大正二年 (附同年前作)
ゆふべ
暑き日の日暮れとなればうら悲し倉かげに行きで物を思ふも 《日暮れ(ひぐれ)》
倉の戸に畫きのこる的の墨のいろうすうす昔思ほゆるかも 《畫き(かき)、的の墨(まとのすみ)》
若やげる我が夏影も年ごとに衰へ行けば今日もかなしも 《夏影(なつかげ)》
このゆふべ孟蘭盆燈龍のいくつかを張りかへて何か儚なかりけり 《孟蘭盆(ぼん)、燈龍(どうろう)、儚な(はかな)》
若き身の山里に歸り來て家繼ぐべくは悲しかりけれ 《山里(あをやまざと)、繼ぐ(つぐ)》
ゆふ庭の木蔭を見れば雛の鷄言葉をやめて靜かなるかも 《木蔭(こかげ)、雛の鷄(ひなのとり)》
曇り日の軒したくれて姙み犬砌のうへに眠り居るかも 《軒(のき)、姙み(はらみ)、砌(みぎり)》
腹這ひし犬眼をとぢて人のごとし身にこもる音に聞き入るらしも 《腹這ひ(はらばひ)、音(おと)》
人間のいのち悲しと知りそめて幾年ならん尚生き居るも (八月作) 《人間(にんげん)、幾年(いくとせ)、尚(なほ)》
ゆふ月夜街のはづれの墓に來ておぼろに人の戀ほしくなれり
墓つづき田は刈られ居てゆふ靄やひんがしの山に星一つ居り (十月作)
眼ぎらふ夏野のなかの遠きみづ巨椋の池は霞みたり見ゆ 《眼(まな)、夏野(なつの)、巨椋(をぐら)》
みなづきの河原あらはに山のかげ橋架くる兵の白き幾むれ 《架くる(かくる)》
架橋兵石の俵を詰めるおと宇治の河原にきけば寂しも (六月作) 《架橋兵(かけうへい)》
墓地の灯
夕されば畑のつかさの草のなか我家の墓地に灯の竝びけり 《我家(わぎへ)、灯(ひ)》
弟妹等をつれて來れば愛しみ墓の立木に茅蜩啼くも 《弟妹等(いろとら)、愛しみ(うるはしみ)、立木(たちき)、茅蜩(かなかな)》
ほのぼのと生命の意識目ざめたるゆふ桑道のの漂ひ 《生命(いのち)、意識(いしき)、目(め)、(あを)、漂ひ(たたよひ)》
我がへより風立ちわたり粟畑にゆふ光こそ流れたりけれ 《粟畑(あはばた)》
粟の葉に風吹きわたりさらさらと胸のべにしてやさしく鳴るも
ゆふぐれて玉蜀黍畑の葉のかげに來て佇めば心は湧くも 《玉蜀黍(もろこし)、佇めば(たたずめ)》
愛しくも握りしめたる玉蜀黍の幹のふくらみに稚き實こもり 《愛しく(かなしく)、幹(みき)、稚き實(わかきみ)》
玉蜀黍の葉腋にのびし紅き毛のはぢらひ勝ちに思ひたりけり (八月作) 《葉腋(はわき)、紅き(あかき)》
榛紅葉
みちみちの山の樹の間の榛紅葉はやわが心もえ居たるかも 《樹(こ)、榛紅葉(はりもみぢ)》
妹が目のふかき情もたまなれば鮮かにみて往なんと思へや 《情(なさけ)、鮮か(あざかか)、往なん(いなん)》
わが戀は池の鯡魚の浮きしづみつぶさに見ねば惱みたりけれ 《鯡魚(ひうを)》
けだしくも母がそばより俯伏に眼を深うして見たる妹なれば 《俯伏(うつぶし)、眼(め)、妹(こ)》
その母を愛しく思へば然るゆゑにその子に戀ひて愼みたりしか 《愛しく(かなしく)、愼み(つつしみ)》
かはたれを我れに來向ふわが乙女やや赤面みゐて憎からなくに 《來向ふ(きむかふ)、乙女(をとめ)、赤面み(あかみ)》
ゆふ庭に榠〓(木虍/且)のにほひ熟れゐたり君によりつつ然か思ひたり 《榠〓(木虍/且)(くわりん)、熟れ(うれ)、然か(しか)》
