閑話休題

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☆甦る「幻のフィルム」

 当サイトで以前取り上げた、反戦映画監督として知られる亀井文夫氏の原作「制空」(電通映画社制作)が、慶応大学と台湾関係者などにより、60年後、多くの人々の目に触れることになりそうだ。
 「制空」は、零戦や隼などの戦闘機の製造で世界的な航空機メーカーとして知られる中島飛行機の幹部の遺族により、東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈されたものだ。
 その存在は、一般的には全く知られておらず、40数年を経て、亀井文夫論に一石を投じ、映画関係者に衝撃を与えた。その後、フィルムセンターや各地のドキュメンタリー映画祭などで上映されてきた。
 今、ドキュメンタリー作品「緑の海平線」のなかで、重要なファクターとして「制空」が60年の歳月を経て甦る。

参考:「中島飛行機と幻のフィルム」



☆工藤俊作と知られざる武士道精神

 
 工藤俊作は、明治34年1月7日に山形県の高畠町(現在)に生まれ、米沢藩主上杉鷹山によって設立された「興譲館」の流れを汲む、興譲館中学に進む。ここで、兵学校進路指導担当の我妻又次郎(法学者我妻栄の実父)の薫陶を受ける。我妻は、自ら兵学校を受験するも、視力検査で不合格になり進路を変更した。我妻は、英語の授業中、工藤に盛んに英語で質問を浴びせ、真夏でも、工藤が少しでも襟元を緩ませると「服装を乱すな、これでも海軍士官になれるのか」と、容赦なく叱った。工藤は、中学時代からすでに我妻を通して、兵学校教育の訓練を受けていたと言えよう。

 海軍兵学校(51期)に入校した工藤は、3人の校長の指導を受けている。その内の1人が、後の終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎である。鈴木の教育方針は「武士道」であった。昭和20年4月7日、終戦工作を期待され組閣した鈴木は、5日後に米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトが急逝すると、同盟通信を通じてその死を悼む談話を発表した。これを伝え聞いたノーベル文学賞受賞作家トーマス・マンは、鈴木のこの行為を「東洋の騎士道を見よ」と絶賛し賞賛した。

 工藤俊作少佐(当時)は、駆逐艦「雷(いかづち・1680トン)」の艦長としてジャワ沖海戦でその武士道精神を発揮することになる。昭和17年3月、英駆逐艦「エンカウンター」巡洋艦「エクゼター」二隻は、日本海軍に撃沈され、乗員約460人は24時間、漂流を続けていた。工藤は、報告を受けるや否や、戦闘海域にもかかわらず、迷うことなく「救助!」の命令を発し、救難活動中の国際信号旗をマストに掲げた。救助されたサムエル・フォール少尉(当時・後に駐スウェーデン大使)は「英海軍将兵は生存の限界に達し、軍医は自決用の劇薬を全員に配布していた。突然200ヤード(約180㍍)の所に日本の“駆逐艦”が現れた。当初、私は幻ではないかとと思い、わが目を疑った、そして、『日本人は野蛮人』との先入観から銃撃を受けるのではないかと恐怖を覚えた」後に語っている。

 220人乗りの「雷」は426人を救助した。日本側水兵の差し出す救助の竹竿に掴まりながらも、力つきて水没した英将兵も多数いた。見かねて、命令を無視し、自ら海に飛び込み救助する日本水兵もいた。この情景を見て、工藤は「重傷者は起重機と網でつり上げろ」と命令した。「雷」艦上は英将兵で一杯となったが、日本水兵は重油と汚物にまみれた英将兵の体を貴重なアルコールや真水で洗い、ウェスで拭き取り、着替えも用意した。艦上に天幕を張り、日よけにも気を配った。このため、一番砲は使えなくなった。工藤は、英国海軍士官を前に「諸君は勇敢に戦われた。今や日本海軍のゲストである。英国海軍に敬意を表する」と流暢な英語で語った。
 翌日、英国捕虜426名は、ボルネオ島パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡された。「エクゼター」の副長以下重傷者は、タンカーで移乗された。工藤は、負傷し横たわる「エクゼター」の副長をいたわり、「雷」艦内では当番兵に身の回りの世話をさせた。別れ際、「エクゼター」副長は、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明した。

