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山下憲治さんの思い出

山下憲治さんの思い出

山下憲治さんと実際に言葉を交わした時間は、合わせても、おそらくは10分にも満たないはずです。しかし、山下さんのことは、いまだに強く記憶に残っています。

その理由をご理解いただくために、前段が少し長くなります。

◆ ◆

いわゆるバブル経済が終焉を迎えようとしていたとき、末端の零細企業には、すでにその兆候が現れ始めていました。例外なく、当時勤務していた会社にもその余波は押し寄せ、かなり浮いた存在の部門に居た私への風当たりは強く、何か将来への道筋を探す必要に迫られていました。

松下コンピュータ・システム(当時)の知人に事情を説明したところ、DTPソフトのFrameMakerを自社のワークステーションへ移植中なので、そのマニュアルの制作を手伝ってもらえないかとの話になりました。

仕事の内容は、おもに英文マニュアルの翻訳です。一時的に会社から退避する目的も含め、いわゆる派遣といった形で平河町の本社オフィスに詰めることにしました。翻訳を開始してすぐに戸惑ったことは、いままでにはなかった概念の用語が次々に出てくることでした。グリーキング(greeking)などは、その最たるものと言えるかも知れません。

必要に迫られて、かなり詳細な対訳リストを作成し、また個人的にも関連する印刷・製本関係の用語を収集・整理していました。カード形式とはいえ、裁断した用紙に用語や用語解説の部分をコピーして貼り付けただけのものですが、それでも段ボール箱が一杯になるぐらいの量にはなっていました。

当時、私は専門用語研究会という会員数が100名程度の学会の事務局を担当していたのですが、その研究会が主催するシンポジウムに、たまたまアスキー社の女性編集者が参加されていました。面識はありませんでしたが、DTPの用語辞典のようなものを作成したいのだがといったような提案をしたように記憶しています。

後日、南青山にあったアスキー社へお伺いし、そこでご紹介頂いた沼尾禮子さんともどもに詳細をお話ししたところ、書籍の内容としては井芹昌信さんがよいのではないかとのことになりました。

企画書の提出など、一連の打ち合わせを経て、「DTP辞典」として出版の話が具体化し、中島由弘さんを編集責任として編纂作業が始まりました。

専門的に研究していたわけではなかったのですが、「ターミノロジー」の分野に関心があり、また「DTP辞典」という格好の素材が目の前にありましたので、無理をお願いし、シソーラスの作成など、いろいろ実験的な試みもさせていただきました。これは、いまでも貴重な経験として生きており、何かを分析するときの手段として身に付いているように思います。

◆ ◆

少なくとも10日に一度は打ち合わせに出かけていましたが、そうこうするうちに、オフィスの雰囲気がなんとなく、ほんのわずかですが変わってきたように感じていました。いまで言う違和感と言うほどのものではないのですが、空気感のようなものだと言えばわかりやすいでしょうか。

ある日、中島さんから、お昼でもご一緒にとのことで、近くにある地階のレストランでごちそうになりました。手短に言えば、近々退社するので辞典は別の人が担当することになります、ということであったように思います。

書籍の執筆にいくらかでも携わった人は誰でも承知していることですが、編集者がいなければ、なかなかまとまりません。とくに辞書・辞典の関係は執筆者よりも編集者の能力に依存する面が強くあります。編集者が変わると言うことは、執筆者にとってはかなり大きな出来事になります。

「DTP辞典」そのものは、後任の編集担当者のご尽力もあり、出版に至りましたが、多少の紆余曲折はあったように思います。

◆ ◆

その後、井芹さんや中島さんたちはインプレス社を設立され、また同じ時期に私もついに馘首されるという事態になり、それからはフリーランスの立場で、半蔵門のオフィスにお邪魔するようになりました。

まだ会社としては立ち上がったばかりで、中島さんが「SEDスクリプトの事例集」とも言うべき書籍を企画編集していた頃のことであったと思います。ただ時節はまったく記憶にありません。会議室とも言えない、壁際にはソフトのパッケージを収納した棚が置いてある部屋で、中島さんとごくごく軽い世間話をしていたときのことです。

