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フィリピン活動記:

出来事 その1

  • 任地ホームステイ
  • 現地語学訓練

  • ※ プライバシーを考慮して、掲載している画像には軽くぼかしをいれています。ご了承ください。


    任地ホームステイ 2003年7月25日〜8月8日

    配属前に、いったん任地でホームステイを行います。
    以下、ホームステイ中の日記です。

  • 2003年7月25日(金) 任地トゥゲガラオ
  • マニラからトゥゲガラオへ向かいます。タクシーに乗り空港へ。
    ここでハプニング。調整員の指示に従い、フィリピン航空のターミナルに到着。しかし、私の乗る飛行機はフィリピン航空ではなくエア・フィリピンであることが判明。急きょエア・フィリピンのターミナルへ向かう。

    ※ マニラ空港のターミナルは3箇所あります。フィリピン航空国際線・国内線専用ターミナル、フィリピン航空以外の国際線ターミナル、フィリピン航空以外の国内線ターミナルです。
    ※ マニラ〜トゥゲガラオは以前はフィリピン航空が運航していましたが、ごく最近に関連会社のエア・フィリピンズに変わりました。間違えるのもしょうがないですね。

    混乱していたため移動中にぼったくりタクシーにつかまり、通常の10倍の値段を請求される。交渉の末、半額にまけてもらう(といっても数百円なんだけど)。これも良い勉強・・・だったのか?
    飛行機の中。下を見下ろすと大きな河が流れている。これがフィリピンで一番長いカガヤン河のようだ。このカガヤン河、茶色くて氾濫しているのがわかった。
    やがてトゥゲガラオ空港へ。トゥゲガラオ空港はなんと屋根が無い!!どうやら台風の影響で空港が半壊してしまったらしい。カガヤン河が氾濫していたのも台風が原因のようだ。
    到着後、配属先の職員の皆さんとレストランに行き、歓迎をうけながら昼食をいただく。みんなジョークとシモネタが好きなようだ。ホームステイ先は決まっていないらしい。台風の影響でどこの家も大変だからとのこと。とりあえずホテルにステイすることになりました。
    トゥゲガラオ市内は台風の影響が痛々しい。倒壊した建物もいくつかある。テレビも映らないし、電気も無い。幸いホテルは自家発電で動いている様子。
    配属先の職員デニスに市内を案内してもらいました。市内を見た感じ、生活には困らなそうです。病院、銀行、ファーストフード、ショッピングモール、なんでもあります。
    途中、彼の奥さんと一緒にミリエンダをいただきました。彼も彼の奥さんも言うには"Don't Trust Anybody."とのこと。ちょっと恐い。不安です。。。
    夜は学部長ドンと一緒にバーへ食事&飲みに行く。食事は正直、まずかった。フィリピン料理になじんでないというのもあるけど、味があまり無いのににおいが強く、食べるのが困難でした。っていうか、トイレに行って吐き戻しました。。。今日一日でいろいろあったから疲れているのかも。

  • 2003年7月26日(土) フィリピン人は親日的
  • 今日は学部長ドンと一緒に行動しました。
    朝、彼が迎えにきて近くの店で一緒に朝食をとりました。食べたのはマミ(ラーメン)です。中国風の味付けでおいしくいただきました。話によるとトゥゲガラオは中国人系が多く、中華料理の店も多いようです。
    食後にコーヒーをいただく。なんと、出されたのはカップにお湯。これにインスタントコーヒーを加えていただく。日本だと苦情が出ますね。
    市内の私立大学Saint Louis Universityへ。ドンはここでマスターの授業を受け持っているらしい。授業に出させてもらいましたが、英語で何を言っているかわかりませんでした。。。
    学内をうろついていると、先生に呼び止められました。何でも、日本語の授業をやっているから顔を出して欲しいとのこと。教室には、3年間日本に滞在していたという先生と、20歳の女子学生多数。よほど日本人が珍しいのか、他の学生も窓から覗いていたりする。女子学生にキャーキャー言われる。まんざらでもない。
    夜は、ドンの親戚と彼の部下アルトルとともにレストランへ。食事中、英語とタガログ語とイロカノ語が飛び交う。不思議な空間。
    話を聞いていると、JICAの研修で日本に言ったという人が多い。そのためか、みんな親日的です。
    夜、ホテルに戻ったらテレビが映るようになっていた。さっそくテレビをつける。しかし、そこに飛び込んできたのはクーデター発生のニュース。タガログ語で放送されていて良くわからないのでとりあえず寝ることにしました。

