編輯雜記
一
『しがらみ』はふるく万葉集にも『明香河四我良美わたし塞かませば』などと見えて、『塞搦』の約れるものとの解をしてゐるものもあるが、『柵』『■(竹/册)』または『寨柵』の字をあてたものもある。とにかく流水を塞くために杭木をうち横に竹木などを密にわたしたもので、共処には静かで深く和かな淵を湛へるが、寨柵から溢れこぼれる水は寂しい音を立てて白く激つて落ちる。予の郷村は深い山峡にあるが故に、河流の至るところにこの寨柵かまたは堰柵を構へて峡田に水を灌ぐものが多い。それは真夏青々とした山蔭にあるにしろ、冬枯の山下で朽葉の流れかかつた所にあるにしろ、何れも懐しい寂しさを人のこころに誘ふものである。予はながく郷村に帰住して、朝夕にこの寂しくて単調な、寨柵の水の姿と音とを最も愛してゐた。思ふに予がその間に詠んだ郷里の雑歌には、或はおのづから斯くのごとく、単調で寂しくて人の目に立たないやうな歌姿と声調とを帯びて居るものが恐らく少くあるまい。予は敢て予のかすかなる歌をこの寨柵の姿に擬へんとするのでは無いが、予は『しがらみ』の寂しさを愛し、予の峡村に帰住した静かな生活を追憶するが故に、今親みを以つて茲に予のこの歌集に『しがらみ』の名を選んだ訳である。
二
今の予の人生に於ける願望は極めて平淡である。作歌の生活は最早今は、予の生命から取り離せぬものとなつて居るとしても、それ以外の実生活について、予には別に通常人のそれと殊異な生活に居らうと云ふ望はない。予は彼等のごとく生き彼等の如く俗務に働いて、彼等の生活感情の雰囲気に親しく浸つて居ればそれでよいのである。但しその意味は必ずしも予の深奥部の感情生活までをも、この雰囲気のうちに同化し没却して了ふと云ふのでは無い。それかと云つて勿論反対に通常人の生活感情を蔑視して、独自を矜恃する感情に陶酔しようとするのでも無い。若し我々がこの通常人の感情の雰囲気に親しく浸つて、そこに犀利の眼を放つてその生活感情の根帯を剖いたならば、或はそこで最も博い人生の真に参候することが出来るのでは無いかと思ふのみである。予は予の歌についても生活についても、それが華かな光彩を放つときが無くとも決して悔としない。只だ予の心願が微かでもこの境に通ずれば夫れで満足である。予の歌と生活とに対する願望はかくの如く平凡である。(六月八日)
三
『東風幾渡酔未醒。至顔色似桃花。』確かに覚えぬがこんな文句であつたと思ふ。誰人の詩句なのか、平仄も意味もこれでよいのか夫れも知らね。拙い桃花一枝の水墨画に、それでも何処か支那人らしい筆致で、この句が書き添へてあつた。それは今から十年も前、学生時代に本郷で下宿してゐた、予の一室に掲げられた薄汚い扁額の文句である。
恰度予はそのころ、その扁額の下でこの詩句が象徴するやうな、超脱的と云へば超脱的で、また四囲の世界に対して何等の屈托なき、漂渺たる陶酔気分と云へばさうも云へる、しかし不規律で頽廃的な、実世間の生活に全く根をもたぬ、放肆な生活をしてゐたのであるが、その『林泉集』時代の生活を顧みると、今編んでゐるこの『しがらみ』時代に表れた予の生活なり気持なりには、かなり著しい変化が伴うてゐるのを感じないでは居られぬ。
予が家庭上の都合で『林泉集』時代のかうした生活を切り上げて、郷里に帰住したのは大正五年の十月中旬であつた。予の郷里と云ふは中国山脈の小峡間に介在した寂しい一宿駅である。此処では新しい文化教青を受けたほどのものは、大抵が広い世間で働くために他郷へ巣立つて行くのであるが、独り予のみは逆に都会から帰つて、そこの古い宗族のなかで父祖以来の家業に就いたのである。かうして自由な旅から帰つて急に身辺に多くの家族の煩累のあるのを感じると、予も今迄までと違つておのづから重い責任ある生活のうちに起居せねばならぬを感じた。それのみで無い。何処の田舎にでもあるやうに、矢張この狭い寂しい村にも、窮屈な土俗の因襲と、煩雑な人事の交渉とがあつて、予はそれにも煩しく接触して行かねばならなかつた。此処で世間の狭いことは、例へば気まぐれに大きな声一つでも出したとしたらば、それは忽ちに村中を驚かして響き渡るほどである。すべてが彼の『桃花一枝』の扁額のもとで、ひたすら若き人生の感傷に浸つてゐたころの世界とは、世界が全く違つてゐるのである。予は四囲が急に挟まつて俄かに現実的になつたやうな気がした。またある時には出て眼に入るもの皆山なるを眺めて、此処に永久に住まねばならぬかと思つて、予はしばしば云ひやうのない寂寥を感じたこともある。
