大正十年 (百七十八首)
池の家
池のかぜ寒くつのりぬ夜くだちて屋根一ぱいに雨のふる音 《夜くだちて(よくだちて)》
秋ふかき寒さに入りぬ宵よひの癖となりつつ雨ぞ降りける
昨日の夜より雨とみに寒し家のうちは妻子が不在の疊のひろさ 《昨日の夜(きぞのよ)、妻子(つまこ)、不在(るす)》
借家住み戸を粗みかも池のかぜ雨かぜの入るをいたくおぼゆる 《粗み(あらみ)、雨かぜ(あまかぜ)、入る(いる)》
この夜ごろ子どもらの泣くこゑのせぬ家をまもりて早寢に慣れぬ
冬の日の暮るればさみし池に向く二階を下りて食むひとり 《食む(いひはむ)》
早寢より覺むれば雨の夜なかなり未だ起きて居るや厨屋女のおと 《厨屋女(くりやめ)》
夕焚きし風呂はそのまま入るひとなし二たび入りて寢につく我れは
柱なる幼きものの紐ごろも此のあひだより脱ぎて掛けあり
池どりの啼かぬ雨夜かもをさな兒の行きし山國雪かもふらむ 《雨夜(あまよ)》
風のむた小屋根の樋を擦るらしき音はしばしば庭松のえだ 《小屋根(こやね)、樋(とひ)、庭松(にはまつ)》
冬柳
わが宿の柳あかるく散りすきて池みづを廣く見るべくなりぬ
冬池の水ゆたかなり垣の根にさざ波ちかくなりにけるかも
なまけつつみ冬にいりぬ鳥さへも池の眞なかに下りてかづくに
冬にいる寂しさもてり池水のひたに照りかへす二階に居りて 《池水(いけみづ)》
世のさまの甚くなほらぬこの冬は旅にすまひて父ははをおもふ 《甚く(いたく)》
冬ぬくき國に住みつつ我れひとり遊ぶ今年を寂しくおもふ
若葉どきに家持荷の馬車つなぎたる門の柳も散りにけるかも 《家持荷(いへもちに)、門(かど)》
池の照りすでに蔭らふ門の木は山よりならむ來啼く冬どり 《蔭らふ(かげらふ)、門の木(かどのき)、來啼く(きなく)》
門柳あかるく透きて廣池の向うをとほる汽車あらは見ゆ 《門柳(かどやなぎ)、廣池(ひろいけ)》
冬池に水ひろく滿てり光りつつ岸のくまぐまにさざ波寄れり
門池に秋より下りて巣を喰へる〓(ス鳥)のつがひも人に慣れける 《(〓にほ)》
〓(ス鳥)鳥
夕かたの風をさまりし松原の片かげの池のふかく澄みたる 《片かげ(かたかげ)》
夕されば散る木ともしき門の池ゆふ早くより月のかげあり 《門の池(かどのいけ)》
朝ゆふの池になづさふ靄の氣の岸の冬木に上るこのごろ 《靄の氣(もやのけ)、冬木(ふゆき)》
池ばたの借家ひとむら夕されば戸をはやく閉づるみ冬となりぬ
夕かたの塵棄てに出し女あり池ばたの月はまだ眞白なる 《出し(でし)》
夕ぐれの池の眞なかの暗がりにいまだも潜く〓(ス鳥)つがひどり 《潜く(かづく)、(〓にほ)》
夕かげの池のあかりに潜く〓(ス鳥)水輪をしづかにひろげつつ居り 《潜く(かづく)、(〓にほ)》
夕ぐれの池に撃ちこみし銃のおと岸の松原に人あらはるる 《銃(つつ)》
日暮るればまた出でて啼く〓(ス鳥)のこゑ岸に響くまでに池靜まれり 《日暮るれば(ひぐるれば)、出でて(いでて)、(〓にほ)》
家ならぶ夜の池ばたに靴のおと冬は日ぐれてかへる人ぞおほき 《夜の池ばた(よのいけばた)》
日曜はときどき門にかげを見るとなりの人は勤人ならむ 《門(かど)、勤人(つとめびと)》
加茂川
ひがし山大きくかすむ朝のかげ旅に遇ふ友と酒汲みしたしむ 《遇ふ(あふ)》
加茂川の橋したにして光りゐる朝波を見れば我れはうれしき 《朝波(あさなみ)》
一昨年の大きいのちを死なざりしこの友と會ひて我れはよろこぶ 《一昨年(をとどし)》
忝けなき命をつけり家をもち子をもち我れら世にありながら 《忝けなき(かたじけなき)》
