閑話休題

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山本五十六・凡将論 山本五十六と二人の愛人 セシル・ブロック スプールアンスと武士道精神
若き日の権兵衛 1 若き日の権兵衛 2 淵田美津雄中佐 海軍兵学校と皇族 御賜の短剣
消えた軍艦『畝傍』
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☆山本五十六 凡将論 

 山本五十六が凡将であるとして、(1)「なぜ海軍大臣にならずに連合艦隊司令長官になったのか」 (2)「なぜ連合艦隊司令長官の職を賭しても日米戦を阻止しなかったのか」 (3)「真珠湾攻撃は間違いではなかったか」 (4)「ミッドウェー海戦大敗の根本原因は山本長官の作戦指導のせいではないか」 (5)「ガダルカナル島で陸海軍将兵約15,000名の餓死者を出し、また、その他の人員、飛行機、艦船の大消耗をきたして決戦力をなくしたのはどういうわけだ」 (6)「『大和』『武蔵』以下の戦艦・重巡群を無用の長物と化したのは、山本長官の判断が甘かったせいではないか」 (7)「米戦闘機に待ち伏せされ、搭乗機が撃墜されて、多数の同行者とともに戦死したのは、山本長官の判断が甘かったせいではないか」 (8)「総合的に見て、連合艦隊司令長官としてはミス・キャストだったのではないか」と、作家で海軍兵学校第74期卒の、生出寿は『凡将 山本五十六』のなかでそれらについて、ひとつひとつ詳細に検証している。

 「私は、悲劇の英雄もいいが、山本元帥が連合艦隊司令長官として、果たして名将というに値する人であったかどうかについて、もっと究明する必要があるのではないかと思った。書けば『お前如きが何を言うか』という声が、旧海軍出身者ばかりでなく、各方面から飛んでくるのが目に見えるようであった。しかし、敢えてあたって砕けることにしたのである」と生出は書いている。

 最後の海軍大将として知られ、海軍兵学校長時代「海軍大将にも、一等大将もいれば三等大将もいる」と明言し、学内に掲示してある大将の写真をすべて引き下ろさせた井上成美は、戦後、永野修身、及川古志郎、嶋田繁太郎の開戦に関する海軍の三大責任者を「三等大将・国賊」と酷評した。また、神格化された元帥・東郷平八郎をも、連合艦隊司令長官としての能力を認めながらも、昭和に入り、加藤寛治、末次信正ら艦隊派に与してのロンドン軍縮会議に反対したことなどを取り上げ、「平時にあの人が何か口に出すと必ず失敗するんだ」と評論家・新名丈夫に語っている。

 生出寿は、井上成美が戦後、東郷の神格化されたヴェールを剥ぎ取ったように、元帥・山本五十六を俎上にのせた。
 生出は、山本を「軍政にかけては第一級のプロであったが、作戦にかけては岡目八目のアマチュアにすぎず、とうてい第一級のプロとはいえなかった」と、こき下ろしている。米内光政海軍大臣は、後任大臣に山本五十六を考慮し、山本自身は吉田善吾海軍大臣の次官として、海軍省に留まることを望んだ。しかし、日独伊三国同盟に、陸軍との内戦をも辞さずとの、強い決意で反対した山本の身の安全を心配した米内は、山本を連合艦隊司令長官に親補した。

 対米戦回避のため、日独伊三国同盟に強く反対した、米内・山本・井上の海軍トリオが海軍中枢から退くと、体調を崩した吉田善吾を引き継いだ、及川古志郎海軍大臣と豊田貞治郎次官コンビは、あっさりと日独伊三国同盟に賛成する。近衛文麿首相の自邸、「荻外荘」に招かれた山本五十六は、日米戦になった場合の見通しを聞かれ「それは、是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います」と答えた。

 これに、生出は、山本が勝つか負けるか分からない「暴れてごらんにいれます」という、曖昧な言葉を使ったことに疑問を投げかけ、井上成美の戦後の批評を次のように紹介している。「山本さんは何故あんなことを言ったのか。軍事に素人で優柔不断の近衛さんがあれを聞けば、とにかく一年半ぐらいは持つらしいと曖昧な気持ちになるのは決まり切っていた。海軍は対米戦争はやれません。やればかならず負けます。それで連合艦隊司令長官の資格がないと言われるなら、私は辞めますと、何故はっきりと言い切らなかったか。アメリカ相手に戦って勝つんだと言って自分が鍛えた航空部隊に対して、対米戦はやれないと言い切ることは苦しかったと思うが、敢えてはっきりと言うべきであった」

 山本五十六は、在米武官として経験を持ち合わせ、日米の国力の大きな差を肌で感じていた。それだけに、対米戦は、何としても避けねばならなかった。山本五十六の父は、長岡藩の士族であった。戊辰戦争で、長岡藩筆頭家老・山本帯刀は、斬首、山本家はお家断絶となった。その後、山本家の名誉回復はなったが、家督を継ぐものが30年もなかった。そこに登場したのが、賊軍の汚名を長い間着せられてきた、旧長岡藩藩士達の期待を一身に集め、白羽の矢が立ったのが、海軍兵学校出身の高野五十六(旧姓)だった。大正4年、海軍少佐の時、高野は山本姓を名乗った。海軍の王道を歩む山本五十六は、連合艦隊司令長官まで上り詰めたことにより、越後長岡の英雄となった。 このことが、山本の足かせとなり、「山本が連合艦隊司令長官の職を賭してまで三国同盟・日米戦阻止をしなかったのは、このような、部下か郷土の人々に対するメンツのためであったと思われる」と、生出は述べている。

 山本は、昭和16年1月7日付で、及川古志郎海軍大臣宛「戦備に関する意見」という歴史的書簡を認めている。「・・・作戦方針に関する従来の研究は、正々堂々たる迎撃大作戦を対象とするものなり、而して屡次図演等の示す結果を見るに、帝国海軍はいまだ一回の大勝を得たることなく、このまま推移すれば、恐らくはジリ貧に陥るにあらずやと懸念せらるる情勢にて演習中止となるを恒例とせり。・・・日米戦争において我の第一に遂行せざるべかざる要項は、開戦劈頭に敵主力艦隊を猛撃、撃破して、米国海軍および米国民をして救うべからざる程度にその士気をを沮喪せしむること是なり・・・」

 こうして、山本五十六は、真珠湾奇襲攻撃計画を第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎に依頼することとなる。大西は、霞ヶ浦航空隊時代に副長兼教頭の山本に仕え、それ以降深い信頼関係を築いてきた。型破りの大西の発想に、山本は大いに期待したと言える。朝野の名士や陸海の将星数十名を前に「上は内閣総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、企画院総裁その他諸々の”長”と称する奴らは、単なる”書類ブローカー”である。こういう奴らは、百害あって一利ない。速やかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから戦艦は即刻叩き壊して、その材料で空軍をつくれ。海軍は空軍となるべきである」と、何ものも恐れずに発言した大西も、流石に計画を練るうちに、その後の展望のない無謀と言える「真珠湾奇襲攻撃などをやって、米国を無用に刺激すべきではない」との考えに変わった。大西瀧治郎少将と草鹿龍之介第1航空艦隊参謀長は、山本を説得するも不調に終わり、「桶狭間とひよどり越えと川中島を併せ行ふの巳むを得ざる羽目に追込まれる次第に御座候」と、山本に言わしめた。

