備後国神石郡田頭村に幾美女と呼ぶものあり、性質至孝にして、能く父母に事へ、幼少の頃より、常に家業を助けける。
寛政三年四月、幾美女十四歳の時、母と與に近傍の山に分け入りて、薪を採る。澗深く、樹繁くして、昼さへ尚ほ暗きも、慣れたる身は、別に淋しとも思はず。
折りしも、そよと吹く風もなきに、近傍の千草、忽ちがさがさと鳴る。幾美女怪みて音する方を見れば、高草左右に挨らぎて波立つ。
『人にもや、いやいや人の来る所にはあらず。』
と呟きつつ、尚ほも目を注ぐ。
突如として一頭の悪狼、叢中より躍り出で.眼を瞋らし.牙を鳴らし、前趾を攅めて、前なる母に躍り掛からんとす。
『ソレ狼よ。』
幾美女叫ばんとすれども、声出でず、身を挺んでて、自から悪狼に当らんとす。
此時、母は始めて心付き、駭き慌てて、逃げ去らんとし、思はず木の根に蹟づきて、仰向けに倒る。
悪狼忽ち躍って母に飛び掛かり、今や咽喉を目蒐けて咬み付かんとす、真に是れ危機一髪。
幾美女見るより、赫と逆上せ、傍の杭を引き抜きさま、無我無中にハッシと悪狼の背を撃つ。
一念凝るところ、巌をも貫く、左しもの悪狼も、唯此一撃に撃ち拉がれ、脆くも転びて、谷間に落つ。
幾美女急ぎ母を扶け起せば、母は駭き極まって気を失ひ、呼べど、叫べど、答へもあらず。
『水はなきか、水は。』
と言ひつつ、四辺を見回せば、水は脚下の谷間を流れて、潺湲として声あり。
『オヽ彼処にこそ。』
幾美女馳せて谷に下らんとして、又忽ちハッと驚く。
『オヽ此処は狼の落ちし所ぞ。』
下らんか、狼あるを奈何、下らざらんか、水なきを奈何。
兎やせん、角やせん、谷に臨みて、思ひ煩ふこと暫し、忽ち奮然として、
『我が命は何かあらん、母の命こそ大切なれ。』
と思ひ極め、死を決して、谷間に下れば、嬉れしや悪狼は影さへ見えず。
幾美女始めて意を安んじ、両手に水を掬びて、そろりそろりと還り来り、母の口に含ませつつ、二たび、三たび、耳に口寄せて、
『母上、母上。』
と呼はれば、母は漸く我れに復りて、忽ち眼をパッチと開く、左れども声尚ほ出でず、腰尚ほ立たず。
此処に在りては心元なし、幾美女小さき背に、母を揺り上げ揺り上げ、辛うじて我家に帰り来る。
近隣の壮夫十余名、此事を聞くより、直に柄物々々を提げて現場に駈け付け、谷間に下りて、其処此処と捜し索む。
叢中忽ちごそごそと動く、扨てはと思ひて、近寄り見れば、果して一頭の悪狼、背骨を撃ち折られて、起つこと能はず、前趾にて地を掻きつつ、躄り躄りて逃げ去らんとす。
壮夫等先きを争うて走り寄り、各々乱撃して之れを斃し、曳きて村に来れば、老幼男女集まり見て、皆舌を巻く。
幾美女の声誉、是れより頓に遠近に轟く。
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