  • 2003年7月27日(日) クーデター発生
  • 出来事画像0101 パーティ:消防署の署長さんと。

    ニュースを見る。軍の若手将校がクーデターを起こしているとのこと。なんとクーデターはマカティで発生!!自分が先日いた所に戦車が走っている。恐ろしい光景である。JICAから連絡があり、待機命令が出ました。
    朝はマクドナルドへ。フィリピンのマクドナルドは日本とは違う。まず、略して「マクド」という(まあ関西地方と同じだけど)。メニューはだいぶ違う。クリスピーチキン、グリルドチキン、スパゲティー、ライスがある。マクドナルドでライス?とか思うけど、フィリピンではマクドナルドは基本的にフライドチキン+ライスのセットを食べるところらしい。
    ドンの友達で消防署の署長の娘さんの誕生日パーティーに参加する。山羊料理を食べながら、ビールをいただく。山羊のバーベキュー、山羊の内臓を煮たものなど。やや臭みがありますが美味。山羊料理はお祝いのときに振舞われるようです。
    フィリピン人はジョークが本当に好きなようだ。私が聞いた話は次のとおり。
    アメリカ人と日本人とフィリピン人のウ○コの話。それぞれのウ○コを壁に投げつけると、アメリカ人のウ○コは1時間で下に落ちる。日本人のウ○コは2時間で落ちる。しかし、フィリピン人のウ○コは3時間も壁にへばりついている。だからフィリピン人は胃袋が大きいんだ(といって、彼は自分の大きい腹を見せる)。
    フィリピーナと日本人男性のカップルがベッドインしたときの話。日本人男性は喜んで「バンザイ!!」といったのに対し、フィリピーナは「ボンサイ!!(とても小さいの意)」と言ったのだそうだ。
    まあ、こんな話を延々と。

  • 2003年7月28日(月) 配属先カガヤン大学
  • 出来事画像0102 カガヤン大学工学部:緑に囲まれた大学。ジャングルの中ともいう(笑)

    今日は配属先に行く予定。朝5時に起きて着替えをする。そういやフィリピン人は朝が早い。6時にはもう活動している。日中は暑いからだろうか?
    配属先カガヤン大学に到着。トゥゲガラオ市内より7kmほど離れた郊外にある、緑に囲まれたところです。ところどころ台風の傷跡が見受けられますが、よい環境です。
    学部長ドンと仕事について話をしました。何しろ予算も機材も十分でないし、人材もいない。そういう環境だがシステムを構築して欲しいとのこと。実際のところ、時間も人手も足りないし、構築したところで引継ぎもできない。そもそも、私がひとりでシステムを構築しても何の意味もない。とりあえず、数ヶ月は大学のしくみを理解して、その後どうするか考えることにする、と伝えました。
    学内を案内されました。大学の部署の構成は日本とほぼ同じ。どこの部署でもシステム化に期待している様子。それにしても、やたらと職員が多い。
    デニスの家に夕食をいただきにいく。ついでに洗濯もする。日本ではどのように洗濯をするのか?と聞かれたので、最近は全自動洗濯機を使っていると答えた。すると、なんだ、2層式洗濯機の使い方を知らないのか!これがフィリピノウェイだ!とか言われて2層式洗濯機の使い方を教わる。いや、そんなの聞かなくても分かるし・・・とか思いつつもとりあえず聞く。
    デニスの父親はJICAの研修で日本に行ったことがあるそうだ。そこで、英語で日本人に話しかけたら無視されたとのこと。日本人は学校で英語を勉強していると聞いている。でも、日本人に英語で話しかけたのに無視された。なぜだ?と。私はこう答えました。ほとんどの日本人は恥ずかしがりやで、英語を間違って話すことを恐れている、と。彼はこれで納得した様子。

