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林泉集

目次

大正五年

大正四年

大正三年

大正二年

林泉集(中村憲吉)

林泉集(大正三年)

林泉集』の「大正三年」部分のテキストです。他の項目には、左のカラムからジャンプしてください。

歌集『しがらみ』(中村憲吉著)も全編テキストにしています。こちらも御覧ください。

凡例:

  • 旧字旧仮名です。 旧字が存在しない場合は、新字にしています。
  • JISコード外漢字は、〓のあとに組み合わせ文字で表しています。
  • 《 》は金森による註記です。おもにルビを示しています。

(2013年6月 金森国臣)


大正三年

大正三年

眉間の光

新芽立つ谷間あさけれ大佛にゆふざりきたる眉間のひかり 《新芽(にひめ)、谷間(たにま)、眉間(みけん)》

夕まぐれ我れにうな伏す大佛は息におもたし眉間の光 《眉間(みけん)》

暮れそむる淺山かげに大佛の膚肌はあをく明からんとす 《淺山(あさやま)、膚肌(はだへ)》

大佛の乳見そむれば松の間が眼にわづらはし松葉こまかに 《乳(ちち)》

大佛の肩のうしろにおのづから淺き夕山沈みたる見ゆ

ゆふ月の赤くながるる谷つべに奇しき今宵の露佛のひかり 《露佛(ろぶつ)》

月赤く谷にのぼりぬ大佛の慈顏の横を匂ほはさまくは 《慈顏(じぐわん)》

このゆふべ月をやさしみ去りがてぬ赤く照りたるほとけの谷を

戀ひしけば月さへ赤く身に匂ひ世には再びと生れて來んや

赤き月谷に梟の啼きやめば思ひわが入るうつし身はなく 《梟(ふくろ)》

五月八日。全國一體に亘りて日月その色を變ぜりと云ふ。原因不明。予時に鎌倉にあり。夕方ふかく思ふ事ありて一人大佛の谷にさまよひて私に月の赤きをかなしみければ。後ちよめる歌

