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日本擬人名辞書

目次

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日本擬人名辞書(か行)

日本擬人名辞書(か行)

日本擬人名辞書』(宮武外骨編)をテキストにして提供します。

日本語には人名に擬した言葉が数多くあります。この辞書は、それらを収集して整理したものです。「安達太郎」とは、どのような意味だろうか確認したいときに役立つと思います。

表記は可能な限り原文に従っていますが、読みやすさのため新字体に変更したりしています。学術的な引用には適さないので、参考程度にご覧ください。

(2011年1月 金森国臣)


河瀬喜内(かわせきない)

取引先より為替来(き)ないとて債主に猶予を乞う人をいう。此語呂合せ氏名は近世明治時代の仮作ならんと思いしに安永頃の川柳に「かけとりの言いわけ河瀬喜内する」といえるあり。

往年或人に「河瀬キン」といえる囲妾あり。電報の「為替金」と間違いたりといえる事を新聞紙にて見たり。

鴉勘左衛門(からすかんざえもん)

江戸時代の童謡に、鴉が塒(ねぐら)に帰るを見て「からす勘左衛門、うぬが内は焼ける、早く行って水かけろ」といえるがありたり。勘左衛門とは鴉の「か」につづけし語調に過ぎざるものにて何等の意味なし。

また大阪地方にては無銭者を「鴉勘左衛門」と称す。花札の八々にてカラスという如く、カラスを空虚の義に用いしなり。勘左衛門は「鴉勘左衛門」といえる右の成語ありしによるならん。

嬶左衛門(かかあざえもん)

家長権を振り回すが如き妻をいう。「嬶天下」とも称す。此語は元禄頃よりの流行詞なりという。

『俚言集覧』には「妻のことを老婆という意。または人妻の厳猛に喩へていう也」とあり。

難解の川柳「留守をあずかるからカカア左衛門なり」。女に左衛門といえる男名をおうせしは、男性的の性格を有する者としての詼銚嘲なるべし。青砥左衛門の不在中、其女房が代理として裁判せしに起るというは、落語家の名戯作なり。

皮太 皮太郎(かわた かわたろう)

金森註記:差別語のため掲載していません。

交野少将(かたののしょうしょう)

隠すべき物事を包み隠しせざる人をいう。虚飾なきザックバランの人格を嘲りていう意と、思慮の足らざる軽率者をいうとの二様に用いらる。「あけ」は開放の義なり。

角兵衛(かくべえ)

文化頃の川柳に「角兵衛の姉とは見えぬ八文字」いえるあり。全盛の花魁も生国は越後にて獅子舞生活の弟を持てりとの嘲晒なり。斯く角兵衛獅子は著名なる故に、「角兵衛」を異名とせる他の事物も多し。

武蔵西多摩辺にては葱の一種を「角兵衛」と呼べり。其葱は管状葉の頂に分栽し得べき数多の新芽を生ずるものにて、頭に足がつくというによりて角兵衛と呼べるなり。

商家にて俗に「折(おれ)」と称するは、元値一円の品を二円に売ることなるが、之を「角兵衛」ともいえり。角兵衛獅子の体が二つ折れに成る因るなり。

鮫の類に「角兵衛」といえるもありと「傍廂」に見ゆ。角兵衛獅子に似たる猫鮫の如きをいうか。

河太郎(がたろう)

河川または溝堀等の水中に入りて金属類の屑物を拾い取る者をいう。河にて働く男という義にはあらざるべし。水中に棲めりという虚構動物水虎「河童」一名「川太郎」に似たりとしての名称ならん。

幸兵衛(こうべえ)

「東京にて家主をいう。小言幸兵衛の落語より出ず」と木念寺報にありたり。

金森註記:原書は「かうべえ」で立項されています。表記も「かうべえ」

嘉平治(かへいじ)

銘撰織の袴地をいう。嘉平治平(かへいじひら)というを略せしなり。此固有名詞の人が発明せしものならんと思えど、その考証とすべき資料なし。

寒四郎(かんしろう)