  • 2003年7月29日(火) 朝食4回
  • 朝、起きて軽く食事をとる。先日、スナック菓子とココアを買ったので、それを朝食としました。
    その後、デニスが車で迎えに来る。「おなかがすいているだろうから。」と言われ、朝食としてサンドイッチをもらう。
    職場についてから、職員に「おなかがすいているでしょう?」と言われ、またサンドイッチをもらう。
    さらに、学部長ドンの秘書トレーシャーに、「おなかがすいているでしょう?」言われ、またまたサンドイッチをもらう。。。
    結局、朝食を4回もとってしまった!!これもフィリピン人のやさしさだろうか?はっきり断れない私のせいだろうか・・・。。。
    学会に連れて行かれる。発表を聞いていたが、どうも英語が聞き取れない。"I can't understand."と言うと、みんな大爆笑。フィリピン人は英語にタガログ語を混ぜて話しているのだそうだ。これをタグリッシュと言うのだと。
    ところで、ここトゥゲガラオには信号がひとつもない。でも車が多い。朝や夕方にはトラフィックポリスがいるが、渋滞の解決にはなっていない。交差点ではどうやっているかというと、減速してゆっくり進入し、他の車の様子を伺いながら進めそうだったら進む、そんな感じである。ちょっと怖いが、事故が起きていないのでまあこれはこれで成り立っているのだろう。
    夜は、コンピュータ学科の先生2人とリバーサイドへ行く。フィリピンは夕日がものすごく綺麗。空が広く低く見えて、世界はこんなに大きいのかと感動します。また、リバーサイドで夕日を見ながら飲むビールは格別!!
    コンピュータ学科の先生が言いました。スキルのある技術者は大学を辞めて転職するのだそうだ。以前、スキルを持ったコンピュータ技術者がいたが辞めてマニラに行ってしまったと。なぜなら、給料が安いから。国立大学教員の給料はP10,000。マニラの民間企業はP25,000だからとのこと。
    確かにこの給料だとスキルのある人は転職してしまうのもうなずける。

  • 2003年7月30日(水) 山下財宝
  • 出来事画像0103 電気学科の先生の家:夕食をいただきました。

    医学部の物品購入会議を観察する。どのように仕事を行うのかを見るため。それぞれの機材についてみんな真剣に討論している。基準となるのは金額、性能、製造国。アメリカ製か日本製が一番、ドイツ製が二番手、中国製は論外らしい。こういった会議は日本の場合は偉い人が独断で決めたり、根回ししたり、業者との癒着があったりするのだが(少なくとも私の前職はそうだったが)、ここでは真剣に議論しているようだ。
    さてこの会議、9時に始まる予定だったが、結局10時スタート。これはフィリピノタイムと呼ばれて、フィリピン人はAlways Lateだそうだ。
    日本のアニメの話をする。フィリピンではボルテスVという日本の古いアニメが流行っている。ドラゴンボールや、ゲームのストリートファイター2も人気があるようだ。
    配属先には日本のODAで供与された機材が2種類あります。その機材;プロジェクタ、オーディオ機器を見学してきました。プロジェクタは学会や会議に有効活用されているようです。しかし、オーディオ機器はまったく使われておらず、埃をかぶっていました。ただ単に物資を供与しただけの日本。いろいろと考えさせられました。
    デニスに医学部の教室に案内される。くすくす笑っている彼に言われるままに教室を覗くと・・・そこには死体と切り刻んだ死体の放置所が・・・。かなりショック。頭にきたので彼に言いました。日本人は死体を神様として扱うからむやみに見てはいけないのだ!(ちょっとウソもはいってるけど。)。宗教の違いということで彼も理解してくれたようでした。
    夕食は電気学科の先生の家に招待されました。
    彼はフィリピンの問題をこう語りました。大学で勉強して、技術を身につけた学生は海外で働く。なぜならば、国内には仕事がないから。なぜ国内に仕事がないかというと、クーデターなどを恐れて企業が設立されないから。とのこと。安全が確保されないとこの国は発展しなのだろうと考える。
    戦争の話が出る。カガヤン州は日本軍がフィリピンで最後に拠点としていたところ。被害も大きかったそうだ。そして話は山下財宝へ。今までに山下財宝を探しに多くの日本人がカガヤン州にやってきたと。フィリピン人の中には、フィリピンにJICAがあるのは山下財宝を狙っているからだと思っている人もいるとのこと。「お前も山下財宝を探しに来たのか?」と言われたときは正直ショックでした。

