大正九年 (六十四首)
初雪
この雪に草鞋のあとをのこしつつ酒藏の男みづ汲みてとほる
聲かけてみづ擔きとほる男らの向うへいそぐ臀さむし 《みづ擔き(みづかき)、臀(ゐさらひ)》
米磨桶の水をあがりて眞赤なる蒸氣立つ脚ををとこ拭きとる 《米磨桶(しらげおけ)、蒸氣立つ(いきだつ)》
酒つくる冬とおもふ心せはし雪ふる今朝の洗場のうた
この朝け米磨ぎながす水じりに雪ふりつみて鷄あさらざり 《磨ぎながす(とぎながす)》
今朝みればおもはぬ雪が裏山の冬木ふゆ木にたまり光れり
いささかの時雨もさむき秋の末や今朝の山には雪ぞふりける 《時雨(しぐれ)》
冬枯れのこの山里に班にふれる今朝のはつ雪うつくしきかも 《山里(やまざと)、班(ふ)》
しづかなる飛ぶ鳥が見ゆうら山の冬木の枝に雪が散りつつ
やはらかきみ雪とけつつ裏山の冬木もくさも濡れいろになれり
大寒
大寒の夜さり凍みたる土間の瓶今朝汲む酒に薄氷うかぶ 《薄氷(うすらひ)》
朝門より風凍て吹きぬ土間のうへに埃照らしてくらき電燈のこる 《朝門(あさど)、電燈(ひ)》
洒買ひに朝はやくより來る子あり徳利を抱きて震へたるあはれ
朝さむし母屋のうちへ洒藏戸より蒸米のいきれ漏れつつにほふ 《洒藏戸(くらど)、蒸米(むしまひ)》
部屋ごとの朝の炬燵に釜場より大十能に火をはこばしむ 《大十能(おほじふのう)》
雪の日は店にくつろぎ物書きぬ障子あかりのとどく炬燵に
店さきの玻璃戸のそとに降る雪はとほる人にも見るみるたまる 《玻璃戸(はりど)》
樽負ひてはいる人あり小蓑より乾ける土間に雪をこぼして 《小蓑(こみの)》
あやまちし昨夜の水に凍つきたる朝戸敷居に湯をそそぎ繰る 《昨夜(ゆうべ)、凍つきたる(いつきたる)、朝戸敷居(あさどしきゐ)、繰る(くる)》
居竦縮めて朝あさ妻が拭きてやる幼兒ふたり頬霜やけぬ 《居竦縮めて(ゐすくめて)、幼兒(をさなご)》
米倉の小窓の霞網に追ひとりし寒のすずめをあまた括りぬ 《小窓(をど)、霞網(かすみ)、寒(かん)、括りぬ(くくりぬ)》
搾酒場
酒藏も母屋もしづまり初夜掻の〓(酉元)摺りうたはすでに止みたり 《母屋(もや)、初夜掻(しょやがき)、〓摺りうた(もとすりうた)》
酒藏に揚槽しまる音たかし夜は母屋の遠くまでひびく 《揚槽(あげふね)、母屋(おもや)》
算用を夜おそく終へし帳場にて人手をからぬ寢酒わかすも 《算用(さんよう)》
この家に酒をつくりて年古りぬ寒夜は藏に洒の滴るおと 《年古りぬ(としふりぬ)、寒夜(かんや)、滴る(たる)》
夜を凍みる古き倉から酒搾場の燈のくらがりに高鳴る締木 《酒搾場(しぼりば)、燈(ひ)、締木(しめぎ)》
燈のかげに酒槽のしまる音のして石を懸けたる男木ふるふ 《燈(ひ)、酒槽(さかぶね)》
夜くだちて締木の懸石の垂るおとも槽もをはりの滴りの乏しさ 《夜くだちて(よくだちて)、懸石(いし)、垂る(たる)、槽(ふね)、滴り(たり)、乏しさ(ともしさ)》
槽のしたの夜ぶかき瓶に下りて汲む搾りたての酒粕くさきかも 《槽(ふね)》
大氷柱
大屋根も小屋根も雪のしたたらず垂氷みじかき寒き日つづく 《大屋根(おほやね)、小屋根(こやね)、垂氷(たるひ)》
日竝べて火を焚く酒藏はぬくみ持ち屋根の雪とけて大垂氷せり 《日竝べて(けならべて)、酒藏(くら)、大垂氷(おほたるひ)》
酒藏の古屋根の灰汁しみとほる氷柱はながし軒ごとにならぶ 《酒藏(くら)、古屋根(ふるやね)、灰汁(あく)、氷柱(つらら)》
軒したに垂氷にとざすいく日か酒藏より出づる雪みちひとつ 《垂氷(たるひ)、酒藏(くら)》