 工藤は戦後、この事実を語ることはなかった。親族はもちろん工藤の夫人ですらこの事実を知らなかった。「サイレント・ネービー」の発露であろう。工藤が艦長を退任したのち「雷」は、西太平洋で米潜水艦の攻撃により、乗員約260人を乗せたまま沈没した。この悲劇が、工藤をして英兵救助劇の事実を封印させたのかもしれない。

 工藤は、終戦後自衛隊や大企業の招きにも一切応じることもなく、病院の事務の仕事をするなどして生計を立て、毎朝、戦死した部下や仲間の冥福を祈り仏前で合掌することを日課とした。享年78歳。

参考 『海の武士道』(産経新聞出版)
    『産経新聞』(平成17年9月11日付け)

「海の武士道」関連書籍



☆次室士官心得 抄


第一 艦内生活一般心得

次室士官ハ一艦軍規風紀ノ根元、士気元気ノ源泉タルコトヲ自覚シ、青年ノ特徴元気ト熱、純心サヲ忘レズニ大イニヤレ。

士官トシテノ品位ヲ常二保チ、高潔ナレ。自已ノ修養ハ勿論、厳正ナル態度動作二心懸ケ、巧利打算ヲ脱却シテ清廉潔白ナル気品ヲ養フ事ハ武人ノ最モ大切ナル修養ナリ。

宏量大度精神爽快ナルベシ。狭量ハ軍隊ノ一致ヲ破リ、陰欝ハ士気ヲ沮喪セシム。急ガシイ艦務ノ中二延ビ延ビシタ気分ヲ決シテ忘レルナ。細心ナルハ勿論必要ナルモ「コセコセ」スル事ハ禁物ナリ。

少シ艦務二習熟シ己ガカ量二自信ヲ持ツ頃トナルト、先輩ノ思慮円熟ナルガ却テ愚ト見ユル時来ルコトアルベシ。是即慢心ノ危機二臨ミタルナリ。此慢心ヲ断絶セズ増長二任シ、人ヲ侮リ自ラ軽ンズル時ハ、技術学芸共二退歩シ、終ニハ陋劣ノ小
人タルニ終ルベシ。

オズオズシテ居テハ何モ出来ヌ。図々シイノモ不可ナルモ、サリトテオズオズスルノハ尚見苦シイ。信ズル処ヲハキハキ行ツテ行クノハ我々二取リ最モ必要デアル。

「事件即決」ノ「モットー」ヲ以テ物事ノ処理二心懸クベシ。「明日ヤラウ」ト思フテヰルト、結局何モヤラズニ沢山ノ仕事ヲ残シ、仕事二追ハレル様ニナル。要スルニ仕事ヲ「リード」セヨ。

「シーマンライク」ノ修業ヲ必要トス。動作ハ「スマート」ナレ。一分一秒ノ差ガ結果二大影響ヲ与フルコト多シ。

手帳「パイプ」ハ常二持ツテ居レ。之ヲ自分二最モ便利ヨキ如クエ夫スルトヨイ。

何ニツケテモ分相応ト言フ事ヲ忘レルナ。次室士官ハ次室士官トシテ、候補生ハ侯補生トシテ、少尉中尉各分アリ。

機動艇ハ勿論、汽車電車ノ中、講話場二於テ上級者ガ来ラレタナラバ直チニ立ツテ席ヲ譲レ。知ラヌ顔シテイヰルノハ最モ不可。

出入港ノ際ハ必ズ受持ノ場所二居ル様ニセヨ。出港用意ノ号音二驚イテ飛出ス様デハ心掛ガ悪イ。

諸整列ガ予メ分ツテヰル時、次室士官ハ下土官兵ヨリ先二其ノ場所二在ル如クセヨ。

何力変ツタ事ガ起ツタ時、或ハ何トナク変ツタ事ガ起ツタラシイト思ハレル時ハ、昼夜ヲ問ハズ第一番二飛出シテ見ヨ。

短艇二乗ル時ハ、上ノ人ヨリ遅レヌ様二早クカラ乗ツテ居ルコト。若シ遅レテ乗ル様ナ場合ニハ、「失礼致シマシタ」ト上ノ人二断ラネバナラヌ。自分ノ用意ガ遅レテ定期ヲ待タス如キハ以テノ外デアル。カカル時ハ断然ヤメテ次ヲ待ツベシ。短艇ヨリ上ル場合ニハ、上長ヲ先ニスルコト言フマデモナシ。同ジ次室士官内デモ先任者ヲ先ニセヨ。

