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四 室町から戦国時代にかけての歌島の海賊
1 宇賀島の「海関」と関公事
宇賀島の「海関」
先に「備後国歌島手次目録」を整理した表2-2-1によると、一八名のうち成国・末利・是国・正国の四名のみ、「関公用」の欄に「おきのせき」へ銭や人や米を差し出している旨の書入れがある。しかも、そのうち成国・末利の二名については、名主方ではなく百姓からじかに、「くしせん」(公事銭)として一〇〇〇文を出していたのである。
なお、ここで、「おきのせき」とよばれているのは、歌島の沖に設けられた「海関」のことをいうのであろう。また、「おきのせき」がおかれていた場所については、『芸藩通志』巻九五の向島西村の村絵図(図2-2-8)にみえる、烏崎の沖の「岡島」(戦国時代には「宇賀島」とよばれていた)がその第一の候補と考えられる。なぜなら、岡島には戦国後期に海賊因島村上氏が城を構えて、尾道水道を通過する船から警固料(礼銭)を徴収していたという言い伝えがあるように(『芸藩通志』巻一〇〇)、歌島のうちでも「海関」を設けるのには非常に立地条件のよいところであったのである。
尾道水道に「海関」が設けられていたことは、一四七一(文明三)年に申叔舟が撰進した『海東諸国記』の付図「海東諸国総図」のなかで、尾道浦あたりの対岸の島に「尾道関 竈戸より去ること二五里」と記していることからも類推できる(図2-2-9)。なお、『海東諸国記』には日本や琉球の歴史や地理だけでなく、これらの国々と朝鮮との通交規定なども載せられており、朝鮮外交の先例集としても重要な位置づけをもっていたという(『平凡社 大百科事典』)。
また、『海東諸国記』を撰進した申叔舟が朝鮮の使節として日本に来ていることからも、「海東諸国総図」に「尾道関」と書き入れられたのは、単なるつくりごとではなくなんらかの現実を反映したものと考えることができる。つまり、尾道水道に「海関」がおかれていたため、「尾道関」が「海関」として知られる「竈戸関」(現山口県玖珂郡上関町)と並び称されたということである。
しかし、尾道水道にいつ「海関」がおかれたかは不明であるが、このことに多少なりとも関係すると思われるものに、次に掲げる一四二〇(応永二七)年七月の『老松堂日本行録』(村井章介校訂本)の記事がある。
小尾途津(尾道)に留泊するに海賊船十八隻聚会して帰路に吾が船を待ち乞糧を言と為すと聞く また風不順の故発船するを得ず 留まること二十日なり
朝鮮の日本国礼使宋希mが京都からの帰りに尾道浦に立ち寄ったとき、食料を求める一八隻もの海賊船の待ち伏せをうけ、風が不順であったことも手伝って、二〇日も当地にとどまらざるをえなかったという。このように尾道水道に集まって、尾道港に出入りする船に糧食などの礼物を要求する海賊こそ、「海東諸国総図」のいう「尾道関」の実態であろう。そして、彼ら海賊が根拠としていたのが、尾道水道の西の入り口に面した宇賀島(のちの岡島)ということになると考えられる。
なお、京都の東福寺の僧梅林守龍が周防国(現山口県)の大内氏のもとから帰る途中、一五五一(天文二〇)年四月一日の未の刻(午後一時から三時)に、「芸の田河原」(現広島県竹原市)で「関之大将ウカ島賊船十五艘」に取り巻かれ、翌日の明け方まで交渉し「過分の礼銭」を払ってようやく無事に放免されたという。そして、梅林守龍の乗った船はこののちすぐに出帆したのであろうか、四月二日のうちに備後国鞆浦(現広島県福山市)に着き、ここで一夜を過ごしたことが知られる(『梅林守龍周防下向日記』)。