 真珠湾奇襲攻撃は、一応大成功の戦果を収めたように見えた。しかし、石油タンクや軍艦修理工場への無攻撃や第2波攻撃の敢行がなされぬまま終了していた。また、そこには、米空母は一隻も存在しなかった。そして、山本が目論んだ「米国海軍および米国民をして救うべからざる程度にその士気をを沮喪せしむること是なり」とは裏腹に、日本政府の最後通告前の奇襲攻撃に、米国海軍および米国民は、士気を阻喪するどころか、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと一致団結し、米国民の士気は大いに昂揚した。また、痛手を負った多くの米戦艦も、水深12bの浅瀬のため沈没ではなく、艦底を海底に着けた状態の沈座であった。そのため、修理に数カ月を経ず、ほとんどの軍艦が戦線復帰することになる。

 そしてまた、日本政府・日本海軍の全ての動向は、米国大統領ルーズベルトの手中にあり、日本外務省の暗号電報も解読されていた。日本の最後通告の遅れが、駐米大使館事務当局の手違いなのか、作為なのか、何れにせよルーズベルトは、米国民をして対日戦に駆り立てる、絶好のチャンスを手にしたのだ。

 「山本は、連合艦隊司令長官になってからは、対米不戦を主張し続けたが、態度はその職を賭すほどのことはなく、むしろ真珠湾攻撃に熱中した。そして、真珠湾攻撃を自分の思い通りにさせなければ辞職すると、この方に職を賭したのである。ともかく、山本が真珠湾攻撃計画を強引に押し進めたことは、対米戦開始への陰の加担をしたことになるといえそうだ」。生出寿は、山本の軍政・外交での手腕は、高く評価しながらも、連合艦隊司令長官としては不適任としている。真珠湾攻撃の際、連合艦隊司令長官山本五十六は、瀬戸内海の柱島泊地の旗艦「長門」にいたが、これも大きな批判の対象となる。

 昭和17年4月18日、ドーリットル米陸軍中佐による日本本土空襲があった。米空母「エンタープライズ」と「ホーネット」は、日本本土東方1330`にあった。ドーリットル率いるB25爆撃機16機は、「ホーネット」を発進し、京浜、名阪神地域に散発的に爆弾を投下し、中国へ向かった15機は不時着等で全滅、ウラジオストックへ向かった1機のみ着陸し、日本への被害は僅少で、狼狽えることもなかった。しかし、日本政府と陸海軍の首脳は、大きな精神的ショックを受けた。日露戦争時、第2艦隊司令長官上村彦之丞は、ウラジオ艦隊撃破の命令を受けるが、これを補足できず、その結果、運搬船「金州丸」「常陸丸」「佐渡丸」が次々と撃沈され、多数の陸兵を失うことになる。その後、ロシアのウラジオ艦隊3隻が津軽海峡を通過し、伊豆南岸にまで現れ商船数隻を撃沈する。国民は激怒し、上村の自宅を襲撃した。この事件が、山本の脳裏にあり、世論を気にする余り、予定の作戦を変更する過ちを犯したことは否定できないであろう。

 当初、6月下旬にフィジー、サモア、ニューカレドニアの諸島を陸海軍共同で占領し、米豪間の連絡を遮断し、豪州を孤立させるFS作戦が陸海軍の間で決定されていた。しかし、連合艦隊司令部は、MI(ミッドウェー)作戦を先に実施するよう軍令部に提案する。軍令部の大勢は、「ミッドウェー島の攻略は難しくないが、後の維持が難しい」ことから、MI作戦を先んずるのに反対であった。山本五十六は、真珠湾と同様、この計画が入れられないならば連合艦隊司令長官を辞するとして、永野修身軍令部総長に承認させる。

 ミッドウェー作戦は、大本営の発表とは裏腹に、日本海軍の決定的な敗北におわった。日本海軍内に、真珠湾の時のような緊張感もなく、一般水兵でさえ「次はミッドウェーだ」との認識があり、情報は米国海軍に完全に把握されていた。MI作戦には戦術上数々の過ちがあったが、「ミッドウェー島占領と米機動部隊の補足撃滅」という、二兎を追ったのが最大の敗因であった。ミッドウェーの大敗にもかかわらず、連合艦隊司令部の、山本五十六長官はじめ責任者は、予備役に編入されることもなく、その後の作戦を継続して指揮することになる。

参考 『凡将 山本五十六』 『毎日グラフ別冊 あゝ江田島』 平塚柾緒(太平洋戦争研究会)論文 評論家・長野龍運 諸論

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☆山本五十六と二人の愛人

 昭和29年4月18日号の『週刊朝日』は、新橋の芸者「梅龍」(本名・河合千代子)が、日本海軍連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を指揮した元帥・山本五十六の愛人であることを、千代子の談話と山本の手紙を証拠に報じた。これにより、山本に愛人がいたことが周知の事実となった。

 大正7年8月31日、山本五十六は会津の三橋家三女礼子と結婚をする。しかし、山本は、6年前から顔見知りであった16歳年下の芸者鶴島正子と、礼子と結婚する直前に佐世保で深い仲になったとの記録もある。山本は、結婚後数年間正子と逢わない時期があったが、文通を欠かさず、山本が戦死するまでその関係は続き、正子のスーツケースが一杯になるほどであったと言われている。しかし、山本は自分より20歳年下で、色っぽい河合千代子を、生真面目な正子より好みとしていたようだ。千代子には、財界人のパトロンがいたが、山本とは昭和9年から深い関係となっていた。

 昭和16年12月2日、連合艦隊司令長官・山本五十六は、連合艦隊各部宛、余りにも有名な「新高山ノボレ 1208」の真珠湾攻撃(12月8日)の暗号電報を発した。翌3日、山本は参内して天皇に拝謁し、出師の勅語を賜った。4日は、嶋田海軍大臣主催の山本に対する壮行会が、海軍大臣官邸で開かれた。その後、山本は千代子の家に行き、数時間を過ごしている。連合艦隊旗艦「長門」に戻った連合艦隊司令長官・山本五十六は、千代子宛次のような手紙を書いている。

 「此の度は、たった3日で、しかもいろいろ忙しかったので、ゆっくり出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですが、堪忍して下さい。それでも、毎日寸時宛でも会えてよかった思ひます。出発の時は、折角心静かに落着いた気分で立ちたいと思ったのに、一緒に尾張町まで行くことも出来ず残念でした。(中略)薔薇の花はもう咲ききりましたか。その一ひらが散る頃は嗚呼。どうかお大事に、みんなに宜敷。写真を早く送ってね。左様なら」

