閑話休題

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原爆実験と戦艦「長門」 フリート・イン・ビーイング 兵学校教育と遠洋航海 海軍士官と隠語 中津留達雄大尉

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☆好運艦「雪風」

 太平洋戦争中の主要な作戦にほとんど参加し、常に第一線で戦いながら、ほとんど無傷に近い形で、敗戦を迎えた軍艦がある。奇跡の好運艦とも言える「雪風」は、世界の好運艦とも言える。

 昭和16年12月8日フィリピンのレガスピーの急襲を皮切りに、スラバヤ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニア、マリアナ、レイテ、そして戦艦「大和」と沖縄特攻への出撃と、3年9ヶ月の間、間断なく主要な作戦に参加した。開戦時82隻あった僚艦・駆逐艦の内、生き残ったのは、「雪風」1隻のみであった。正確な数字は残っていないが、航程距離は、合計で12万4800マイルと算定できる。戦争中の艦長は、初代の飛田健二郎大佐、次代の管間良吉大佐、3代の寺内正道大佐、4代の古要桂次中佐。 伊藤正徳は、近親に子女が生まれたら、好運にあやかり「雪風」の「雪」の字を付けることを勧め、その由来を聞いた当事者達は、大いに歓び、その通りの結果となったと言う。

 「雪風」は、何度も危機に見舞われながら、奇跡的に軽傷で済んでおり、参戦以来、戦死した者は260余名の内、ソロモン戦で墨水兵長、ブルネー湾敵襲で一兵曹の2名を失っただけであった。時に命中弾より大きな損害を受ける、至近弾を受けること数限りなかった。しかし、「雪風」の幸運も、艦の戦力、操艦術、乗組員の質の3拍子が揃い、それらに支えられてのことだった。
 海軍首脳も、好運艦「雪風」には一目を置き、日本海軍軍艦として初めて「雪風」に、「逆探」を設置した。対空用レーダー「第13号レーダー」、射撃用レーダー「第23号レーダー」、水中探信用ソナー「3式探信儀」すべて、他の軍艦に先駆けて、「雪風」に装備された。

 「雪風」は、沖縄特攻で、空と海の激闘2時間に及び、爆弾30余発、魚雷15発以上を受けて沈没する戦艦「大和」の側方1500メートルの付近にあり、周辺に何十個もの爆弾が落ちたが、巧みな操舵により爆弾をよけ続けた。なおも、「雪風」は、沖縄突入を敢行せんとするも、連合艦隊司令部の帰還命令により、佐世保に帰港するすることになる。佐世保に着いてから「雪風」を調べると、「雪風」の糧食庫の中から、ロケット爆弾の不発弾が発見された。この爆弾が、まともに爆発していれば、「雪風」は、船底を爆破され、沈没は免れなかった。

 その後、本拠地呉に帰港した「雪風」に、水上での出陣の機会はなく、B29の何十回にも及ぶ、空襲との戦いが待っていた。その間、「雪風」は、若干の負傷者は出したが、死者は一名も出すことなく、日本海軍最後の駆逐艦として、8月15日の敗戦を迎えることになる。

 戦後の「雪風」は、お役ご免とはならず、11月末、大砲や発射管等を取り外され、旅客用の船室が備えられ、戦後処理として、昭和22年正月まで、復員輸送に活躍した。5月、占領国から「雪風」は、日本の残存する艦船中の代表的優良艦として、最優秀艦(Best Ship)の表彰を受ける。占領国の戦利品として、「雪風」は、抽選で米国に渡ることになったが、ほとんど海軍を持たない中国に配慮した米国が、敢えて中国に譲ることになる。「雪風」は、中国海軍の旗艦となる。

 「昭和22年7月6日、雪風は、上海で行われる引渡式に列すべく、長浦港をを離れた。艦長には中佐東日出夫が最後の指揮官として感慨深く艦橋に立っていた。再び帰ることのない祖国に永の別れを告げるべく、将兵は答舷礼を以て静かに辞して行った。少数の旧鎮守府部員は、俯目がちに、雪風の姿が岬の外に消えるまで見送った。そこには、万歳の声は勿論、人々の間に一語の囁きもなかった。日本の最好運艦、最優秀艦は、二度と日本の港には帰って来ないのである。

 航海長中島典次は、水兵達を集めて復員輸送に於ける犠牲的奉公を謝し、(彼等は2ヶ年近く我身の戦後生活を顧みずに働いた)、そうして最後に『引渡しは、大石良雄が赤穂城を引渡した時の態度を以て行いたい』と結んだ。

 昭和22年7月6日、引渡式が上海の埠頭で行われた。艦内は隈無なく整頓されて塵一点を止めず、そこに小さい赤穂城が浮かんでいた。検査に来艦した米英の海軍将校が感激して言った−−−『自分達は、こんなに整頓された軍艦を嘗て見たことがない』と。
 雪風は最後の日まで日本の名を守った。」
 「雪風」(1940年1月20日竣工)・・・一等駆逐艦・陽炎型(甲型)
 
◇完成時基準排水量:2000トン、同速力:35ノット、同航続力:18ノット/時5000浬、同主要兵装:12・7センチ連装砲3基6門、25ミリ連装機銃2基4挺、61センチ4連装魚雷発射管(次発装填装置付)2基8門
 

参考 『連合艦隊の栄光』
「駆逐艦雪風」関連書籍


☆中島飛行機と中島知久平

 中島飛行機の創業者中島知久平は、明治17年1月17日群馬県尾島の押切村で、農家の父粂吉・母いつの長男として生まれる。弟妹には、喜代一、門吉、乙末平、忠平、絹子、綾子がいた。知久平は、小学校を卒業後太田中学への進学を諦め、軍人を目指し、家業を手伝いながら「専検」(中学校卒業検定試験)を受験するため、夜間塾へ通いながら勉学に励んだ。しかし、夜学での勉強では、「専検」合格は無理とわかり、上京を決意するが両親の猛反対に会う。明治35年6月16日、知久平は、父の金100余円を無断で持ち出し、東京へ出奔することになる。知久平は、神田の「上毛館」に下宿し、昼間は予備校の「研数学館」、夜間は「正則英語学校」に通い、苦労を重ねながら陸軍士官学校を受験する資格を得て手続きをする。ところが、書類に不備があり、実家の父親に所在がバレてしまう。上京した父親・粂吉は、こう知久平に言ったという。「よくやった。それでこそ男だ。お前は長男だから俺の跡目を継いでもらわなければならないのだが、どうしても軍人になりたいというなら、その望を叶えてやるが、それにはひとつだけ注文がある。日本は島国だ。海軍の役割が重い。・・・海軍は国益増進や将来の国際的発展に直接大きな関係がある。お前には、海軍の将校になってもらいたい・・・」父親のこの一言が、知久平の運命を決定づけた。

 知久平が、陸軍士官学校に入学したならば、創業時総勢9名で創業をした町工場を、わずか28年で25万名の社員を擁する財閥に育て上げ、「飛行機王」と呼ばれた中島知久平はなかったと言える。その後、知久平は、海軍兵学校を受験するが失敗、明治36年12月海軍機関学校を受験し、応募者2000余名の中から21番目の成績で合格者40名の中に入った。卒業後、機関少尉に任官した知久平は、「新しい世界の将来は飛行機が活躍する時代が必ずやってくる。新しい将来の世界こそ飛行機の研究製作である」と、フランス航空界を視察、大尉になるとアメリカ視察に出向き、飛行機の製作、研究、設備を見学研究するとともに、自らもパイロットの訓練を積み、米国飛行クラブの試験に合格、日本人としては3人目の飛行免状を手にした。