  • 2003年7月31日(木) いつも食べてばかり
  • 出来事画像0104 マジーの家:お金持ち。庭にはスポットライト。椅子は金色。そもそも飲んでいる酒が他の家庭とは違う。

    表敬訪問のため、カガヤン州庁舎へ行く。
    州庁舎に併設されている博物館へ。カガヤン州の歴史を見ていると、中国との交流が多い。というか、独自の文化は少なく、ほとんどがスペイン、中国からの文化のようだ。歴史自体も浅い。
    フィリピンでは必ず聞かれることがあります。「何歳?結婚している?」。若くて未婚だと答えると、「フィリピンでガールフレンドを作るのがよい。そして、日本に連れ帰ればいい。」と言われる。笑ってごまかす。
    フィリピーナは確かに良い。美人でやさしいしスタイルも頭も良い。女性の社会進出は進んでおり、職場で偉い人には女性が多い。でも、シングルマザーが多く、若くて子供がいて旦那さんがいない、そんな人をよく見かける。配属先にもシングルマザーがいる。女性が強い国でも他の途上国と同じ問題を抱えている。
    フィリピン人はいつも何かを食べている。というか、1日に6回も食事をする。朝食、ミリエンダ、昼食、ミリエンダ、夕食、ミリエンダ。食べてない時間はおしゃべりをしてすごしていることが多い。
    配属先は8時から5時までが勤務時間らしいが、勤務中でもミリエンダをとったりおしゃべりをしたりしている。いったい実質労働時間は何時間なのだろう。
    配属先のインターネット接続計画について聞く。現在はインターネットに接続されていない。計画としては、アドミッションオフィスのビルからインターネットに接続し、他のカレッジとは無線で接続する計画とのこと。しかし、維持費が高すぎて計画が進んでいないようだ。
    去年、衛星でインターネット接続を行ったとのこと。機材を購入し、プロバイダの2か月無料キャンペーンを利用して接続。しかし、維持費が高いため大学側から認可されず、断念したとのこと。設置する金があるのに維持費が無い、無計画というかなんというか。。。
    夕食は女性の教員マジーの家に招かれました。ここの家は非常に立派で清潔。庭にはスポットライトがあるし、家の中には壷などのものがいっぱい。どうやらお金持ちのようです。彼女は先月にハワイから帰国してトゥゲガラオに家を建てたとのこと。夫が国の会計監査をやっていて、おそらくこの家はフィリピンでは上流家庭になるのでしょう。
    ここでは魚介類をいただきました。キニラウ(生の魚の酢漬け)、刺身(なんとカガヤン州では刺身を食べる)、貝類です。ちょっと危険かなと思ったけど、食べないわけにはいかないので笑顔でいただきました。


  • 2003年8月1日(金) 下痢
  • 昨日の夜より下痢が止まらない。夜中に起きてトイレに行くこと5回。昨日食べた魚介類にあたったのだろう。初めての土地だし不安もあったので、今日は休んでホテルでおとなしくしていることに。

  • 2003年8月2日(土) 高校生
  • 出来事画像0105 高校生と:インタビューに来た高校生2人。恥ずかしがりや。

    昨日よく寝たおかげで体調が回復。生活にも慣れてきた。
    トゥゲガラオ市内を散歩してみる。ここの匂いは、マニラの甘いココナツのような香りとは違い、肉を焼いたような異様な匂い。日本人にとっては異臭に感じられる。
    パブリックマーケットを歩いてみた。食器、衣服、CD、食料品を売っている。この街は活気があって賑やかである。アメ横をもっと庶民的にしたような雰囲気。
    午後、ホテルに戻ると、高校生がやってきた。宿題で外国人にインタビューしなければならないのだそうだ。女性2人、どちらも恥ずかしがりやで会話しようとしない。話によると、昼より私が戻ってくるのを4時間ちかく待っていたそうだ。インタビューの内容はフィリピンをどう思うか、あなたの国の文化は?といったもの。フィリピン政府をどう思うか?とも聞かれたけど、立場上答えられないといってごまかした。
    ドンと近くのパンシット屋さんへ。教会の近くにあり、テーブル席はバハイクボの中にあっておしゃれ。大学生がデートに使うところだそうだ。なお、トゥゲガラオのパンシットは、「パンシット・カガヤン」といって、名物料理らしい。

