尾道で汽車を下りた時は、まだようやく我が明けたばかりであった。それでももう戸のあいてゐる茶屋が一軒あったので、そこに休んで、顔を洗って、夜一夜ゆらゆられてゴタゴタして来た汽車の疲れを休めた。
此間は度々通るけれども、いつも素通して、ついに千光寺へ登って見たことがなかったので、一汽車おくらせてそこに登って見ようと思い立ったのであった。
私は朝飯の支度を頼んで置いてそして出かけた。
汽船問屋だの、大きな呉服屋などの多い町であった。少し行くと、角に大きな郵便局があった。そこから少し行ったところで、細い通を左に入る。爪先上りである。寺の門前まで達する間はゴタゴタした貧しい人達の住んでゐる裏町であるや。がて寺の門へとかヽった。
最初入った寺を通りぬけると、それに添った石ころ路があって、爪先上りからかなりに急な坂になる。一歩々々尾道市の瓦甍を隔てヽ海が見え出して来た。いかにも美しい海だ。又さわやかに晴れた朝だ。
一歩一歩振返りながら登って行く。
段々奇岩が前にあらわれて来た。面白い形をした松などが生えてゐる。やがて支那式のつくりをした大きな寺があらわれ出して来た。
形の面白い山門、それから堂宇、それも岩山のこヾしい間を求めて建てたものなので、いかにも窮屈だ。路はその間を折れたり曲ったりして上って行く。
やがて寺の本堂のあるところへと達した。
絵はがきでよく見る景色であるが、丁度それが晴れた朝であり、澄んだ空気であるために、非常に明媚に美しく私の眼に映った。私は思わず驚喜の声を挙げた。
朝の露が茫と瀬戸の海の半面に沈んで、白く布でも布いたように靡いてゐる。水深の浅い瀬戸内海であるのに拘らず、海の色は思い切って碧く、帆がその白い朝霧の中から一つ二つあらわれ出して来た。
尾道市の瓦甍がその前景を成して、いかにも中国の港らしい感じを私に与えた。それに、海の向うにある向島―桃の花の勝を以て聞えてゐる膨大な島が、今しも最初の光を放ちはじめた朝日に照されて、山畠の段をなしたのや、海に添った村や、そこらを漕いで行く舟や、そうしたものが皆な美しくかヾやいて見渡された。
「流石は尾道瀬戸だ!」
こう私は思わずにはゐられなかった。
朝霧は瀬戸の折れ曲ったところにかヽって、それが半ば朝日にかヾやいて、次第に少しづヽ消えて行く。
私はじっとそれに見入った。
シインとしてはそう大きいとは言われない。雄大とか崇高とか言う感じは何処にも味われない。しかしその柔らかな、線の細い、感じのこまやかな景色は、じっと私の朝の心に染み通るような気がした。帆がまた一つぽっかり霧の中から現われた。
何うしても日本画だ。外国の色彩では、又は刷毛では、とてもあらわすことの出来ないような気分だ。四條派の絵巻などにありそうな眺めだ。
私はそこから千畳敷へ行った。そこの眺めは、寺の本堂から眺めたものよりも、ぐっとひろいけれども、右の方が余り見えすぎるので、感じがやヽ散漫なような気がした。矢張瀬戸の扇頭小景を見るには本堂の方がすぐれてゐた。
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