 大正2年5月、横須賀鎮守府海軍工廠造兵部時代、知久平はカーチス式飛行機1機を自力で製造する。第一次世界大戦が勃発すると、日本は「日英同盟」により対独戦に参戦するが、知久平はファルマン機を製作し、青島攻略戦に送り込み、大きな戦果を挙げる。大正3年、知久平は、航空機の必要性を「建白書」で、「貧乏国日本が、列強並みに建艦競争を続けるのは国費の無駄使いである。・・・能率的軍備に切り替え、一艦隊(軍艦八隻)を造る費用で八万機の航空機を造るべし」と訴えた。その後、大正4年7月から1年かけて試作・改良を重ねたファルマン式飛行機・双発水上機が軍の採用とならず、退官を決意し、研究製作を民間ベースで行うことを決意し、当局に「官営による飛行機生産はロスがあまりにも多すぎる。民営ならばその12倍の能率が期待できる」と具申している。

 知久平は、大正6年5月郷里尾島町の農家の養蚕小屋を借り、「飛行機研究所」の看板を掲げ、飛行機の研究・設計・試作の仕事を始める。三菱の飛行機製作に先んじること3年であり、いかに知久平に先見の明があったかがわかる。しかし、大正7年7月、トラクター式の中島一型一号機が完成するも、試験飛行で墜落大破、続く二号・三号・四号も破損や大破の連続で、「札はだぶつく、お米は上がる、何でも上がる、上がらないぞ、中島飛行機」と、太田の町では揶揄する落首が流行った。大正8年、陸軍予備役の水田中尉は試験飛行で宙返りを5回行い、陸軍からこれが認められ、中島式四型練習機(複式木製機)20機の発注を受け、工場も増設され、従業員も300名になり、中島の事業もようやく軌道に乗る。当初、知久兵は関西財閥川西清兵衛と提携し、資金援助を得て経営の安定化を図るが、川西側の知久平退任工作に対抗し、地元の政友会代議士武藤金吉の金策で10万円を工面し、工場を川西から買い戻すことに成功する。大正11年3月に開かれた「平和記念東京博覧会」では、中島は当時としては珍しいジュラルミン製の金属製飛行機を展示し、博覧会終了後、東京〜大阪間の飛行時間新記録を樹立し、その日の内に太田に帰ってきた。大正7年中島から撤退した川西は、関西で飛行機の製作を開始したが、依然、木製であった。三菱は、中島から遅れること数年、ようやく大正9年5月、飛行機の製作に乗り出した。このころから、中島飛行機は学卒者の人気の的となり、優秀な技術者が続々と集まるようになる。

 中島は、創業時より発動機生産を志し「自社の飛行機に自社の発動機を」がモットーであった。大正13年、知久平は、三菱内燃機が発動機の国産化を実現したことに刺激され、東京の荻窪に新工場を建設し、発動機の生産に着手し、名実ともに日本の航空機トップメーカーとしての地位を築くことになる。この年、陸軍は航空本部を創設し、昭和2年には、海軍も艦政本部から航空本部を独立し、航空機生産に本腰を入れだした。そのころの航空機発動機は水冷が中心で、固定空冷星型は緒についたばかりであったが、中島は、英国・プリストル社の新型発動機に着目し、製造権を獲得し空冷発動機生産への足掛かりを掴んだ。ジュピター導入に踏み切った決断と実行力は、その後の中島飛行機が不動の発動機メーカーとしての基盤を築く基礎となる。中島は、空冷星型九気筒450馬力の発動機「寿」を、英国のジュピター、米国のワスプを手本に、堅実で簡明な設計、耐久性と信頼性の高い、且つ取り扱いや整備が簡単な製品を目標に試作完成させる。当時、欧州では水冷、米国は空冷が主流となっており、日本では三菱が「水冷王国」を誇っていた。

 経営が軌道に乗り、順風満帆な知久平は、中島の経営を弟の喜代一にまかせ、航空機産業の発展を有利に展開するため、昭和5年2月第17回総選挙に武藤金吉の死去にともない、群馬一区から立候補し、政治の世界に身を投じる。浜口雄幸首相が東京駅で狙撃された直後の第55議会で、知久平は政友会を代表し新人代議士でありながら、ロンドン軍縮会議について代表質問にたった。答弁に立った臨時首相代理・幣原喜重郎の問題発言を引き出し、浜口の死去により民政党内閣は倒れ、政友会の犬飼毅内閣が成立する。知久平は、政治の世界でも一躍有名になり、異例とも言える「論功行賞」人事で、一挙に政務次官に上り詰める。昭和6年9月、満州事変が勃発すると航空機需要が急増し、知久平の個人経営から株式会社組織とし正式社名を「中島飛行機株式会社」とした。中島は欧米、とくに米国から最新の航空機や発動機の現物や図面を買い付け研究するとともに、製造権の買い取りなども行い、またそれらを製造するトランスファーマシンや工作機械なども買い付け、ラインアンドスタッフのテイラーシステムを採用するなど、航空機の効率的大量生産方式を積極的に採用し、生産性の向上に努めた。そのため、若き優秀な技術者を米国に長期出張させた。当時、米国での中島飛行機の認知度は低く相手にされないため、中島の社員は、軍との間の代理店でもあった三井物産(ミツイカンパニー)の社員の肩書きで、米国内の工場視察や買い付けに奔走したと言う。

 この後、航空機需要の拡大にともない、太田新工場を建設、ここに本社を移転し、旧太田工場を呑竜工場と改称した。昭和12年、資本金を2000万円に増資し、太田工場を太田製作所、東京工場を東京製作所に昇格し、規模を拡大した。同年6月に成立した第一次近衛文麿内閣で、知久平は鉄道大臣に就任する。7月7日、廬溝橋での一発の銃声をきっかけに、日本陸軍は中国との全面戦争に突入していった。政府は、統制三法を公布し、さらに翌年国家総動員法を発動し、軍需優先の経済統制が確立する。中島飛行機は、航空機増産に応え、太田製作所の大拡張、田無鋳鍛工場の新設、陸軍発動機専門工場の武蔵野製作所を新設した。この工場は、面積66万平方b、建物12万平方bの「日本開闢以来」と言われたほどの、大規模なもので、着工からわずか6ヶ月の突貫工事で完成された。しかも、工事中にもかかわらず発動機の生産を続行し、工場竣工の際には計画通り、第一号機を完成し出荷した。工場には、当時の日本では画期的な、フォードのベルトコンベアーを使用する流れ作業と、工場管理にテーラーシステムの科学的管理方式を取り入れ、時代の要請でもある航空機増産の要請に応えた。 海軍は、生産拡充命令を発し、機体・発動機工場の独立を申し入れてきた。中島は、太田に近い小泉町・大川村(現大泉町)に、海軍機体専門工場の小泉製作所、海軍発動機専門工場の多摩製作所を新設を計画。昭和16年に完成する、海軍発動機専門工場は、建物の総面積が23万平方bにおよび、日本では初めての3階建てであり、関係者を驚愕させた。小泉製作所は、敷地面積132万平方b、寮社宅を加えた建物面積は200万平方bに達した。この間、中島飛行機は本社を東京丸の内に移転、昭和13年9月から、各工場は陸海軍管理工場の指定を受け、資本金を5000万に増資する。昭和16年2月、太田製作所と小泉製作所の間に太田飛行場が完成、幅30b以上の完成機運搬専用道路も完成した。

 昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃により太平洋戦争の火蓋が切って落とされた。昭和17年、愛知県知多半島に半田製作所が完成した。清水建設の工事により、埋め立てと地盤改良の上に出来上がった半田製作所跡地は、昭和34年9月26日、死者4759人行方不明者282人をだした伊勢湾台風でも、冠水することなく、びくともしなかったという。中島飛行機は、陸海軍の航空機増産の要請により、国策会社として試作機の研究・開発と量産に全力を尽くた。ミッドウェーの敗戦後、知久平は「アメリカの大型長距離爆撃機が出現すれば、戦場は外地ばかりでなく日本本土にもおよぶだろう。・・・日本もアメリカに優る大型爆撃機を生産して、これによってまず日本本土を狙う敵基地を大型爆弾によって使用不能にすることが先決である」と考え、さらに「敵基地を攻撃するためには、・・・アメリカ本土に侵攻し、さらに向こうの兵器工場を爆撃すべきである。この目的のためには、アメリカで開発中のB29より大きい飛行機を造るべきである」と軍に建議した。知久平は、陸海軍が承認しないため、自社開発を決意し、昭和18年1月、超大型爆撃機構想を発表し、「必勝作戦」として関係者を説いて回った。陸海軍は、知久平の熱意の動かされ、「富嶽」名付けられたZ機の試作に許可を与え、昭和19年2月、知久平を「富嶽試作専任委員長」に任命した。「富嶽」は、全長45b、全幅65b、全備重量160d、出力30000馬力、速力680q/時、航続距離16000qであり、B29を全てにおいて遙かに凌駕するものであった。昭和20年5月の飛行実験開始に向かって計画は進められたが、昭和19年7月のサイパン陥落直後、突然軍の命令により計画は中止になった。その後、米軍の長距離大型爆撃機B29の本土爆撃の凄まじい威力を、軍のみならず日本国民が実体験することになる。しかし、知久平の構想とされる、超大型爆撃機構想は、日米開戦前、米国視察でダグラス社のDC4を買い付けてきた、海軍兵学校出身の若き技術者藤森正巳により、知久平に提案されていた。しかし、利益を追求するあまり知久平は、利幅の大きい戦闘機を大量生産することに目を奪われ、スケールの大きい、進取の気象に富む、この意見を採用することはなかった。知久平が、計画を決意するに至ったときは、あまりにも戦局が悪化し、敗戦の色が濃くなり、防戦一点張りの戦闘機生産と特攻機の緊急整備、そして主要工場への米軍の爆撃と資材不足により、如何ともし難い状況にあった。この時、知久平は、超大型爆撃機構想を提案し、すでに役員待遇となってい藤森を前に涙したという。

 昭和20年8月15日、日本の敗戦とともに25万人の社員を擁した中島飛行機は、その幕を閉じた。中島飛行機は、富士産業株式会社に改称するが、GHQ司令により、財閥として解体対象会社となる。中島知久平は、A級戦犯容疑者とされるが昭和22年9月戦犯指定から解除される。昭和24年10月29日、中島知久兵は「近い将来に日本の産業は復活する。今後は日本も自動車の時代が来る」ことを予言しながら永眠する。享年66歳。知久平は、終生、本妻を持たなかった。しかし、知久平の血を受け継ぐ代表的な人物として、中島源太郎がいた。この人物は、大映で「黒の試走車」(田宮二郎主演)のプロデュースをしたことで知られ、後年国会議員となり文部大臣を歴任する。源太郎が死んだあと、その息子洋次郎(NHK職員)が跡を継ぎ議員となるも、政党交付金の流用での政党助成法違反と、富士重工業からの賄賂を受け取った受託収賄罪で起訴され、自ら命を絶った。

 中島知久平は、日本に航空機産業を興し、世界に冠たる優秀機を多数開発し、科学的生産システムや大量生産方式を導入し、一代で、しかも30年弱で、太田のわずか9名で始めた町工場を、25万人の社員を擁する、世界の「ナカジマ」にした功績は大である。しかし、何よりも中島飛行機が残した遺産は、優秀な技術者達であった。知久平が予言したとおり、日本はモータリゼーションの時代を迎え、富士重工はもとより、トヨタ、日産、ホンダで中島飛行機の技術者達が、設計・開発・研究・試作などの分野で活躍した。とくに、中島飛行機の流れを汲むプリンス自動車は、名車「スカイライン」を開発・生産し、日産自動車と合併後も不朽の名車として君臨している。また、日本のロケット研究の第一人者、糸川英夫博士も若き頃、中島飛行機の設計に籍を置いた一人だ。中島飛行機・中島知久平の最大の功績は、敗戦後の日本復興のため、各分野で活躍し貢献した、25万人の社員達を輩出したことかも知れない。

 知久平の思索の場所「泰山荘」は、、「富嶽」の計画が練られていた三鷹研究所に隣接してあった。現在でも、国際基督教大学(ICU)の敷地内に保存され、一般にも公開されている。また、本館は、大学で一番古く大きな建物として利用され続けている。

 また、知久平は各地に別邸を保有していたが、東京都目黒区駒場の旧前田邸(加賀百万石・前田公爵から知久平が購入)は、GHQに接収された後、中島の後見人藤森正巳の尽力により中島家に返還されるが、中島飛行機のメインバンクの日本興業銀行が横やりを入れ、担保を名目に訴訟を起こし所有権を主張するが、ここでも後見人は、頭取・中山素平を相手に一歩も引かず、裁判で勝利を収め、興銀の金庫を差し押さえる離れ業をやってのける。この後、後見人は、文化財としても貴重な洋館・和館・庭園を後世に残すべく、東京都に全て売却し、庭園を保存しながら公園とし、洋館・和館を一般に開放し、敷地内に東京都近代美術館を建設した。

※中島飛行機と航空機各社の生産状況比較(機体、発動機)
※量産機ランキング
参考 『中島飛行機物語』『銀翼遥か 中島飛行機50年目の証言』  他

「中島飛行機」関連書籍


☆中島飛行機と幻のフィルム 

 「亀井さんは、先月27日朝、敗血症のため、入院先の東大医学部付属病院で死んだ。79歳の誕生日直前だった。

 戦前、戦中、戦後と、30本を超える記録映画、教育映画を手がけ、1本の戦争協力映画も撮ることなく、投獄されても節を曲げなかった。・・・」昭和62年3月14日付けの朝日新聞は、映画監督亀井文夫の死を報じた。
 しかし、平成10年5月7日の産経新聞は、その存在さえ知られていなかった亀井文夫の作品が、「幻のフィルム」として存在することを、次のように報じた。「・・・太平洋戦争末期、一大軍需産業だった『中島飛行機』の半田工場(愛知県)を舞台に、戦意高揚の目的で作られた映画『制空』は、終戦直前の20年8月上旬に完成したため、世間の人々の目にふれることはなかった。原作者は、反戦的な映画を作ったとして戦前に治安維持法で逮捕された経歴を持つ亀井文夫氏。

 存在さえしられていなかったこの映画は、中島飛行機の幹部だった藤森正巳氏の遺族が、大切に保管していた。

 だが4年前、自然発火を心配した末、フィルムをセンター(注1)に寄贈した。1950年代までに製作された映画は、大半がニトロセルロースという成分の可燃性フィルムで、化学変化して自然発火するおそれがあり、劣化すれば「いずれは粉になる運命」(同センター)にあるからだ。主任研究官の佐伯知紀さん(43)らもまったく知らないフィルムとの遭遇に、ただ驚くばかりだったという。・・・」