蒼き海

旅やどり夕なりしかば幾重にも遠白なみの渚は蒼く 《幾重(いくへ)、遠白なみ(とほしらなみ)》

はかな言ゆめうつつには信ぜねど在るにあられずあをき潮騒 《潮騒(しほさゐ)》

ゆふ蒼しなぎさの浪にあげられし微温き玉藻を取りて嘆くも 《微温き(ぬるき)、玉藻(たまも)》

潮騒のゆふ香はぬるく身をそそれ戀ひじとはすれどなぎさ潮さゐ 《ゆふ香(ゆふか)》

夕濱の異國旅人の夫婦づれ歩みしたしひ渚しら波 《異國旅人(いこくりよじん)》

白なみの蒼きなぎさに消ゆらくはかなしき世には戀を思はじ

潮かぜの夕かぎりなき沖つなみ眞帆ただ一つながれて行くも (五月作) 《眞帆(まほ)》

新高フ海岸

はしけやし葉山茂やま日のひかり海に迫りて夏ならんとす 《葉山茂やま(はやましけやま)》

磯べには黄ばめる麥へ藻の香吹きゆたかに吹
きて夏ならんとす 《香(か)》

このゆふべ山にて聞けば麓田に麥藁を焚く音のま近かさ 《麓田(ふもとだ)、焚く(たく)》

新みどり濃き谷底の一枚田このゆふかげに田植ゑゐる見ゆ 《新みどり(にひみどり)、一枚田(いちまいだ)》

夏さらば木ぬれも繁に松雀らがぢつと隱りて鳴く日多からむ 《繁に(しじに)、松雀(まつめ)、隱りて(こもりて)》

この浦の垣根におほき珊瑚樹の赤らみ初めて
われ去らんとす 《垣根(かきね)、珊瑚樹(さんごじゆ)》

松の芽の匂ひに生るる我が待ちし螢も見ずてわが去らんとす 《生るる(あるる)》

今日もまだ雨の岬の森かげにとまりの舟の煙立てをり 《岬(みさき)》

宿かへて錢やや乏しおぼつかな向うの岬に蝉の鳴き居り 《錢(ぜに)、岬(さき)》

移り來ていくだもあらず春蝉は岬の松におとろへにけり 《春蝉(はるぜみ)、岬(みさき)》

しみじみと眼かなしも松の間に日の染む草を踏みて來れば 《眼(まなこ)、染む(しむ)》

砂のうへに夕あさりゐる鳶のむれ間なく時なく浪しぶき居る 《鳶(とび)》

岩にゐる鳶のひかりに南かぜながく吹きつつ海はしも

夕ちかき濱に人ゐず立ちいでて南のかぜを怡びにけり (五月作) 《怡び(よろこび)》

篠懸樹のかげ

篠懸樹かげを行く女が眼蓋に血しほいろさし夏さりにけり 《篠懸樹(ぷらたぬす)、女(こ)、眼蓋(まなぶた)》

街の灯の暮れなづむ頃の蒼き靄はだへに粘む夏さりにけり 《粘む(ねばむ)》

梅雨ふかき小庭の草に簇がりて鳳仙花のくき赤く生ひけり 《梅雨(つゆ)、簇がり(むらがり)》

夕べかぜ木したに吹けば擬寶子草あまた光りて廣葉をもたぐ 《擬寶子草(ぎぼしぐさ)、廣葉(ひろは)》

さ庭べに最もおそく芽吹きたる合歡によろしき夕雨ひかる (六月作) 《最も(もつとも)、合歡(ねむ)、夕雨(ゆふさめ)》

春霜

春霜の溶けて流らふ光より國べをいでて來んと云ふかや 《溶けて(とけて)》

曙のひかりを踏めばほのぼのと生きたかりけり息の緒かけて (四月作) 《曙(あけぼの)》

松の芽

小松原つばらに入ればひと戀しみどり更けたるこの匂ひはや 《更けたる(たけたる)》

萌え出づる松のみどりのつぶら玉赤きを見ればかなしく思ひし (六月作)