 作家で海軍経験のある阿川弘之は、自著の『山本五十六』で「・・・ずいぶん中学生の恋文のような文章であるが、山本は此の女人に、なりふり構わぬ自分の淋しみをむき出しにしたかったのであろう」と、山本に同情的に書いている。しかし、海軍兵学校出身の作家・生出寿は「そのころ、南雲艦隊はじめ連合艦隊の各部隊は、予定の戦場に接近しつつあった。山本は”全艦隊の将兵は本職と生死を共にせよ”といって部下の将兵を死地に向かわせたが、それとこの愛人への手紙の関係はどうなのであろうか。どちらも山本の本心だといういい方もあるかもしれない。しかし、戦場に向かいつつある将兵が、山本がこういう手紙を女に書いていると知ったならば、どう思うであろうか」と、手厳しく山本に批判的に書いている。

 昭和17年5月13日、ミッドウェー作戦を前にして、連合艦隊旗艦となった「大和」は、呉軍港に入港した。山本は上陸するや否や、東京の河合千代子に電話を入れ呉に来させた。その頃、千代子は肋膜炎をを患い、病状は重かったという。山本と千代子は数日間を割烹旅館「華山」で過ごした。生出寿は「60歳にもちかいおやじが、それも三週間後には国家の存亡を賭ける大作戦をひかえる連合艦隊司令長官が、こんなことをするとは思えない、というのがふつうである。しかし、山本はそれをやった」と続けて批判する。しかし、阿川弘之同様次のように山本に同情的にも書いている。「いってみれば千代子は、山本が悩みでも弱みでもなんでもさらけ出せる、心安らぎの弁天みたいな女であったようだ」と。

 死者の墓を暴くようなことはすべきではない。しかし、国家の命運を決する真珠湾攻撃やミッドウェー作戦を前にして、全軍を指揮する立場の連合艦隊司令長官が「全艦隊の将兵は本職と生死を共にせよ」と言いながら、女との逢瀬を楽しんだり、”恋文”のやり取りをしていたとあっては、戦死者も浮かばれまい。

参考 『山本五十六』 『凡将 山本五十六』 『歴史群像シリーズ 山本五十六』   他

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☆セシル・ブロック

 明治維新の際、日本政府は日本海軍建設に当たり、英国海軍を手本とすべく、英国海軍使節団を数多く日本に招聘した。第一次大戦までは、艦艇内の操舵命令は、英語が使用され、その後も、日本海軍は英国海軍流の言葉を、日本化して使用していた。

 こうした背景から、英語は海軍士官には必要不可欠のものとなっていた。日本海軍は、海軍士官養成の急務から、海軍兵学寮(その後海軍兵学校に改称)が創設されて以来、英語教育に重点を置いた。爾来、英語担当の日本人教官は文法等を中心に講義し、英国から招かれた教官が3年間を任期として、2人が英会話を中心として教壇に立った。生徒達にとって、英人による授業は、英国事情を知る上でも貴重な体験であったようだ。しかし、日本海軍は、昭和6年9月の満州事変以降、日英関係が更に悪化の一途を辿ると、英語教育を終戦まで続けながらも、昭和13年以降は英人教官を江田島に招聘することはなかった。

 セシル・ブロックは、昭和7年米国留学中に海軍兵学校に招聘され、3年間を江田島で過ごすことになる。ブロックは、江田島で生徒の学業、体育、日常生活にいたるまで、様々な描写を中心に、日本人教官との交流や日本海軍論、日本人論や日本文化論まで展開している。ブロックは、帰国後トンブリッジ・スクールの教師となり、昭和15年の夏に『英人の見た海軍兵学校』の原稿を書き終えている。日本が、真珠湾攻撃で米英に宣戦布告したのを契機に、英国が日本の実力を知る一助となればとの希望から昭和17年3月に出版している。日本では、海軍報道部の飯野紀元の訳により、敗戦の色濃くなった18年8月5日、「内外書房」から初版10,000部が発行され、兵学校を目指す当時の中学生の愛読書となったようだ。

 英国海軍士官は、特権階級か中流階級の上層から構成されているのに比べ、日本海軍の士官は、国民全体のあらゆる階層からの出身者によって構成されていた。これをブロックは、日本の海軍兵学校の入学制度に見ている。「兵学校の入学試験は、海軍がこれを行い、この入学試験に通過しない者は、決して入学を許されない。だから両親が貧しいからといって、その子供が海軍士官になれないという理由はないのである。なぜなれば、その子弟が兵学校の入学試験に通過して後は、彼の費用は一切官費を以て支弁されるからである。・・・兵学校の新入生は、真に日本国民のあらゆる階級層を代表する青年の集まりといってよい。私が最後に見た新入生の中には、お二人の皇族宮殿下がおらせられたと同時に、漁夫の息子もいた」と。

 「1934年(昭和9年)には、7,138人応募者があったのに対し、入学を許可された者は240人に過ぎなかった。・・・たいていの応募者は、身体検査で落第する。この身体検査に通過するためには、最も高い標準に達することが必要である。なぜなれば、完全な健康に恵まれた者でなければ、4年間の烈しい訓練に耐えられないからである」と、学力が最高レベルに達していることを前提条件に、凄まじい訓練に耐えうる肉体を備えた若者が江田島では求められた。

 セシル・ブロックは、『怪談』の作者として有名な、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、1892年(明治25年)に書いた手紙の中の一部を引用し、自身もまたハーン同様に、海軍兵学校の生徒を日本一の健児と礼賛している。ラフカディオ・ハーンは、機会さえあれば、兵学校で教えたいとさえ述べている。「尾道で私は、一群の兵学校の生徒と一緒になった。彼らは、皆優秀な若者で、学校へ帰る途中だった。彼らは、呉まで私と一緒であった。私は、機会さえあれば、兵学校で教えるようになりたいと思う。兵学校のイギリスの教師は、仕事が楽で棒給が多いのである。・・・その生徒達は、皆よく英語を話した。その船で私と一緒だったのは13人であった。・・・話をきくと中井も兵学校にいるのだ。私は一層兵学校へ奉職したい気持ちを強く感ずる。どうかして兵学校へ入りたいものだ。江田島の生徒は、素晴らしい青年ばかりだ。くにのまもりとなるべき日本一の健児なのだ」と。

 セシル・ブロックは、イギリス海軍評論家の「日本海軍軍人は、既定の計画を遂行するには、忠実且つ有能であるけれども、予期しなかった出来事を処理することは上手でない」という批評を否定し、将来日本との交戦を覚悟する国の海軍当局は、この様な批評に安心して、日本海軍を侮ってはならないと忠告している。しかし、ブロックも「・・・江田島の学課は、量が多過ぎて、指導者に必要な臨機応変の才を養うのに適していないことも事実である。敵味方の軍艦が、互いに見えるところへ来る以前に、戦の勝負が決してしまうというような近代の海戦に必要なのは、部下に先んじて討ち死にすることを誇りとする士官であってはならない。近代海戦の統帥者は、迅速に頭が働き、決断力のある者でなければならない」と書いている。だが、「各級及び各部隊には、数名の優秀鋭敏な頭の持ち主がいるのであって、かかる生徒は、士官となって後の進級も早く、大尉の時には、東京の海軍大学で徹底的な教育を受け、将来日本海軍の統帥者となる人々なのだ。彼等が、独創的な作戦を企画することが出来ないとは、断然言い得ないのである」とも書いている。

