長江三丁目の高橋さんは、夫妻でパン屋工房を営んでいます。弟子が一人の小さなお店です。場所は久保町の薬師堂小路です。
横路地を少し奥に入ったところにあり、店の前は坪庭のよになっていて、ちょっとした隠れスポットになっています。こだわりの味で多くのファンを引きつけています。
ふだんは、自転車で通勤しているのですが、その日は朝の散歩も兼ねて、ぶらぶらと坂道を下りました。
長江口の鉄橋に差し掛かったとき、ミャーと鳴き声が聞こえて来ました。少しくぐもった弱々しい声です。猫であることはすぐにわかったのですが、見あたりません。早朝の薄明かりのなかを目をこらして見ると、ガードレールの下に三毛猫がうずくまっています。
口のあたりに血が滲んでいて、交通事故にあったようです。面倒なことになったと思いましたが、呼び止めるようにまた鳴きます。誰も見ていないし、知らん顔をしようかと思いましたが、猫は七代祟るとのたとえもあります。店につれて帰ることにしました。
店内の明るい場所でよくみると、右の後足がだらんと垂れて、一目で重傷だとわかります。素人ではどうすることもできません。尾道水道に流してしまおうかと口走ったものの、キッと睨まれたような気もして観念しました。
伝手を頼って高須の動物病院に連れて行くと、内臓は大丈夫のようだが、足が折れているので、これから手術をするとのことでした。入院が必要なので、三日後に来て下さい。費用は、七万円ぐらいはみていて下さい、とあっさり言われてしまいました。
どれだけの売り上げが野良猫のために消えてしまうのかと考えると、情けない気分になり、落ち込んでしまいました。
約束の日に引き取りに行くと、猫とはいえ、ギブス姿は痛々しく、一気に同情の念が涌いてきました。子供がいなかったこともあり、何くれとなく面倒をみるうち、最初は人間に対する警戒を解かなかったものの、次第に甘えるような仕草もみせるようになりました。
そうなると、可愛さはつのるばかりで、鼻水が出た、食欲がなさそうだと病院へ駆け込む始末になりました。人間よりも治療費が掛かるような溺愛ぶりです。足の傷も治り、部屋の中を元気に駆け回るようになったので、外に出しても大丈夫になりました。しかし、独りで留守番をさせるのも不用心だと、店に連れて行くことにしました。
衛生のこともあるので、通販で購入したキャットハウスを店先に組み立て、そこで店番をさせるせることにしました。時々いなくなるものの、高歩きをすることもなく、一日中おとなしく座っています。
とくに愛想を振りまくようなこともなかったのですが、あるときから妙な噂が立ち始めるようになりました。パンを購入したお客にだけ、流し目をするらしいのです。
虎の八方にらみと同じで、見る角度によって、そう見えるだけのことだろうとは思うのですが、いまのSNSの拡散力で、たちまち、流し目の三毛として知られるようになりました。近隣の三原や福山はおろか、広島から訪れる人もいて、土日には行列ができることも珍しくありません。
事情をよく知るご近所の人達は、これこそまったく猫の恩返しだと三毛の頭をなでてくれます。
しかし、そうであれば、何時かはフッといなくなるのではないかとの不安が頭をよぎりますが、それも杞憂のようで、相変わらず泰然と日向ぼっこをしています。
朝凪の路地に流るるベーグルの香りのどけき尾道の春
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