さ
|
蔵六(ぞうろく)
亀の異名なり。仏典より出ず。原(もと)は擬人名にあらざれども、日本にて古来人名に用いし者多し、故にここに収む。
「我欲を謹むをいう。祖底事苑に、雑阿合経に、亀あり、野干(きつね)に捕えられる。亀は六を蔵(かく)して出さず(六を蔵すとは亀が頭尾手足の六を甲の中に引き入るるをいう)。野干怒って捨て去る。仏(釈迦)諸の比丘に告げて曰く。汝等当(まさ)に亀の六を蔵するが如くすべし。自ら六根(眼耳鼻舌身意の欲)を蔵せば、魔も便を得ず云々」(故事諺解)
予は外骨(亀)に因みて蔵六庵と号せしこともありたり。
金森註記:「ざうろく」で立項されています。
|
|
薩摩守忠度(さつまのかみただのり)
車や船に無料にて乗ることを薩摩守と称す。只乗りを忠度にかけしに過ぎざる語なり。然し俊成の勅撰『千載和歌集』に忠度の作歌故郷の花一首を選抜されて載りしに朝議を憚りて作者忠度の名を省かれしは、忠度もやはりタダノリに縁ある名なり。
|
|
在郷兵衛(ざいごべえ)
讃岐高松の旧藩士等が田舎在所の農民を卑めて言いし語なり。徒食者の此囈今語尚行わる。
|
|
在所住居の喜三次(ざいしょすまいのきざんじ)
『俚言集覧』に「土佐の諺。城下を離れて在郷に居れば、気安きをいう。気散じを人の名に言いなせり」とあり。郊外生活の心身安楽を一語に収めたるものなり。
古歌の「なかなかに山の奥こそ住みよけれ、草木は人の是非をいはねば」といえるにも適(かな)えり。
|
|
猿若(さるわか)
道外狂言の猿若といえるは人名より出でし称呼ならんとの説あり。すなわち牛若、犬若、幸若などいえるが如く猿若といえる者が同狂言の祖ならんとの事なり。
|
|
猿松(さるまつ)
昔「猿松笛」「猿松の風車」などいえる玩具ありたり。猿松は小児の異名なりしなるべし。
|
|
作蔵(さくぞう)
男陰の異名なり。天和頃より明和頃までの淫書に此語を多く使用せり。『好色一代男』に「振られましたれば、命に構ひのなきやうに作蔵を切られます契約」とあり。『鹿の巻筆』に「三寸ほど砂に作蔵をつきこみ」、『好色夢楽坊』に「一本の作蔵」、『色里三所世帯』に「作蔵黙れと息子に意見する如くなるも可笑」、「痿陰隠逸傅」には「号を天礼菟久(でれつく)と称し、また作蔵と異名す」とあり。役者評判記に擬せし淫書には「極上々吉、筋川佐久蔵」と記せり。
「作」の語原は、耕田の作、匠工の作に擬して、家庭の本義たる小児生殖、即ち国本製作の要務を帯うる重宝物としての名なるべし。「蔵」は無尽蔵の蔵をも兼ねるものとせるならんか。
|
|
笹蟹姫(ささかにひめ)
七夕星の織女、棚機姫の異名なり。笹蟹とは蜘蛛を言い蜘蛛の糸に因みて名づく。此織女に七姫といえる異名あり。即ち朝顔姫、梶の葉姫、百子(ももこ)姫、薫物姫、秋そら姫糸織姫と此笹蟹姫の七つなり。
|
|
佐々良三八(ささらさんぱち)
「サゝラ三八宿」とか「さゝら三助殿宿」とか「サゝラ三八孫」とか書きて、門戸に貼付し置けば、疫病疱瘡除けの呪に成るとの迷信各地に行われたり。『さヘづり草』に「五元集に其角が、竹に蜂の巣かけし繪に、なよ竹よさゝら三八宿とこそ、とあり。蜂を八にかえたる也。元禄の昔より二八宿と門に記し置けば、其家疱瘡軽しといへる俗伝ありしこと知るべし」とあり。
右の札は木または紙に書きて貼付せしなるが、鮑貝の中に書きて戸口に吊し置ける地方もありたり
「サゝラ三八」の由来は不明なり。「鎮西八郎為朝御宿」との貼札も広く行われしことなるが、近世好事家が「疱瘡除けの呪には大山巌御宿とか井上角五郎御宿とか書きて貼付せば可ならん」など言いし事あり。サゝラ三八も大アバタのありし人名なるべし。
|
|
坂田一六(さかたいちろく)
田一一一一一一をいう。田がひっくりかえって一の字が六つ。これも亦「小野ばかむら嘘字づくし」の一。
「作」の語原は、耕田の作、匠工の作に擬して、家庭の本義たる小児生殖、即ち国本製作の要務を帯うる重宝物としての名なるべし。「蔵」は無尽蔵の蔵をも兼ねるものとせるならんか。