 国立近代美術館フィルムセンターでは、「幻のフィルム」『制空』を一般公開し上映する際、主任研究官佐伯知紀の解説文を刊行物(注2)に掲載した。

 「今回の『フィルムは記録する'97:日本の文化・記録映画作家たち』で上映される作品のなかに、一般には、ほとんど知られていない作品がある。太平洋戦争末期、当時一大軍需会社であった、中島飛行機が電通映画社に発注して製作した、『制空』という題名の作品である。その完成は1945年8月。その月の15日(敗戦)以降、上映の目的と機会を失ったまま52年の月日が流れてしまった作品である。
 この映画のもう一つの特徴は、原作者として<亀井文夫>の名前が記されていることである。ご存知のように、亀井文夫は、『戦ふ兵隊』『小林一茶』などの作品をもち、戦前のファシズム体制に抵抗した映画人として、広く知られている監督である。だが、そのかれのフィルモグラフィーには、なぜか、この『制空』は記載されていない。・・・
 さて、つぎに亀井文夫(1908-1987)についても触れておこう。戦意昂揚の目的を逸脱し、敢えて疲れた兵隊を描き上映禁止となった「戦ふ兵隊」(1939)。観光映画ではなく半ば農民映画となり、文部省非認定映画(内務省ではない)と宣伝上映された「信濃風土記小林一茶」(1941)など、反戦的な作品傾向で知られるこの文化・記録映画の監督は、1941年10月に治安維持法違反被疑で逮捕された。これは戦後には、一転、輝かしいキャリアとなる。映画人では岩崎昶と彼のみが浴した栄光であった。
 『世田谷警察の留置場から、42年5月に巣鴨拘置所第五舎に移され、一年後に起訴猶予で釈放された。これ以降、敗戦まで亀井が関係したのは1944年の農業技術映画『ニハトリ『じゃが薯の芽の脚本だけであった。・・・』(亀井文夫『たたかう映画』岩波新書)
 『ある日、京都千本組の幹部である桜井剛堂という人物が亀井を訪ねてきた。文化映画会社の統合によって生まれた電通映画社の重役で、亀井に製作担当重役の補佐を頼みたいという。……こうして約一年余の浪人生活を終え、統合を終えたばかりの電通映画社に迎えられたのである。』(都築政昭『鳥になった人間反骨の映画監督・亀井文夫の生涯』講談社)
 この時期のかれについては、ほぼこのように理解されているはずである。補っておけば、桜井剛堂は、本名、桜井源太郎。マキノトーキーの流れをくむ、京都映音製作所の所長をつとめた人物である。なお、電通映画杜への統合は1943年9月のこと。その『電通映画社は、(昭和)19年後半から経営不振のため日映の管理下に入った。9月には、光永(真三)社長が辞任して、日映専務の上田碩三が社長となり、やがて、終戦を迎える』(田中純一郎『日本映画発達史V』中央公論社)。
 いずれにしても、この『制空』については、まったく記述が残されていないのである。内容的には、敵米英撃滅のため、つまりは航空機増産のために、職員の団結強化を訴える典型的な国策映画である。その宣伝・教訓的な描写のなかに、劇的な要素が加味されている。腕は未熟だが熱心に働く少年工や、増産態勢に不満げな熟練工の姿が、対比的に描かれている。だが、この種の映画のつねのように、激しい葛藤をへて、ドラマチックな大団円をむかえるという、強いメッセージ性はもちえていない。どこか腰砕けになっているのである。やはり、『原作亀井文夫』とクレジットされたこの作品における、亀井の役割については、この場合、判然としないとしておく方が無難であろう(監督と明記されている中川順夫の存在も考慮する必要があるからだ)。このような作品が残されていたという事実を差しだせばよいことだと思われる。
 ただ、藤森正巳氏の遺族が渋谷の「ギャラリー東洋人」を訪ね、生前の亀井文夫(晩年は古美術店の店主でもあった)から直接、話を聞いたことがある。それによれば、亀井は実際、長期にわたって半田にロケ滞在し、撮影においても中心的な役割を果たしていたようだ。中島飛行機は軍関係の会社でもあり、世間にくらべれば、食糧事情はよく、撮影としては快適な環境であったようだ。そのようなことを、懐かしそうに話してくれたとのことである。
 「ニハトリ」に出演した徳川夢声が書き残した日記(『夢声戦争日記』中央公論社)を読むと、脚本を担当しただけの亀井文夫が、実際にはロケ現場の新宿で演出をしている様子がうかがえる。先の逮捕により監督登録を抹消されていたかれにとっては、じゅうぶんにありえたことなのである。半田の記憶は鮮明であり、自分が製作に関係したことを認めていたことは、間違いないようである。
 ともあれ、製作から52年後に、公開上映されるこの『制空』は、これまでの<亀井文夫論>にあらたな視座をもたらしてくれることだろう。少なくとも終戦までのかれの仕事が、農業技術映画『ニハトリ』『じゃが薯の芽』の脚本だけではなかったことは明らかになったからである。」

(注1)国立近代美術館フィルムセンター(東京・京橋) 
(注2)『NFCニューズレター』
引用 『朝日新聞』(昭和62年3月14日) 『産経新聞』(平成10年5月7日) 『NFCニューズレター』(1997年3−4月号) 他

■「太平洋戦争末期の未公開映画―亀井文雄の『制空』(1945)」古舘 嘉


「亀井文夫」関連書籍


☆艇長・佐久間勉大尉と第6潜水艇

 明治43年4月15日、山口県新湊沖で、我が国初の国産潜水艇第6号艇(当時は潜水艦とは言わなかった)が沈没し、佐久間艇長(海軍兵学校29期)以下14名の乗組員が殉職する事故があった。乗組員達は、自己の持ち場を離れることなく、最後まで沈没しかかった潜水艇の復旧と浮上させる努力をした。中でも佐久間大尉は冷静沈着な指揮をとるとともに、手帳に事故原因と潜水艇の改良点を書き残し、日本海軍100年の大計を憂えた。この「遺書」は、佐久間の武士道精神の発露として称えられ、外国にも佐久間の名は轟き、日本海軍の見本とも言うべき英国海軍が「遺書」を英訳し、英国潜水艦乗組員の精神教本とした。また、後年米国の軍事評論家ハンソン・ボールドウィンは、著書『海戦と海難』のなかで、佐久間の「遺書」全文を紹介し、末尾を次の文章で結んだ。「佐久間の死は尊い日本の厳粛なる道徳---サムライの道、または武士道---を代表した。星霜移り日本は西洋思想によって近代化され、また戦破れて米軍の占領行政に感化を受けたけれど、しかも佐久間が示した武士道はなお活きて、日本人の副意識の中にその戦士の魂を残すであろう」と。

 海軍潜水学校の『第6潜水艇遭難顛末記』(昭和元年)に、事故の原因が詳細に記述されている。日本海軍が潜水艇の建造を始めたのは、日露戦争中のことであり、潜水艇の乗組員は決死の覚悟であったと言われている。当時の潜水艇は、水中を走行する場合は二次電池(蓄電池)を使用し、水上走行の際はガソリンを使用した。水上走行は、半潜航しながらシュノーケル(通風筒)から空気を取り入れるため、深く潜航しすぎると水が入ることになる。第6潜水艇は、潜りすぎて水が入り込んだ。大量の水が流れ込み、配電盤はショートし、真っ暗な艇内で乗組員達は、必死の排水作業を続けたが、ガソリンも艇内に流れ、艇長・佐久間勉大尉は、「ガソリンニヨウタ」の最後の言葉を「遺書」に書き残し、絶命した。

参考 『大海軍を想う』 『別冊1億人の昭和史 日本海軍史』 他

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☆日本海軍と武士道精神  

 日清戦争時、連合艦隊司令長官伊東祐亨は、威海衛で日本艦隊に包囲され、水雷夜襲による艦隊の壊滅と、味方水兵の反乱による軍律の乱れにより窮地に陥った、清国艦隊司令長官・丁汝昌に最大の礼を持って接し、武士道精神を世界に知らしめた。