旧暦の十二月、小寒に入りし日より四日目をいう。八専に入りし日より二日目を八専二郎と言い、土用に入りし日より三日目を土用三郎というが如く、日次を出生児に喩えしなり。寒太郎、寒次郎なくして何故特に寒四郎というやは、此日降雨あれば天侯悪しとせしに因るなり。

堅蔵(かたぞう)

律義、正直者をいう。石都金吉というに同じ。誘惑に陥らざる堅実の人という義。

勝山(かつやま)

勝応の頃、湯女として名高かりし丹前の勝山が、万治三年に吉原の遊女となりて結い初めし髷の形を勝山と呼ぶなりという説と、元禄の頃、吉原巴屋に勝山といえる遊女あり、其勝山の結い初めし髷なりとの説もあり。川柳「いい女郎世上の髪に名を残し」。

勘八(かんぱち)

「グチ」または石持といえる魚に似し赤色の海魚をいう。語義語原は徴し難し。

久三 久七 久助(きゅうぞう きゅうしち きゅうすけ)

此三名は皆下男の通称なり。昔京都にては一季間の奉公人を久三と呼び、江戸にては渡り者を久三、長く勤めし者を久七または久助と呼べり。後には何等の区別なく一般下男の異名と成れり。勤続の奉公人を便宜とし利益として「久」の字を用いしなるべし。

喜左衛門(きざえもん)

上野国草津地方にて空腹の意に用ゆ。京阪地方にては、空腹の事を「腹が北山」という。北山は何時もスイて見ゆるとの意より起りし語なりと聞く。関東にても亦言いしか。馬琴の文句に「腹は北山、いざ南の茶屋に東西(もの)買はん」というあり。喜左衛門は此北山の転訛か否か。或は卑俗の故事あるに由るか否か不詳。『柳樽』四十二篇に「年礼に預け過ごして喜左衛門」といえるあり。空腹の義とすれば句意解し易し。石川県地方にては、威張る際「腕は喜左衛門」といって力むよし。語義は異なるべし。

『想古録』に「三人喜左衛門」といえる奇談あり。

「今は昔、江戸両国の名主小西喜左衛門、一年(あるとし)上州草津へ入浴の途中、ある山阪を駕籠にゆられて行きけるが後なる輿丁(かごや)は相棒に声かけて「おい相棒てめい喜左衛門か」と問えば、前なる輿丁「おうさうよ、てめいも喜左衛門か」という。輿中の小西は不思議に思い、偖々奇なる事もあるもの哉。二人の輿丁の喜左衛門なるに、乗れる我も同じ名なり。これも何かの縁なるべしと感に堪えつつ、尚おして「お前達は二人共喜左衛門か、実は我も喜左衛門だ」といえば、輿丁二人は声を揃へて「左様ですか、旦那は何時から喜左衛門ですか」と問う。小西は「親代々からよ」と答うれば、二人とも訝しげに苦笑いして止みき。後にて聞けば喜左衛門というは彼地の方言にて、腹のすきたる事と判り、あり合う人々は手を拍って大笑したりという」

喜助(きすけ)

吉原妓楼の二階廻しの雑役を勤むる若い者の通称なり。遊女付属の新造などは常に叫んで曰く「喜助どん、花扇さんのお床ですよ」と、客の臥する蒲団を敷くが喜助の擔当なるが故なり。昔は遊女都屋の行燈の油差しをもなせり。古き川柳に

「お手前が喜助か、時にあの女郎」
「コリャ喜助、身共、枕は買ひに来ぬ」
「ぶうぶうと屁ッぴり腰で喜助詫び」

などあるは、所謂「浅黄裏」(田舎武士)がフラレることを詠みしなり。

語原は意義あるにあらず。何屋かの固有名詞が普通名詞に変ぜしなるべし。

喜十(きじゅう)

明和の頃、江戸三美人の一たりし笠森稲荷前の水茶屋お仙に関する川柳に

「土団子喜十使ひながら買ひ」

といえるあり。艶嬌のお仙に接近せんとて、虚病を装うとか、戯れながらとかいう句意ならんと察すれども、喜十の語義未詳なり。

牛太郎(ぎゅうたろう)