 しかし、日本海軍は、太平洋戦争の緒戦では一定の戦果を収めたが、その後はイギリス海軍評論家が論じたように、超純粋培養されたエリート・日本海軍士官達は、予期せぬ出来事の連続に翻弄され続けたのたが事実である。

参考 『英人の見た海軍兵学校』(初版本) 評論家・長野龍運 緒論文 他


☆スプールアンスと武士道精神

 米第5艦隊司令長官スプールアンス大将は、デイビス参謀長に一枚の命令書を差し出した。「 1,全艦隊に命令=『水上戦闘が期待される、全力待機せよ』  2,第58機動部隊に命令=『敵艦隊出撃せり。攻撃は軽いジャブにとどめ、沖縄西北方に誘致せよ』  3,第54砲撃支援部隊に命令=『全部隊をあげてヤマトを砲撃せよ。予は貴隊とともに在り』」

 スプールアンスは、沖縄を目指す海上特攻の戦艦「大和」を、航空攻撃でなく、艦隊の砲撃による攻撃で、轟沈させようと考えていた。

 スプールアンスは、明治40年、アナポリス海軍兵学校を卒業し、少尉候補生として戦艦「アイオワ」にのり、遠洋航海に出て、横須賀に入港したことがある。候補生達は、日本連合艦隊旗艦「三笠」を礼訪し、全世界海軍軍人の憧憬の的であった、司令長官・東郷平八郎に謁見し、敬意を表した。それ以来、スプールアンスは、心底東郷に心酔した。スプールアンスは、東郷を目にした当時の感激を、次のように述べている。「挨拶を交わしたわけでもなく、ただ眼前を通るトーゴーの姿を見ただけだったが、あの感激は忘れられない。以来、トーゴーは私の憧れであり、私の師でもあった。マリアナ沖海戦の時、オザワ(小澤治三郎中将)艦隊を待ちながら、どこから来るか、どこで戦うべきか。私はツシマ(対馬)でロシヤ艦隊を待ち受けたトーゴーを想い浮かべながら、戦機を探っていた」

 デイビス参謀長は、味方の損害を出来うる限り最小限に抑える攻撃手段として、ミッチャー機動部隊の航空機攻撃に任せることを、スプールアンスに進言した。しかし、スプールアンスは、日本海軍戦力の最大かつ最後の要素であった、戦艦「大和」を航空機ではなく、自ら率いる戦艦の砲撃で沈めることにこだわった。まさに、武士が互いに名乗りを上げ、刃を交わすように、スプールアンスは、世界最大の戦艦「大和」に、自らの一太刀を加えたがった。「”ヤマト”は世界一の大艦でもある。私は、私の尊敬するトーゴーが育てた日本海軍の誇りを、トーゴー・スタイルで葬ることがトーゴーの霊魂にたいする手向けであり、日本海軍の名誉ある最後にもなると思う」と、譲らなかった。

 スプールアンスの命令を受けた、第54砲撃支援部隊の指揮官デイヨ少将は、「世界最大の戦艦を仕止める任務をを与えられたことは、本官の無上の名誉なり。喜び限りなし」と日誌に書き記し、欣喜雀躍した。昭和20年4月7日、午前1時55分、旗艦・戦艦「テネシー」に、この命令が伝達されるや否や、全乗組員がベッドから飛び起き、食堂のナベ、カマ、スプーンで部屋中の壁を叩きながら踊り回ったと言われている。

 武士道精神を発揮したスプールアンスの意図に反し、「大和」はミッチャー中将率いる、第58機動部隊の航空機に発見され、スプールアンスは切歯扼腕しながら、「ユー、テイク、ゼム」(貴官がやれ)の、米海軍史上最も短い命令をミッチャー中将に発した。

 昭和20年4月7日、12時30分過ぎに米海軍航空機の攻撃を受け、14時23分、建造当時の国家予算の3%を費やした巨艦「大和」は、6万4000dの巨大な鉄の塊となって、鹿児島県・坊ノ岬南西方の東シナ海に没した。「大和」の生存者は、3000名余の内269名。「海上特攻部隊」の戦死者4037名。

 「大和」が出撃する間際に、73名の少尉候補生が下船している。海軍兵学校74期卒(昭和20年3月30日卒)の66名と海軍経理学校第35期卒の7名である。彼等は、出撃の間際まで、乗艦させるよう艦長有賀幸作大佐に何度も申し出たが、有望な将来ある青年達の戦後に果たす役割を考えた、伊藤整一中将の意向により、退艦させられた。

 参考 『戦艦大和』 『太平洋戦史シリーズ連合艦隊の最後』 戦史研究家・実松 譲論文 評論家・河田一夫論文 他

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☆若き日の権兵衛 1

 「 山本権兵衛
  右是迄行状宜敷ニ付自今生徒ノ諸役ヲ差免候事
   明治五年八月二十六日
       従五位海軍少将兼兵学頭中牟田倉之助 」

 これは、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)第二代兵学頭・中牟田倉之助が、山本権兵衛に与えた表彰状だ。その後の、権兵衛の行状を見ると、「行状宜敷」とは信じられないが、この時点では品行方正の模範的生徒であり、「生徒ノ諸役」としての食卓週番と内外掃除番を免除された。

 権兵衛は、1863年薩英戦争に12歳で従軍した。本来15歳から58歳までが正規兵として、薩摩軍に編入されたが、年端のいかない権兵衛は、遊軍として砲弾運びに従事した。15代将軍徳川慶喜の大政奉還に伴って、薩摩藩が藩兵を募集した際、権兵衛は、年齢を2歳も偽り、砲弾運びの雑役ではなく正規兵として採用された。権兵衛は、旧式の火縄銃ではなく、ミニエー銃を手にした。しかし、この銃は1853年のクリミヤ戦争で英国軍が使用したもので、その後改良されたスペンサー銃に比べると、旧式のもので重量もかなりあり、英国軍に不用になったものが、大量に日本に流れてきた代物であった。

 権兵衛は、伏見の戦いに従軍し、火兵戦で敵を制圧した後に突撃する、ナポレオン・ボナパルトが確立した近代戦の威力を実体験した。その後、越後出雲崎、村上・荘内口と転戦し、実戦経験を積み重ねていった。

 権兵衛は、西郷吉之助の紹介状を携え勝安芳(海舟)を訪ね、三顧の礼をもって、海舟の弟子となる。権兵衛も、龍馬がそうであったように、「たしかに西郷先生のいわれた通り、勝海舟と言う人は、ちょっと底の知れない傑物のようであった。それも、単に知謀が深いというだけではない」と、海舟の人物に惚れ込んだ。

 勝海舟は、海軍に入り海軍術を身につける前に、一般教養を身につけるため、後の東京大学になる開成所に入ることを権兵衛にすすめた。この間、権兵衛は、西郷吉之助らの追討軍に編入され函館を目指すが、すでに榎本武揚らは降伏していた後であった。