灯のなかの眼近の君がつつましさ今はしみじみ我れ食むも (十二月作) 《灯(ひ)、眼近(まぢか)、食む(いひはむ)》
鳳仙花 一
山峽のこのふる里をまだ出でずはや秋らしき雨を今日見れ 《山峽(やまがひ)、ふる里(ふるさと)》
大き家にひとり留守ゐる晝の雨ぬれゆく庭に鳳仙花あはれ 《留守(るす)》
言絶えてやや久なれや遠びとはこの降る雨に如何せるらむ 《言(こと)、遠びと(とほびと)、如何(いかが)》
末かけて日ながくのみに言出でず戀ひつつあらば何時あらめやも 《日(ひ)、言(こと)、何時(いつ)》
流れあめ軒にながれて降りやまず徒にわれを物思はしめつつ 《徒(いたづら)》
二
しらじらと雨ふるなかの丹の花のありがてなくに寄りにけらしも 《丹(に)》
鳳仙花土にくはしく散りゐたり下ごもりたる葉の蔭の廻りに 《土(つち)、廻り(まはり)》
鳳仙花葉立ちみだれて赤き花わが戀ひごころみだれたりけり 《葉立ち(はだち)》
爪ぐれの雨にまかせてかく散りて蓋しやかれが忘れたるらむ 《爪ぐれ(つまぐれ)、蓋し(けだし)》
わかれ居てはわが安からぬ心かな爪ぐれの赤き土をば踏みて
愼みつつ戀ふればあたら爪ぐれの餘所見の間だに散らずと云はんや 《愼み(つつみ)、餘所見(よそみ)、間(ま)》
我がをとめ慧き仔鹿の瞳をもてり年ごろ戀ひて知らざらめやも 《慧き(さとき)、仔鹿(こじか)、瞳(ひとみ)》
くちびるに似てを向きたる紅きはな愛しかりけりき葉かげに 《向き(むき)、紅き(あかき)、愛し(かなし)》
莖のびし鳳仙花みればさ丹づらふ我妹に見えで莖の愛しも 《丹(に)、我妹(わぎも)、愛し(かなし)》
葉がくりに花の柄ながき爪ぐれは人の粧姿に似てを愛しも 《粧姿(よそひ)、愛し(かなし)》
はつはつに未だ觸れねど爪紅のゑまひを見する人のかなしさ 《未だ(いまだ)、爪紅(つまぐれ)》
爪ぐれは乙女のごとく首垂れて露ひかる眼をしのばしめカたり 《爪ぐれ(つまぐれ)、首垂れ(うなだれ)》
葉の雫花にこぼれて光るだも座ろに堪へず君が眼を欲り 《雫(しづく)、座ろ(すぞろ)、眼(め)、欲り(ほり)》
何なれば雨に眞紅に洗はれて美しきのみにわが見ざるかなや 《何(なに)、眞紅(しんく)》
鳳仙花あまりに赤く地に見えてちりぢり散るは我が疾みなり 《疾み(ねたみ)》
戀しけば吾が待ちがたし爪ぐれの雨に堪へつつ秋待ちがし
鳳仙花ほろほろと散るかくのごとたやすく散りて身をまかすかや (八月九月作)
赤き宮
松馬場をゆけば向うに赤き宮われの眼に愛しみわくも 《松馬場(まつばば)、眼(まなこ)、愛しみ(かなしみ)》
松の間に愁さりけり赤き宮たかく光りて見えそめぬれば 《間(ま)》
廣庭を宮居へまゐる靜ごころ白きひかりは降りゐたるかも 《廣庭(ひろには)、宮居(みやゐ)》
赤あかと岡べの宮を見れてあれば天よりひかり靜かに降るも 《天(あめ)》
下駄はける老案内者ゐて境内をわれに近づく日のひかりかも 《下駄(げた)、老案内者(らうあんないしや)、境内(けいだい)》
ひつそりと丹塗りの宮のなか庭に時節の蜜柑の熟れて明しも 《丹塗り(にぬり)、時節(とき)》
松高き馬場の巷の料理店おぼろ月夜に灯を閉ざしけり 《巷(ちまた)、料理店(れうりてん)》
