昨夜の宿屋朝日野は、汽車、乗降の客がチョット休む家、停車場へ勤める人がチョット飲む家、労働者が情婦なぞ連れて来る家なんぢゃ。昨夜は隣室に情夫情婦が泊って痴話に余念なくなって居たが、少情少血の記者は、歩き疲れた上に紀行書くことに精力を集注して居たので、室を易へて呉れと注文する必要を感じなかった。
痴話の一斑を写し出したらば、チョット面白いかも知れない。惜しいことには記者が紀行を書き終る頃、痴話は途切れて仕舞った。
この朝日野で一つだけ気に入った事と云うのは、テーブルに二三種の新聞が載せてあるのぢゃった。けれども大阪朝日だけが新らしいので、萬朝は二日後れのがあった。朝日は十日も以前の分から堆積してあった。
今朝松永警察署へ寄ったが、署長は「広島県警部児玉得一」と云う名刺を呉れて丁寧に話を始めた。話は赤痢患者の追々発生しつつある事。盆とか正月とかに賭博犯の多き事。鞆津には鉄道がないので漸々衰微する事。松永の塩業は先づ有望なる事などぢゃった。
今津で休憩したが、今日の大阪朝日新聞があって電報欄に「下田歌子、二六徒歩記者」の一項(福島発)が見えた。最早福島まで来たかと驚いた。呑牛子が福島へ着く日に我も切て(せめて)広島へ着きたいと思って居たので
今津から尾道への旧道は逢坂と云うのぢゃが、勾配は余り急ではなく、木蔭があるだけに涼しくて宜いから、それを通った。
十一時に当市へ着き尾道新報社と六十六銀行との所在を尋ねたが、新報社よりは銀行の方が余程近い。ソコで銀行へ行って八木絢夫氏を訪うたが見えて居ない。偶々一人の男が銀行の前へ来て『貴君は中村さんでげすか、私は柳園…で』と挨拶して記者を伴い去った。記者は花井卓蔵氏が過日まで柳園に泊って居ったことを承知してるので、毫も訝る所なく成程と首肯しつつ金公と云う男の後へ跟て行った。彼は嘉肴園と云う料理屋の台所から下女を呼んで記者を此家へ案内せしめた。
大島魏氏が最初に訪はれ、次に八木絢夫氏と高垣松右衛門氏が訪はれ、各々慇懃に旅情を慰められ、夕刻より八木氏と高垣氏が見えて晩餐を共にせられ、大島氏も尋て見えた。それから尾道新報社の今福金風氏山陽新報社の特派員春日井井良一氏が訪はれ前三氏が帰られてから、記者を竹半と云う家へ伴れ行かれた。此処で少し飲んで居るうちに酔魔と睡魔が一時に襲って来たから横臥して仕舞った。
今日午後昼寝醒めてから市中を歩いて見たが、芸妓が菅笠を被り若くは脇ばさみ、友禅の単衣ぞべり、しゃらりと踊りつつ黄色な声で『吉田通れば二階から招く赤い鹿の子の振袖が』と且つ唄い且つ三味弾きつつ行くのに出逢った。言う迄もなく其後から一群の老幼男女が跟て行くので
尾道の街路は頗る狭い。車が通れば人は小さく左右の軒下へ附かねばならぬ処が多い。東西に貫通せる国道だけはやや広いが、横町は概して狭い。路次の狭い処で行水して居ると、盥が路次一ぱいぢゃから、チョット御免と声かける。行水してる人は身を片寄せ肩をスボめてサァお通りと言う。行人は御免下いとて盥を跨ぐ。実に不体裁千万なものぢゃ。
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