軒ばたにきのふ拂ひし大氷柱今朝またむすぶ寒ふかみかも 《大氷柱(おほつらら)、寒(かん)》
會所場に寢鼾ふかき雪ぐもり軒に垂氷のひるも凍み居り 《會所場(くわいしょば)、寢鼾(ねいびき)、垂氷(たるひ)、凍み居り(しみをり)》
にはかなる去年の雪より取り納れぬ外の薪を堀るべくなりぬ 《去年(こぞ)、取り納れぬ(とりいれぬ)、薪(たきぎ)》
草の家の軒の氷柱に朝日照れり雪なかに鷄めづらしくうたふ 《氷柱(つらら)》
油燈
夜の酒藏に事おこれるを我れ知れり杜氏に蹤きて默りて行きぬ 《酒藏(くら)、蹤きて(つきて)》
桶の輪に油燈ひとつ懸けてある洒藏のおくに夜ぞふけたる 《油燈(あぶらび)、酒藏(さかぐら)》
夜の倉に人をはばかりぬ腐造酒の大桶のまへに杜氏と立ちつ 《夜の倉(よのくら)、腐造酒(ふざうしゆ)、大桶(おほをけ)》
夜ふかし醪の湧ける六尺桶に油燈を持ちあがりてのぞく 《醪(もろみ)、六尺桶(ろくしやく)、油燈(あぶらび)》
天井に鳴くねずみあり大桶のもろみの泡に燈照らし居れば 《大桶(おほをけ)、燈(ひ)、居れば(をれば)》
もろみ湧くいきれに噎せつ桶のふちにこの造酒の香を嗅ぎにけり 《噎せつ(むせつ)、造酒(ざうしゆ)、香(か)》
湧き鈍き大六尺桶に手をつけて温きもろみを洋盃に汲むも 《大六尺桶(おほろくしやく)、温き(ぬるき)、洋盃(こつぷ)》
燈のかげに胴ふとくならぶ桶の醪彼方こちに湧きて音のしづけさ 《胴ふとく(はらふとく)、醪(もろみ)、彼方こち(おちこち)》
含み〓(口利)くもろみの粒は酸くなりぬ土間にし吐けば白くおつる音 《含み〓く(ふくみきく)、酸くなりぬ(すくなりぬ)》
人影の大きくうごく倉の燈に酸敗酒の處置を秘かにはかる 《倉の燈(くらのひ)、酸敗酒(さんぱいしゆ)》
牡蠣灰をもろみの桶におろさせぬ人ら夜ぶかき桶にのぼるも 《牡蠣灰(かきばい)、夜ぶかき(よぶかき)》
梅雨ぐもり
梅雨ぐもりふかく續けり山かひに昨日も今日もひとつ河音 《河音(かはおと)》
家うらに河音にぶき梅雨ぐもり山かひは今日もかぜとどまれる 《河音(かはおと)》
山の葉日にけに黝み雨ふらぬ曇りつづくに懶しわれは 《葉(あをば)、黝み(くろみ)、懶し(ものうし)》
梅雨ぐもり吹きねとおもふ風吹かずかなしきぬくみ膚につくも 《膚(はだへ)》
ひさしく拭布をかけぬ本棚のうるしがうへに黴吹きにけり 《拭布(ふきん)》
雨霧
さみだれの山霧ふかく田にくだり蛙も鳴かぬ夕べとなれり 《山霧(やまぎり)、蛙(かはづ)》
うつつなき我がかなしみを掻きくらし雨やみどなき夕べなるかも
さみだれの宿驛の裏は山さみし雨霧をひたに吹き送りつつ 《宿驛(うまや)、雨霧(あまぎり)》
夕かひは風はやくなりて梅雨のくもいよいよ低し屋根吹きとほる
夕さめの霧しろく吹く山の街ひととほらざる道洗はれたり
さみだれの夕はやくより戸をとづる宿驛の道はなほ飛ぶつばめ 《宿驛(うまや)》
夕暴れの峽にひろがる梅雨の雲つぎつぎに飛ぶ山をはなれて 《夕暴れ(ゆふあれ)、峽(かひ)》
山かひに五月雨の霧吹き滿てり高處に居りてきこゆるPのおと 《五月雨(さみだれ)、高處(たかど)》
小高處のわれに吹きくる山雲の吹き近づけばみな狹霧なり 《小高處(こだかみ)、山雲(やまぐも)、狹霧(さぎり)》
さみだれの山かひの冷えいちじるみ風おほくなりてさやぐ山 《山(あをやま)》
裏山の葉に霧のわき立ちて五月雨ふれり濡るる樹をしも
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