 伊東長官は、連合艦隊の包囲網の中にあった、名提督・丁汝昌を無駄死にさせることを惜しみ、降伏をさせてから日本に亡命させる考えで、丁汝昌に降伏勧告文書を送った。フランスのマクマホンは普仏戦争で捕虜と成るも、後にフランスの政権を担い、トルコのオスマン・パシャがプレヴナの一戦に敗れ囚われの身となり、帰国後名陸相と謳われたこと、更に榎本武揚や大鳥圭介が、「賊軍」から政府の要職に就いた実例を示し、「即ち一艦隊を敵に与え、全軍をもって降るも、これを邦家の興廃に比すれば誠に些々たる小節にして拘るに足らず。ここに於いて僕は、世界に鳴る日本武士の名誉に誓い、閣下に向かって、暫く我邦に遊び、他日貴国中興の気運が、閣下の勤労を要するの時節を待たれんことを願うや切なり。請う友人誠実の切言を聞かれよ」と、伊東は切々と、丁に訴えかけた。
 丁は部下にこれを読み聞かせ「伊東中将の友誼と真情とは感に堪えたるも、報国の大義は滅すべからず、余はただ一死もって臣職を尽くすのみ」と、部下を督励し防御を大いに固めたが、その後敗勢が到来し、万策つきて、人名保全と艦船を献納する降伏文書を提出した。伊東はこれを許し、丁の慰労に葡萄酒を贈る。丁は、その葡萄酒に涙し「国家有事の際、これをも私受し得ざるを悲しむ」と旨の書をしたため服毒自殺をする。

 伊東は、丁汝昌の棺がジャンクで送られることを聞き及び、軍使の牛と程両名に「丁汝昌は會て大艦隊を指揮し、久しく威名を東亜に謳われた北洋艦隊の司令長官である。もし汝昌にして死所を得れば、その棺を護送するのは定遠か鎮遠でなければならない。いま戦敗るといえども、その棺をジャンクに載せて運ぶとは何事であろう。それは仁義を主とし、士道を重んずる日本海軍軍人の見るに忍びないところである。貴君等策なきや」と言い放った。更に伊東は、運送船「康済号」を捕獲せず清国に提供し、丁汝昌の棺を載せ帰国するよう告げた。丁の棺を乗せた「康済号」は、多数の日本海軍軍艦に見送られ帰国することになった。タイムス紙はこれを「丁汝昌提督は祖国よりも却って敵によってその戦功を認められた」と、美談として報じている。

 「・・・太平洋戦争の前頃からかなり剥げかけた武士道は、そのころ威海衛の沖に高々と波打っていた。否、世界は間もなくこれを聞き伝えて、伊東提督の措置を世界海軍礼節の最高峰と褒め讃えた。それはまた、我が国現代の礼節にも何ものかを教える如くである」と、伊藤正徳は書き記している。

 日露戦争でも日本海軍の武士道精神は発揮されている。明治37年8月14日、司令長官上村彦之丞率いる上村艦隊は、蔚山沖でウラジオ艦隊3隻と遭遇し、旗艦「リューリック」を撃沈する。しかし、「リューリック」は、沈没する最後の最後まで後部の砲門で撃ち続けるのを止めようとはしなかった。「出雲」艦橋でこれを見ていた上村は「敵ながらあっぱれだ」と全隊集合を命じ、溺れるロシア将兵627名を救助し、武士道精神を世界に知らしめた。

 また、東郷平八郎は、日清戦争での威海衛海戦を伊東の下で艦長として戦ったが、伊東に倣い、日露戦争の勝利の後、傷を負った敵将ロジェストウェンスキーを、面会謝絶が解けたその日に佐世保病院に見舞い、次のような挨拶で労った。

 「生命を取り留められて何よりです。日本では勝敗は兵家の常と申します。ただ祖国のために立派に戦って義務を尽くせば、軍人の名誉は傷つきません。日本海海戦において、閣下と麾下の将兵は、実に勇敢に戦って十分に義務を尽くされたことを、この目で見て感激しました。粗末かも知れませんが、閣下のために病院船をを一隻準備させておきます。少しく回復されてご帰国を欲せられるようになったら、いつでもご用命下さい。閣下の部下将兵の待遇は東郷がお引き受けしますから、どうぞ安心してご加養下さい」と。

≪エルトゥールル号遭難≫ オスマン帝国の皇帝アブデュルハミト二世(1842−1918)は、皇族、小松宮のトルコ訪問への答礼などを目的として1889(明治22)年、皇帝使節オスマン・パシャを日本に派遣した。トルコ使節の初来日である。・・・ 一行を乗せたトルコ軍艦エルトゥールル号は、11カ月もの航海の末、翌1890(明治23)年6月5日、横浜に到着した。使節は明治天皇に親書と勲章を奉呈し、3カ月の滞在後、本国政府の命令で帰国の途についた。 しかし9月16日、熊野灘まできたところで台風に遭遇、老朽化の目立つ木造艦は航行の自由を失って大島にある樫野埼灯台下の岩礁に乗り上げた。船体は砕けて沈没し、オスマン・パシャ以下587人が殉職した。遭難者の遺体は、現場の岩礁を見下ろす丘に埋葬されたという。串本町では、トルコ共和国との交流を続けている。大島には慰霊碑が建てられて100年余を過ぎた今も、慰霊祭が定期的に行われている。 大島のトルコ記念館には、エ号の模型や遺品、トルコの民芸品などが展示されている。 (産経新聞 平成13年5月6日)

参考 『大海軍を想う』 『日本海軍の興亡』 『日本海軍艦隊総覧』 他

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☆封じ袴の大将(山本英輔)

 山本英輔は、明治9年(1876)5月15日、鹿児島県に生まれる。元帥・山本権兵衛の甥。海軍兵学校24期卒。日本海海戦時は、海軍大尉として第2艦隊参謀を務める。

 英輔は、父の顔を知らずに「職業婦人」の母親の手一つで育てられた。孝行息子の英輔は、母の恩に報いるため刻苦勉励、難関を突破し海軍兵学校に入学、遂に中将に就任した。その際、母は昭和天皇即位の式典で表彰される栄誉に浴した。さらに、山本は連合艦隊司令長官を歴任し、まもなく大将に昇進すると、母親の前で「予ガ海軍大将ニナル日コレヲ開キ見ン」と書いた紙片と共に密封していた、母親手製の袴を38年ぶりに着て見せた。母親と英輔は共に感涙にむせび、当時のマスコミに大きく取り上げられ、多くの人々の感動を呼び、山本は「封じ袴の大将」と、巷間呼ばれることになった。

 山本の最大の功績は、日本海軍の中で最初に海軍の空軍化を主張した点にある。日本海海戦大勝利の熱が、未ださめやらぬ明治42年3月、軍令部参謀・海軍少佐時代に、「飛行器」研究に着手する必要性を、時の上司軍令部第2班長・山屋他人海軍大佐(後に大将)に提言し、陸海軍合同による臨時軍用気球研究会が発足し、日本で初めて航空機の研究開発が実施された。後に、海軍は研究会から脱退し、海軍航空術研究委員会を設置し、独自の道を歩むことになる。

 明治44年、当時ドイツの大使館附武官であった山本英輔は、フランスに留学中の大尉・金子養三(後に少将)に、45年の観艦式当日飛行機で飛ぶよう要請をする。そこで、金子は勇躍帰国する。すでに、陸軍は明治43年12月、徳川大尉が代々木練兵場で初飛行に成功していた。金子は、大正元年11月12日東京湾での観艦式当日、横浜附近の海岸に急造された滑走台から飛び立ち、米国留学経験の大尉・河野三吉ともども、見事に天覧飛行を成功させ、陪観者を欣喜雀躍させた。これを契機に、若い将校の飛行志願が一挙に急増した。この中に、若き日の大西瀧治郎がいた。後に大西は、特攻隊生みの親・海軍中将として知られることになる。大西は、明治45年7月海軍兵学校40期(同期に山口多聞等がいる)を卒業し、少尉候補生として練習艦に乗り、観艦式に参加し、河野三吉大尉が操縦するモーリス・ファルマン水上機が、横浜から羽田を経由し、天皇の乗艦する「筑波」の間近に着水し、再び水上から飛び立つ、当時としては画期的な飛行を目の当たりにし、大きな感動と、大空への限りない夢を抱いた。これを機に、大西瀧治郎は、日本海軍内で航空主兵論者として、航空畑一筋の道を歩むことになる。