そのとき、山下さんがソフトを探しに部屋に入ってこられ、初めてのことなので名刺を交換しました。話の流れから、ついつい軽口で「井芹さんや中島さんって、ひどいんだよね。ほっちらかされてしまいました」と話したら、すかさず山下さんが、「私も仲間です」と応じ、一同大笑いになりました。

インプレス社としても、希望と不安が入り交じっていた状態であったと思いますし、私は私で小さい子供を抱え、暗澹たる気分でいたわけですが、それを見事に笑い飛ばしてしまった一言でした。

気分は一気に打ち解け、その後はあれこれと便宜を図っていただくことになりました。困窮しているときの親切ほど心にしみることはなく、以降はずっと感謝の念を抱き続けています。

◆ ◆

次に記憶に残っていることとしては、本社がすでに現在地に移転してからのことです。

これも中島さんが企画編集した「キーワードで読むパソコン’94」の執筆に参加していたときのことです。いつも執筆の遅れでご迷惑をおかけするのですが、このときも相変わらずのことになりました。自宅にこもっていると、どうもすすまないとか、訳の分からない言い訳をしたのですが、それでは時々ここで書いてはどうですかとの話になりました。

ノートパソコンを割り当てていただき、それをLANへ接続する段になって、それは管理している山下さんにお願いしようということになりました。快くすぐに接続していただいたのはよかったのですが、山下さんがかなり大きな声で「これから、金森さんのパソコンをつなぎま〜す」と宣言するではありませんか。私の理不尽によることなので、何とも言えない気持ちになったことは、いまでも覚えていることです。

それ以降は、会釈程度のことはあったと思いますが、言葉のやり取りに関する記憶はありません。

◆ ◆

インターネット・ウォッチ創刊前後のことについては、三田典玄さんの文に詳しいので割愛しますが、こういうことを始めたので、とのことで配信されてくるようになりました。

ご意見があれば、ということでもありましたので、「てにをは」やレイアウトのことについて、何度か提案らしいことはしました。いちいちの連絡通信はありませんでしたが、紙面を通じてコミュニケーションが取れていたような感触があったように思います。

年が明けて、元旦の配信の著作権表示に確か新年の西暦しか入っていませんでした。これは創刊年も入れて、ハイフンでつなぐのがよいというメールを送ったところ、翌日にはそのようになっていました。正月休みはないのだなぁ、とお互いに思っていたかも知れません。

◆ ◆

追悼文にも関わらず、私事ばかりになりましたが、ついでに書けば、フリーランスの場合、仕事をしなければ収入は途絶えてしまいます。その恐怖心もあって過剰に仕事を抱えたこと、また諸事情もあって、心身共に疲れ果て、体調をひどく崩してしまうことになりました。仕事が出来る状態にはなく、悩みに悩んだ末、田舎に引き込むことに決心しました。

インプレス社には、東京を引き払う前日にお伺いし、なんとかお礼を述べることはできたのですが、山下さんにはお会いできず、いまとしては残念に思っています。

しばらくして、何となく気に掛かり、検索してインプレス社のサイトをみると、闘病記のようなことが書いてあります。前後しているかもわからないのですが、また「特別功労者」ということで、お亡くなりになった事を知りました。

◆ ◆

山下さんのことは、「私も仲間です」の一言とともに思い出します。記憶違いや不正確な部分があるかも知れませんが、以上がすべてであると思います。この原稿は、海が前方に見える尾道の喫茶店で、秋の潮風に吹かれながら書きました。

金森國臣(2005年10月16日)

註:

来年(2006年)の七月には七回忌を迎えるとのことです。それにあわせて、追悼文集が作れないか、それにはまず関係者がブログなどの形で書くのがよいだろうとのことで始めています。

下記のブログへトラックバックするか、あるいはコメント欄にウェブページのアドレスを投稿していただければと思います。

■関連サイト

さようなら、山下憲治さん 神田敏晶

山下憲治氏を偲ぶフォーラム


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