長谷寺の厨裡のゆふべに物問へば發育のよき乙女が居たり (十二月作) 《厨裡(くり)、發育(はついく)》
金葉
夕づく日眼に傷みあれ樹によれば公孫樹落葉の金降りやます 《眼(め)、公孫樹(いてふ)、落葉(おちば)》
燃えあがる公孫樹落葉の金色におそれて足を踏み入れにけり (十二月作) 《公孫樹(いてふ)、金色(こんじき)》
鴨 四十二年作
このゆふべ背戸の刈り田の霧ぬちに鴨聞きながら雨戸を繰るも 《背戸(せど)、雨戸(あまど)》
霧ながら月の照りたる刈り田にはいづらやほそく鴨の啼くらむ
よく見ればすぐの刈り田の月影のゆらげる水に歩み居る鴨
立ち聞きて暫く待ちて戸を閉ぢぬ乏しくはあれど鴨のなく聲 《暫く(しばらく)、乏しく(ともしく)》
ゆふづく日土庭の隅の塵塚にがらすの砕片の光りやまずも 《塵塚(ちりづか)、砕片(かけ)》
窓押せば鳴きゐたる蟇なきやみぬ灯にかがやきてしとど雨降る 《蟇(がま)、灯(ひ)》
いにしへの是れの狩場の枯尾花きたり遊びてひと日暮せり 《狩場(かりば)、枯尾花(かれをばな)》
もののふの古きかり傷のかれ尾花今は長くて胸をし埋む
胸をうづむ尾花が末は山すそへ光りなびきて暮れつづきけり 《末(うれ)》
ゆふぐれて山をくだれば蟲のこゑ道もせにして頻りに鳴くも
橘花のかほりの深きおぼろ夜にひとりなやみて物をこそ思へ 《橘花(たちばな)》
遠空へひとりぼつちに沈む日のあかきを見れば涙ぐましも 《遠空(とほぞら)》
そとに出て月に立てれば夏のくも明るき空をちかく飛べるも
白雲の山端をいづる月の夜のあかるみにこそ鴉啼きたれ (大正二年八月改作)
椿 四十一年作
さやさやし庭樫が枝の朝の風ここだ露けく椿散りゐる 《庭樫(にはかし)》
落つばき珠に貫きつつ寺庭にあそべるときの妹ら思ほゆ 《珠(たま)、貫き(ぬき)、寺庭(てらには)、妹(いも)》
みち道の椿の花を摘みなづみ蜜を吸ひつつわが行く山路 《蜜(みつ)、山路(やまぢ)》
しみじみと日の降る屋根に人ひとり紺に匂ひて粉葺きゐるも 《紺(こん)、粉(そぎ)、葺き(ふき)》
春の日の門に枝垂りし孟宗竹はしづ揺れつつも永く暮れずも 《枝垂り(しだり)、孟宗竹(もうさう)》
今朝見れば刈り揃ひたる女竹垣にすがすがしもよ斑れ雪ふり 《今朝(けさ)、女竹垣(めたけがき)、斑れ(はだれ)》
梅の花うす黄がふふむ淡雪は手につむからに匂ひて消つつ 《淡雪(あわゆき)、消つつ(けつつ)》
浴室の窓よりみれば湯氣のうち紅梅のはなに散らす雪かも
山くぼの畑のなかの茅家をかくむ白梅日は暮れんとす 《畑(はたけ)、茅家(あばらや)》
茶垣より二本立ちし枇杷の枝は厠の軒に片枝咲きけり 《茶垣(ちやがき)、二本(ふたもと)、枝(え)、厠(かはや)、片枝(かたえ)》
向山の葉しげ山みて居ればかすかに木の葉動きて居るも (大正二年改作) 《向山(むかやま)、木(こ)》
柑橘の庭 四十二年
柑橘のあかるく熟れし奥庭は雨ながらひる戸を鎖したり 《柑橘(かんきつ)、熟れし(つれし)》
庭の樹に雨繁吹きつつボンタンが折をり光るその葉の中に 《繁吹き(しぶき)》
にはたづみ流れてくればボンタンは擦りがてに揺る風にもまれて
ボンタンの枝ひくければ黄金だまあらしの雨に泥はねにけり 《黄金(くがね)》