 明治新政府発足早々の明治元年7月、軍務官の実権者大村益次郎は、早急に西洋式近代海軍を創建拡充すべき旨を上奏し、「海軍興起の第一は海軍学校を起すより急なるはなし」と強調している。明治2年7月、軍務官が廃止されて兵部省が新設されると、まず、海軍操連所が創立された。

 明治2年9月18日、兵部省は海軍操連所を東京築地の元芸州屋敷に置き、諸藩進具の海軍修学生(18歳より20歳までの者、大藩5名、中藩4名、小藩3名)を教育する所とした。これは現在の中央卸売市場の一角に当たる。西郷と勝の推薦を得た権兵衛が、鹿児島出身の5名の中に入っていたことは当然のことであった。

 明治3年5月「大に海軍を創立すべきの儀」を建議した兵部省は、その中に特に「海士の教育」という一章を設けて次のように述べている。

 「軍艦は士官を以て精神とす。士官なければ、水夫その用を為す能わず、水夫用を為さざれば、船その用を為さずして、無用廃物となる。而して海軍士官と成るの学術深奥にして容易に熟達する能わず、故に速に学校を創立し、広く良師を選挙して、能く学士を教育すること、亦海軍創立の一大緊要事なり」

 同年11月4日、海軍操連所を海軍兵学寮と改称し、海軍操連所在寮生70余名から幼年生徒15名、壮年生徒29名を選抜し、全部官費で改めて入寮させた。ここに初めて、海軍士官養成の学校が創立された。権兵衛は、幼年生徒15名の中に入っており、その後の軍政改革を経て、本科生徒となった。その時授与された賞状が冒頭記したものだ。

 兵学寮の生徒達は、戊辰戦争の弾雨の下をくぐってきた実戦を積んだ猛者ばかりであった。従って、教官いびりがまかり通り、攻玉社の創立者近藤真琴などは、生徒の標的となった。海軍兵学寮時代「山本権兵衛首謀となりて、しばしば教官排斥の運動を起こし、教官室に乱入し、あるいは教官と乱闘し、あるいはテーブル、イスなどを破壊し、流血の暴挙を演ずるに至れり」と、武勇伝を残している。また、明治5年2月には「爾今海軍兵学寮園内にて立小便するを禁ずる」との告示が出るほど、およそ海軍士官らしくない風習があったものと思われる。

 「こういう実戦経験者の生徒たちが集まって来たのは、なにも海軍兵学寮ばかりではない。慶應義塾の創立者、福沢諭吉にとっても、彼等の存在は大問題であった。福沢が袴を脱ぎすてて、あえて着流しの町人姿になったのは、身をもって塾生に180度の価値転換を迫ろうとする態度の表明にほかならなかった」。

 海軍兵学寮の先任兵学頭(第2代海軍兵学校長)に任命された中牟田倉之助は、函館湾頭の海戦で、「朝陽」の艦長として活躍し、幕府艦隊の「蟠竜」からの飛弾を火薬庫に受け、船が撃沈されたが辛くも一命を取り留めた。この時、中牟田は顔面を焼かれ、凄まじい火傷の後が両頬に残った。中牟田の風貌は、彼の実戦経験を示すとともに、その迫力は、生徒ににらみを利かす恰好の材料となった。  (続く)
 
 参考 『日本海軍の興亡』 『伯爵山本権兵衛伝』 『海は甦える』 他

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☆若き日の権兵衛 2

 兵学頭として着任した中牟田倉之助は、荒れた兵学寮の風紀刷新を計った。中牟田は、その原因が薩摩と佐賀の対立にあることを見抜いていた。

 薩摩は、従来より海軍の建設に尽力し、明治維新の原動力としての役割を果たした。一方佐賀は、鍋島閑叟が外様大名で隠居の身でありながら、十四代将軍家茂の扶任官になり、中立の立場をとった鳥羽伏見の戦い直後には、佐賀藩を討てとの意見が朝議を制しかけたこともあったほど幕府との関係が深かった。

 薩長土肥連合の形成は、急遽上洛した鍋島閑叟の政治力によるところが大きいが、佐賀藩の海軍が、幕府海軍を除く諸藩の中で最も大きな力を持っていたことによる。仮に幕府と佐賀藩との連合艦隊が編成されたならば、薩長連合は、海軍力において劣勢を余儀なくされたであろう。そうした政治的背景から、薩長土肥連合が形成されたと言える。

 薩摩と佐賀の微妙な関係は、兵学寮の生徒と教師の確執として図式化されていた。薩摩の「春日」「乾行」に対し、佐賀は「日進」「孟春」を保有した。函館の海戦では、薩摩、佐賀の戦功は拮抗し、海軍人事においても、薩摩の川村純義が兵部大丞で、佐賀の佐野常民は兵部小丞であり兵学寮の組織にあたった。言うなれば、軍政の薩摩、教育の佐賀の対立は、兵学寮内では、実戦経験をつんだ生徒と、文官的志向の強い教師団の対立となって表面化した。中牟田が、兵学寮に来たことにより、薩摩・佐賀の武断派の対立と同時に中牟田・権兵衛の対立へと図式が変化した。

 中牟田は、大教授近藤真琴を海軍中佐中教授にするなど、文官教官を海軍武官に任用し威厳をつけさせた。しかし、教官排斥運動や教官との乱闘騒ぎは、一向に収まる気配がなかった。その先頭に立っていたのが、「行状宜敷」と表彰されていた権兵衛に他ならなかった。中牟田は激怒し、帝国海軍に従うべく、署名血判を兵学頭の面前ですることを要求した。当然のことながら、生徒から不満の声が巻き起こり、権兵衛先頭に生徒達は、中牟田に直談判することになる。中牟田は一歩も怯むことなく、「その身兵学寮にありながら、その心海軍に存ぜざる者は、即刻退寮を命ずる。血誓に反対の者は出て行け」と、生徒達を一喝した。中牟田は、言に違わず、命令に違反した83名を退学処分にした。しかし、不思議とこの中に、権兵衛の名前はなかった。

 山本権兵衛は、左近允隼太とともに西郷の中央政界への復帰を画策し、郷里へ西郷説得のため帰郷する。しかし、西郷は「そもそもわが藩は、維新戦争の翌年、出征して功のあった青年からわずか50名を選抜して各地へ送り申した。この50名の書生は、学問修養を主として、かたがた大勢を視察して随時報告するのが任務でごわす。わが国土の位置を思えば、四面を海に囲まれ、支那及び露国に接近するを以て、一朝国難がいたれば、海軍なしでは手も足も出申さん。おはんら、ここはよく考えて、決して現下の政治問題などに関与することなく、一意専心非常の覚悟を以て、国家のために修業につとめ、しかるのちに大いに国事に奔走するのが一番でごわす。これが老生の切望するところでごわす」と、逆に権兵衛等を説得した。権兵衛は、海軍大輔川村純義に詫びを入れ復学した。しかし、左近允は明治10年の西南の役で戦死することになる。