|
|
三助(さんすけ)
湯屋男の通称なり。昔は飯炊男をも三助と呼びしが、文化頃の川柳に「飯炊きの通り名男女共に三」とあり(飯たき女はお三なり)。また安永七年四方赤良著『春笑一刻』には湯屋男にあらざる下僕の仮名を三助と書けり。
予は往年『猥褻研究会雑誌』に掲出せし「陰陽の別は一と二」と題せる記事中に、左の如く述べたり。
「男は陽にして女は陰なり。易経に於て陰陽両義の象を分つに、陽を一とし陰を二とせり(|:)。川柳に「陰陽の二柱、一つは破れて居る」というも、女尊は二の象なりの意なり……。東京の湯屋にては、所謂「流し」とて背洗いの要求ある時、番台の者、其客男なれば「カチン」と拍子木を一つ打ち、女なれば「カチンカチン」と二つ打つなり。三助その音響を聴きて、一つの時は男湯の方に出で、二つの時は女湯の方に出ず。これ古来の慣例なりという。さあれ、学者の創意か凡庸の暗号かは知るべからずと雖も、正しく天理に合する信号と称すべきなり。尚若し一と二を助くるものなるが故に、三助と名づけたりとすれば、一層の妙味を加うるならんか」
金森註記:(|:)は実際には下図のようになっています。
|
|
才蔵(さいぞう)
三河万蔵の伴男の通名なり。旧時は毎歳暮に三河国より太夫連江戸に来り。日本橋辺の才蔵市という寄場にて、才蔵役の者を雇い入れしなりという。此才蔵の語転じて人のあとうつ者をも才蔵と呼べり。
|
|
三太(さんた)
「犬に三太せよといえば、前足をあげ飛びつく事のありしが、他国は知らず、江戸にてさる戯れをする者を見ず手をくれともいうが此余波ともいわんか、三太は丁稚また小僧などいう下童の通名なれば、かの丁稚の狂いまはるまなびをせよという事なるべし」(足薪翁記)
|
|
三太郎(さんたろう)
愚者をいう。あははの三太郎、大馬鹿三太郎に同じ。
昔江戸にては「八王寺の三太郎」ともいえり。田舎式の馬鹿者と嘲りし語なるべし。鈍亭魯文作『滑稽三太郎話』にも八王寺在より三太郎といえる馬鹿者が江戸見物に来りしことを記せり。
|
|
三荘太夫(さんしょうだゆう)
福島地方にて粟の樹に生ずる毛虫を三荘太夫という由、木念寺報にあり。栗の毛虫は『テングス』という魚釣用の糸を吐くもの。山荘太夫は強欲非道の悪人として演劇、『由良港千軒長者』に仕組まれたるもの、此二者に何のつながる縁あるか詳かならず。
|
|
し
|
信天翁(しんてんおう)
小笠原付近の鳥島及び南洋の諸島に産する「あほう鳥」をいう。性遅鈍にして人の近づくを恐れず。故に土人之を捕うるに棒を以て撲殺し、羽毛を剥ぎ肉を肥料とす。
『和漢三才図画』に「魚ヲ捕フルコト能ハズ、沙灘ノ上ニ立テ、魚鷹(みさご)ノ得ル所ヲ俣ツ、偶マ墜ストキハ則チ拾テ之ヲ食ス」とあり。天命を信ずる悠々の生活者といえる義より起りし名称ならん。
「信天翁(しんてんおう)」の本名は「らい」にして、「沖の太夫」、「藤九郎」等の異名もあり。
|
|
知らぬ顔の半兵衛(しらぬかおのはんべえ)
解釈を要せざる程の通俗語なれども、語原は未詳なり、予按ずるに、此半兵衛とは竹中半兵衛ならん。尾張の織田信長と美濃の斉藤龍興との間に不和を生じて戦争に成り、織田方には木下藤吉、斎藤方には竹中半兵衛あり。
不義のために織田方の勘当を受けたる前田犬千代は、半兵衛の娘千里と深く契を交せり。これ実は計略なり。病気引籠中の半兵衛を説きて、織田の味方に引入れんとせんが為めなりし。然るに半兵衛はそれを知らぬ顔にて犬千代を欺き、織田方の情況を探り、其弱目を討って勝利を得たりといえる演劇『木下蔭狭間合戦』の筋によって起りし名なるべし。
|
|
甚平(じんべい)
「夏日、小児などの着る単衣。長け膝まで位にて多く袖を付けず。例句、裸子に其甚平着せよ紅の花、虚子」と新撰俳諧辞典にあり。
語原穿?の途なし。初め[じんべ]と言いしに甚平の字をあてしならんと思うのみ。
金森註記:「穿?」の読みと意味が不明です。文字が間違っているかも知れない。
|