舷門ハ一艦ノ玄関ロナリ。其ノ出入二際シテハ、服装ヲ整へ番兵ノ職権ヲ尊重セヨ。雨天デナイ時、雨衣ヤ引廻ヲ着タママ出入シタリ、答礼ヲ欠クモノ往々アリ注意セヨ。


第二 次室ノ生活二就キテ


我ヲ張ルナ。自分ノ主張ガ問違ツテヰルト気付ケバ、片意地ヲ張ラズアツサリト改メヨ。我ヲ張ル人ガ一人デモヲルト次室ノ空気ハ破壌サレル。

朝起キタナラバ直チニ挨拶セヨ。之ガ室内ニ明ルキ空気ヲ漂ハス第一誘因ダ。

食事ニ関シテ、人ニ不愉快ナ感ジヲ抱カシメル如キ言語ヲ慎メ。例ヘバ人ガ黙ツテ食事ヲシテヲル時、調理ガ不味イト言ツテ割烹ヲ呼付ケ責ルガ如キハ遠慮セヨ。又会話ナドニハ精練サレタ話題ヲ選べ。

次室内ニ一人シカメ面ヲシテフクレテヰルモノガアルト、次室全体ニ暗イ影ガ出来ル。一人愉快ナ朗ラカナ人ガヰルト、次室内ガ明ルクナル。

暑イ時公室内デ仕事ヲスルノニ、上衣ヲトル位ハ差支ナイガ、シャツマデ脱イデ裸ニナル如キハ甚ダシキ不作法デアル。

食事ノ時ハ必ズ軍装ヲ着スベシ。事業服ノママ食卓ニ付イテハナラヌ。忙ガシイ時ニハ上衣ダケデモ軍装ニ着換ヘテ食事ニ就クコトニナツテ居ル。

次室内ニ於ケル、言語ニ於テモ気品ヲ失フナ。他ノ人ニ不快ナ念ヲ生ゼシムベキ行為風態ヲナサズ、又下士官兵考課表等二関スルコトヲ軽々シクロニスルナ。不仕鱈ナコトモ人秘二属スルコトモ、従兵ヲ介シテ兵員室二伝ワリ勝ノモノデアル。士官ノ威信モナニモアツタモノデナイ。

趣味トシテ碁ヤ将棋ハ悪クナイガ、之二熱中スルト兎角尻ガ重クナリ易イ。趣味ト公務ハハツキリ区別ヲツケテ、決シテ公務ヲ疎ニスル様ナコトガアツテハナラヌ。

オ互二他ノ立場ヲ考ヘテヤレ。自分ノ忙シイ最中二仕事ノナイ人ガ寝テ居ルノヲ見ルト非難シタイ様ナ感情ガ起ルモノダガ、度量ヲ宏ク持ツテ夫々ノ人ノ立場二理解ト同情ヲ持ツコト肝要。

夜遅クマデ酒ヲ飲ンデ騒イダリ大声デ従兵ヲ怒鳴ツタリスルコトハ慎メ。


第三 転勤ヨリ着任迄

転勤命令二接シタナラバ、成ル可ク早ク赴任セヨ。一日モ早ク新勤務二就クコトガ肝要。退艦シタナラバ、直チニ最短時問ヲ以テ赴任セヨ。道草ヲ食フナ。

「立ツ鳥ハ後ヲ濁サズ」仕事ハ全部片附ケテ置キ、申継ハ万遺漏ナクヤレ。申継グベキ後任者ノ来ナイ時ハ、明細二申継ヲ記註シ置キ之ヲ確実二托シ置ケ。

新二着任スベキ艦ノ役務所在主要職員ノ名ハ前以テ心得置ケ。

配置ノ申継ハ実地ニアタツテ納得ノ行ク如ク確実綿密二行へ。一旦引継イダ以上ハ全責任ハ自已二移ルノダ。特二人事ノ取扱ハ引継イダ当時ガ一番危険、一通リ当ツテ見ルコトガ肝要ダ。就中叙勲ノ計算ハ成ルベク早クヤツテ置ケ。