梅雨渚 一

海を隔てとほき箱根にむつる日の雲よりこぼれ濱のあかるさ 《隔て(へて)、箱根(はこね)》

足もとの磯を染めたる夕づく日泡沫赤く生れゐたりけり 《泡沫(うたかた)、生れ(あれ)》

靜くもる夕なぎ海のふくれ波足べに寄れば音のかそけさ

おもむろに磯におちたる浪の音ゆふ凪ぎ海の潮のふくらみ

かくのごと潮ゆたかなる夕磯には大海の大魚も近づきぬべし 《夕磯(ゆふそ)、大海(わた)、大魚(おほな)》

潮よせて砂地ともしき築石垣にあかく震へる晝顏のはな 《築石垣(つきがき)》

つつましく夕餉のを欲しけり渚とほりて潮香の湧けば 《夕餉(ゆふげ)、(いひ)》

外洋にむかふ海べの旅宿に悔しさつづき夜々の潮なり (五月作) 《外洋(ぐわいやう)、旅宿(たびやど)》

海宿にひとり暮して二十日なり五月雨の雨となりにけるかも 《海宿(うなやど)、二十日(はつか)》

電燈の葢に蟲ゐる小夜ふけて外にしづかに雨ふる聞こゆ 《葢(かさ)、小夜(さよ)》

雨ながら背戸の濱べに蟲鳴けりあはれと人に告げやらましを 《背戸(せど)》

灯のもとに日の疲れ出てうら悲しかなしき人に告げやらましを 《灯(ひ)》

雨冷ゆる濱べこほろぎ今われは悲しかれども省にけり 《冷ゆる(ひゆる)、省にけり(かへりみにけり)》

裏濱に小寄せに寄せし夜の浪は遂にあらしとなりにけるかも 《裏濱(うらはま)、小寄せ(こよせ)》

濱べには雨やみたらし然れども潮なみいまだ轟きやまず

居ひそみて見れば悲しも森かげの暗き磯より浪立てり見ゆ

新月はとほく小暗くなが濱の小松がうれへ落ちゐたりけり 《新月(にひづき)、小(を)》

雨ながら凪ぎたる海に幾すぢの水脈は浮きつつ遠く舟なし 《水脈(みを)》

五月雨の潮香ふきくる海の宿二階の窓のくれなゐの花 《潮香(しほか)》

月更けて艦かげKき港より風ひやびやと潮香吹き居り 《艦(ふね)》

暁に近づく海は暴れながら遠凪ぎの星現れにけり 《暁(あけ)》

海岸の暴風雨のあとの松原にしつとり下りし潮香かなしも (六月作) 《海岸(かいがん)、暴風雨(あらし)》

舟の音

靄ふかく暮れゆく海のしらみより我がまへに來て大き帆のかげ

ゆふ靄の磯のしらみに帆をおろす船のおとこそ靜かなりけれ

しらじらと靄は吹き來も磯の海帆をおろしたる帆ばしらの影

磯海の靄のふかきに人の影水にくだりて動く靜けさ 《磯海(いそうみ)》

靄こめて暮れゆく海の沖の島赭土の山ほのかに見ゆも (五月作) 《赭土(あかつち)》

洲崎附近

ひつそりと雨ふる道の寒さより牛鍋の香の匂ひたりけれ 《牛鍋の香(ぎうなべのか)》

はるばると梅雨の巷を來はてたる海べ寂しも廓あらはに 《巷(ちまた)、廓(くるわ)》

廓越し海は見えねど白じらと雨ふる空が近く見ゆるも 《越し(ごし)》

癈れたるごとき廓のひそか雨うみ鳥は下りて路に飛べるも 《癈れたる(すたれたる)》

白きかぜ海より吹けば三味線がくるわに鳴りて寂しかりけれ 《三味線(しやみせん)》

五月雨の海かぜ白き廓みち柳のかげを來る人もなし 《海かぜ(うなかぜ)、廓(くるわ)》

鐵門のなかに柳のちまた見ゆ海べの廓の外をとほれば 《鐵門(てつもん)、廓(さと)》

梅雨ふかき廓にそへる堀のみづ芥を浮けて潮香かなしも 《芥(あくた)、潮香(しほか)》

二階には雨戸とぢたる細目より赤き遊女の覗きけるかも 《雨戸(あまど)、遊女(いうじよ)》

紫陽花は塀にのびでて咲きゐたり昨夜は遊女の眠りつらんか 《紫陽花(あぢさゐ)》

塀のうへに竝ぶ花たま紫陽花はしぶきの雨に揺れゐたりけり

海ちかく都のはての畷みち雨ひそやかに行きにけるかも 《畷(なはて)》

粗朶垣の繩手路行けば梅雨ふかし貝殻しろきその粗朶垣に 《粗朶垣(そだがき)、繩手路(なはてぢ)、貝殻(かひがら)》

養魚地の梅雨深みかもしつとりと岸の無花果樹葉を浸したり (三月作) 《無花果樹(いちじく)》

鏡壁

木がらしは外にはげしも夜ふけて塞くもの食ふ珈琲店のなかに 《珈琲店(カフエー)》

夜の珈琲店かがみの壁に燈はふかし食卓白きなかより對けば 《燈(ひ)、對けば(むけば)》

眞白き夜の珈琲店はささやかに我が皿の音に更けゆく悲しも 《眞白き(まつしろき)》

夜ふかき鏡のまへに酒のめり我れの眞顏の何か悲しき 《眞顏(まがほ)》

階上にをれば悲しも下とほる人とほくうつる鏡のかべに 《階上(かいじゃう)》

珈琲店の夜はふけつつ針のおと時計ひびくもかがみの壁に 《夜(よる)》

兩壁の鏡のそこに燈はふかし夜の更けゆく氣はひ知れずも 《兩壁(りやうかべ)、燈(ひ)》

燈のあをき鏡壁のそこにをんな來る氣はひは暗く動き居にけり 《燈(ひ)、鏡壁(かがみ)》

鏡なる女を見ればをんなの眼あわててひかるその暗がりに 《眼(め)》

鏡より迫るをんなの紅き口なにか云ふかと慄きにけり 《迫る(せまる)、紅き(あかき)、慄き(をののき)》

食堂のもの皆あをく火穂の立ちしんと燃えたる眞夜なかあはれ (三月作) 《食堂(しよくだう)、火穂(ほのほ)》

四日月の光

四日月の光を暗しさ庭べに立てば堆肥のにほひ寄せくも 《四日月(よかづき)、を暗しさ(をぐらしさ)、堆肥(たいひ)》

あをき星水田のそこに揺らぎつつやや春めきしし風ふき來る 《水田(みづた)》

東京の灯あかり遠し水田には四日月の光やや寒きかも 《灯(ひ)、水田(みづた)》

汽車おりて街あらずけり川土手の一軒旅寵に闇路を行くも 《一軒旅寵(いつけんはたご)、闇路(やみぢ)》

土手したの水田のうへの夕びかり老いのこりたる蛙のなくも (一月作)