|
甚七(じんしち)
賢からぬ次男をいう。総領は甚六。其弟としての甚七なり。天明頃の川柳に「勘当のあと甚七がものに成り」といえるもあり。
|
|
正覚坊(しょうがくぼう)
海亀をいう。此語原に就ては何等考証の徴すべきものを見ず。予の臆測をいえば、海亀の一種を和尚魚「海坊主」などと呼びしに同じく、其態度の悠然たること、恰も仏教の正覚を得たるものに均しとの義によりて名づけしならん。
|
|
腎助(じんすけ)
性欲旺盛の者をいう。腎張り男と呼ぶに同じ。腎とは腎水、腎薬、腎虚など、性欲の素因は腎臓の作用にありとしたる旧時の語なり。川柳に「七日ばかり何のこつたと女房いひ」とあるは、夫の腎助に対する説諭なるべし。
腎助を「甚兵衛」とも言いしか、『未摘花』に「甚兵衛がゝゝゝ在世の如くゝゝ」といえる句あり。
|
|
信濃太郎(しなのたろう)
夏日晴天の時、信濃の方に出る雲を、江戸にて信濃太郎と呼べり。これに因みて、髭虫(毛虫)の一種を信濃太郎と称せり。其虫の黒き形が右の雲に似たる故に名付けしなりという。
信濃太郎とは信濃国の大なる雲との義なり。
|
|
新五左 新五左衛門(しんござ しんござえもん)
「田舎士をいう。また屋敷者をいう。大尽舞に、しょてはものゝふ、やかたもの、これ新五左の始めなりとあり」と『俚言集覧』にあり。
『狂文宝合の記』に「新五左の御剣」ありて「女に嫌われても、したゝるく付き廻す厚皮つかの御剣」とあり。『鶯笛』に「新五左二三人非番目に出合い、今のはやりは萌黄の小袖に浅黄裏」とあり。吉原の遊女等が無粋の田舎武士を嘲りて言い異名なり。後には「武左」と呼び「浅黄」とも呼べり。新五左とは新五左衛門の略にて、田舎の青侍という意なり。「跖婦伝」には真御侍(しんござ)と書けり。
「海中の石また空貝などに付きたる黒赤黄を帯びて、柔かに丸き肉あり。?また醤油など付け焼にして食糧とす。是を新五左衛門という。所によりては尻子玉という。いかにも尻子玉を聞きひがめて新五左衛門と言い誤りしならん。肛門に似たる物になんありける」(傍廂)
|
|
新兵衛(しんべえ)
大坂にてヘマを演ぜし男をいえり。「心得顔に事を為して直に失敗したること」を大坂にて「源助」といえるが、此新兵衛も「源助に同じ」と『物云ふ辞典』にあり』語原は源助と同型ならん。
|
|
鹿蔵(しかぞう)
『嬉遊笑覧』に(猿若を猿次郎と言い、鹿蔵という者をさえ作り設けて僻事をきわめたり」とあり。此鹿蔵は仮作人名なるべし。『俚言集覧』には
〔和蘭陀丸二番船〕御使かさなる山の嶺こえて(という句に)紅葉ふみわけいそぐ鹿裁 紀州岩見為清
とあり。上原鹿蔵の類か、擬人名かは不明なり。近世落語家を「はなしか」の略にて「鹿」と呼び、その鹿に蔵を加えて呼ぶこともあり。
|
|
四国二郎(しこくじろう)
「坂東太郎は刀禰川、四国二郎は阿波の吉野川、筑紫三郎は筑後川をいう。是日本三大河也」(本朝俗諺志)
阿波の吉野川は土佐の亀ヶ森山より発し、流域四十一里あり。筑後川を筑紫二郎と称して、吉野川を四国二郎とも呼べり。筑後川は流域三十五六里に過ぎず、其延長の数字よりいえば四国二郎を可とすべし。
|
|
正直正兵衛(しょうじきしょうべえ)
古き玩具人形の名なり。その面貌服装等、正直者らしきによりて言い出せる語ならん。
|
|
承知之助(しょうちのすけ)
何事をも知りたるフリをする人をいう。「委細承知之助」の項をも見るべし。
|
|
下妻上五郎(しもつまじょうごろう)
五郎妻。下に妻があって上に五郎がある。これも『小野ばかむら嘘字づくし』の一。
|
|
嗇太郎為持(しわたろうためもち)
卑吝にて薔財する者をいう。織田信長記に此語ありと旧志に見ゆ。天正頃の語なるべし。為持は金をためて持つにかけしなり。
|
|
す
|
駿河太郎(するがたろう)
富士山をいう。『さへづり草』に「延宝年間の印本隠蓑に、初雪の花の兄きや富士太郎、とあり。駿河太郎というべきを俳諧詞に製して富士太郎と言いしなるべし。すべて物の魁たるを太郎と呼ぶこと多かり」とあり。