手水鉢に雨水滿てばおのづからボンタンの實が浸りたりけり 《手水鉢(てうづばち)、雨水(あまみづ)》
あをあをし椿の垣にボンタンの實は埋れつつ大きく明し
雨のあと散り葉のが砂庭にここだく悲しみな泥ぢながら 《(あを)、泥ぢ(ひぢ)》
麻の香 四十二年
月照らす麻野をひくく飛ぶ鳥のかげの消えゆく野末かそけさ 《麻野(あさの)、野末(のずゑ)》
おばしまに月の麻原見て立てば原の裾はろに低き山かすむ 《麻原(あさばら)》
月Cし廣麻畑のふかみより人語り行くこゑぞきこゆる 《廣麻畑(ひろあさばた)》
かぜ吹けば三次麻野の千葉ゆらぎ葉うらが白く立つ浪のごとし 《三次(みよし)、千葉(ちば)》
麻が香をゆたかに含める朝霧を胸うち開けて飽かず吸ふかも 《香(か)、開けて(あけて)》
霧ふかく濡れたる麻の畑よりいささ朝かぜかほり高しも 《畑(はたけ)》
林泉集 終
巻末小記
○本集に収むる歌数五百六十一首は、概ね「馬鈴薯の花」(大正二年六月刊行)以後の作である。内未だ一度も世に発表しなかつたのが約百首ある。「馬柵の霧」「梅雨渚」「靄の海」「棺車」「四日月光」等がその主なるものである。古い手帳から探し出して多くは、本集を編む際に改作した。其他に未だ明治四十一二年頃の作約三四十首(巻末の「鴨」以下四篇)をも収めてあるが、之は元来「馬鈴薯の花」に採録すべき筈の歌である。同集に編み漏した故改作して後に諸誌に発表した。今改めて之を本集に入れるのは、聊か気後れしないでもないが、併し自分の現今の作と最初期の作とを対照し得る便利もあるので、矢張り棄てないことにした。
○初めの心算では、本集の巻末に於て予の短歌の系統由来について聊か記しておきたいと思つて居たが、急に帰国の用を生じてその隙もなくなつて了つた。唯だ若し予の歌に見るべき所があるとすれば夫れは故人で伊藤左千夫、長塚節、堀内卓造の諸氏、同人で、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫の諸氏並に平福百穂氏等の志厚い鞭撻の結果が現れて居るのであらう。前記故人の三氏にこの集を読んで頂けないのは返すがへすも遺憾である。
○次に本書出版については、直接間接に、前記同人四氏、ほか山田邦子、高木今衛、木曽馬吉の同人諸氏の厚志を得た事と光風館四海民蔵氏、森園天涙氏、友人天野彦三氏の異常なる同情と尽力とを受けた事を特に記して感謝せねばならぬ。平福百穂氏に至っては忙しい中を本集の挿絵装幀のために特に骨折つて頂き恐縮と感謝とに堪へぬ。内「湖の女」は同氏の本年の文部省展覧会出品「田沢湖伝説」の下絵を頂いたもので此の上もなき記念となつて誠に歓ばしい。今この機を以て諸氏に深く御礼を申上げる。
○終りに、本集の再校正以下製本に至るまで、全部自分が携つて居る事の出来ないのは残念である。残務を処理して頂く四海、森園両氏、アララギ同人諸氏には重ね重ね恐れ入る次第である
○郷国では予の幼時から愛撫を受けた外祖母が危篤に瀕して居る。予も梶X校正の朱筆をおいて帰らねばならない。折からこの半年に亘る不順の寒雨に迷つて寓居庭前の山茶花はつぎつぎに花を開きはじめて居る。この惜しい時を今から予は出発帰国せねばならない。大正五年十月十二日正午、牛込横寺町の寓居にて著者記す。
|