 山本英輔は、昭和2年初代航空本部長に就任する。しかし、少佐時代「飛行狂」とも呼ばれた山本は、皮肉にも昭和9年のロンドン軍縮会議に反対し、いわゆる艦隊派の立場にあった。昭和11年の2・26事件の際は、一時陸軍から暫定内閣の首相候補に推されたが、反乱軍は鎮圧され、広田弘毅外相に組閣の断が下る。山本は、事件後予備役に編入され、その責をとる。
 昭和37年7月27日逝去。86歳。

参考 『大海軍を想う』 『太平洋戦争史2』 『山本五十六と8人の幕僚』 『日本海軍艦隊総覧』 他

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☆原爆実験と戦艦「長門」

 戦艦「長門」は、開戦時山五十六連合艦隊司令長官座乗する旗艦として、その名を天下に轟かせていた。しかし、その生涯は、波乱に満ちたドラマでもあった。戦艦8隻、巡洋艦8隻の、いわゆる「八八艦隊」計画により着工した第一号の戦艦である。戦艦「陸奥」とともに長門型と称され、40a砲を搭載した最初の戦艦としても知られている。「長門」は、大正9年11月25日呉海軍工廠で完成し進水し、直ちに横須賀鎮守府の艦籍に組み込まれ、太平洋の海原へと乗り出した。爾来、戦艦「武蔵」「大和」の出現まで、戦艦「陸奥」とともに海軍シンボルとして鎮座した。完成時基準排水量は32,720dであったが、昭和9年4月から約2年間の大改装により4万d(39,130d)クラスの大戦艦に生まれ変わった。

 連合艦隊の旗艦として、全艦艇の中で最も長く、最も数多く将旗をマストに掲げ、戦艦「大和」の竣工により旗艦の座を譲るまで、「大艦巨砲主義」の象徴的存在でもあった。真珠湾攻撃の際は、連合艦隊旗艦として江田島に近い柱島泊地にあった。戦後、旗艦でありながら、真珠湾攻撃の最先頭に立たなかったことが、「山本五十六凡将論」の根拠の一つにも挙げられたりしている。

 昭和17年2月12日、「長門」は連合艦隊旗艦を、戦艦「大和」と交替し、ミッドウェー海戦に出撃し、その後戦艦「陸奥」とともに第二戦隊に編入され、トラック島へ進出し、ソロモン方面の作戦支援に従事する。

 そして、日本海軍最後の決戦とも言うべきレイテ湾海戦(比島沖海戦)に、「長門」は、「武蔵」「大和」等と出撃をする。これが、「長門」にとって結果的に最後の出撃となる。レイテ湾海戦で、日本海軍は米軍の圧倒的な航空兵力の前に惨敗を帰し、その息の根を止められ、敗戦への道をまっしぐらに突き進むことになる。「長門」は、2発の爆弾の直撃と1発の至近弾を浴び、その巨砲は、米海軍の艦隊へ向け、一斉に火を噴くことはなく、傷ついた巨艦は、寂しく横須賀基地に帰還した。「長門」は、昭和20年7月18日横須賀で、米艦機の攻撃を受け中破するも終戦を迎える。

 しかし、「長門」の名を世界的に知らしめたのはその後だった。昭和21年7月1日、ビキニ環礁で実施された米国の原爆実験に、巡洋艦「酒匂(さかわ)」、米国艦「アーカンサス」「ネバダ」等多くの艦とともに被爆実験艦とされたが、「長門」は、爆発の大きな衝撃にも微動だにしなかった。7月25日の第2次実験では、爆心地から200bの距離に「長門」はいた。「長門」から50bの所にいた「アーカンサス」は沈没した。だが「長門」は、わずかに5度の横傾斜を生じたが、すぐさま沈没することなく、徐々に傾斜を大きくしながら、4日後の7月29日夜半、その巨体を海中深く沈めたとされている。「長門」の最後は、誰にも見とられることがなかったが、栄光の連合艦隊旗艦としての矜持を、厳として守りつつその幕を閉じた。

参考 『日本海軍艦隊総覧』 他

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☆フリート・イン・ビーイング

 広瀬武夫中佐は、日露戦争・旅順口閉塞作戦で、「福井丸」指揮官として武勲を立てたことはよく知られている。とくに、旅順口突入後、行方不明の部下杉野孫七二等兵曹(死後兵曹長)を探し求め、敵弾に当たり戦死したことにより、「軍神」と崇め奉られた。

 広瀬武夫は、海軍兵学校第15期卒で、同期には後の総理大臣岡田啓介大将、財部彪大将らがいる。
 財部に、山本権兵衛(後の総理大臣・大将)の娘・稲子との縁談話が持ち上がるが、当時海軍軍務局長で少将の山本は、飛ぶ取り落とす勢いであった。財部は、結婚後山本の後ろ盾で出世したと、後ろ指を指されるのを嫌い、広瀬に相談を持ちかける。九州男児で男気のある広瀬は、一肌脱ごうと山本権兵衛邸に単身乗り込んだ。

 丁々発止のやり取りの後、得心した広瀬武夫を山本権兵衛は引き留め、海軍談義に花を咲かせた。そこで、山本は「フリート・イン・ビーイングについて知っているか」訊ねるが、広瀬は知らなかった。山本は、「フリート・イン・ビーイング」について次のように広瀬に言って聞かせたという。

 「・・・簡単に国運を賭してなどと人は言うが、それは国の興廃いずれかを賭けることであって、場合によっては皇国が滅びるという、たいへんな覚悟を定めることでなければならぬ。無責任な猪突猛進の勇で国の興廃を賭ける気になったりされては、国民はたまったものではあるまい」
 「・・・国防という問題も、決して軍人の専有物であると思ってはならん」
 「戦争するには、平たく言ってまず金が要る。それから何万の同胞を死なせる決意が要る。軍人、政治家、実業人、学者から町の職人から百姓までが心を一つにしてはじめてほんとうに国が護れるのだし、国を興すことが出来るのだ。・・・兵はもともと凶器である。用い方を誤れば己の上にも必ず災禍ををもたらす。孫子にもある通り、戦わずして相手を屈服させるのが上の上たる策で、将来海軍の中堅たるべき者は、自己の功名心を忠義の美名でよそおってみだりに戦を好むようなことがあってはならんぞ。戦うときには非常の勇気をもって事にあたらねばならぬが、戦わずして勝つ海軍、存在すること自体が強力な意味を持っている艦隊、それがフリート・イン・ビーイングの思想だ」

 この思想は、日本海軍の伝統として脈々として生きながら、とくに加藤友三郎、岡田啓介、米内光政、山本五十六、井上成美らに受け継がれていった。

 加藤友三郎(後の総理大臣)は、ワシントン軍縮会議終了後随行の堀悌吉に次のように口述筆記させた。この文書は、海軍省金庫内に奥深くしまわれ、戦後まで、人目に触れることはなかった。「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。・・・平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。・・・日本と戦争の起こるprobability(可能性)のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に・・・結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」(旧海軍記録文書)

 井上成美は、海軍軍務局長・少将時代、日独伊三国同盟締結に関し「国軍の本質は、国家の存立を擁護するにあり。他国の戦に馳せ参じるが如きは、その本質に違反す。前(第一次)大戦に、日本が参戦せるも邪道なり。海軍が同盟に反対せる主たる理由は、この国軍の本質という根本観念に発する。いわゆる自動的参戦の問題なり。たとえ締盟国が、他より攻撃せられたる場合においても、自動的参戦は絶対に不賛成にして、この説は最後まで堅持して譲らざりき。・・・」と、陸軍との内戦も辞さずとの決意で猛反対した。

