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備後の幾美女悪狼を撃ち拉ぐ

備後国神石郡田頭村の昔話

広島県神石郡神石高原町の「雄橋(おんばし)」。世界三大天然橋のひとつともいわれ、国の天然記念物に指定されています。

近辺の昔話がないか、国会図書館の資料を検索していたら、神石郡田頭村(現在の神石郡神石高原町)に伝わる昔話が見つかった。(田頭村→たんどうむら)

幾美という勇敢な少女の話であるが、明治時代には、かなり有名な話であったようで、三編の資料があった。

読むほどに面白いので、うち二編をテキスト化して、特に神石高原町を古里とする方々にお届けしたい。

表記は原文に忠実に従うようにしているが、読みやすくするために、新字にしたり、若干の変更を加えている。学術的に引用する場合は、PDFファイルへのリンクを張っておいたので、そちらを参照していただきたい。(ブラウザによっては表示に失敗するようなので、その場合は右クリックでダウンロードしてください。)

(金森国臣 2012年1月)


備後の幾美女悪狼を撃ち拉ぐ

出版年から考えても、おそらくは「幾美女が事。」が言い伝えられている話の原型であり、「備後の幾美女悪狼を撃ち拉ぐ」はそれを脚色したものなのであろう。この二編を読み比べることで、そのあたりの事情もうかがい知れ、非常に興味深い。