着任シタ日ハ勿論ノコト、一週問ハ毎夜巡検二随行スル如ク心得ヨ。乗ル早々カラ「上陸御願致シマス」ナドハ以テノ外デアル。

転勤セバ成ル可ク早ク前艦ノ艦長、副長、機関長、分隊長及夫々各室二乗艦中ノ御厚意ヲ謝スル礼状ヲ出ス事ナ忘レテハナラヌ。


第四 乗艦後直チニナスベキ事項

直チニ部署内規ヲ借リ受ケ熟読シ、速カニ艦内一般二通暁セヨ。

乗艦後一月経過シタナラバ、隅々迄知悉シ、分隊員ハ勿論他分隊ト雖モ主ナル下士官ノ姓名ハ承知スル如ク心懸ケヨ。


第五 上陸二就テ

上陸ハ控へ目ニセヨ。吾人ガ艦内二在ルト言フコトガ職責ヲ尽スト言フコトノ大部分デアル。職務ヲ捨テ置イテ上陸スルコトハ以テノ外デアル。状況ニヨリ一律ニハ言ヘヌガ、分隊長ガ居ラレヌ時ハ分隊士ガ残ル様ニセヨ。

上陸スルノガ恰モ権利デァル様二「副長上陸シマス」ト言フベキデナイ。「副長上陸ヲ御願ヒシマス」ト言へ。

若イ時ニハ上陸スルヨリモ艦内ノ方ガ面白イト言フ様二ナラナケレバイカヌ。又上陸スル時ハ自分ノ仕事ヲ終ツテサツパリトシタ気分デノビノビト大二浩然ノ気ヲ養へ。

病気等デ休ンデ居タ時、癒ツタカラトテ直グ上陸スル如キハ分別ガ足ラヌ。休ンダ後ナラ仕事モ溜ツテ居ラウ、遠慮ト言フ事ガ大切ダ。


第六 部下指導二就テ

常二至誠ヲ基礎トシ、熱ト意気ヲ以テ国家保護ノ大任ヲ担当スル干城ノ築造者タルコトヲ心懸ケヨ。
「功ハ部下二譲リ部下ノ過ハ自ラ負フ」トハ西郷南洲翁ガ教ヘシ処ナリ。「先憂後楽」トハ味フベキ言デアツテ、部内統御ノ機微ナル心理モカカル所ニアル。統御者タル我々士官ハ常二此ノ心懸ガ必要デアル。石炭積等苦シイ作業ノ時ニハ士官ハ最後二帰ル様努メ、寒イ時二海水ヲ浴ビナガラ作業シタ者ニハ風呂ヤ衛生酒ノ世話迄.
シテヤレ。
部下二努メテ接近シテ下情二通ゼヨ。併シ部下二狃レシムルハ最モ不可、注意スベキデアル。

何事モ「ショートサーキット」ヲ慎メ。一時ハ便利ノ様ダガ非常ナル悪結果ヲ齎ラス。例ヘバ分隊士ヲ抜キニシテ分隊長ガ直接先任下士官二命ジタトシタラ、分隊士タル者如何ナル感ヲ生ズルカ、是レハ一例ダガ、必ラズ順序ヲ経テ命ヲ受ケ又ハ下スト言フ事ガ必要ナリ。

兵員ノ悪キ所アラバ其場デ遠慮ナク叱正セヨ。温情主義ハ絶対禁物、然シ叱責スル時ハ場所卜相手トヲ見テナセ。正直小心ノ若イ兵員ヲ厳酷ナ言葉デ叱リツケルトカ、又下土官ヲ兵員ノ前デ叱責スル等ハ百害アツテ一利ナシト知レ。