遊里の妓夫をいう。人間の業にあらずと卑みし語なり。

「牛」は「ギウ」にて「妓夫」の転にあらず。遊郭創始の頃より遊女の事を取扱う者を「ギウ」と呼べり。「ギウ」は意義不明の金山詞なりという。

「ギウ」を「及(きふ)」字形より出ずとし、また「ギウ」を「岐有」と書き、花に廻ると解するなどの説あれど、いずれも採るに足らず。

普通の相対呼称は「若い者」または「若い衆」なり。

「妓夫」は古来の「ギウ」に当てし近世の語なり。「牛太郎」の語も亦古からず。

然し「牛」字を当ることは古し。寛永頃の『待乳問答』に「牛ノ字ヲ用ユルハ非ナリ、及ノ字ナリ、但シ花車ニ對シテハ牛モ因ミアリ」と見ゆ。

支那にては彦星を「牛郎」といえり。牽牛の牛なり。日本の宗教家に「中西牛郎」あり。反対者此人を罵しりて「中西牛太郎」と呼べり。

義太夫(ぎだゆう)

東都にて浄瑠璃節をいう。貞享元禄の頃、大阪の竹本義太夫といえる者、従来の曲節に改良を加えて語り出し、近松門左衛門の作と共に好評を博して義太夫節と称えらるるに至り、其後は単に義太夫というが浄瑠璃節の代名詞に成れるなり。

近年東京にては女の浄瑠璃語りを「タレ義太」と呼べり。

タレは女陰の異名にて、義太は義太夫の略なり。

金太郎(きんたろう)

赤ら顔の人、または洒に酔ひて顔の赤く成りたるを「金太郎の火事見舞の様だ」という俚言あり。顔の赤き金時の長男と見立てて金太郎と呼びしならん。

吉原妓楼にては無銭客を「金太郎」といえり。反語なり。

金ちゃ金十郎(きんちゃきんじゅうろう)

「今遊里の方言に、痴呆(ばか)の異名をきんちゃ金十郎といえり。誰々も其義を知らずして言い馴れたりと見ゆ。きんちゃは金車の誤なり。〔諸艶大鑑〕今のはやり太夫、金車引もて五日や七日には逢事まれなるよねさまと同じ日おしやるはおろかなることや云々。此金車にてもとは金多く使う事を言いしが、はてにはたわけ者の事となりしなり。金十郎は金というより付たるにて外に意味なし」と『嬉遊笑覧』にあり。上等の遊女は金づくにて応ずる者あらず。然るに大金を無駄に遣うは愚なる客なりと罵りし語と解すべし。

京助(きょうすけ)

宴席にて他人の盃洒を助けるに、残らず飲み干し、更に一ぱいに注ぎて返盃することを、江戸にては「京助」と言い、上方地方にては「江戸助」と言いたり。これは京または江戸の産物を扱う商船は、来たりし時積荷残ならずをおろし、去る時更に其地の産物を仕入れて積込むに喩へていえるなりという。

雲助(くもすけ)

古は浮浪人を言い、後には旅路(たびじ)の雲助とて宿駅の駕夫(かごかき)をいえり。『俚言集覧』に曰く「逃亡無籍の徒、所定めず宿もなき者をクモスケというは、雲の定めなき意なり」

一に「蜘蛛助」と書けり。蜘蛛の子を散らすが如く、行方定まらざるに因るという。

文政の頃、仏庵中村弥太夫、別号を「雲介舎(くもすけや)」と称せり。此号は曾て箱根にて駕夫より貰い受けし竹杖に諸名家の題詩を刻して愛玩せしに因るなり。これは鳥中銅詠の狂歌「雲助行」の結句に「一本有竹杖、万里可横行」とあるにて、雲助の身軽気軽なる境遇を適意とせしに基くなりという。享保の頃「風前ノ雲助」と号せし人もありたり。

雲見山(くもみやま)