小夜ふけて深くひそめし人づまの命にふれて恐れたりけれ (深宵二首) 《人づま(ひとづま)》

電燈は照りてうごかね球のべに震ふ灯ほどのうたがひ消えず 《球(たま)、灯(ひ)》

畝火嶺に遠眉かくる新月の新づま枕くに君がよろしき (十月、新婚の友へ) 《畝火嶺(うねびね)、遠眉(とほまゆ)、新月(にひづき)、新づま(にひづま)、枕く(おく)》

峽驛の葬禮 一

山峽のふる宿驛にあをあをと山は蔭ろふ軒にひそかに 《山峽(やまかひ)、宿驛(うまやぢ)、蔭ろふ(かげろふ)》

人住みてすでに古りけん峽驛の軒べに近き山見れば 《古り(ふり)、峽驛(けふえき)、山(あをやま)》

峽ふかく古驛はひそめ葬列の今日はたまたま出るかあはれに 《峽(かひ)、古驛(こえき)、葬列(とぶらひ)》

ほのぼのと柩をおくる笛ならめ紅きかぜ軒をとほりたり 《柩(ひつぎ)、紅き(あかき)》

峽驛にこの鳴る笛の音をきけば染みる覺ほゆその山に 《峽驛(けふえき)、音(ね)》

宿驛みち山ひかりたる向うより葬列の旗竝び來ゐるも 《宿驛(うまや)、葬列(さうれつ)》

葬列のぐんじゆうの顏日に向きて驛路をきたる赭く眞面目に 《葬列(さうれつ)、驛路(えきろ)、赭く(あかく)、眞面目(まじめ)》

わが傍のしづ日あたりをとほりつつとぶらひの匂ひ冷めたかりけり 《冷めたかりけり(つめたかりけり)》

葬列を道端におくる婦女どもみな日に向きて泣きつつ居たり 《葬列(さうれつ)、道端(みちば)、婦女(をんな)》

日に向きて彼女等のながす涙には生きの光のあれや愛しも 《彼女等(かれら)、愛しも(かなしも)》

山峽のあをきに浸りわが居れば廣きひかりを戀ざらめやも 《山峽(やまがひ)》

とぶらひの行きて曲れる宿はづれ峽の戸口へ道はるか見ゆ 《宿(しゆく)》

うまや路の屋竝みの上の山畑にとぶらひ出でてのぼりゐる見ゆ 《うまや路(うまやぢ)、屋竝み(やなみ)、山畑(やまばた)》

とぶらひの幾白旗は山のべにたゆたひにせしが今は入りにし 《幾白旗(いくしらはた)》

葬列は山にかくれてやや久し峽間に高き日のひかりかも 《峽間(はざま)》

葬列は山にかくれてやや久し峽間にふかき山の色かも

今日もまま旅人すぎし峽間には日のしみじみと暮れゐたるかも 《旅人(たびびと)、峽間(はざま)》

背戸に出てたかく峽間をあふぎたり日は入り方の空澄みわたり 《背戸(せど)、空(そら)》

向ひ山ところどころに日の影が木ぬれに浮きて暮れ居たりけり 《向ひ(むかひ)、木ぬれ(こぬれ)》

峽のそこ寂しき河のひと筋にぽつねんと住みて逝きにけらしも 《峽(かひ)、ひと筋(ひとすぢ)、逝き(ゆき)》

千代かけてこの谷底のさみしさを悦びに似て死行くもあらむ (二月作)

