校、女子も1名を残して退部)この頃から、天文部創立15周年の記念誌の制作プロジェクトがスタートし、翌年春の完成を目標に編集作業が始まった。
1993年11月水星の日面経過現象の観測会が開かれる。トピックス的な現象の観測会はこれが恐らく最後のものとなった。
1994年4月17期生入学女子1名が入部したが、6月に退部、16期生の女子一人だけの活動が続けられる。合宿、文化祭と現役生は実質一人だけであったが、卒業生が協力しなんとか切り抜けた。
1994年9月15周年記念誌刊行。オフセット印刷B5判82ページの大作。
1995年4月18期生入学天文部には1名の入部者もなく、いよいよ3年生が一人残るだけになった。また、天文部創立以来顧問職にあった山田健教諭が他校に転任した。
1995年9月最後の文化祭。3年生一人だけになっても、それなりの形になり、関係者からは拍手が贈られた。これ以降、7年間使ったエアドームは、以前に顧問を務めていただいた先生の転任先で第二の人生を送っている。
1996年2月16期生卒業。最後の卒業式になった。天文部廃部が決定。17年の歴史に幕を閉じた。
1996年6月OB・OG会に通信革命。E-mailによる連絡が盛んになる。1997年5月時点で会員96名中、E-mailが使えるのは15名である。

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