春めきし加茂川のおと朝がすみおほにかなしく旅に遇ふかも 《遇ふ(あふ)》
わが顏に川なみ映ゆれ朝酒に酔ひてたぬしくうつつ眠しも 《映ゆれ(はゆれ)、眠しも(なむしも)》
加茂川の音春めきぬこの宿に戸をとづれども耳ちかきおと
川のおと響かふ宿の燈のかげや友のいふ聲に親しみをおぼゆ 《宿の燈(やどのひ)》
人を惜む
大き道にありける人の今にして戀のまどひに遇ひにけるかも 《遇ひ(あひ)》
昨夜聞けばことの悲しく目覺めても頭つかれて人をぞ憂ふ 《昨夜(よべ)》
大き道にうしなふ人を吾等して今朝も歎きぬ如何せばあらむ 《吾等(われら)、如何せば(いかがせば)》
珠のごと人を惜しみて云ふ友の面にかなしき憤りあり 《珠(たま)、面(おも)、憤り(いきどほり)》
川ぎりの吹きくる縁に立ち見れば川原はくらし其處にゐる人
朝霧に行く人を呼べど向かざらむいきどほろしくおぼろなるかも 《行く(ゆく)》
朝ぎりは川をはなれず立ちて消ず戀にからみし人のあはれさ
石に來てあからさまなる尾をうごかす川鶺鴒のかなしかりけり 《川鶺鴒(かはせきれい)》
白河口 「比叡山」 その一
傅ヘ大師千三百年の大法會に、入山禪居の御像を冩し納め奉らんとて、百穂畫伯比叡山にのぼる。誘はるるままに彌生もまだ寒き十一日、二人して登る道を白河口よりたどる
比叡山の白河村は軒につむ柴高きしたを川くぐりたり 《比叡山(ひ江やま)》
山の木の焚くほどのものは皆柴に刈り京に近き村は生業立つも 《生業(なりはひ)》
春にむかふ山家のうしろ櫟ひくき林にまじる白梅のはな 《櫟(くぬぎ)》
比叡山へのぼる谷村の日かげ茶屋谷べにさむき白梅のはな 《比叡山(ひ江やま)》
谷茶屋に手拭を買へりこの村の講じるしつきて端赤きかも
さむざむと小瀧ぞおつれ冬あけの大き山に入る谷の戸ぐちに 《小瀧(こだき)》
谷川へ水飲みに下りてすでに咲ける谷いそぎの花驚きにけり
谷の道 「比叡山」 その二
谷ふかくのぼれば寒したまたまに家ある川べみな水ぐるま
枌落す工場やすめり冬あけの谷の水車はみな乾きをり 《枌(そぎ)、水車(すゐしや)》
山ぐるまに荷を積みてゐる若夫婦はぢらふに谷の径問ひにけり 《谷の径(たにのみち)》
谷ふかく遇ふものはただ山ぐるま柴木をつみて人よりも高し 《柴木(しばき)》
山ぐるま來なくなりたり白河のみなもとの谷を過ぎにけらしも
谷間を行く時ひさし友がはく足駄の音の耳にひびきて 《谷間(たにあひ)》
うぐひすの稚くこもりて啼く山の芽吹かぬ谷を人寫すかも 《稚く(わかく)》
曇りつつ山はしづみぬ草なかにひと紙に繪がくただペンの音
雨山暮情 「比叡山」 その三
日の暮れの雨ふかくなりし比叡寺四方結界に鐘を鳴らさぬ 《四方結界(よもけつかい)》
雨雲のうへに日暮れてむかしより大比叡寺は鐘を鳴らさず 《雨雲(あまぐも)、日暮れて(ひぐれて)、大比叡寺(おほひ江いでら)》
雨ふかき大杉がなかは物ものしく伽藍を構へ夕暮れにけり 《構へ(かまへ)》
雨霧の吹き朧ろかにせる杉の秀に伽藍の屋根の大きく暮れつ 《雨霧(あまぎり)、杉の秀(すぎのほ)》
夕くらき大堂のそばを通りたり大杉をもりていちじるき雨 《大堂(たいだう)》
山上の夕雨さみし伽藍の屋根杉が秀ぬれも啼くからすなく 《夕雨(ゆふさめ)、伽藍(てら)、杉が秀ぬれも(すぎがほぬれも)》
杉しづくしげき日暮なり山に來てこの山の僧とまだ遇はぬかも
大杉に夕雨ふかし山に着きて宿院へたづね暗くゆく道 《夕雨(ゆふさめ)、宿院(しゆくいん)》
雨さむき夕山に來つれ宿院の厨裡にひとつ焚く赤き竈火 《夕山(ゆふやま)、宿院(しゆくいん)、竈火(かまどび)》