力士の名乗に擬したるものにて、力量弱く、いつも敵に投げらるる相撲取をいう。仰向けになって雲を見るとの意なり。「鍋蓋山」というもこれに同じ。

ぐづろ兵衛(ぐづろべえ)

性格のノロマ、遅鈍の者を罵しりていう。「ぐづ」はぐづぐづのぐづなり。此語明和安永頃の『末摘花』に多く出ず。

「ぐづろ兵衛婿の不足のおこりなり」
「賽日の客切店でぐづろ兵衛」
「恵美の押勝俗名ぐづろ兵衛」
「ぐづろ兵衛足をゝゝんでゝゝつける」

『燕脂筆』の解説に拠れば、性格のノロマを罵る語意を転じて、陰萎病または乱酔にて性交遅鈍の者をも「ぐづろ兵衛」と呼びしが如し。

ぐうたら兵衛(ぐうたらべえ)

性格のノロマ、遅鈍の者を罵りていえる「ぐづろ兵衛」の転訛なるべし。「ぐうたら」はグタグタにて物事の確定せざるにもいうなり。

郡太兵衛(ぐんたべえ)

田舎者の義なり。川柳に「郡太兵衛さんあげやすと芸子さし」といえる句あり。一般語には非ざるべし。

熊谷(くまがい)

「大道の易者に三態ある。沈黙して客の付くのを待って居るのが一で、之を「天禄」と言い、通行人をモシモシと呼び止めて手相を見ましょうなどいうが二で、之を「熊谷」と言い、相手なしに易の文句を独語して居るのが三で、之を「啖呵」というのである。右は現今も尚通用して居る」(スコブル)

一は天禄を待つの意。三は咳払いして饒舌るに因る。ニの「熊谷」は熊谷直実が一ノ谷にて平敦盛を呼び止めしという歴史上の故事に拠りしなり。

「熊谷」といえる草もあり。「花の形、熊谷直実の背負いたる母衣に似たりと名づく。高さ五六寸、葉は蕗に似て小し。春期紫色の花開く。観賞用として栽培せらる」と植物書にあり。また「熊谷」といえる桜の一種もあり。彼岸桜に次ぎて花開くなり。

宮内様(くないさま)

生活法の安定せる者をいう。苦しき思い無く、ノンキに日を暮らす人。その「苦無」を「宮内」にかけていえるなり。

玄田牛一(げんたぎゅういち)

「吝」を「文口」という如く、罵言の「畜生」を人の氏名に擬していう隠語。「玄田」は「畜」、「牛一」は「生」なり。「げん田」と呼ばして「くろ田」と呼べば最も妙なるべし。

見物左衛門(けんぶつざえもん)

能狂言の題、及び謡曲にも此名称あり。また「都見物左衛門」といえる作り物語本もあると聞く。天明頃の川柳に

「見物左衛門駕籠(かご)かきに邪魔がられ」
「見物左衛門をあてに土手の茶屋」

などいうがあり。これは田舎より来たりし見物人のことのみにあらずして、一般の素見客をいえるならん。此語は「都見物左衛門」の略たるこという迄もなし。

下卑蔵 下卑助(げびぞう げびすけ)

俗にいうイヂキタナキ者、摘み食いなどする者を言い、広義には凡て卑しき挙作ある下劣人を指して呼べり。

玄さま(げんさま)

昔吉原にて坊主客を呼べり。寛文頃より宝永頃までの流行語なるべし。『嬉遊笑覧』には、吉原にて坊主客をげんさまというは還俗の「還」かとあり。『俳諧恋の栞』には、玄(くろ)き衣なれば「玄」というとあれども、両説共に非なり。

『新吉原常々草』に「浅草あたりの玄、いろ里にうかれ行き」の註に「総じて坊主の事をいずれにても玄といえるは彼里の言葉なり。是は近年のいしゃ坊主大かたはくろ玄をつける事なれば、かくいうなるべし」とあり。此説を可とすべし。坊主が僧体にて郭内に入るを憚り、医者めかして長き羽織を着して行けるなり。其頃の小唄に「げんさまの長羽織、づべしに張り肱ぢや」といえるもあり。