世ノ中ハ何ンデモ「ワングランス」デ評価シテハナラヌ。誰ニモ長所アリ短所アリ、長所サヘ見テヰレバドンナ人デモ悪ク見エナイ。又是レ丈ノ雅量ガ必要デアル。


第七 其ノ他一般

服装ハ端正ナレ。汚レ作業ヲ行フ場合ノ外ハ特二清潔端正ナルモノヲ用ヒヨ。帽子ガマガツテ居タリ、「カラー」ガ不揃ヒノ儘飛出シテヰタリ、靴下ガダラリト下ツテヰタリ、著シク皺ノ寄ツタ服ヲ着ケテヰルト、如何二モダラシナク見エル。其
ノ人ノ人格ヲ疑ヒ度クナル。

靴下モ余リケバケバシイノハ下品デアル。服ト靴トニ調和スル色合ノモノヲ用ヒヨ。縞ノ靴下等成ルベク履カヌコト。事業服二縞ノ靴下等以テノ外ダ。

一番目二立ツテ見エルノハ「カラー」二「カフス」ノ汚レデアル。注意セヨ。又「カフス」ノ下カラシャツノ出テ居ルノモ笑ヒモノデアル。

陸上二於テ飲食スル時ハ必ラズ一流ノ所二入レ。何処ノ軍港二於テモ、土官ノ出
入スル所ト下士官ノ出入スル所ハ確然タル区別ガアル。若シニ流以下ノ処二出入シ
テ飲食又酒ノ上デ士官タルノ態度ヲ失シ体面ヲ汚ス様ナコトガアツタラ、一般士官
ノ体面二関スル重大ナ事ダ。

汽車ハニ等二乗レ。金銭二対シテハ恬淡ナレ。節約ハ勿論ダガ、吝二陥ラヌ様注
意肝心。

常二慎独ヲ「モツトー」ニシテ進ミ度キモノデアル。是非弁別ノ判断二迷ヒ自分ヲ忘却セルカノ如キ振舞ハ吾人ノ与セザル所デアル。

参考 『高松宮と海軍』(中公文庫)

「海軍兵学校」関連書籍





☆米国の報道管制


 昭和17年6月4日のミイドウェー海戦に、米海軍は従軍記者を同道させなかったが、シカゴ・トリビューンのジョンストンは、国民にその大勝利を伝えるべく、乗組員への取材をもとに海戦の記事を掲載する。しかし、ジョンストンは、海軍省に尋問され、本人の行動がスパイ活動防止法違反にあたるかどうかの調査がなされた。結果、起訴はされなかったが、ジョンストンは「スパイ容疑」のレッテルを貼られ、従軍記者として活躍する場を剥奪されてしまった。ジョンストンが米海軍のスパイ容疑で調査した事実を知るのは戦後になってからであった。米海軍は、日本側の暗号を解読しており、ジョンストンの記事が余りにも正確であり、このことを日本側に知られることを恐れたためであった。

 日本海軍による真珠湾攻撃による米海軍の損害は、戦艦5隻沈没・3隻損傷、巡洋艦と駆逐艦各3隻が大破、飛行機200機が破壊、2,344人の兵員が死亡した。日本は、これらの米国に与えた損害を正確に把握していた。しかし、米国の最初の発表では、旧式戦艦と駆逐艦各1隻が撃沈され、他にも被害を受けたが、日本側の被害がより甚大であるというものであった。昭和17年12月6日に新たに発表された米側の内容は、5隻の戦艦が「沈み、あるいは損傷を受けた」というものであり、5隻の具体的状況は明らかにされなかった。昭和41年に発表された「マッカーサー将軍報告」でも被害が8隻となるも「撃沈または損害」という表現に止まっている。真珠湾の被害を、報道管制により自国民に正確に知らしめなかったことは、当時の言論報道の自由な「民主国家」米国と言えども、戦時下でもあり、やむを得ないと言えよう。その被害よりも、日本の「奇襲」と「卑劣」さを強調することにより、国民の戦意高揚に「真珠湾」を逆利用したと言えよう。

 米国では憲法により表現の自由が保障されていたが、戦時下では検閲がなされ、報道機関だけでなく、一般個人の手紙、電報、電話までが対象とされた。全ては、連合軍を危険におとしめる情報を敵に与えないとの大義名分によるものであった。