宿院の夕庭に鳥のゐたるらし大杉がなかへ鳥飛びかくれつつ 《宿院(しゆくいん)、夕庭(ゆふには)》
夕鐘がふもとに鳴りぬ白くもの結界のうへにかすか聞ゆる 《夕鐘(ゆふがね)、白くも(しらくも)》
山は玲瓏琵琶の湖に向ひて而も邃く、昔より天然の靈境相を具備す。大師十九才、此處に出離の地を求めて、大悲三二の願を發し給ふも、まことに宜なりと云ふべし
夕ふされば杉のしづくに朝くれば朝どりのこゑに耳のかなしく
夕さればいにしへ人の思ほゆる杉はしづくを落しそめけり
朝ゆふは眼もとにひらく琵琶の湖山上に在ししさみしき聖 《琵琶の湖(びはのうみ)、在し(まし)、聖(ひじり)》
山嶺より湖をひろく見て朗かに大き寂しさに入りたまひけむ 《山嶺(やまね)、湖(うみ)》
この山の女人結界のしら雲のふかきに在ししひじり思ほゆ 《在し(まし)》
鷽 「比叡山」 その四
夜すがらの霧いちじるみ宿院に朝あくる障子みな濡れてあり 《宿院(しゆくいん)》
朝の戸を開くるすなはち眼のうへより雨霧を吹く大杉木立 《雨霧(あまぎり)》
しののめに山ふかき鳥を聞くものか比叡寺にゐるを寢て忘れたる 《比叡寺(ひ江でら)》
寢てきけば幽かに澄めり起きてくれば山坊の庭の朝の鷽どり 《鷽(うそ)》
大杉より雨ぎりの吹き絶え間なし幽かみじかき鷽啼きてをり 《雨ぎり(あまぎり)、幽か(かすか)、鷽(うそ)》
ふる雨におぼろなる木は梅ならし枯枝ひろがり鷽うごく見ゆ 《枯枝(かれ江)、鷽(うそ)》
山院の庭に雨ふかしふくだみて一つ木に啼く鷽しづかなり 《鷽(うそ)》
山のあめ霽るにいたらずまた降りて鷽どりのこゑ寒くしなりぬ 《霽る(はる)、鷽(うそ)》
山こぞり雨暗からしこの庭の明るみに居て去らぬ鷽どり 《雨暗からし(あめくらからし)、鷽(うそ)》
雨ふかき庭木に啼ける鷽のこゑかすかに澄むは遠ごこちすれ 《鷽(うそ)、遠ごこち(とほごこち)》
春さめの山寺の庭に鷽をきき靜かなる朝の茶を飲みにけり 《鷽(うそ)》
山坊夜話 「比叡山」 その五
山坊の夜語りに更けて向く僧に艶i食をたもつ齒のきよくあり 《夜語り(よがたり)》
この山にかくれ住むとふ觀法を佛頭に刻み人と云は僧 《觀法(くわんぽう)》
山の上に世をかなしみて下りて來ぬ僧の多くが山にはてけむ
夜もすがら山に眞暗く雨の降り谷々の庵に僧こもるらむ 《眞暗く(まくらく)、谷々の庵(たにだにのいほ)》
人の世の生きおなじからず昔より世にかくれたる人のさみしさ
山ふかみ牛馬女人の結界に寂しき寺を置き給ひにし 《牛馬女人(ぎうばによにん)》
山のうへに春さむく僧の行きかへりK衣ふくれて白き襟巻 《行きかへり(ゆきかへり)》
宿院に諸國の僧のつどひ來て御會式ちかき山のうへかも 《宿院(しゆくいん)、御會式(みゑしき)》
山上の朝の目覺めはCしけれ遠した海に船笛きこゆ 《遠した海(とほしたうみ)、船笛(ふなぶゑ)》
山上の寺に我がとる朝がれひ海の香のする海苔のかなしさ 《山上(さんじやう)》
雨の窓になほ啼く鷽のさみしさを友はすさびの繪にかきのこす 《雨の窓(あめのと)、鷽(うそ)》
根本中堂 「比叡山」 その六
大杉に雨ぎりの湧きゆゆしけれ伽藍の檐を直にかすめつ 《雨ぎり(あめぎり)、檐(のき)、直に(ひたに)》
大堂は暗くしづけしあやまちて物をおとせばかしこき大おと 《大堂(だいだう)、大おと(おほおと)》
いちじるく根本堂の庭につむ雪を消ちつつ雨靄立ちぬ 《根本堂(こんぽんだう)、雨靄立ちぬ(あめもやだちぬ)》
