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明治時代に全国を徒歩旅行した新聞記者がいました。その紀行文の中に尾道が出てきます。当時の状況がわかるので、その箇所を掲載します。

「八月三十日 備後尾道 柳園にて」の途中までは、松永についての記述です。

(2010年3月 金森国臣)


八月三十日 備後尾道 柳園にて

昨夜の宿屋朝日野は、汽車、乗降の客がチョット休む家、停車場へ勤める人がチョット飲む家、労働者が情婦なぞ連れて来る家なんぢゃ。昨夜は隣室に情夫情婦が泊って痴話に余念なくなって居たが、少情少血の記者は、歩き疲れた上に紀行書くことに精力を集注して居たので、室を易へて呉れと注文する必要を感じなかった。

痴話の一斑を写し出したらば、チョット面白いかも知れない。惜しいことには記者が紀行を書き終る頃、痴話は途切れて仕舞った。

この朝日野で一つだけ気に入った事と云うのは、テーブルに二三種の新聞が載せてあるのぢゃった。けれども大阪朝日だけが新らしいので、萬朝は二日後れのがあった。朝日は十日も以前の分から堆積してあった。

今朝松永警察署へ寄ったが、署長は「広島県警部児玉得一」と云う名刺を呉れて丁寧に話を始めた。話は赤痢患者の追々発生しつつある事。盆とか正月とかに賭博犯の多き事。鞆津には鉄道がないので漸々衰微する事。松永の塩業は先づ有望なる事などぢゃった。

今津で休憩したが、今日の大阪朝日新聞があって電報欄に「下田歌子、二六徒歩記者」の一項(福島発)が見えた。最早福島まで来たかと驚いた。呑牛子が福島へ着く日に我も切て(せめて)広島へ着きたいと思って居たので

今津から尾道への旧道は逢坂と云うのぢゃが、勾配は余り急ではなく、木蔭があるだけに涼しくて宜いから、それを通った。

十一時に当市へ着き尾道新報社と六十六銀行との所在を尋ねたが、新報社よりは銀行の方が余程近い。ソコで銀行へ行って八木絢夫氏を訪うたが見えて居ない。偶々一人の男が銀行の前へ来て『貴君は中村さんでげすか、私は柳園…で』と挨拶して記者を伴い去った。記者は花井卓蔵氏が過日まで柳園に泊って居ったことを承知してるので、毫も訝る所なく成程と首肯しつつ金公と云う男の後へ跟て行った。彼は嘉肴園と云う料理屋の台所から下女を呼んで記者を此家へ案内せしめた。

大島魏氏が最初に訪はれ、次に八木絢夫氏と高垣松右衛門氏が訪はれ、各々慇懃に旅情を慰められ、夕刻より八木氏と高垣氏が見えて晩餐を共にせられ、大島氏も尋て見えた。それから尾道新報社の今福金風氏山陽新報社の特派員春日井井良一氏が訪はれ前三氏が帰られてから、記者を竹半と云う家へ伴れ行かれた。此処で少し飲んで居るうちに酔魔と睡魔が一時に襲って来たから横臥して仕舞った。

今日午後昼寝醒めてから市中を歩いて見たが、芸妓が菅笠を被り若くは脇ばさみ、友禅の単衣ぞべり、しゃらりと踊りつつ黄色な声で『吉田通れば二階から招く赤い鹿の子の振袖が』と且つ唄い且つ三味弾きつつ行くのに出逢った。言う迄もなく其後から一群の老幼男女が跟て行くので

尾道の街路は頗る狭い。車が通れば人は小さく左右の軒下へ附かねばならぬ処が多い。東西に貫通せる国道だけはやや広いが、横町は概して狭い。路次の狭い処で行水して居ると、盥が路次一ぱいぢゃから、チョット御免と声かける。行水してる人は身を片寄せ肩をスボめてサァお通りと言う。行人は御免下いとて盥を跨ぐ。実に不体裁千万なものぢゃ。


八月卅一日 備後尾道 柳園にて

今日は春日井良一氏及び尾道新報の中川氏に伴れられて、千光寺、西國寺、浄土寺、天満宮を見物した。千光寺山は峻巌巨石に富み、笠置には及び難いが、先づ山陽道中稀に見る所の奇山である。此山の嶺に峻巌怪松縫いつつ、三人が疾風細雨に蛇目傘(春日井氏)、番傘(中川氏)蝙蝠傘を且つ開き且つ閉じ、忽ち走り忽ち止まり、時として樹枝を曲げて猿猴の態を学んだなどは余程の奇観であった。

千光寺へ登るには、幾百の石段を躋る(のぼる)のぢゃが、西國寺と浄土寺は、それほど多くの石段を躋攀(せいはん)しないで行かれる。爾うして西國寺は修潔斎整、掃除や手入の行届けるを以て優り、浄土寺は由緒の多きを以て優て居る。

浄土寺に如何なる由緒あるかと云うに、豊太閤が征韓の帰路立寄って種々の宝物(今から謂う所の)を残して行ったぢゃゲナ。西國寺は昔の御祈願所であったと云うだけの事。

天満宮は五十五級の石段が、五十三級まで長さ三間の一枚石で続でないのが珍らしい。あと二枚ぐらい一枚石を用い得ない筈はないので、故と続いだのを用ったのだろうとの話。尤も一番上のは故と折ったか誤って折ったかしたもので短いのを続いだのではない。