 権兵衛は、サンフランシスコの遠洋航海から帰投し、浩然の気を養うべく品川に登楼していた。ここで、25歳の権兵衛は、17歳のトキと出会い一目惚れする。「結婚するつもりだ。もちろんおれは、ドイツ軍艦に乗組みを命じられている。しばらく日本を離れなければならないから、その留守のあいだにトキに女一通りの道を習わせ、帰朝したあかつきには正式に結婚するつもりだ」と、権兵衛は同期生に協力を求める。明治9年9月中旬、海から漕ぎだしたカッターに乗る権兵衛ほか8名の少尉補と、客になりすました権兵衛の弟盛実の手によって、トキは品川の妓楼から無事「救出」された。

 権兵衛は、明治11年12月16日トキと結婚する。正伝には、トキは津沢鹿助三女登喜子となっている。「登喜子は細面で、襟足の長い美人であり、権兵衛が熱愛したのも無理はないと思わせるような色香をただよわせている。そして秀でた額は、彼女が聡明な女性であったことをうかがわせている」と江藤淳は『海は甦える』のなかで述べている。 (続く)
 
 参考 『伯爵山本権兵衛伝』 『海は甦える』 他

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☆淵田美津雄中佐

 先日、「海軍兵学校」のサイトをご覧になった方から、「海軍兵学校出身者名簿」のなかに「淵田美津雄中佐の名がない。余りにも有名な人物だが、載せていないのは特別な理由があるのか」との貴重なご指摘を受けた。

 淵田美津雄中佐は、350機の飛行機隊を率いる総指揮官として、真珠湾奇襲攻撃を成功させた。「トラ・トラ・トラ」(われ奇襲に成功せり)と連合艦隊へ打電したことでも有名である。淵田は、昭和20年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」上で、連合国に対する降伏文書に調印する、日本全権重光葵外相と梅津美治郎参謀総長ら一行の随行の一員でもあった。

 海軍兵学校第74期卒の作家・生出寿は、著作の『淵田美津雄中佐の生涯』で次のように記している。「淵田の淵はほんとうは『渕』である。しかし『渕』は『淵』の異体字なので、正字の『淵』を使うことにした」と。昭和52年刊の『海軍兵学校出身者名簿』は、渕田美津雄となっており、ご遺族の方も渕田姓となっている。従って、本サイトの「海軍兵学校出身者名簿」では渕田美津雄と表記した。

 淵田は、明治35年奈良県に生まれ、海軍兵学校第52期卒。同期に参議院議員になった源田実がいる。

 淵田の生涯の中で最も興味を引くのは、真珠湾攻撃を成功させたことよりも、元海軍中佐が敬虔なキリスト教信者になったことだろう。GHQ情報部戦史室長のブランゲ博士は、昭和22年から26年まで、真珠湾奇襲作戦の関係者を東京代々木のワシントンハイツの自宅に招きインタビューをした。ブランゲの家へ向かう途中の渋谷駅前の忠犬ハチ公の傍らで、淵田は一枚のビラを受け取った。米陸軍軍曹ジェーコブ・デシェイザーが出版した、『私は日本の捕虜でした』という書物の日本語版の発売案内であった。

 デシェイザーは、真珠湾奇襲攻撃に憤激し、米陸軍の飛行兵となり昭和17年4月18日のドーリットル空襲に志願した。空母ホーネットから発進したドーリットル中佐率いる16機のB25爆撃機は、東京、川崎、名古屋、神戸などを初めて空襲した。被害は少なかったが、万全と言われていた防空体制の不備が明らかになり、陸海軍の面目は丸つぶれとなった。ドーリットル隊は1機がウラジオスットクに、15機が中国大陸に着陸した。5人が墜落死、溺死をした。8人は日本軍に捕らえられ、3人が処刑され1人が獄死した。

 捕虜になったデシェイザー軍曹は、中国各地の収容所を転々とし、日本軍から虐待と拷問を受け、栄養失調と病気により死の苦しみを味わった。デシェイザーは、日本人に対しさらに深い憎悪の念を抱くようになったが、収容所で聖書にふれキリスト教徒になり、日本人に対する考え方も変わった。

 淵田は、同じ飛行機乗りとして、敵愾心を克服したデシェイザーに深く感動を覚えた。淵田自身、敬虔なキリスト教信者になり日本全国を伝道してまわることになる。淵田が大阪の街頭で初めて伝道したときに、周辺は黒山の人だかりとなり、交通整理の警官も出動し、彼の乗るトラックは身動きがとれないほどであった。その後淵田は、国内のみならず米国、欧州など15年間にわたり伝道を続けた。
 昭和51年死去。
 著書に『機動部隊』『ミッドウェー』(奥宮正武共著)などがある。

 参考 『淵田美津夫中佐の生涯』

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☆海軍兵学校と皇族

 海軍兵学校出身の皇族は19名いる。

 明治6年12月9日、明治天皇から「皇族は自今海陸軍に従事すべき」旨のご沙汰があった。明治18年までは、皇族に限り特別に通学が認められていたが、その後一般生徒と同様に校内で生活することが義務づけられた。

 高松宮宣仁親王、伏見宮博信王、山階宮萩麿王は、それぞれ第52期、53期、54期として入校した。従って、第1学年、第2学年、第3学年に3名の皇族生徒が在校し、海軍兵学校創立以来のこととなった。

 しかし、皇族が一般生徒と寝食ををともにした訳ではなかった。皇族は入校が決まると、特別官舎に入り、一般生徒とは隔離された状態で、侍従武官がマンツーマンで、カッター、陸戦教練などを修練させた。高松宮は、所属の第12分隊に近い第1生徒館内に設置された部屋を自習室兼寝室とし、食事は生徒と同じものを食堂近くに設けた個室で摂った。課業も普通学は、特別個人教授で行われたが、それ以外の軍事学、訓育、体育等はすべて一般生徒と一緒に行われた。伏見宮と山階宮も高松宮と同様に、特別の寝室を用意された以外は、教育も分隊生活も一般生徒と同様に扱われた。ただし、休日には一般生徒が外出してクラブに行くが、皇族は特別官舎で過ごした。

 海軍兵学校では、1号生徒が最下級生徒の4号(3号の時もあった)を修正と称して、殴ることが日常茶飯事となっていた。鈴木貫太郎や井上成美等が校長の際には鉄拳制裁が訓辞により厳禁とされた時期もあった。中学を卒業し、海軍兵学校に入校し、海軍士官の道を歩み始めた生徒に、先輩から規律違反や兵学校生徒としての心構えに違反すると、容赦なく鉄拳が加えられた。しかし、宮様に制裁を加えた事実は、海軍兵学校77年の歴史にはない。皇族のいるクラスでは、連帯責任での鉄拳制裁を避ける恩恵に浴したようだ。

 海軍兵学校第68期卒の作家豊田穣の『鬼の一号生徒』に、次のようなほのぼのした一説がある。「よく聞け。屁は生理現象ではあるが、精神力によって、これをコントロールすることは、不可能ではない。貴様たちのように、のべつに屁を垂れるのは、緊張がゆるんでいる証拠だ。いまからそのゆるんでいる個所をひきしめてやる。脚をひらけ!歯をくいしばれ!」「いいか、今後、屁は厠で垂れろ!寝室では漏らすな。空気が濁って、衛生上よろしくない。わかったら解散!」