馬柵の霧

おく山の馬棚戸にくれば霧ふかしいまだ咲きたる合歡の淡紅はな 《馬棚戸(ませど)、合歡(ねむ)、淡紅(うす)》

こんこんと馬棚をくぐる水きこゆ草の中より霧立ちながら 《馬棚(うませ)》

草のなか馬柵をくぐる樋のみづ霧りて隱らふ他の山垣に 《馬柵(うませ)、樋(とひ)、霧りて(きりて)、山垣(やまがき)》

山がきに咲く合歡見れば霧のなか淡くれなゐの秋さびにけり 《合歡(ねむ)、淡(うす)》

わが眼には濃霧つめたし幽かなる合歡のはなには霧すぐる見ゆ 《濃霧(こぎり)、幽か(かすか)》

しかすがに諸葉をとぢし合歡の木の花より霧の雫きゐる見ゆ 《諸葉(もろは)、合歡(ねむ)、雫き(しづき)》

おく山の馬棚戸に咲けば合歡のはな人もくぐらん花の下あはれ 《馬棚戸(ませど)》

霧ながら明るく濡れし馬棚の戸を鎖して入ればふかき松山 《馬棚(ませ)、鎖して(とざして)》

朝や咬の馬棚戸にほどくK蔓葛解きなづみたろ霧のしづくに 《馬棚戸(ませど)、K蔓葛(かづら)》

馬棚うちに泉かあらし木深みの草よりおほく霧立てり見ゆ 《馬棚(ませ)、木深み(こぶかみ)》

霧らひつつ草にこもれる水のおと草にはゆらぐなでしこの花

露ふかく撫子のはな摘みしかば狹霧はのぼるそのふか草に 《撫子(なでしこ)、摘み(つみ)、狹霧(さぎり)》

朝くらき林を行きて聞きにけり繁く木づたふ霧の雫を 《林(はやし)、木(こ)》

森のなか朝來て見れば草むらのいづみに沈む白のつぶ 《白(しらいひ)》

山ふかく馬も來て飲む草いづみ朝湧くみづはおほく思はゆ 《湧く(わく)》

林中に夜なかも湧きておほき水草根に漬きて朝霧ふかし 《林中(りんちゆう)、草根(くさね)、漬きて(つきて)》

霧さむし林のをくに手をひたす草のいづみは未だぬるみたり 《未だ(まだ)》

朝はやく松ふかけれど動きつつ霧はあかるむ松のおくがに

あさ鳥はいまだ啼かねど霧ふかき山にはすでに人の居るこゑ

朝ぎりに樹の香しみたる馬棚のうち冷めたき朝を入り行きにけり 《香(か)、馬棚(ませ)》

松の間に霧のしづくは繁けれど馬二つ寄りて嘶かず立ちけり 《間(ま)、繁(しげ)、嘶かず(なかず)》

霧ふかき馬棚のうちは靜かなり馬ふたつ口を寄せて擦り居る 《馬棚(うませ)、擦り(すり)》

松の間に秀枝の霧はくだれども人ごゑ深し草のおくがに 《間(ま)、秀枝(ほつえ)》

霧のなか日の射しくれば松の樹の匂ひは高くなりにけるかも 《射し(さし)》

眼のまへに草山たかし朝づく日狹霧のなかを鳥啼きわたる 《眼(め)、狹霧(さぎり)》

山の霖雨

向山にしろく吹きたる栗のはな雨ふりくれば匂ひ來るも 《向山(むかやま)》

梅雨ふかき山べにちかく家居ればいく日ののちに家あかるまむ 《家居れば(いへをれば)》

山峽夏雜詠

朝霧の峽間の驛の屋なみには白壁もみゆ山ちかみかも 《峽間(はざま)、驛(えき)、屋なみ(やなみ)、白壁(しらかべ)》

霧ふかく坂になりたる奮街道朝みづ汲みてのぼるひと見ゆ 《奮街道(きうかいだう)》

向ひ山日かげとなれば心がなし人かよふ見ゆその山したを 《向ひ(むかひ)、心(うら)》

夕まけて風ひやびやし峽のそこP音たち來も裏の小川ゆ 《峽(かひ)、P音(せおと)》

さ庭べに往き來をやめぬ蜻蛉ゐて白壁のうへに夕日移るも 《往き來(ゆきき)、蜻蛉(とんぼ)》

栂木のした夕かげ草にふかぶかと白き鷄はもねむりたりけり 《栂木(とが)、鷄(とり)》

やうやくに憂しと思へば夕庭に風吹き入りてもろ葉よみがへる 《憂し(うし)》

宵よひの峽にふかき天の川眞うへに澄みて秋ちかみかも 《峽(はざま)、天(あま)、眞うへ(まうへ)》