このことから宇賀島の海賊が「関之大将」とよばれていたことがわかる。一四四三(嘉吉三)年正月の『備後国歌島手次目録』で、「おきのせき」とよばれているのは宇賀島に設けられた「海関」のことと考えて間違いないように思われる。また、尾道浦に立ち寄ったとき一八隻もの海賊船の待ち伏せをうけたという、先の『老松堂日本行録』の記事から類推するならば、宇賀島の「海関」はすでに一四二〇(応永二七)年以前からあったと考えることも可能であろう。
歌島領家方の関公事
『備後国歌島手次目録』で、「おきのせき」とよばれていたのは宇賀島の「海関」であろうということになったが、歌島領家方の十八名のうち成国・末利・正国・是国の四名だけがこの関に公事を負担している理由はいまだ明らかではない。ただし、宇賀島の関の大将がこれら四名に対してなんらかの領主権を主張できる立場にあったことは間違いなかろう。また、その負担の仕方についても、成国・末利の二名は百姓がじかに公事銭一〇〇〇文をおさめるのに対して、正国・是国の二名は名主方から米四斗を出すという具合に大きなちがいがみられる。また、正国名からは夫役として六人の人を関方に出している。これもまた、宇賀島の関の大将とそれぞれの「名」とのかかわり方のちがいとしかいえない。
百姓がじかに公事銭をおさめている成国・末利の二名の場合、歌島領家方の支配者と宇賀島の関の大将との二重支配をうけていたということであろう。正国・是国の二名の場合についてもまた、宇賀島の関の大将は名主権の一部を保有していたものと推測できる。これを宇賀島の関の大将方からいえば、尾道水道のなかにある小さな島だけでなく、歌島のなかにも一定の足がかりをもっていたということになる。
2 宇賀島海賊の滅亡と中世の終焉
毛利元就と陶晴賢との断交
大内義隆は西国随一の大大名として知られていたが、重臣陶隆房(のちに出家して晴賢と名乗る)の謀反により、一五五一(天文二〇)年九月一日に長門国大寧寺(現山口県長門市)で自刃して滅んだ(『新裁軍記』)。なお、毛利元就も裏では陶隆房のこのクーデターに深くかかわっていたようで、クーデターの直後から翌一〇月にかけて東西条の内陸部(現広島県東広島市あたり)で大内義隆方の追討にあたっている(『閥閲録』巻三二、「浦家文書」八号)。
また、毛利元就はこののち九月二八日には、竹原小早川家の当主となっていた息子隆景にその本家である沼田小早川家をも継がせ(『閥閲録』巻一四)、翌一〇月七日ごろには安芸国の有力国衆の一人平賀氏の「家」を再興させ同広相に家督をつがせるなど(「平賀家文書」二二〇号)、東西条にある大内義隆方に対する包囲網をせばめていった。そして、翌一五五二(天文二一)年三月になるとついに、東西条の大内義隆方の本拠西条槌山城(現広島県東広島市)を攻め、城を守っていた菅田光則を降伏させたのである(『毛利元就記』)。
毛利元就はこれ以降も陶晴賢の軍勢(大内軍)とともに、安芸・備後に進攻してきた尼子氏の軍勢と戦うことになった。しかし、その一方では、一五五三(天文二二)年二月から四月にかけて、毛利・小早川・平賀・吉川氏のあいだで盟約を交わすなど、毛利元就の安芸国衆の盟主としての地位を固めていった。毛利元就はさらに同年十二月三日に備後の最有力国衆山内隆通をも味方に取り込むことに成功し(「山内首藤家文書」二一六号)、備後北部にも強力な地盤を築くことになったのである.