備後の幾美女悪狼を撃ち拉ぐ

備後国神石郡田頭村に幾美女と呼ぶものあり、性質至孝にして、能く父母に事へ、幼少の頃より、常に家業を助けける。

寛政三年四月、幾美女十四歳の時、母と與に近傍の山に分け入りて、薪を採る。澗深く、樹繁くして、昼さへ尚ほ暗きも、慣れたる身は、別に淋しとも思はず。

折りしも、そよと吹く風もなきに、近傍の千草、忽ちがさがさと鳴る。幾美女怪みて音する方を見れば、高草左右に挨らぎて波立つ。

『人にもや、いやいや人の来る所にはあらず。』

と呟きつつ、尚ほも目を注ぐ。

突如として一頭の悪狼、叢中より躍り出で.眼を瞋らし.牙を鳴らし、前趾を攅めて、前なる母に躍り掛からんとす。

『ソレ狼よ。』

幾美女叫ばんとすれども、声出でず、身を挺んでて、自から悪狼に当らんとす。

此時、母は始めて心付き、駭き慌てて、逃げ去らんとし、思はず木の根に蹟づきて、仰向けに倒る。

悪狼忽ち躍って母に飛び掛かり、今や咽喉を目蒐けて咬み付かんとす、真に是れ危機一髪。

幾美女見るより、赫と逆上せ、傍の杭を引き抜きさま、無我無中にハッシと悪狼の背を撃つ。

一念凝るところ、巌をも貫く、左しもの悪狼も、唯此一撃に撃ち拉がれ、脆くも転びて、谷間に落つ。

幾美女急ぎ母を扶け起せば、母は駭き極まって気を失ひ、呼べど、叫べど、答へもあらず。

『水はなきか、水は。』

と言ひつつ、四辺を見回せば、水は脚下の谷間を流れて、潺湲として声あり。

『オヽ彼処にこそ。』

幾美女馳せて谷に下らんとして、又忽ちハッと驚く。

『オヽ此処は狼の落ちし所ぞ。』

下らんか、狼あるを奈何、下らざらんか、水なきを奈何。

兎やせん、角やせん、谷に臨みて、思ひ煩ふこと暫し、忽ち奮然として、

『我が命は何かあらん、母の命こそ大切なれ。』

と思ひ極め、死を決して、谷間に下れば、嬉れしや悪狼は影さへ見えず。

幾美女始めて意を安んじ、両手に水を掬びて、そろりそろりと還り来り、母の口に含ませつつ、二たび、三たび、耳に口寄せて、

『母上、母上。』

と呼はれば、母は漸く我れに復りて、忽ち眼をパッチと開く、左れども声尚ほ出でず、腰尚ほ立たず。

此処に在りては心元なし、幾美女小さき背に、母を揺り上げ揺り上げ、辛うじて我家に帰り来る。

近隣の壮夫十余名、此事を聞くより、直に柄物々々を提げて現場に駈け付け、谷間に下りて、其処此処と捜し索む。

叢中忽ちごそごそと動く、扨てはと思ひて、近寄り見れば、果して一頭の悪狼、背骨を撃ち折られて、起つこと能はず、前趾にて地を掻きつつ、躄り躄りて逃げ去らんとす。

壮夫等先きを争うて走り寄り、各々乱撃して之れを斃し、曳きて村に来れば、老幼男女集まり見て、皆舌を巻く。

幾美女の声誉、是れより頓に遠近に轟く。

金森による註:

  • 幾美女(きみじょ):「幾美」という「女性」の意味だから、おそらく名は「キミ」と呼ばれていたのであろう。
  • 悪狼(おおかみ):「悪」を付記して強調している。本来は単に「狼」で文中でも使われている。
  • 撃ち拉ぐ(うちひしぐ):武器などで相手をたたきのめす。本来は「打ち拉ぐ」のようであるが、「撃ち」で強調している。
  • 與に(ともに):ここでは単に「共に」の意味だろうと思う。新字体の「与」にすればよいのだが、これでは意味が分からなくなるので、そのままにした。
  • 近傍の山(きんぼうのやま):
  • 澗(たに):山と山の間にある深くくぼんだ所。
  • 近傍(あたり):
  • 千草(ちくさ):いろいろの種類の草。「ちぐさ」が一般的だが「ちくさ」とも読む。
  • 高草(たかぐさ):高く伸びた草。「ちくさ」に習えば「たかくさ」でよいはずなのに、どうしてだろう。
  • 叢中(そうちゅう):草むらの中。
  • 瞋らす(いからす):怒って目を剥いてかっと見張る。「瞋る」
  • 攅める(あつめる):
  • 前趾(まえあし):
  • 挺んでる(ぬきんでる):人より先に進み出る。
  • 駭く(おどろく):ここでは単純に「驚く」と同じ意味だろうと思う。
  • 咽喉(のんど):
  • 目蒐ける(めがける):「出蒐ける」、「追蒐ける」、「押蒐ける」という用法もある。
  • 赫と(かっと):かっとして真っ赤になるさま。
  • 逆上せる(のぼせる):興奮して理性を失う。
  • 傍(かたえ):かたわら。
  • 扶け起す(たすけおこす):
  • 四辺(あたり):「辺り」の意味だろうと思う。
  • 潺湲(せんかん):さらさらと水の流れるさま。
  • 奈何(いかん):「どうしようか」
  • 掬ぶ(むすぶ):ここでは「掬う」の意味だろうと思うが、「水を掬ぶ」という表現には、もっと深い意味があるとのこと。Wikipediaの「むすひ」を参照されたい
  • 壮夫(そうふ):壮年の男性。
  • 捜し索む(さがしもとむ):「捜索する」と解釈しておいてよいのだろうと思う。
  • 扨ては(さては):それでは。
  • 躄る(いざる):立たないで進む。
  • 斃す(たおす):ころす。
  • 頓に(とみに):にわかに。

書誌情報:

  • タイトル:少女美談
  • タイトルよみ:ショウジョ ビダン
  • 責任表示:熊田葦城著
  • 出版事項:東京:実業之日本社,大正10
  • 形態:234p;19cm
  • 著者標目:熊田,葦城
  • 著者標目よみ:クマタ,イジョウ
  • 西暦年:1921