  • 2003年8月3日(日) 排気ガス
  • トゥゲガラオ市内は交通渋滞がひどい。トライシクルが多いため排気ガスがひどく公害の域に達しています。ハンカチで口を覆いながら歩いている市民の姿を見ます。ホテルの部屋の換気をしようと窓を開けたら、ますます空気が悪くなってしまいました。
    午後はドンとドライブに。ハイウェイは立派で日本の一級国道と同じ。2車線であるが交通量が少なく、車は100km/hで走る。無謀な追い越しもするしものすごく危険。
    夜は職員エルネスの家に招待されて夕食をいただきました。

  • 2003年8月4日(月) フィエスタ
  • 出来事画像0106 Saint Paul University Philippines:トゥゲガラオにある私立大学。建物は立派、設備は充実。

    昼はバランガイのフィエスタへ。フィエスタはお祭りのようなもの。フィエスタでは各家庭が料理を用意して客人をもてなします。フィエスタ中の職員の家庭に招かれて昼食です。他の職員たちも昼食にやってきました。あなたたち仕事は?って感じだが、授業がないときは外出しても問題ないらしい。
    午後はアルトルと一緒にトゥゲガラオ市内のSaint Paul University Philippinesへ。この大学は大きな有名私立大学。日本の大学と変わらないくらい綺麗で、パソコンも多数ある。比べて私の配属先の国立大学は設備が不十分。とにかく政府には金が無いんだということを思い知らされる。
    夕方はドンドミンゴの市場を散策。トゥゲガラオで一番大きい市場です。ここでは魚、肉、野菜、麺、なんでも売っている。活気があって楽しい。
    果物屋のおばちゃんとの会話。
    私「私の名前はマサユキ。」
    おばちゃん「マサヤ?(タガログ語で『愉快な』の意)」
    私「マサヤじゃなくて、マサユキ」
    おばちゃん「ジャパゆき!?
    私「・・・(笑ってよい冗談なのか?)」
    とにかく、冗談好きである。

  • 2003年8月5日(火) カラオ洞窟
  • 出来事画像0107 カラオ洞窟:洞窟内には祭壇がある。

    職場の電話回線を拝借して、インターネットに繋げる。電話回線は極性が反転していたため、モデムサーバを介しての接続。やはりモデムセーバーは必需品である。
    私が住むところについて話し合う。配属先はトゥゲガラオ市内から7km離れたところ。住むなら1)配属先のドミトリー、2)配属先近辺、3)トゥゲガラオ市内のどれかになる。
    1)配属先のドミトリーを希望したが、学部長ドンに、君をそこに滞在させるわけにはいかないと言われました。なぜか?と聞くと、汚くて、水も出ないから、とのこと。
    2)配属先近辺には政府機関もありアパートも多い。欠点は街まで遠いこと。
    3)トゥゲガラオ市内に住めば便利だが、毎日ジープニーを使って通わなければならない。
    結局、2)配属先近辺のアパートを探すことにした。田舎だし、気がめいりそうだけど、これ以上望んでも何もでないので、まあこんなもんだと腹をくくってやっていくしかない。都会の隊員がうらやましい。
    午後はカラオ洞窟へ。215段の階段を上ると洞窟の入り口。洞窟内部にはマリア像があり、礼拝できるようになっています。足元が暗いので懐中電灯をかざしながら進む。カラオ洞窟は7つの部屋からなりたっており、ところどころ洞窟の天井が空いていて日の光が差し込む<ようになっていて幻想的。
    夜はデニスの家で洗濯をしながらビールで一杯。イニハウ・ナ・バボイ(豚肉の塩焼き)をいただく。フィリピンの豚肉はほとんどが脂身である。おいしいが、食べ過ぎるとやばい。