くろ玄をつけるとは道玄、真玄、玄沢、玄庵などいう名多かりしなり。此「玄」は官医曲直瀬玄朔より起れり。『皇国名医伝」に、玄朔の門人皆玄の字を用ゆ。末流別支終に海内に遍く、今に至りて医名玄字を称す。其盛を験すべし。寛永八年江戸に歿す。年八十三とあり。

『末摘花』に「裏門は情が薄いとげんがいひ」とあるは、若衆買よりは吉原遊びがよいと坊主がいうの意なり。

玄能(げんのう)

『世話重実記』に「石を割る金槌を玄能という事、昔下野国那須野に石あり。殺生石と名づく。玄能和尚杖を以て此石をたたきて偈を唱して野狐をあらわしたまうという。これより石を割る黒金の槌を玄能というなりとあれども、『南留別志』には「石を割るものを玄能という。殺生石を砕きしという僧の名とせるは、謡つくりの人の滑稽なるべし」と見ゆと『俚言集覧』にあり。(普通本『南留別志』には此事見当らず。

僧名は「玄翁」にして大鉄槌は「玄能」なりとの説もあり。其是非を知らず。姑く前記の俗説によりて此書に収む。

源助(げんすけ)

「心得顔に事を為して直ちに失敗したこと」と大阪本の『物云ふ辞典』にあり。大阪にてはヘマを「源助やなァ」といえり。北区内に源助といえるトンマ男ありしに因ると聞けり。東京にては劇場の木戸札をごまかして木戸銭を盗む男を源助と呼ぶよし聞けり。

此外、大阪には同義の「新兵衛」といえる語もあり。

源蔵(げんぞう)

京都府警編纂の『隠語輯覧』に犯罪人の用語として源蔵―陰茎」とあり。忠臣蔵の赤垣源蔵が冬日股間に洒瓶を挟みて歩けりとの事より起りし語ならん。

慶庵(けいあん)

古くは嘘をつく軽薄者追従者を言い、後には媒介業者の異名となれり。寛文年中、江戸京橋木挽町に大和慶庵といえる医者あり。婚姻等の媒介を業とし、誕詐をいうこと巧なりしより起るという。また異説あり。医者にあらず狂人の名なりと。『伊呂芝居』には、茶人を慶庵というとあり。『通詩選笑知』には「慶庵とは藪医者の表徳なり」とあり。近頃犯罪人の隠語には、裁判所を慶庵と呼べり。仲介業者の如く人を監獄にハメ込むとの義なるべし。

「慶庵」を「慶安」と書きしもあり。大和慶安が本名ならん。また「桂庵」と書きしはアテ字なるべし。

金森註記:「誕詐」の意味が不明です。読みも不明です。

毛太郎(けたろう)

「毛虫をいう。福島県の方言」と木念寺報にありしのみ。

権助(ごんすけ)

飯炊き男などの通称なり。炊事は普通婦女の業なれば、其権助、カリのスケ役なりとの意より呼び初めしならんか。『貞永雑記』に曰く

「権兵衛、権右衛門などの権の字も官名なり。何の官は幾人という定法あり。然るに人数不足の時は、人数を増して役を勤めさするを権官という。たとえば左右衛門佐(すけ)は一人の定めなれども、勤方事しげく人数不足なれば、今一人左衛門佐を増して被仰付を権左衛門佐というなり。

権八(ごんぱち)

「食客の義。東京職人間の通語。語源は知れず」と木念寺報。これは演劇の平井権八が小紫と共に一時幡隨院長兵衛方の食客に成りしといえる事より採りたる語ならん。『隠語輯覧』にも「権太−食客」とあり、職人間の通語を犯罪人の隠語と聴き誤りしなるべし。

権兵衛(ごんべえ)