幾美女が事。

きみ女が備後の国の人なり。年十四母に従って山に薪を採り居たり。会々一頭の狼、牙を鳴し爪を恐らして突き到れり。母驚き遁れんとし過って地に仆る。狼躍ってその上に飛び上り坐す。きみ女之を見て急に杭を抜き、カを極めて狼の背を繋つ。狼顛転して傍らなる渓間の中に墜つ。きみ女乃ち水を掬して母に含ましめ、気息漸く蘇生するに至る。是に於て扶掖して家に帰り、具に事の始終を里人に告ぐ。里人之を聞き槍を提げて渓間に別け入る。忽ち荊棘中に昨々として響きを成すものあるを聞き、就て之を見れば一老狼の背梁砕けて起つこと能はず、蛇行して去らんと欲するなり。里人便ち刺して之を殺す。是より幾美女が勇名四方に高し。

金森による註:

  • 採り居たる(とりえたる):
  • 会々(たまたま):ちょうどその時。
  • 爪を恐らす(つめをいからす):おそらく「怒り爪(いかりづめ)」のことだろうと思う。獣が怒ったり、敵や獲物に襲いかかろうとしたりするときにむき出す爪。
  • 突き到る(つきいたる):
  • 遁れる(ぬかれる):「のがれる」の間違いか?
  • 仆る(たおる):この場合は「ころぶ」という感じだろうと思う。
  • 顛転(てんてん):おそらく意味は「転々」で、転がっていった様子を表している。
  • 渓間(たにま):「けいかん」を訓読みにしている。意味はそのままで「谷間」。
  • 乃ち(すなわち):「則ち・即ち・乃ち」。ここでの意味は「とりもなおさず」だろうと思う。
  • 掬す(きくす):水などを両手ですくう。
  • 是に(ここに):この時点で。
  • 扶掖(ふえき):「扶掖する」で「助けること」。
  • 具に(つぶさに):詳細に。
  • 提げる(ひさげる):手で持ったり、肩や腰に掛けたりして物を持つ。
  • 荊棘(けいきょく):とげのある木。おそらく、そういう木が生えている場所を指しているのだろうと思う。
  • 昨々(さくさく):擬音語の「さくさく」と思うが、はっきりしない。「がさごそ」ではなく、「かさこそ」という感じか。
  • 就て(つきて):就いては。
  • 老狼(ろうろう):
  • 背梁(せぼね):
  • 便ち(すなわち):たちまち。

書誌情報:

  • タイトル:少女三十二相 一名・少女の伝記
  • タイトルよみ:ショウジョ サンジュウニソウ イチメイ ショウジョ ノ デンキ
  • 責任表示:いろは著
  • 出版事項:東京:東京教育社,明23.10
  • 形態:56p;18cm
  • 著者標目:いろは
  • 著者標目よみ:イロハ
  • 西暦年:1890

ツブヤキ的なこと

このページをお読みになった神石高原町の方々、特に旧田頭村にお住まいの方々には、この逸話についてぜひ調査していただきたいと思う。

詳しい内容ではなくともよいので、そのような話が残っているといった単純な事実でも構わないので、収集して記録しておけば、貴重な資料として残るし、後日の証拠としても役に立つ。

地域資源という言葉は好まないが、そうしたことにも利用できるし、例えばすぐに思いつくのは紙芝居の制作などであろう。

江戸寛政年間にオオカミが生存していたらしいことが、この昔話から推察できるし、調査することによって、その他にも細々としたことが解ってくる可能性がある。

「両手に水を掬って飲ませる」という行為に、霊的な意味合いがあるとの説は不明ながら知らなかったが、作者の意図とは関係なく、実際的には、この部分がクライマックスになっていることに間違いはなく、深い意味が込められているらしいことに驚く。

もし仮に同じような逸話が神石高原町のあちこちに残っているとすれば、神話的な意味合いが含まれていることも考えられ、ひょっとすると一大発見につながるかも知れない。

ぜひ調査していただければと思う。


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