この庭の雨に靄立つ雪のなかふるき植竹のうもれてあはれ 《靄立つ(もやたつ)、植竹(うゑたけ)》
大堂の檐の高みの杉にわく雨ぎり吹きて歩廊ぬれたり 《大堂(だいだう)、檐(のき)、雨ぎり(あまぎり)、歩廊(ほらう)》
かすかなる大堂のおくの不斷燈御惱いのりに僧こもり居り 《大堂(だいだう)、不斷燈(ふだんたう)、御惱いのり(ごなういのり)》
山上にゐつる二日は雨降りて大寺ふるき寂しさになれぬ 《山上(さんじやう)、大寺(おほでら)》
油合窒垂れし我れらの山駕籠は延暦寺に來て下されにけり 《油合秩iゆかつぱ)》
梅雨あけ
梅雨明けの雨あらく落ち雲にもつ雷のおとは大きくなれり 《雷(いかづち)》
梅雨ぐもに微かなる明りたもちたり雷ひくく鳴りて夏にちかづく 《雷(らい)》
梅雨ながら降りの急しきこの雨に雷のおとは地に近づけり 《急しき(せはしき)、雷(いかづち)》
砂庭の草花に照る日強けれど霽れきらぬ梅雨をなほも落せり 《砂庭(すなには)、霽れきらぬ(はれきらぬ)》
夕立の流れはじめし庭のうへに土のにほひのいたくこそすれ
あわただしき雨に蜥蜴が濡れて入りぬ二階にとどく松の枝より
干しものの忘れてあるを取りに出て濡れ屋根踏みぬ瓦のぬくさ
いち枚の葉書をかきて終へぬ間も濡れ屋根かわく日に照りながら
しめり
池ばたの借家に住みてひと年の雨夜じめりも我れ慣れにける 《ひと年(ひととせ)、雨夜(あまよ)》
五月雨は夜ふけて多し池の家の枌の小屋根に流らふる音 《枌(そぎ)》
雨漏りて壁にしめりの來る夜の疊よりうつす子らの寢床を
さみだれの夜も廊下に干してある子どもの衣のいまだ乾かず 《衣(きぬ)》
灯をつけぬ部屋に蚊帳つり日ぐれより腸を損ねし下女ねむりたり
雨池
さみだれの池ひろみかも夜のかはづ岸に鳴くなるこゑの乏しさ 《乏しさ(ともしさ)、夜(よ)》
雨の夜は池にひたれる樹につきて僅かに鳴くも蛙のこゑの 《僅か(はつか)、蛙(かはづ)》
雨あふる池より來り鳴くかはづこの砂庭は草木ともしも 《砂庭(すなには)》
夜をこめて荒き雨かも燈のともる池べの道に波あげんとす 《燈(ひ)》
さみだれの夜をかへれば池ばたに我があふ人の灯を持ち行けり 《夜(よる)、灯(ひ)、行けり(ゆけり)》
くもり夜
曇り夜の池はにほひて近くあり灯のとどく岸に蛙の鳴くも 《曇り夜(くもりよ)、灯(ひ)、蛙(かはづ)》
くもり夜の簾をあげて前は池かはづの聲の太くし鳴くも 《簾(すだれ)》
うつつなく聞けば哀れに人のごとし池のかはづのこゑ老いにける 《哀れ(あはれ)》
聲をもつ蛙を聞けば極らぬ有情輪廻の生のかなしさ 《蛙(かはづ)、極らぬ(きはまらぬ)、有情輪廻(うじやう)、生(しやう)》
旅に住むいけべの家に夜々あはれかはづのこゑを聞きて寢にける 《夜々(よよ)》
蝉
蝉の鳴く池べ樹したに出て立ちぬ夕餉のあとの帯をゆるめて 《樹した(こした)》
夕かたの蝉鳴きつづく暑き木の門柳より葉こぼるる 《門柳(かどやなぎ)、葉(あをば)》
門柳蝉鳴きやめずくらき樹の葉には日のほとぼりのなほこもりたり 《門柳(かどやなぎ)》
柳にて鳴く蝉ひさし下かげの櫨の倭木は暗くなりつつ 《櫨(はぜ)、倭木(ひくぎ)》
門柳いたく風吹きて暮るれども樹にゐる蝉の鳴き止むならず 《門柳(かどやなぎ)》
赭土山
梅雨どきの暗き松原の道にして山の湯へ行く自働車を傭ふ
梅雨のあめ久しく明かね赭土山に來てかすかなる水ききよろこぶ 《赭土山(あかつちやま)》
赭土山を歩き疲れぬ夕ちかき梅雨のくもりの重たくなりて 《赭土山(はにやま)》
梅雨ぐもり山より見れば西かたの海の明るみ夕べにちかし