富士山の麓に在る太郎坊は、駿河太郎の天狗としての名称なるべし。
|
|
徒手の孫左衛門(すでのまござえもん)
一物をも持たざるいう。略して「徒手の孫左」とも称す。徒手は空手の義、空手無金行路難、まごつく、まごまごのまごか。
|
|
助兵衛(すけべえ)
好色の甚だしきをいう。『俚言集覧』に「婬人をいう。移山按、往古のハヤリ言葉にて好色をスケスというを、スケベイと言いしならん。人名の様に言いなしたる流行詞多し。承知之助、浮介、十筋右衛門などいう類なるべし」とあり。
『末摘花』には「助平はおいん、おらんが異名なり」とあり浮乱者の義。『柳樽』に「介兵衛という人腎虚やみはじめ」。古語の「スケス」は「好け衆(すけす)」にて、色事を好ける人との義なるべし。衆は「彼の人」というを「あの衆」「若い人」というを「若衆」と言いし類なり。
「助平」、「介兵衛」の外、「好兵衛(すけべえ)」と書きしもあり。近世は多く「助倍」と書けり。元禄八年版の『好色旅枕』には「すけべい」と仮名にて記せり。
|
|
すね吉(すねきち)
人体の脛をいう。膝吉というに同じ。独り寝を「脛吉を抱いて寝る」など唱う。膝を膝小僧と称するが如く、自己に隷属せる奴僕視してのシャレ語なり。
|
|
せ
|
贅六(ぜいろく)
江戸ッ子が京阪人を罵る語なり。「彼は上方贅六だ」とか「此贅六メ」とか言いて侮蔑せり。徳川末期以来の語なるべし。古き書には此語見えず。また此語原詳ならず。あるいは贅禄の伝なりと言い、あるいは上方屋贅六といえる豪奢人ありたりというも、皆牽強付会の説なり。
|
|
清左(せいざ)
酒の異名か。蜀山人の『通詩選諺解』に「二十四銭沽夜発、不堪清左共浮飛」の註に「清左〔せんぼう集〕酒の異名」とあり。灘銘酒「正宗」の販売元たりし江戸新川の大問屋鹿島清左衛門の略ならんか。
|
|
千松(せんまつ)
空腹をいう。また料理茶屋にては飯の代名詞にも使えり。演劇『伽羅先代荻』御殿政岡忠義の段にて「ひもじいめをする」千松より出でし語なり。
|
|
そ
|
総領の甚六(そうりょうのじんろく)
長男の賢からぬをいう。甚だしきノロマというに六を添えて人名らしく唱えしならん。甚六にあらず、長男は跡目相続者として「総領の順禄」と言いしが転訛したるなりとの説もあり。付会なるべし。
川柳に「勘当のあと甚七がものに成り」といえるあり。放蕩者の兄を甚六としての弟甚七なり。
長男には薄ノロが多い理由として、予は往年『奇問正答』中に記して曰く「若い両親が初産の子を珍しがって甘やかして育て、あるいは組父母が初孫として大切に扱う結果が賢からぬ性格を造るのであろう」。
|
|
総右衛門(そううえもん)
古き頃京阪にて唱えし遊女の異名なり。『足薪翁記』に「辻君の事を江戸にて夜鷹と言い、上方にて総嫁また総右衛門というも、総は総嫁の一字を取り、右衛門は例の嘲り添えたる詞なり」とあれども、総右衛門とは初めは公娼たる遊女の異名にして辻君を総右衛門と言いしにはあらざるべし。明暦元年の京島原遊女評判記『桃源』に「上代有傾城傾国白拍子之名 中古有大夫天崎加古伊之称、近世有佐宇宇衛毛武之号、」とあり。私娼賤妓にあらざること明白なり。
但し総右衛門が後に辻君の異名に変りしや否やは未詳なり。総嫁といえる名称も初めは一般の遊女を罵る語なりしに、いつしか私娼の異名に変りしものならんと思える事もあり。
|
|
曽根太郎 曽根次郎(そねたろう そねじろう)
「森川許六が発句に、白雨の雲や曽根太郎曽根次郎、とあり。按ずるに、曽根太郎曽根次郎は信濃国にある阪の名なり。さて宝永二年嵐雪が紀行そのはまゆふに、曽根太郎をのぼり曽根次郎を下るとあるは、伊勢路より紀伊国への八鬼山越の坂の名と聞こえたれば、名同じうして地を異にするにや」(さへずり草)
紀伊国の曽根太郎曽根次郎は東牟婁郡の東北にあり。太郎山次郎山とも呼べり。
曽根は山の義。みね(嶺)そま(岨)そね(磯根)皆同じ。
|
|
|
|