星ひとつわけて涼しき宿驛路の向うに山の影大きなる 《宿驛路(うまやぢ)》

山かげに宿驛路くらし一つづつ灯火消えて夜は更けにけり 《宿驛路(うまやぢ)、灯火(ともしび)》

夏の夜をこの峽ふかく旅の人行きやめざらむ星の明りに (九月作) 《峽(かひ)》

街上雜詠

變電所灯なかのものの唸りより夏夜の街は明け易からり 《變電所(へんでんしよ)、灯なか(ほなか)》

夜あけていくだもあらず街の上は吹く風すでにぬるみそめけり

街の上に燈影のこりて幽かなれ人ひとり來る朝影さびし 《燈影(ほかげ)、朝影(あさかげ)》

しののめを眼ざめて聞けば遠電車歌ふごとくに近づく聞こゆ 《眼(め)、遠電車(とうでんしや)》

埃ぽく街の日向に工夫居りかたまりてをして居たりけり 《日向(ひなた)、工夫(こうふ)、(いひ)》

ちくちくと午後の日照れば店頭の金ものの類光りそめたり 《午後(ごご)、店頭(みせさき)、金もの(かなもの)、類(るゐ)》

さむざむと雀いろ時かはたれの街衢をひと等忙しく行くも 《街衢(ちまた)、忙しく(せはしく)》

街はしる電車のひびき夕さむく時に遠退く疾風過ぎつも 《遠退く(とほぞく)、疾風(はやち)》

街かげの夜ふかき堀のおくがには橋かあるらし灯のとほる見ゆ 《灯(ひ)》

街つぢに曇り朝あけ鈴さむく新聞の賣子立ちか出づらむ 《賣子(うりこ)》

霜ぐもり自轉車ひとつ米袋をさむく脊負ひてとほ去りにけり 《米袋(こめぶくろ)、脊負ひ(せおひ)》

代々木野のけむる光に走りたる自轉車はやし光り消えつつ 《代々木(よよぎ)》

雪解みち蒼く暮るれば街をゆく靴のかかとに氷り初めたり 《雪解みち(ゆきげみち)》

崖下の街にかなしく赤子なく宵のしづみを雪降りしきれ 《崖下(がけした)、赤子(あかご)》

病院の庭

流らふる光に出でて束の間もかなしき息を衝かんと思へや 《束の間(つかのま)、衝かん(つかん)》

悲しさは日の明るさに疲れつつ人をいとひて來し心かも

樹に滿つる光を見ればC稚きをとめのいのち死なすに堪へんや 《C稚き(きよわかき)》

彼の息のつひに死ぬかと陽炎のかなしく立つを眼より離さず 《彼(か)、陽炎(かぎろひ)》

繁り葉の頭にさやる徑に入り鳥のこゑにも涙ながすも 《頭(かうべ)、徑(みち)》

面ほてり深くねむれる子をみれば被衣のうへに涙おちけり 《面(おも)、被衣(かつぎ)》

唇はものも言へなくおのづから死に近き眼に涙はひかり 《眼(め)》

泣きながら母と我れとは病室のせまき疊に夕餉せりけり 《病室(びやうしつ)、夕餉(ゆふげ)》

くもり日の何か細かに降るものの身に來觸れつつ消ゆる悲しも (歸路六首) 《來(き)、觸れ(ふれ)》

曇りふかし巷のうへに仰ぎたる日輪はとほく少さかりけり 《巷(ちまた)、日輪(にちりん)》

汽車に乘り人目をかねし我がなみだ眼をぢつととぢてながく堪へし 《人目(ひとめ)》

悲しみに堪へて向へばこの友はくちびる薄し饒舌りてやめず 《饒舌り(しやべり)》

富士の嶺にゆふ居る雲のながき雲こころはいまはしづもりにけり 《嶺(ね)》

かはたれの驛に灯をつけ止まり居るこの夕汽車は何處に行くらむ 《驛(えき)、灯(ひ)、何處(どこ)》

棺車

ふる里におくる柩をまもりつつ峽のなが路に日はくれにけり 《柩(ひつぎ)、峽(かひ)》

秋ふかき峽間のなかのゆふ河原待宵の花はしぼみ咲きたり 《峽間(はざま)、待宵(まつよい)》

夜に入れば車のうへの風さむみ悲しなみだはひとり湧きくも

峽ふかく日は暮れたれど田にはまだ人居て打てる鍬影あはれ 《峽(かひ)》

道ばたの小戸より人は怪かりてこの棺ぐるま見送りにけり 《小戸(をど)、怪かりて(いぶかりて)、棺(ぐわん)》