梅雨の夜を池の家よりいぬる人に提灯を貸して歸しつるかも(鉢池庵小集)
立秋夜情
雨あとの夜冷えあまねき丘かげに池を照る月はやく傾く 《夜冷え(よびえ)》
秋めきし夜雲がもとの暗き池かはづの鳴くはすでに稀れなり 《夜雲(よぐも)》
初夜月のたちまち入りて暗くなる門のひろ池ものの音ぞせぬ 《初夜月(しよやつき)》
月を見て故ク戀ひごころ我れのする秋の初夜の物のかなしさ 《初夜(はつよ)》
雨あとをとみに秋めく月のかげ門杉垣に露ぞふかけれ 《門杉垣(かどすぎがき)》
月夜かぜ著くなりたり池ばたの荒くさの蟲の鳴きやみがちに 《著く(しるく)》
月に向く尾ばな雨あとの露もてり大きなる影明るく揺るも
小夜ふけて池の倭木に吹きひかる月夜あらしの止むべくもなし 《倭木(ひくき)》
折にふれ
いくばくの池にあらねど春のゆふは靄立ちかなし出て廻りつつ 《廻り(めぐり)》
抱かれたがる子どもを強ひてあゆましめ夕の散歩をかなしみてをり
幼きが足はかよわし姉をして賞めしめにつつながく歩ましひ
散歩といふ態わざごとを我れすれど故さとの村の人はせざらむ 《態(わざ)》
父われの世わざに迷ふ寂しさを知らざる子等の手をひき遊ぶ
この子らをはぐぐむ我れと思へばあに生業のなき父たりなむや 《思へば(もへば)、生業(なりはひ)》
池岸の松並みに入りて道くらし幼き足のつかれたらしも
松の根に躓きつまづく兒の手ひき現し身われはさみしくもの思ふ 《躓き(つまづき)、思ふ(もふ)》
富士見野
齋藤茂吉君。今秋遠く西歐に遊ばんとして、暫く富士見野に籠りて病後の生を養ふ。上京の歸途を、たまたま百穂畫伯と行を共にし、之れを訪ふを得たり。赤彦君また約に従つて諏訪より來り會し、その他アララギ同人多く會す
天づたふ星にちかけれ高原にこもりて君がこころ凝りなむ
遠ぐにへ別るる秋を妹脊來て花野にこもる人のしづけさ 《妹脊(いもせ)、花野(はなの)》
惜みつつ別るる我れら君がたのむ君がいのちを見に來りたり
國高くはやく冷たし秋に入りて別るる君に會ひに來れり
友に會ふ八ヶ嶺ちかしあさ雲がなほひくく居る高はら花野 《八ヶ嶺(やつがね)、花野(はなの)》
國たかき信濃の空にしたしみて君に會ふことは我れの幸なり
谷かげに水はやく飛びて霧のたつ富士見高原すでに秋かも 《富士見高原(ふじみたかはら)》
富士見野の野ずゑの川ははやくなれり甲斐に向ひて國傾きつ 《富士見野(ふじみの)、甲斐(かひ)、傾きつ(かたぶきつ)》
空ひくき甲斐を見下ろせばいちじるく野分の雲のたたまりて見ゆ(歸去來荘にて) 《甲斐(かひ)、野分(のわけ)》
空ちかく居るここちして高はらの粗き眞みづに今朝は顏あらふ
東京滞在
洋服を脱ぎて疲れのしるけれど宿のもの寢て入る風呂もなし
市に出てひと日疲るるあはただしさ今朝剃りし鬚すでに硬けれ
峽の村
夕づきて寂しくなれる峽の山かへれる村には兵とまりをり 《峽の山(かひのやま)》
山かひは人家乏しく燈火點く谷のおくまで兵をとめたり 《人家(ひとや)、乏しく(ともしく)、燈火(あかり)、點く(つく)》
我が家にも兵泊り滿ちぬ我が古き居間にも今宵入りて寢られず
宵ふけて隣室に鼾する兵のこもごもの寢ごとあはれなるかも 《隣室(となり)》
たまたまに峽にかへりぬ兵たちし翌日はことに村のしづけさ 《峽(かひ)、翌日(よくひ)》
旅に出て世に働かばしばしばは歸らぬ家とおもひてねむる
明日よりは人にはじめて使はるるさみしさ持ちて父ははに向ふ
しがらみ 終
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