 海軍兵学校出身の皇族19名の内2名が戦死している。第62期の伏見宮博英王と浅香宮正彦王だ。伏見宮博英王は、後に伯爵伏見博英となり、昭和18年8月26日マカッサル近海(3連通司附兼南西方面艦隊司附)で戦死。浅香宮正彦王は、後に侯爵音羽正彦となり、クェゼリン(6根参謀)で戦死。 

 高松宮は、軍令部員として長く戦術に関わってきたため、勝ち目のない日米開戦を避けるべく兄の天皇に箴言した。また、ミッドウェー海戦で日本海軍が致命的な敗北を喫し、一日も早い戦争終結の方策を考えるべきと、天皇に手紙を認めた。昭和19年6月、米軍のサイパン島上陸後の作戦会議では、高松宮は、「・・・戦争目的を、極端に言って、いかにしてよく敗けるか、という点におくべきだと思う」と爆弾発言をする。

 半藤一利は『完本・列伝 太平洋戦争』で「軍人としての高松宮の人柄のよさと徳性を、称揚する元海軍軍人はすこぶる多い。『昭和の海軍といえばすぐに米内(光政)・山本(五十六)・井上(成美)とくるが、むしろ高松宮をあげたい』とする人もいる」と書き記している。半藤は高松宮と兄・秩父宮雍仁との対比で「・・・秩父宮が士官学校を卒えて(第34期)、陸軍軍人の道とを歩んだのに対し、海軍という比較的自由で、開放的な世界の空気を吸った兵学校出身の高松宮が、政治や派閥や硬直した精神主義と無縁であったことが幸いした、と言えるのかもしれない」とも述べている。

 参考 『海の紋章』 『完本・列伝 太平洋戦争』 『海軍兵学校沿革』(中島親孝著)他

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御賜の短剣

 このたび故藤森正巳氏(海兵54期)の御遺族より、大正15年3月、海軍兵学校卒業時に拝受された御下賜品の短剣が、武蔵国総杜大國魂神杜(東京都府中市)へ奉納された。
 手入れした研師によって、短剣の刀工は有名な月山貞勝師であることが判明した。
 宮司猿渡(さわたり)昌盛氏は靖國神杜へ奉納を勧められた様子であるが、御遺族の御意志であった由。
 藤森正巳氏は、長野県諏訪郡湖南村(現諏訪市湖南真志野)出身で4兄弟の3男であり、弟の4男康男氏(海兵56期)も中佐で海軍省にて参謀として勤務中に終戦を迎えられている。
 海兵54期はワシントン軍縮会議の影響もあり、卒業者は68名と少ない中で、卒業成績が2番という栄誉を得られたのであるが、中尉の時に提出した「結婚伺」(海軍大臣の決裁を受けるもの)が差し戻しとなったため、藤森氏は海軍に辞表を提出し、自己の意思を通された。
 氏の才能を惜しむ人達の中に※2山本五十六少将(当時)が居られた。山本少将は、海軍のために働くことを勧誘し、同じく、機関大尉の時に大艦巨砲にこだわる海軍に辞表を提出した中島知久平氏(海機15期)が、資源と資金に乏しい我国は将来のために航空機の育成が必要である、との信念のもとに創立した中島飛行機株式会杜へ就職を斡旋された。
 その後、藤森正巳氏はアメリカ留学等を経て航空機生産に大いに貢献されている。
 【詳しくは、『海こそなけれ-諏訪海軍の航跡-』〔主として旧制諏訪中学校出身の武官・医官・文官等百数十名の記事で構成されている。〕の中に収録されている。】
 大国魂神杜の御祭神は大国魂の大神で、出雲の大国主神と御同神であり、創立は景行天皇41年(西暦111年)5月5日である。
 大化の改新で、国司が奉仕するようになり、武蔵の国の著名な神杜六杜、小野神杜(多摩市)・二宮神杜(あきるの市)・氷川神杜(さいたま市)・秩父神杜(秩父市)・金鑽神杜(埼玉県児玉郡神川村)・杉山神杜(横浜市緑区)を一ケ所に集めて御祀りする総杜となっている。毎年5月5目の例大祭は、「闇夜(くらやみ)祭」として有名である。摂杜・末杜数杜がある。
 現在、東京で多くの人達から親しまれている「東京五杜」(日枝神杜・明治神宮・靖國神杜・大國魂神杜・東京大神宮)の一杜でもある。
 境内には・目清・目露戦争・大東亜戦争の戦役慰霊碑が建立されており、宝物殿には六杜の神輿と大太鼓等の他に、先の大戦に艦の守護神として大國魂の大神を祀っていた北方方面艦隊旗艦軽巡洋艦「多摩」の、艦及び総乗組員の写真と縮尺2000分の1の模型が、同艦乗員であった村野武雄氏より昭和47年奉納され展示されている。
 藤森正巳氏拝領の御賜の短剣も展示される予定である。
 大國魂神杜は、このよう海軍との御縁も深いが、数々の御祭礼があり、地域の守り神として広く親しまれ、我国文化の伝統を守り支える御杜である。

 引用 『水交』No.571 平成15年7・8合併号 「海軍ゆかりの大國魂神社に御賜       の短剣を奉納」(宇佐見寛 海軍兵学校第76期)

