久保亀山八幡宮が所蔵する古文書の調査が着々と進められていると聞く。そのなかで発見された文書の一つである「尾道方言」の解読レポートが山陽日日新聞に掲載されていた。
古文書研究者の半田堅二氏による現代語訳であるが、もとより一地方の方言ではあるとしても、当地にとっては一大発見であり、用語学的にも興味深い点があるので、若干の考察を加えてみたい。
記録者が誰であるかと謎かけをしてみたが、余りにも簡単すぎるとは思うが、おそらくは久保八幡宮の宮司であると結論付けることができる。
標題・本文・記録日と文書としての体裁はきちっと整っているにもかかわらず、なぜか記録者の名前が記されていないのであるが、これは自明を前提としてのことであろうと考えられる。
いわば内部文書としての性格を帯びており、この文書が久保八幡宮で大切に保管されていたことから、これが推定できる。
方言として記録するのであれば、俯瞰的にみれば「備後方言」とするのが適切であるし、学術的には現在でもそのような括りになっているはずである。
あえて「尾道」とした理由に学術的な意味合いはなく、とすると尾道に縁の深い人物であることが伺えるのであり、そうだろうと思う。
さて辞書的な観点からみると、読み・表記・語義と辞書の基本要素がしっかり抑えられている。しかも複数の語義が書き分けられており、記録者は辞書に対する知識を持ち合わせていたものと思われる。
記録された明治41年には、すでに各種の辞書が出版されていた。地方とはいえ、これらに触れる機会はあったはずであり、そのような立場にあった人物であると想像できる。知識人であったことに間違いはない。
ただし、見出しが五十音順ではないこと(いろは順)、語義の書き分けや用例に多少のつたなさが見られることから、辞書編纂に関する知識は持ち合わせていなかったようではある。
では記録者が久保八幡宮の宮司であると仮定して、どのような心情でこの記録を残したのかを想像してみたい。
尾道に対する思い入れが人一倍強かったであろうことは、標題からも容易に想像できる。尾道人としての誇りを持って用いた言葉が全く通じず、方言であることに衝撃を受けたのであろう。
方言にまつわるエピソードはどの地方にもあり、一種の滑稽譚としてエッセイ風に残せば済んでしまうことであると思うが、相当の労力を費やし、用語資料としてまとめている。
語義の違いを示すためにとられたレイアウト面での工夫にも、その一端を垣間みることができる。
当時はすでに山陽鉄道が開通しており、比較的容易に上京することが可能であったから、帝都での経験が元になっているのかも知れない。いずれにしても、よくよくのことであったのだろう。
例えば、「がいよう=ぐ合よくの訛り。」が見出しとして立項されている。しかしこれでは何のことかさっぱり不明なのであるが、これは「ぎゃぁがえぇ」のことであろうと思う。
わざわざ言い替えているのであるが、あえて言えば取り繕っている様子がみられ、コンプレックスが滲み出ている感じを受ける。
ただこれによって、ひょっとした拍子に自分でも使う可能性のある「ぎゃぁがわりぃ」が、明治時代にも使用されていたことが明らかになった。
明治とはいえ、文化的さらには言語的には江戸時代の真っ只中にあったと考えてよく、江戸時代の言語環境をそのまま残していたはずである。
江戸時代は人的交流も少なく、ほぼ閉鎖状態で言語的な変化はわずかであったと考えられるから、どうかすると数百年以前に遡ることであるのかも知れない。そう想うと何となく楽しくなってくる。
「ありがとう」を意味する「だんだん」も立項されているが、これはすでに尾道方言としては失われており、このことは地域社会全体に「だんだん」を排除する意識が働いたものと考えられる。おそらくは恥ずかしいと感じたのだろう。
いずれも学術的論拠は皆無であるものの、言語はピジン・クレオールであるとの学説を目の当たりにする想いであり、また自分自身の言語表現にも深く関わることであり、あれこれと想像を巡らしてみた。
(2011年4月 金森國臣)
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