関西にて蒟蒻をいう。「権兵衛蒟蒻、辛度(しんど)が利(り)」といえる関西の俗諺より起りし語なるべし。此俗諺の意義不詳なれども、予按するに、東京にて「みづぐも」といえる水觚虫(河童虫(かっぱむし)、蛙挾み、魚挟み、とんぐわ虫などいう異名多し)。此虫を播磨地方にては権兵衛蒟蒻と呼べり。(語原は不知)。此虫が水中にて大なる蛙または魚などの尻尾に挾みつきて餌食になさんとすれども、自己の体量軽きが為め、彼方此方へ逃げる蛙または魚に引きずられて、其勢力と根気衰え、遂に手放すに至ること多し。これを権兵衛蒟蒻は辛度が利。即ちくたぶれ儲けなりというならん。

権太(ごんた)

ユスリなどする俗にいう「悪ビレ」者の異名。関西にては小児のヤンチャなる者をいう。演劇の「義経千本桜」にイガミの権太より出でし語なり。

権蔵(ごんぞう)

「下前の労働者、仲仕人足、関西の語」(物云ふ辞典)

権左衛門(ごんざえもん)

「武州増林村の土人いえらく。すべて桃にわせ、なかておくてあり。なかての桃を権左衛門と号すと。其権左衛門の花盛りを見るに、皆所謂桃色にして更に他色を交えず。其桃花を見て「こそよけれ下戸にはあらぬ権左衛門」。按ずるに、権左衛門はかの稲に太郎兵衛、弥右衛門、長松などの名あるが如く、其初め植初めし者の名をおえりしものなるべし」(さへづり草)。

権兵衛太郎兵衛(ごんべえたろうべえ)

いずれにしても同じ事なりという意に用ゆ。権兵衛と名乗るも太郎兵衛と名乗るも、其実質は逕庭なき人物なりという義なり。

五郎四郎(ごろうしろう)

『風俗文選』に「筑紫に五郎四郎というものあり。其性は小麦の餅なり。明暮これに馴れたる人は、ただ五郎四ともいうなり」とあり。また『さへづり草』にも同じ事を記せるのみにて何等の解なし。

五郎助(ごろすけ)

梟(ふくろ)をいう。「ゴロスケこうこう」と鳴くというに因る。『洞房語園集』の梟弁に「さいつ頃葺屋町の小芝居にて、天狗の見世物天狗の見世物と呼はって、手を叩き人を招く。何ならん偽(だま)さるるとは知りながら、這入りて見れば、梟の額(ひたい)の毛をむしり、丹を塗り込み、小さき兜巾(ずきん)を冠せ、紙にて裁付(たちつけ)を履かせ、其儘書ける芝天狗の如し。世の中をたわけにしたる様なれども、さりとては憎からず。きゃつも鳥の中の道戯方(どうげかた)なるべし」とあり。太郎坊次郎坊は天狗の名なり。此梟天狗は五郎助坊と名づくべきか。

小蔵(こぞう)

丁稚を小僧と書けども、元は小蔵と書きしなり。小童の小に人名らしく蔵を添えしなるを、いつしか其名を寺の小僧に奪われしなり。

小林大六(こばやしだいろく)

林六をいう。小さき林に大きな六の字。『小野のばかむら嘘字づくし』の一なり。之を反対に書けば大林小六。

小林大六

こんきち様(こんきち)

狐をいう。また転じて人を訛かす遊女をも「こん吉」と呼べり、狐の鳴声のコンコンより出でし語なり。「紀伊国」といえる端唄の合に「こんこんちきや、こんちきや」というも、これに縁ある語なるべし。

吉原三浦屋の遊女吉野といえるが、度々妊娠して子を産みしとて、或人

「子をやすくたびたび生めるゆへにこそ
  こんきちさまと人はいふなり」

との狂歌ありしこと、寛文六年版の『吉原袖かがみ』に見えたり。「様」の敬称を付けしは、当時の遊女に対する風習たりしなり。

ころ蔵(ころぞう)

寛永の頃、江戸小石川白山に居りし私娼を「ころ蔵」と呼べり。後に「ころび芸者」と言い「けころ」というがありし如く、寝るをころぶと称せしに因る異名なるべし。

此語は寛永七年版の『寛濶平家物語』に「目黒の茶屋女品川のれんとび、白山のころ蔵……」とあり


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