先立てる母の車中にすすり泣き闇のなかよりおりおり聞こゆ 《先立てる(さきだてる)、車中(くるま)、闇(やみ)》

こころ我れにかへればかなし暗がりの耳のちかくに水鳴るきこゆ

朝浪のかすむ渚をほのぼのと亡き子に似たるをとめ來たるも (鎌倉にて四首) 《亡き(なき)》

朝がすみ亡き子を思へばあはれなる玉の如くに思ほゆるかも

雨開けの海のひかりに見入りつつ眼のそこに痛みをおぼゆ 《雨開け(あまあけ)、眼(まなこ)》

銀いろに邊による浪よあたらしくまた悲しみの湧かんとするや (三月作) 《邊(へ)》

合み言 一

含ごもる少女ごころを餘事言にほとほと云ひぬ憎からめやも 《含ごもる(ふふごもる)、餘事言(よそごと)》

白粉のなみだに似なす霙雪にほひやかには降ると云はずやも 《白粉(おしろい)、霙雪(みぞれゆき)》

おしろいの溶き水ほどの斑ら雪はだらに降れば怨みつらんか 《溶き(とき)、斑ら(はだら)》

ちらちらと雪ふる影に見ぬふりの丹づらふ妹が忘れ兼ねつも 《丹(に)、妹(いも)》

愼ましく瞳をおとす襟もとに街のみ雪は降り初めにけり 《愼ましく(つつましく)、瞳(ひとみ)、襟(えり)》

打ちどよむ遠きみやこの灯のなかに歸りてを居り戀ふるに堪へず

冬さればい續ぎいつぎに曇る日のくらく命の戀ひも死なんよ

戀ひつつも例へば春のかぎろひの幻影ならば悲しかるらむ 《例へば(たとへば)、幻影(まぼろし)》

君が家の早萩のはな散り過ぎてすでにひさしと嘆きたらずや 《早萩(はやはぎ)》

おほやけに言にいはねど蓋しくもなげける言のむなしかるべき 《言(こと)、蓋しく(けだしく)》

ひんがしの空に開くる朝びかり必ずはあはめその豫言に (一月作) 《開く(ひらく)、豫言(かねごと)》

我妹子に戀ひば愛しき紅つばき未だはつはつふふめれり見ゆ 《我妹子(わぎもこ)、愛しき(かなしき)、紅(べに)、未だ(いまだ)》

紅つばき唇をあくれば愛しきを人に任すが嫉くてならぬ 《唇(くち)、愛しき(かなしき)、任す(まかす)、嫉く(ねたく)》

ちらちらと廻り燈寵の赤きいろ敏きにすぎて女嫉しも 《廻り燈寵(まはりどうろう)、敏き(さとき)、嫉しも(ねたしも)》

焦るれば執着ふかし蛇の眼の赤き傷みも我れは覺えし 《焦る(こがる)、執着(しゆぢやく)、蛇の眼(へびのめ)》

小夜くだち獨りいらちぬ我妹子が如何なればかも言絶えたらむ 《我妹子(わぎもこ)、言(こと)》

ぬば玉の夜のあらしの浪の穂にひかる蟲かよ戀ひ現はれて 《夜(よる)、穂(ほ)》

悲しみの海べの泊り夜もすがらあな息衝かしもよ浪のおと去らず 《泊り(とまり)、息衝かし(いきづかし)》

今の間は息もくるしき浪のおとこの苦しさを告げやらましを 《間(ま)》

ほかにまた或はをとこ近づきで向日葵の花めぐりつらんか 《向日葵(ひまわり)》

わぎも子を人には告らじ光る蟲浪穂のそこにぢつと沈まぬ 《告らじ(のらじ)、浪穂(なみほ)》

流れ藻にふるるは悲ししかれども流れて行かは長く嘆かむ (四月作)

淡海路の山のはたけに桃摘むをとめ、乙女らが赤きたすきを眼に戀ひにけり 《淡海路(あふみぢ)、摘む(つむ)、眼(め)》

足びきの山畑かぜの吹けやCさや、をとめらが桃の葉かげによく見ゆるらむ 《山畑(やまはた)、Cさ(さやさ)》

中宿

山ふかきク里にかへりつ中宿の町にひと夜をねむるかなしさ 《ク里(くに)、中宿(なかやど)》

中宿の町にたまたま出てきたる父と相見れば白髪ふえけり 《白髪(しらが)》


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