当地の産物は畳表、花菰、錨、石材、酢、渋(柿の)などで、天満宮、西國寺等の石段が立派なのも、当地に石材が多いからの事。

千光寺に桂文治翁之碑と云うのがあって一六居士の書であるが、『頓て踏む道一寸ぢの霞かな』の一句を添へて居る。浄土寺にも桂文治の肖像が掲げてある。『桂文治は落語家で』と児童の口にも膾炙せる名人の名を襲て居るのぢゃが、当地へ来て一婦人に擒(とりこ)にせられ終に帰らないそうナ。

当地は隔年七月十八日(陰暦)に吉和踊りと云うのを遣る。百名近い壮漢が鬱金木綿(うこんもめん)の鉢巻をして、左の脇に太鼓(太鼓の大なる者は門閥家)を懸け、右手に五色総 付いた八寸の棒を持ち、鐘たたきがカンカラカンカラと鐘で合図する毎に、一同ヤーショと大声揚げて太鼓を叩く。其総指揮官(是は世襲で、第一の門閥家)とも云うべき男は鬼の面を被って先へ立て行く。実に奇観であるが、これは文禄征韓の役、吉和村(当地より一里ばかり西の漁村)の漁夫が船夫となって行き、凱旋した時の祝祭の形を今日まで変更せずに遣るのぢゃそうナ。

昨午後五時頃より玉浦湾に舟遊びを催されたのは、当地の郊遊会員諸君で、各種の人を網羅して居る。小歌島に到着して一同写真し、船に帰て且つ飲み且つ食い、議論もあり雑話もあって興趣百出した。

此郊遊会は、九年前から継続されて居るので、毎月一回遠足を試みる。今の幹事は八木氏外二氏そうナ。


九月一日 芸州忠海 中井方にて

尾道に就て書くべき事がモ少し残って居る。此地は浄土寺山と千光寺山と湾との間に挟まっているので頗る狭いのぢゃ。ソコで鉄道敷設には余程困ったと見えて、鉄道が千光寺と浄土寺の境内を通って居る。両寺とも石段を十級ばかり上ると鉄道を踏切るのである。

備後は一体に掃除が行届かぬ方ぢゃが、尾道は汚い割合に悪疫が流行しない。これは土地が山麓から湾に向って傾斜してるので、汚水が停滞せぬからであろう。

尾道の海岸を歩くと干鰯臭くて耐らない。干鰯は無論北海道から来るので、此地の人は新聞を見るに北海盾の記事を喜ぶ向が多い。新聞売捌業は北辰社と児玉の二軒である。

尾道の貸座敷は市中に在るが、三階の家は松鶴楼と云うのだけぢゃ。

宿屋の重もなるものは、浜吉楼、今井館、鶴水館で、柳園、嘉肴園などは皮肉な料理で聞えてるゲナ。

尾道は魚類を大阪、京都などへ送って居るけれども此問中は盆で漁夫が休んで居たから、魚類が払底して居った。

西國寺に桜松と云うのがある。古松の幹心朽ちたる虚(うろ)に桜の寄生樹が生えて、其根は虚から地へ下って居る。立石に作楽松と刻してある。

地方の蒸菓子に閉口するのは、其餡が駄菓子の餡の如く真黒なことである。所が尾道のは白餡である。柳園で食った葛餅、千光寺で食った餡麺包など何れも白餡であった。

備後以西東京の左様(そう)だテェ、姫路の左様やナァに対して左様ぢゃノォと言うのである。「ゲス」は東京の半可通ばかりの言葉と思って居たが、尾道でも何でゲス、左様でゲスと言って居る。播磨で雨祝い雨休みなど言うのを、備後安芸では潤祝い(うりいわい)、潤休み(うりやすみ)と言う。うるおいを早口に言うのでうりと聞えるのぢゃ。

今日三原で昼飯を食ったが、飯屋の老爺は過日花井卓蔵氏の演説を聴かざったのを残念に思う口振ぢゃった。花井氏は喋舌るのが巧いと褒めちぎって居るから、そりゃ巧い筈ぢゃ、喋舌るのが商売ぢゃものと言って大笑となった。此地は花井氏の生れ故郷なのである。田野浦、須波、佐江崎を経て忠海へ来たが、細雨冥漠として多島海を罩(こ)めて居る景致は高且つ美を極めたものぢゃ。

一年中の厄日とも言う二百十日は先づ無難で結構。『静かなる二百十日の潤雨哉』、『朝霧に蓑の雫や稲の花』。


新聞記者の中村楽天が全国を徒歩旅行して、その紀行文を新聞に寄せるという企画です。その記事を集めて出版したものだということが、なんと序文を正岡子規が書いていて、そのあたりの事情がよく分かります。

滞在はわずか二日なので、つまみ食いのような内容にしかならないのは仕方ないのですが、それでも明治時代の尾道の雰囲気というものが、なんとはなく伝わってくるところがあります。

路地の狭さは当時も現在も変わらないだろうし、西國寺の掃除が行き届いていることは昔からの伝統だったいうことが分かります。

干物の臭いに閉口したと書いてありますが、私が子供の頃は汽車が尾道に近づくと何となく魚臭い感じがしたもので、そういうことを思い出しました。

千光寺に桂文治翁之碑があったとか、西國寺に桜松というものがあったとか、いまでは定かではない事もあるので、ある意味においては発掘的なこともこの紀行文からは感じます。

参考までに書誌情報は次のとおりです。

  • 徒歩旅行
  • 中村楽天(修一)著
  • 東京:俳書堂,明35.7
  • 西暦年:1902

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