参考 『日本海軍に捧ぐ』(「荒城の月」) 他

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☆兵学校教育と遠洋航海

 海軍兵学校入学の条件は、学力のみならず様々な条件が加味され、「東京帝大に入れても、兵学校には入れない」と言われるほど、俊才達の憧れの的であり、難関中の難関であった。全国から集まった俊英達は、学術優等だけでなく、将来海軍高等武官としての品性を備え、且つ身長5尺以上、体重12貫以上、胸囲2尺5寸3分以上、肺活量2800立方糎以上、視力1.0以上等の厳しい基準をクリアーしていなければならなかった。とくに、学力試験は、5日間にもおよび、一科目でも基準に満たなければ、そこで振り落とされた。因みに、試験科目は、代数、英文和訳、歴史、幾何、化学、国語及漢文、和文英訳及英文法、地理であった。最後まで残った者に、口頭試問が課せられたが、これがまた、難物であった。学力は基準を満たしても、他の基準を全て満たすのは至難の業であり、そうしたことからも兵学校生徒はエリートとされた。兵学校の教育は、多岐ににわたり、航海術にせよ、砲術にせよ、物理学、化学、数学、天文学等が必要であり、また、諸外国との交流には、絶対的に英語が必要となった。井上成美海軍兵学校長は、「英語を話せない士官が何処にいるか」と、太平洋戦争中も英語教育を止めることはなかった。

 海軍兵学校生徒は、卒業と同時に少尉候補生となり、遠洋航海後は、少尉に任官することが保証された。兵学校では、ハンモックナンバー(席次)が重視され、とくに、成績優秀者に天皇から下賜される「恩賜の短剣」組は、末は大将と言われた。

 明治5年、「筑波」で西海方面(九州方面)へ、海軍生徒を乗せ巡航へ出たのが遠洋航海の始まりである。主目的は、練習航海にあった。翌6年生徒達は、初めての外国、清国(中国)の沿岸を巡航し、異国の空気を肌で感じることになる。しかし、本格的な遠洋航海は、明治8年になる。「筑波」は、全長58.7b、1978d、519馬力、8ノットの帆船であったが、生徒達を乗せ、11月6日品川を出航し、ハワイに寄港した後、サンフランシスコなど米国西海岸を歴訪しながら、5ヶ月の航海を終え、9年3月14日に横浜港に帰港した。明治19年まで遠洋航海は、在校生生徒が主体であった。

 明治20年、生徒ではなく海軍兵学校を卒業した少尉候補生を乗艦させ、遠洋航海の成果を更に挙げようと試みた。明治30年、練習航海の制度が確立され、少尉候補生は必ず練習航海をするよう義務づけられた。そして、大正10年6月28日、達号第13号により、実務練習規則に「内外各地ニ於ケル諸種ノ見学ニヨリ見聞ヲ広メシムルモノトス」との項目が追加され、遠洋航海が明文化されるに至った。

 遠洋航海は、米国航路、豪州航路、欧州航路、世界一周航路などがあった。この伝統は、太平洋戦争開戦の前年まで続いた。少尉候補生達は、兵学校で学んだ全ての学問を、遠洋航海を通じて実地訓練で応用しながら再度検証するとともに、艦隊内のマネージメント(経営)にも習熟することになる。しかし、一番の収穫は、諸外国の実状を自分の目でつぶさに見ながら、国際的見識を高めることにあった。海軍の士官、指導者に、科学的・論理的思考と国際的視野を持った人物が多く輩出されたのも、海軍兵学校の教育と遠洋航海を通しての諸外国歴訪の旅の成果であろう。

 米内光政は、戦後「米国戦略爆撃調査団」のオフティス海軍少将から、日本陸海軍間の摩擦の原因を訊ねられ、次のように応えている。「私は、根本的なものは、陸軍と海軍の教育方針の相違にあったと思います。陸軍は15歳にたっしない少年から、軍隊教育をはじめています。そんな若年の時代から、もっぱら戦争のことについて教え、広い国際的な視野についての教育に欠けていたと思います。・・・そこに、陸軍将校と海軍士官の考え方に根本的な相違が生じたと思います。その結果、当然の帰結として、陸軍将校は視界が馬車馬のように狭くなり、海軍士官ほど広い視野で物事を見ることができなくなります」
 石原完爾元陸軍中将は「幼年学校の教育は、おそらく貴族的、特権階級的な雰囲気で、その上、閉鎖的、かつ排他、独善的なものであった」と、述懐している。
 昭和7年から3年間、海軍兵学校で英語の教鞭をとった英国人セシル・ブロックは、彼の著書『一英人の見た江田島』のなかで次のように書いている。「私は、江田島の生徒ほど、自分の義務に忠実な人々を見たことがない。彼らは、自分の職務を執行するにあたっては、もっとも良心的であり、おどろくような真剣さで、毎日の仕事に精進する。だが、彼らは、勤勉にはたらく人々の通例として、勤めのないときには、軽い心で愉快にあそぶ。・・・彼らは、個人的には、恭謙な紳士であって、日本国民全体は、彼らを誇りとしている。江田島の理想は、日本の武士とイギリスの紳士のもつ最善にして最高のものを、融合したものである。毎年、兵学校を卒業する少尉候補生は、この理想に近いほどの、立派な人格と技量をそなえた若者たちだといえる」

13歳で地方幼年学校に入校し、3年間の教程を終え、東京の中央幼年学校にすすむ。ここで2年間の学業を修め、陸軍士官学校に入学する。

参考 『続 海軍兵学校沿革』 『新版 米内光政』 『一英人の見た海軍兵学校』 他

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☆海軍士官と隠語

 「海の男特有のザックバランな男らしさ、しかもスマートで、立身出世主義や自己顕示欲がなく、ゴチャゴチャいわないで、黙って責任をとる、仰々しいことや格式張ったことが嫌いでサラとしているが、心の底には精神主義と合理主義がミックスされた”ネイビー・スピリット”がしっかりと根を下ろしている。このような独特の気風は、海軍で潮風に吹かれた者でなければ分からない。

 しかし、まことに残念な話だが、こうした歴史と伝統と時代の所産であるユニークなコミュニティは、今後二度と再び、この日本に現出することはないだろう。それにしても、棒給で”エスプレー”のできた”古き良き時代”の産物ともいえる士官の隠語も、どうやら海軍の滅亡とともに海底深く葬り去られたようだが、今は亡き帝国海軍の”隠れた遺産”のひとつとして、子々孫々に伝えたいものである」と、元海軍主計少佐で財団法人防衛弘済会理事長を歴任した青木勉は、記している。

 海軍士官の隠語は、時として下士官に聞かれてはまずい会話の場合使用された。士官室には、従兵が頻繁に出入りし、食事中は従兵が給仕するため、士官同士の会話は、必然的に隠語にならざるを得ない。しかし、長い海軍の伝統によって培われてきただけに、ウィットとユーモアに溢れ、洒落ていた。一般社会の隠語と違い、海軍士官のものは、上品で暗さが微塵もない。海軍士官になると、まず隠語を覚えなければ、仲間と会話ができなかった。

 もともと、海軍では艦と艦、艦と陸上との連絡にには、手旗信号、旗旒信号、発行信号、電信が使用された。これらは、長たらしくなく、できうる限り簡略化された略語として、制定使用された。司令官は「シカ」、参謀長は「サチ」、先任参謀は「セサ」、艦隊主計長は「カタシケ」、軍医長は「グ」等は、海軍式省略語法の一例だが、これら正式略語が海軍の隠語に大きな影響を与えた。

 「・・・おい、テッポウ。昨日は、ケップのお伴でレスに行ったところ、ワシのインチが現れてねえ。ケップの手前、仕方がないからシレッとしてたが、その辛いこと。後でチングで会う約束もできずに、ご帰艦さ。・・・ところでチングのマイナスが、だいぶたまったわい。シケにイッサツ入れるか・・・」

 この「翻訳」は、次の通りだ。「・・・砲術長よ。昨日、艦長のお伴をして、料亭に行ったところ、私の馴染み芸者が座敷に現れた。艦長の前なので、仕方なく知らん顔の半兵衛をきめこんだが、大変に辛かったぞ。あとで待合いで会う約束もできずに艦に帰った。・・・ところで待合いの借金が大分たまったな。主計長に棒給の前借りを頼むとしようか・・・」といった具合になる。