しかしこの境遇の変化も慣れるにつれては、予に別種の慰めと意義とがあることを知らせてくれた。予は次第に今迄全く無関心に過ごして来た実世間の通俗生活について、始めて此処でその真義と興味とを知ることが出来た。同時にこの郷村の山川草木と土俗人情とのうちに、従来感知しなかつた、新しい深い姿の潜在するを発見することも出来た。都会生活に現れる人生の流転相にはその外観が多種多様であつても、内的には何処かに緊密なる有機的分子を欠いてゐる感があるが、田舎生活に現れる人生では、悠久なる自然につつまれて流転する人一代の始期と終期とに亘る諸相は固より、更に数代に連続する人間生命の開展をもしみじみと通観することが出来る。都会では隣人の生活には全然没交渉で冷淡にして住んで行けても、田舎では一々の巨些の行動まで、里人の生活と感情とに交渉なしには暮されず、時としては極めて自分とは縁のない里人の身上の変動についてさへ、その煩累の一部を分担せねばならぬ事がある。それを単に厄介で煩はしいと云へばそれ迄であるが、然し人と人との心が深く強く連結されてゐる、真意義ある人間社会生活は田舎で感得することが出来るのである。まことに此処で生息して居るものは、草木鳥獣魚介さへも一つとして、人間の社会と密接なる交渉をもつて、広い一団の社会を造らぬものは無いとも云へる。予の心眼はまたかう云ふ方面へ対しても目覚むるに至つた。
兎に角郷村の帰住に慣れるとともに、かうして予は実世間の生活に親んで、それに対する理解と興味とを漸次ふかく感ずるに至つたのであるが、これは予にとつては忝ない心境の変化であつた。思ふに『しがらみ』を『林泉集』と分つて、その特微をなすに至るものあれば、それはこの変化であるかも知れない。而して『しがらみ』も元来ならばこの特徴で一貫した峡村雑詠のみで、その最終の頁まで占めらるべき筈であつたのだが、近年に於ける予の外的生活の移動は自然と『しがらみ』の後半へ、異郷に於ける予の風詠をも交じふるに至つた。それがためにこの集の単純体に多少破れて居るかも知れぬが、併しそこには又別種の趣様を添へるものもあらう。
予は帰住足掛五年、しかも安穏に山峡四囲の風物人情に親しんでゐた生活を離れて、何故再び都会の生活に身を委ねるに至つたのか、それは別な理由をもつ予の自発的心願から起つたことであつた。予は帰住して実世間の生活に触れるとともに、はじめて今迄ただ若き感傷世界に陶酔して、修業も怠れば自己の活くべき実世間と云ふものにも全然無関心であつた、過去の放肆なる生活について悔恨の念を生じた。第一予は予の内部に於ける実世間生活能力の、著しく萎縮退化してゐるのをしみじみと寂しく感じた。それのみならず予には社会的にも自已に対しても、予の受けた専門教育に報ずるべき責任があつた。予は今の若さのうちに、もう一度繁劇な広い社会へ出て働いて、これ等の悔恨を償ひたいと思つたのである。幸に家庭の同意を得たので遂に大正九年の春阪紳の郊外に出住することになつた。
事実を云ふと、かくの如く予の出住は一種の新しい苦労な修業への旅立ちであつた。最初の一年半は、折柄経済界に吹き起つた恐慌の大台風のために、予定して出た仕事には頓挫が生じたので、その間は空しく手を拱いて遊んで暮したが、まことに不愉快と焦慮との生活であつて、この時予は無職で徒食するものの苫痛と寂しさとをしみじみと感じた。而して予の日的に適ふやうな新しい仕事を、新聞社で見つけたのはやつと大正十年の十月末であつた。恰度その時には独逸へ留学する斎藤茂吉君が神戸で二三日上陸して予の仮寓に泊つて居た。予は茂吉君を神戸埠頭に送つていて、その脚ではじめて新聞社に出勤したことを覚えてゐる。これで予も始めて人並みに、自分で贏ち得た資料をもつて糊口して行けるのだと思つた時は、自ら感謝の念が湧いた。少くとも平凡な予の過去にとつては、この位のことでも生活上の重要な一転換であらねばならぬ。従つて予が『しがらみ』の歌をここ迄で区切つて、特にこの小記を添へるのもこの心からである。恰度『しがらみ』の出版は、この生活変化の紀念塔を建てるやうなものだ。