毛利元就がこのように安芸・備後両国で大きな勢力をもつようになると、陶晴賢との関係もしだいに危ういものとならざるをえず、同年五月一一日にはついに断交という最悪の事態を迎えることになった(『閥閲録』巻二、「平賀家文書」八七号)。
小早川隆景の宇賀島攻め
毛利氏が陶氏との断交を決めたのは一九五四(天文二三)年五月一一日のことである.しかし、陶氏の安芸国衆に対する毛利氏方からの離反の働きかけは、すでにこの年のはじめごろからはじまっていた(「平賀家文書」五七、八六号)。毛利氏もこのことを十分承知していたはずであり、水面下では安芸・備後の国家らを味方に引き入れるためのさまざまな企てがなされたものと推測される。小早川隆景が同年四月十日ごろに因島村上氏などの海賊衆を味方に招いているのも(「因島村上家文書」二〇号)、このような陶氏に対抗するための勢力糾合の企ての一つであったと考えられる。
小早川隆景がそのおりに因島村上氏の当主吉充に送った起請文(誓約書)では、「向島(歌島)一円の事、承る旨に任せて同心致し候」と述べたうえで、「宇賀島一着の上を以って、御進退有るべく候」と約束している。最初に、「向島一円の事、承る旨に任せて」と書かれていることからすると、村上吉充から小川隆景に対して味方につく条件としてこのような提案がなされたものと推測できる。つまり、村上吉充は隣接する因島を本拠としていたため、その対岸に位置する歌島立花村の余崎城あたりだけでなく、「向島(歌島)一円」を所領にしたいと考えていたのであろう(『芸藩通志』巻一〇〇)。
ところが、「宇賀島一着の上を以って」とあるように、このころになっても宇賀島には関の大将がいて尾道水道を通る船から警固料を徴収し、また歌島の北部にも勢力を及ぼしていたことがわかる。小早川隆景はまずこの宇賀島の海賊を滅ぼしたあとで、「向島」(歌島)をすべて因島村上氏の所領とすることを認めようと約束したわけである。
小早川隆景が宇賀島の海賊に対する攻撃をはじめたのは、村上吉充にあてて起請文を送ってから約六か月を経た一五五四(天文二三)年一〇月一八日のことである。小早川氏と「備後外郡衆」(備後南部の国衆)の軍勢はその日に、宇賀島の南側にあたる歌島の烏崎に陣を構え、ここから同島に攻撃を仕掛けるとともに、警固船(軍船)をもって外部との往来を止める戦略を用いたという。宇賀島は小さな島であり水がなければ困るから、まずは「水止め」の策を用いることにしたのであろう。そして、約一か月後の一一月一三日にはいよいよ宇賀島の岸際に攻め寄せ、同島を根城としていた海賊を滅ぼす予定であるという(一一月八日付毛利元就・同隆元連署書状「福屋家文書」)。なお、宇賀島の海賊がいつ滅んだかについては手がかりとなるものが残されていないが、おそらくは小早川隆景らの予定どおりに事が進んだものと推測される。
小早川隆景が宇賀島の海賊を滅ぼしたあと、先の約束どおりに「向島」(歌島)が一円に村上吉充に打ち渡されたか否かはわからない。ただ、「岡島(宇賀島)城」は「村上治部少輔・同又三郎吉満」の居所であったという、後代の伝承がわずかに残されているだけである(『芸藩通志』巻一〇〇)。なお、毛利輝元が豊臣秀吉に臣下の礼を取るため一五八八(天正一六)年七月七日に上洛したおり、同月一〇日の申刻(午後三時ごろ)に糸崎(現広島県三原市)を発ち、宇賀島に船をとどめて「歌ノ島」を見物したあと、村人が献上した「たち貝」を肴に酒盛りが行われ謡も披露されたという(『輝元公御上洛日記』)。しかし、因島村上氏の当主がこのおりに歌島に出向いて、所の領主として毛利元就を歓待したという記録はない。小早川隆景の村上吉充に対する先の約束は、厳しい政治の現実のなかで十分実行に移されなかった可能性もある。
さて、この島は古代以来。「歌島(うたのしま)」と呼び習わされてきたが、中世の終焉を迎える戦国後期から「向島(むかいしま)」という呼称も称されるようになり、やがてこの「向島」という呼称が一般的になっていったのである。「向島」という呼称は港町として栄える尾道浦の向かいの島という意味であるから、歌島の社会的な地位が中世の終焉を迎えるとともに総体的に低くなったことをこれは暗に物語るものということができる。
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