※1 月山貞勝=1869(明・2)〜1943(昭・18)。大正期を代表する刀工。皇室、伊勢神宮関係の作刀も多い。人間国宝の刀工月山貞一(二代)の父。  

※2 当時、連合艦隊司令長官であった山本英輔中将(後に大将)の間違いである。これは、出典の『海こそなけれ-諏訪海軍の航跡-』の誤りのままであると思われる。
 山本英輔は山本権兵衛の甥としても知られる。また、日本海海戦の勝利の余韻が冷めやらぬ時に、日本海軍の中でいち早く海軍の空軍化を主張し、明治42年3月、軍令部参謀・海軍少佐時代に、「飛行器」研究に着手する必要性を、時の上司軍令部第2班長・山屋他人海軍大佐(後に大将)に提言し、陸海軍合同による臨時軍用気球研究会が発足し、日本で初めて航空機の研究開発が着手された。
 これを受けて、中島知久平は軍の命により、航空機の生産を手掛け、群馬県太田の町工場を世界の一大航空機メーカー「ナカジマ」に育て上げた。
 昭和12年、藤森正巳は中島飛行機の要請で米国視察中、当時米国で大量生産の主流となっていた「テーラーシステム」をフォードやダグラス社を見学する中で学び、自社工場に取り入れるため、必要なトランスファーマシンなどの機械を買い付け研究し、国内メーカーに発注し、わが国の大量生産方式導入の先駆け的役割を果たした。この結果、昭和15年藤森は、飛行機増産ノ功により、36歳の異例の若さで勲六等瑞宝章を拝受している。当初、勲四等の内示があったが、政友会総裁で社長の中島知久平も拝受したことがなかったため固辞し、勲六等となったとのことである。
 藤森は米国視察中にダグラス社のDC4を買い付け解体、研究し、米国本土をも給油なしで攻撃できる超大型爆撃機構想を練った。開戦前から、藤森は超大型爆撃機の大量生産を主張したが、知久平は利幅の大きい戦闘機の生産に重点を置いた。藤森の提案は、後の知久平の『富嶽』構想のもとになるものであったが、時既に遅かった。早くから藤森構想を具体化し、B29を凌駕する超大型爆撃機を開発、量産化していれば、その後の戦局も全く異なった展開になっていたと考えられる。
 山本英輔と藤森は、藤森が海軍兵学校54期を卒業し遠洋航海で諸外国を歴訪した際の少尉候補生と司令官との関係から、昭和37年7月27日に山本が亡くなるまで親密に続いた。
 山本は昭和11年の2・26事件の際は、一時陸軍から暫定内閣の首相候補に推された。この時の閣僚名簿に内閣書記官長(現在の官房長官)として、当時31歳の藤森正巳の名前があったと言われている。藤森はモーニング服を用意し、直ぐさま群馬県の太田から上京できる体勢にあった。しかし、反乱軍は鎮圧され、広田弘毅外相に組閣の断が下り、山本内閣は幻に終わった。
 山本英輔は、少佐時代「飛行狂」とも呼ばれ、昭和2年初代航空本部長に就任し、自ら藤森を中島飛行機に紹介したが、皮肉にも昭和9年のロンドン軍縮会議に反対し、いわゆる艦隊派の立場にあった。
 藤森は、戦後公職追放され、富士重工業の前身である富士産業に関わることはできなかったが、自ら半田金属工業(ハンキン)を立ち上げ、鍋・釜を手始めとしてリヤカーや自転車の製造を手掛け、一時期は資本金1000万円、従業員2000名を擁する企業に成長させ、アメリカへ輸出をするなどして青年実業家として世間の注目を集めた。しかし、戦後間もない大不況の波に飲み込まれ会社解散のやむなきに至る。当時、トヨタ自動車をはじめ日本中の企業が倒産の憂き目に合い、折しも労働争議の二重苦により、青息吐息の状況にあったが、間もなく朝鮮戦争の勃発による特需で息を吹き返す。ハンキンがここまで持ちこたえれば、藤森は次の構想としての自動車生産に着手し、中島飛行機の技術者を要し、世界的な自動車メーカーとして名を馳せたであろう。その後、藤森は東京で商事会社、龍雲物産を興し、証券会社やベアリング商社の顧問などをしながら、中島飛行機創業家の後見人を務める。
 知久平は各地に別邸を保有していたが、東京都目黒区駒場の旧前田邸(加賀百万石・前田公爵から知久平が購入)は、GHQに接収された後、中島の後見人の藤森の尽力により、調達庁から中島家に返還されるが、中島飛行機のメインバンクの日本興業銀行が横やりを入れ、担保を名目に訴訟を起こし所有権を主張する。ここで藤森は、頭取・中山素平を相手に一歩も引かず、裁判で勝利を収め、興銀の金庫を差し押さえる離れ業をやってのける。この後、藤森は、中島家に戻った前田邸を、文化財としても貴重な洋館・和館・庭園を後世に残すべく、東京都に全て売却し、都は、庭園を保存しながら公園とし、洋館・和館を一般に開放し、敷地内に東京都近代美術館を建設した。
 海軍兵学校第54期の御下賜品拝受者には、大石宗次、藤森正巳、中山定義、中島親孝の4名がいる。大石は秋山眞之の愛娘と結婚し、娘の大石尚子は民主党衆議院議員(神奈川4区)として活躍した後、2007年の参議院選挙比例代表で立候補するも落選したが、その後、繰り上げ当選した。平成24年1月没。
また、皇族の山階宮萩麿王、山本五十六大将と共にブーゲンビル島上空で米軍機に乗機が撃墜され戦死した室井捨治、5.15事件に連座した三上卓、黒岩勇が同期にいる。

 参考 『海こそなけれ』(諏訪海軍史刊行会)

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消えた軍艦『畝傍』
 巡洋艦『畝傍』(3,615d)は、明治19年10月18日仏での竣工を終え日本への回航中、台湾海峡で飯牟礼俊位大尉ら乗組員ともども忽然とその姿を消してしまった。軍艦の行方不明は日本海軍史上、後にも先にも『畝傍』のみである。今もって、原因は分かっていない。

 影も形も残さない鋼鉄製巡洋艦『畝傍』は、ミステリーとして謎を呼び、矢野龍渓の小説『浮城物語』の題材ともなった。日露戦争の際は、『畝傍』が塗り替えられバルチック艦隊の一員になっているとの噂まで飛び交った。

 『畝傍』の行方不明により、日本政府は代金の支払い義務は無くなったが、仏側は保険金により水雷砲艦『千島』を建造し日本に引き渡し,代金の回収を図った。しかし、『千島』もまた明治25年11月30日深夜、瀬戸内海で英国商船と衝突し沈没してしまう。

 外国で建造された軍艦を日本に回航する場合、従来は外国人の手によってされていた。明治11年英国で建造された『扶桑』『金剛』『比叡』も例外ではなかった。しかし、『畝傍』と同時期に英国で建造された『浪速』『高千穂』も、士官から水兵までの乗組員全員が日本から派遣され、艤装中から見学をしながら引渡を受け、日本へ回航された。

 海軍卿川村純義により『浪速』の艦長は伊東祐亨大佐、副長に山本権兵衛少佐が人選された。伊東ら一行は欧米の軍事調査を兼ね米国経由で英国のアームストロング社製の高速巡洋艦『浪速』の速力試験に立ち会った。日本への回航の乗組員には、分隊長坂元八郎太、三須宗太郎、川村正助の三中尉、砲術長細谷資氏、水雷長餅原平二に替わり英国留学中の伊集院五郎、航海長出羽重遠中尉、北古賀竹一郎次席中尉、乗組少尉吉松茂太郎、坂本一、竹内平太郎、井上保の四名、機関長湯地定監大機関士といった蒼々たるメンバーであった。

 山本権兵衛は『浪速』回航を機に、日本海軍の改良を企てた。当時の海軍軍人の食事は米中心の日本食で、乗組員は脚気が職業病となっていた。山本は、英国海軍に倣って乗組員全員にパン食を命じ励行させた。また、軍艦内の厨房を改良するため、英国人コック長とコックを雇い入れ、航海中の乗組員を西洋食に慣れさせ、そのままコック長を横須賀鎮守府に雇い、海軍に西洋食を取り入れた。後の横須賀鎮守府長官東郷平八郎は英国留学中のシチューの味を懐かしんで、、ワインと牛肉の替わりに醤油、砂糖と豚肉で日本風シチューをコックに作らせた。これが日本人の家庭の味「肉じゃが」として今でも親しまれている。

 評論家・長野龍雲論文

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