四
『しがらみ』を編む気になつたのは大正十一年のことである。前年秋独逸に留学する斎藤茂吉君は神戸で別れ際に、予に早く『しがらみ』を纏めるやうに呉ぐれすすめて発つて往つた。其後島木赤彦君からも又しばしば同様な勧めが来た。赤彦君も、茂吉君も、そのころ兎角作歌生活に怠り勝ちであつた予を激励するためには、ここで歌集でも纏めたら、多少予の作歌欲も新しく燃立つてくると思つて呉れたのであらう。予も生活が前年新しく転換してゐた際であつたから、これを区劃として旧作を纒めてもよいと云ふ気がしてゐた。恰度有難いことに、当時京都大学と仏教大学に在学中のアララギ同人で起してゐた歌会の人々のうち、小川政治君が引受けて『林泉集』以後の予の歌を浄写してやらうと云ふことであつた。予が小川君からその『しがらみ』の浄写原稿を頂いたのはその年の真夏であつた。
扨て纒つた原稿を見ると、歌数が意外に少く三百首そこそこなのに驚いたが、同時に予の古い手帳には、未推叩のままで放擲してあるもの、或はその二三句が成つて未だ全形の成らぬもの多きを思ひ出し、どうせ『しがらみ』を編んで、それに手頃の体裁を与へるためには、これ等の歌屑を整理して新に世に発表した方がよいと思つた。そこで予は休暇で帰省した機会に、その古い手帳を探し出して持つて来などして、閑々にボツボツとそれ等の整理をはじめた。
歌屑の整理について何よりも困つたのは、予が前年新しく忙しい職業についてからと云ふものは、著しく頭脳が混乱し感情が散漫になつて、気分に落着く余裕が無いことであつた。新聞事業の生活はその日の新聞を読んだ時からが、既にその勤務時間に入ると云はれて居るほど気忙しい。従つて朝起きるとすでに感じる、この気忙しさを静めねばならぬ。さて歌屑の整理と推叩とに頭が漸次澄みかけてると、この頃には恰度出勤の時間が迫つてゐる。夜は夜とて帰つてくると、一日の刺戟の激しい生活で神経がぐつたりと疲れて了つて居る。兎に角始終何物かに追ひ廻されて居るやうな、慌しい気分で暮さればならぬのがこの生活であつた。短歌の改作のごとき最も機微に触れねばならぬ為事は、こんな慌しい気分に居てはなかなか捗るものでは無い。予はせめて一週間なり十日なり、連続的に自由に使へる時間が欲しいと思つたことが幾度だか知れない。こんなに古い歌屑を苦しんで整理するよりも、寧ろ今の感興を新しい歌に作る方がどれほど楽だか知れぬと感じたことも度々であつた。しかし既に泥田に足を踏みこんだやうなもので、中途からこの為事は抜差し出来なかつた。
こんな事から一旦手をつけた『しがらみ』の編集も怠りがちで、終には永らく放擲したままで過してゐた。すると昨年の春ごろから再び赤彦君の頓繁な督励に会ひだした。それで出版所もいよいよ岩波書店にきめて、予は再び『しがらみ』の編集を進めることにした。八月には大部分の原稿の浄写も出来て、恰度これから予に順番が廻つてくる、十日の交代夏休暇のうちには、一切の原稿を整理して岩波書店へ渡さうと思つた時である。その時に昨年の大震災が突発した。
震災後の数ヶ月は新聞社で、ことに経済方面を担当している、予の生活は頗る繁忙を極めた。それに出版界の回復はおろか、帝都の復旧さへ目算が立たぬほどであつたから、歌集の出版などは全く予の念頭を離れゐた。然るに年末ごろであつたか、突然岩波氏から元気のよい『しがらみ』刊行の督促が来た。そこで予は震災直後で最も重大な第一年末を、経済界が無事に経過したのを見た後、本年になつてから三度『しがらみ』の残部の編集を続けることにした。漸く原稿を東京に送つたのは二月の末頃である。しかしその後印刷所に原縞が廻つてから其処での手違ひや、校正の出るころの予の旅行または事故から、それに新にこの編集雑記の追加などで、この歌集が世に出る日はいよいよ延びて遂に初夏の候となつた。編集を思ひ立つてから二年目である。予は屡々熱心に『しがらみ』出版を督励し期待して項いた方々に対して、これを誠に済まないことに思つてゐる。最初古い歌屑の整理に手を着けさヘせねば宜かつたのである。予は今後新しく歌集を編む時には、再び旧作にこんな愚鈍な愛着を、もつやうな真似はすまいと思つてゐる。
五