 種明かしは次の通りだ。「テッポウ」は鉄砲で砲術長。「ケップ」はキャプテンのキャップ(ケップ)で艦長。「レス」はレストランの略。「インチ」はインティメイトの略で馴染みのこと。「シレッとする」は知らん顔をする。「チング」はウェイティングハウスのウェイティングのティングがチングになった。「マイナス」は借金。「シケ」は隠語でなく主計長の正式略語。「イッサツ」は一札。

 因みに隠語のほんの一例を以下に紹介します。
 「コーペル」・・・娘のこと。英語で娘はドーター、ドーを銅(copper)として、コーペルと読む。
 「ケーエー」・・・・・女房のこと。「かかあ」の「か」(KA)をとってケーエー。
 「エス」・・・・・・・・・芸者のこと。シンガーの頭文字S。
 「エスハウ」・・・・・芸者置屋のこと。ハウはハウスの略。
 「エスプレー」・・・・芸者遊びのこと。
 「スケール」・・・・・酌婦のこと。酌婦の酌が尺となり、スケール。
 「ブラック」・・・・・・「くろうと」のこと。
 「ホワイト」・・・・・・「しろうと」のこと。
 「エム」・・・・・・・・・「もてる」の「も」(MO)のM。
 「ロングになる」・・首っ丈になる。英語の「ロング」は、恋いこがれるとの意味があるが、これは鼻の下を長くすることからきている。

引用 青木 勉 論文 他

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☆中津留達雄大尉

 「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、私のごとき長官でもない。それは諸子のような若く純真で気力に満ちた人たちである。皆は体当たりの結果を知ることができないのが心残りであるに違いない。諸子の戦果はかならず見届けて上聞に達するようにする。一億国民にかわってお願いする。しっかり頼む」。昭和19年10月20日早朝、関行男大尉以下24名の「神風特別攻撃隊」を前に、大西瀧治郎中将は訓辞を述べた。これが、最初の特攻隊である。

 関行男は、海軍兵学校第70期の卒業で、同期に中津留達雄大尉がいた。奇しくも、兵学校同期に「最初の特攻隊」と「最後の特攻隊」の指揮官がいたことになる。しかし、生い立ちも性格も全く異なった二人は、同期には珍しく全くと言っていいほどの交流の記録がない。

 中津留達雄は、大正11年1月大分県津久見町に生まれ、県立臼杵中学を卒業している。幼少時代から水泳を得意とし、中学時代は庭球部の選手として、県大会にも出場するなど、文武両道を兼ね備えた少年であった。両親は、達雄を教師の道へ進めるが、本人は昭和13年12月、海軍兵学校に入学する。海軍兵学校生徒は、当時の少年や女学生にとって、その姿形は羨望と憧れの的であった。まして、端整な顔立ちと長身の中津留は、津久見に帰省するのを事前に察知していた女学生が、中津留の歩く後ろに列をなし、何人もゾロゾロついてくるほどのもてようだった。中津留を知る当時の人は、「部下に優しく、ハンサムだし、がっちりして、まさに美丈夫という言葉がぴったりでした」と評している。

 昭和16年11月、海軍兵学校を卒業した中津留は、巡洋艦「北上」、さらに駆逐艦「暁」に乗艦した。昭和17年11月「暁」は、第3次ソロモン海戦で撃沈されるが、水泳達者な中津留は、16時間の漂流の末、奇跡的に命拾いし、無事帰国する。その後、中津留は宇佐海軍航空隊の教官として、パイロットの養成に努めた。
 義理堅い中津留は、慰問袋の提供者の元へお礼に出かけ、一目惚れした保子に求婚することになる。その後、中津留は鳥取県の美保基地へ。保子との間に、故郷の大分で鈴子が誕生する。中津留の上官であった江間保少佐は、昭和20年8月初旬に、中津留を大分基地に転勤させた。初めての子の顔を一目見させようとの、江間の思いやりであった。しかし、江間少佐は昭和62年に病死するまで、中津留の死命を決する大分基地勤務を、悔やみに悔やみ続けたという。中津留は、大分で我が子と最初の対面をするが、それが最後の対面になるとは思いもよらなかったであろう。

 昭和20年8月15日正午、天皇のポツダム宣言受諾放送により、戦争は終結した。宇垣纏中将・第5航空艦隊司令長官は、「多数殉忠の将士の跡を追い特攻の精神に生きんとするに於いて考慮の余地なし。顧みれば大命を排してより茲に6ヶ月、直接の麾下及指揮下各部隊の決戦努力に就いては今更呶々を要せず、指揮官として誠に感謝の外無し」と、自らの日誌『戦藻録』に記していた。宇垣は、第1戦隊司令官として6月のマリアナ沖海戦、10月のレイテ沖海戦を指揮し、昭和20年2月、第5航空艦隊が新設され、司令長官に就任した。5航艦は、特攻のためにつくられたような部隊であり、宇垣は連日、将来ある若者を特攻へと駆り立てた。

 玉音放送の前日・14日に、連合艦隊司令長官小澤治三郎中将より、「対ソ及対沖縄積極攻撃中止」の命令を、宇垣率いる5航艦司令部も受けていた。15日朝からラジオは、正午に天皇から重大放送がある旨、繰り返し伝えていた。また、宇垣が常々聞いていたサンフランシスコ放送は、日本がポツダム宣言を正式に受諾し、戦争が終わったことを報じていた。宇垣は、終戦の事実を充分に承知していたと言える。

 しかし、宇垣は中津留大尉を呼びつけ、沖縄攻撃を命令するとともに、自ら直率することを伝えた。情報を断絶されていた中津留はじめ隊員達は、戦争が終結したことを知らされていなかった。しかし、第701航空隊艦爆分隊長・中津留達雄大尉は、「最後の特攻隊」、艦爆機「彗星」11機の編成を組んだ。参加者は、中津留以下22名と宇垣中将。中津留は、整備中の「愛機」のエンジンの異常音を聞き、決死の宇垣長官の本懐を遂げさせるためにも、万が一にも不時着するようなことがあってはならないと、他機に乗り換えた。乗り換えなければ、中津留の運命もまた変わっていた。案の定、「愛機」はエンジントラブルで不時着することになる。

 戦争終結を報じた玉音放送から数時間後の、午後4時宇垣は、山本五十六から送られた白鞘の短剣を持ち、第3種軍装の襟に付けていた階級章をはずし、中津留の操縦する「彗星」乗り込み、沖縄へと出撃した。中津留と宇垣の乗った「彗星」と、もう1機の「彗星」は、沖縄本島の本部半島北約30`のところにある、伊平屋島の前泊の米軍キャンプ近くに突入した。8機17人が戦死。3機がエンジン不良で着水し、6名中1名が死亡し、5名が生存した。中津留達雄大尉、23歳。
 自らも海軍経験のある作家・城山三郎は、昨年(2001年8月)に『指揮官たちの特攻』(新潮社)を上梓した。この書物を出版するにあたって、城山の取材過程を、NHKが『NHKスペシャル』で、昨年の夏に放映している。城山三郎は、緻密な取材により、中津留の操縦する「彗星」と、その指揮下にあったもう1機の「彗星」が、終戦を祝い煌々と明かりを点けた米軍キャンプを、ギリギリの所で避け、大惨事になるのを防いだ形跡があったことを検証した。もし、終戦後に米軍に甚大な被害を与えていたならば、戦後の日本国家の行く末も、大きく異なったものになっていたであろう。それは、中津留達雄大尉の人となりを描くことにより、城山三郎は鎮魂歌としている。

参考 『指揮官たちの特攻』  うえはらみつはる緒論文 他