  • 2003年8月6日(水) 貧富の差
  • 昼食を学生たちと一緒に食べました。学生たちははずかしがりやで、こっちは英語がうまく話せないで、あまり会話がはずみませんでした。卒業後は何をするの?と聞いたところ、わからない、多分仕事を探すかも、との答え。あまり仕事がないのかな?
    ホテルまではデニスの車で送ってもらう。途中、トゥゲガラオ市内の渋滞を避けるように裏道に行く。ちょうどトゥゲガラオ市内の裏側を見るような感じの道路。その道路沿いには田畑とともに掘っ立て小屋がいくつか建っている。彼はそれを指差して、彼らは貧しい人たちだ、と言う。リッチな人は大きな家に住み、中流階級は木やコンクリートの家に住み、貧しい人たちは掘っ立て小屋に住むのだそうだ。貧富の差が激しい。私は活動中おそらく中流階級以上の人たちとしか接しないかもしれない。2年間暮らしただけではこの国のすべてを見ることは出来ないだろう。
    夜はドンと一緒に中華料理を食べながら仕事について話をする。
    予算、機材、人材が不十分であることに言及。こんな環境ではあなたの望んでいるシステム構築は出来ないよ、と言った。そしたらひとこと「だから協力隊を要請したんだ」。なるほど、そりゃそうだ。あなたが正しい。予算、機材が不十分なことについては不満を言っても意味が無いと悟りました。
    でも、カウンターパートがいないことははっきりと伝えました。私は2年後にいなくなるから、私がシステムを構築、保守するのではなく、フィリピン人がメインになって仕事をするべきだ、私はフィリピン人と一緒に働きたいのだと。彼は一応納得したようでした。

  • 2003年8月7日(木) いい加減で無計画な人たち
  • 配属先に行ったら、職員が今日の私のディナー先について話していました。
    結局、みんなでバーに飲みに行こうという話になりました。
    昼食後、計画が変更になり、Videokeに行こうということになりました。
    その後、また計画が変更になり、とある職員の家におじゃますることになりました。
    で、仕事が終わってみると、いつの間にかまた計画が変更になっていて、さっきとは違う職員の家に行くことになりました。
    しかも、その職員の家には、他の人たちは誰もやってきませんでした。おそらく、4時から6時にかけて停電があったので、みんな面倒くさがって外出しなかったのだと思われます。いい加減な人たちである。ディナー先のホストも文句を言っていました。
    こんないい加減無計画な人たちと仕事をするのか、と思うとちょっと自信がなくなってきました。こういったことにも慣れなければ仕事はやっていけないのかも。
    帰りは彼の車に乗せてもらってホテルまで戻りました。1960年代のフォルクスワーゲン。年代物だけど加速も乗り心地もしっかりしています。よくエンストしていましたが(笑)

  • 2003年8月8日(金) PAL stands for "Plane Always Late".
  • 今日はマニラに帰る日。飛行機は12時40分発。
    ホテルに9時に迎えに来るからといわれて待っていましたが、結局11時に迎えが来ました。相変わらずフィリピノタイムです。
    12時に大学に到着。みんなと一緒に昼食をいただく。時間を気にしていたが大丈夫だとのこと。飛行機が到着する音が聞こえてから空港へ行けばよいとのこと。しかしながら遅れたらやばい、気になる。そわそわしているとドンが一言。「PALは何の略か知っているか?Plane Always Lateだ!」

    ※ PALは本当はPhilippine AirLines(フィリピン航空)の略です。

    大学を出たのは12時30分。調整員へのお土産を買ったりして、空港に到着したのは12時40分。なんと、空港到着と同時に飛行機が到着。そう、12時40分発の飛行機が12時40分に到着したのです。
    結局飛行機は13時20分に出ました。やっぱそんなものか。ドンの言うとおりだ。飛行機もフィリピノタイムなのか。。。
    無事にマニラに到着。2週間のトゥゲガラオ生活でフィリピン人についていろいろ学んだような気がします。
    これから現地語学訓練を経て再びトゥゲガラオに戻ります。タガログ語を勉強するのが楽しみです。


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    現地語学訓練 2003年8月12日〜8月23日

    フィリピンの公用語は、タガログ語※と英語。それとは別に地域ごとの言語が存在します。
    NTCでは英語を習いましたが、英語はあくまでフィリピンの第2公用語。任地や配属先によっては英語が通じないこともあるのです。
    それぞれの任地の現地語を学ぶため、現地語学訓練を行います。