『しがらみ』に収めた歌は五百五十九首であるが、編集にあたつて、余りに未定稿を完成して収めることに偏執したために、その種の歌が意外に多くなつて、二百数十首にも達してゐる。これには今更予も驚いた。このうちには固より当時雑誌へ発表する都合で、止むなくその連作中の二三首を削つて残して置いた者もあるが、併し当時ひとつの境地を中心にして歌ふつもりで、その数首が出来ても自余は片形のみが成つたままで、詠みくさしにしたものを、今改めて一篇に纏めたものも少くない。例へばその最も著しいものに、「病床惜春賦」五十四首と、「雨山暮情」以下比叡山の歌四篇四十六首の如きである。この他に「冷害」「河岩の上」「夏山」「初笑」(大正六年)「元旦」「杵の音」「浅春」「弟を悼む」(大正七年)「添水」「春峡清音」「朧夜」(大正八年)等も全く新しい題目のもとに本集に収めた歌である。「病床惜春賦」については、大正七年の初夏予が腸チブスの病後を内海の一港街に養つてゐた際に、疲労し切つた覚束ない頭で病中の記憶を呼び起して、一応歌の形に纏めて置いたものが、今度の改作の基本となつてゐる。勿論前後の関係で新しく作り添へたものも多い。「比叡山」の歌は最初の方のものを発表したまま、肝心の境地のものは歌ひ腐してあつたので、それも大体完成して加へることにした。
次に之等の補遺乃至追加の歌を集中年代の何れに置くべきかと云ふことになると、大抵が半旧半新の作であるので一寸その処置に迷つたが、しかし大体に於て、予がそれを歌にまとめ掛けたころの時代に収めることにした。若しこの編集の為方が、この集を年代順に読んで項く人にとつて、多少でも予の歌の発展の径路を通観する妨げとなつたら、それはこれ等の歌をひと先づ別箇のものと除外視して置いて、それから後に他の歌と参照して読んで頂けばよい。 新しく歌集を編むと云ふことは楽しみのやうでもあるが、反面に於ては一旦肚き暴した醜い自分の臓腑を、更にいぢくるやうなもので、途中で嫌気がさしてくることは大方の経験する所である。ことに予の『しがらみ』のごとく余りながく編集にぐずぐずとして居ると、一層その厭気もふかくなる。歌集の編集は須らく、静かな纏つた時間に於て一気に精神を集中して行ふに限る。この点で『しがらみ』は編集にむらがあり、時日を費したに拘らず慌しくて散漫な所が多い。今更悔いても致方がない。
六
この集を編むに当つてはいろいろの人から御厄介になつてゐる。小川君からは最初の原稿を浄書して貰つたが、これは二首組の体裁になつて居たし、新しく歌を補遺したものが多かつたので、後に全部予の手で写し直した。赤彦君には何時も編集に熱心な督促をうけて来たので、これを書店に渡すまへに一応通読を請うた。而して予が遠く東京を離れて居て不便であるために、殆んど巨細となく出版のことは全部同君の手を煩したと云つてよい。校正の一部も同君の厄介になつた。その他発行所の高田浪吉君等にもいろいろ尽力して貰つてゐる。
平福百穂画伯にはまた何時ものやうに表紙画と口絵とを御願ひした。表紙画は印刷が原画の趣を遺憾なく伝へてゐるとは云ひ難いが、しかし之れでも何れほど清すがしく高雅な気品が漂つてゐるか知れない。口絵は大正八年画伯が、重い盲腸炎を手術された後の保養旅行の途次、小生の山峡に訪れられた時に、親しく小宅の裏山を写生して頂いたものである。最初のは鉛筆画であつたが、それを今度態々和紙に書き直して呉れられたのである。それから森田恒友画伯にも御無理を御願ひして含蓄深い挿絵を頂いた。『しがらみ』のために有難いことである。恰度大阪市で第二回の春陽会展覧会を開かれた時に、東京から携帯して渡して下さつた。これで挿絵は両画伯によつて期せずして、山間と平野との景趣を併せ得たことになり、恰度この集に於ける予の二つの生活地相を表はしてゐるやうだ。忝い。尚昨年の地震の後、ミュンヘンから予の『しがらみ』が災を免れたかどうかと、心配して来てくれむ茂吉君は今巴里にゐる。岩波氏にもまた種々な配慮にあづかつた。かう思ふと微々たるこの『しがらみ』も多くの人人に手数をかけて出来たものである。予は茲に之等の方々に深く感謝申し上げる。
大正甲子十三年初夏、屋前池畔に咲く鼠梓木の幽かなる花を眺めながら、摂津国六甲山麓、鉾池庵にて之れを記す。
|