    ※ 正確には、フィリピンの公用語はフィリピノ語(Filipino)です。フィリピノ語とは、マニラ周辺で話されているタガログ語をベースとして拡張された言語です。厳密にはフィリピノ語とタガログ語は違いますが、実体は同じと考えても良いでしょう。なお、このサイトでは混乱しないようにすべて「タガログ語」と書いています。

  • クラス
  • 私たち122バッチ(平成15年度1次隊)は、次のようにクラス分けされました。
    タガログ語2人、ビコラノ語2人、セブアノ語2人、アクラノン語1人、イロンゴ語1人

    ※ 私は当初イロカノ語を学ぶ予定でしたが、タガログ語に変更になりました。任地ホームステイの際、配属先の人にイロカノ語ではなくタガログ語を勉強するように薦められたからです。実際、任地トゥゲガラオではイロカノ語を話す人はあまり多くありません。トゥゲガラオの現地語事情はややこしいのでJICA側で間違えてしまったのかも?

  • 場所
  • ロスバニョスのレイクビューホテルに泊まりながら訓練を行いました。
    このホテル、なんと水道はすべて温泉になっています。ホテル内にあるプールももちろん温泉!!

  • タガログ語の講義
  • タガログ語の先生Mercyはミンダナオ出身。やたらと笑う明るくて面白い先生です。
    授業はゲームを取り入れたり外出して実地訓練を行ったりと楽しく行われました。

    野外訓練 野外訓練:私たちタガログ語クラスではバーベキューを作りました。真ん中がMercy先生。
    • インタビュー
      覚えたタガログ語を使い、ホテルの従業員にインタビューを行ういます。
      同じタガログ語地域だからなせる訓練でしょう。
      おかげでホテルの従業員やガードマンと仲良くなりました。
    • 買い物実地訓練
      トライシクルに乗って市場へ行き、そこで買い物をします。もちろんタガログ語しか話してはいけません。
      メモを見ながら一所懸命タガログ語を話しました。
      タガログ語を使って買い物をすると、「Oh! You can speak Tagalog!」とか言って喜ばれます。
    • フィリピン大学バカコンテスト見学
      「牛」のことをタガログ語で「Baka」と言います。すなわち、バカコンテストとは牛の評価会のこと。
      同期の某N隊員が家畜関係の活動を行うため、バカコンテストを見学することにより、職種に関係した会話を身につけようというもの。
      ちなみに、バカコンテストは、フィリピン大学に赴任している先輩隊員の活動によるもので、今回が第1回目です。先輩隊員の話によると、今までは勘、伝説、噂といったものに基づいて仕事を行っていたらしい。フィリピンはこういった面でいい加減です。。。今回のコンテストでは、牛を評価して、その結果に基づいて業務の改善を行おうというものだそうです。
    • リサールシュライン見学
      ジープニーに乗り、隣のカランバ市にあるリサールシュラインを見学してきました。
      リサールシュラインは、リサールが住んでいた家です。彼はスペインの暴虐ぶりを訴えた人として、フィリピンの英雄とされています。
    • 歌の勉強
      タガログ語の歌を勉強しました。
    • Bahay Kubo
      Bahay kubo, Kahit munti
      Ang halaman doon ay sari-sari
      Singkamas at talong
      Sigarilyas at mani
      Sitaw, bataw, patani

      Kundol patola, Upo't kalabasa
      At saka mayroon pang labanos mustasa
      Sibuyas, kamatis
      bawang at luya
      Sa paligid-ligid ay puro linga

      バハイ・クボ
      日本語訳作成中。。。

    • 野外訓練
      アウトドア企画。クラスごとに料理を作り、それをみんなで食べて楽しみました。
      われわれタガログ語クラスは、フィリピン風バーベキュー、トゥロン(バナナ春巻き)を、他のクラスは、イニハウ・ナ・イスダ(焼き魚)、モンゴスープ(緑豆のスープ)、ビコールエクスプレス、サラダを作りました。
      カマヤンスタイルを試してみました。これは手でいただく食べ方。これぞフィリピン式!!(でも、ビールを飲みながらだとどうしても瓶を持たなければならないので、あまり衛生的ではないです。)
      みんなで料理を作って楽しく食事。楽しい1日でした。

    結局、タガログ語は流暢に話すまでにはいたりませんでしたが、フィリピン人とコミュニケーションに利用できる道具を身につけることができました。


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