参考 『戦争報道の内幕』





☆『昭和天皇の艦長 沖縄出身提督 漢那憲和の生涯』

 『昭和天皇の艦長』を恵隆之介が昭和60年に自費出版した際、昭和天皇が台覧され、その後、平成19年に「文芸春秋」10月号で、阿川弘之により天皇が晩年に愛読されていたことが紹介され話題となり、本書が昨秋、新たに発行された。

 昭和天皇は、漢那憲和が皇太子時代に欧州を外遊した時の御召艦「香取」の艦長を務めたことから、漢那の見識の高さに惹かれたのかもしれない。本書は、海軍予備役編入後、政界へ進出し、引退後もマッカーサーに沖縄返還の嘆願書を提出するなど、生涯沖縄に尽くした沖縄出身の漢那の生涯を辿りながら、沖縄出身の著者は、沖縄や海軍兵学校と海軍の状況などもリアルに描いている。


産経新聞出版






☆大震災に見るリーダー


 東北大震災により、筆舌に尽くせない甚大な被害を受けた東北各地では、今なお15000人を超える行方不明者の捜索が続けられている。 しかし、被災者への支援の手も世界から差しのべられている。人的・物的損害により壊滅的打撃を受けた自治体は、行方不明者の確認もできない状態にあるが、被災者の受け入れなど、被災地以外の自治体の協力もある。

 政府は、速やかに「復興計画」を打ち出し、行方不明者の捜索とともに瓦礫の撤去をすすめ、インフラ整備を復興計画を作成し、パフォーマンスのための会議をむやみにつくり、時間を浪費するのはやめ直ちに実行に移すべきだ。津波被害地の土地は、全て国が買い上げ、代替地に町ぐるみ移転し、住居は高台に建設させる。被災地失業者は期間を設け、国家公務員とし、復旧・復興事業に従事させ、給与を補償する。事業者には、当座資金を貸し付け倒産防止と雇用を維持する。これらを、実現するための法案を直ちに作成し、国会の承認を得るべきである。

今回の震災は地震、津波の自然災害に加え、人災とも言うべき福島原発が、早急な復旧・復興に大きな足かせとなっている。半径30キロと放射線の基準値を超える地域の土地を政府が買い上げる。農業、漁業、畜産業、企業などの補償は、昨年度売り上げ実績をベースに10年間補償する。東京電力は、どんなことをしても責を負うのが当然である。

 今、わが国に求めれているのは、強力なリーダーシップを持った総理大臣である。大震災を利用して「大連立」を目論見、自らの延命に利用するがごとき姿勢は、被災者を愚弄することである。政府と与党が責任を持ち、この国難を乗り切る策を打ち出し、実行すべきである。「大連立」は、戦前の大政翼賛会であり、無責任の極まりない。実行できないのであれば、野に下るべきだ。

 北茨城市の豊田稔市長を見よ。放射能汚染された海のため、漁に出られない漁民30人を市の職員として雇用すると発表した。職を失った市民に、市長が手を差しのべたのである。市長は「菅総理に直にお話ししたいことがある」と言っているそうだ。この市長が、菅総理に何を言いたいのかは、言わずもがなである。今の政権は、本当に国民のための政治を行っているのか。

 各地の小中高大学が、被災地の生徒・学生の受け入れをしている。東京都の品川区にある清泉女子大学(門野 泉学長)は、大震災で被災した学生を、学費免除で人数制限なしで受け入れることを決めた。女子大でありながら男子学生も受け入れるという懐の広さである。文部科学省も「聞いたことがない」異例の措置である。期間は、1年間だが、学籍を元の大学に置いたまま授業を受け、学内施設も利用でき、試験に合格すれば証明書が発行され、元の大学での単位に充当できる。非常時には、国民のためになるのであれば、行政も超法規的措置を取るべきである。門野学長は女性であるが、「武士道精神」を発揮したと言える。

 一方。東京電力の社長は、体調不良で雲隠れし、そのまま入院した。即刻、役員会を開催し、社長を更迭すべきだ。原発安全神話を作り上げてきた東電は、無責任としか言いようがない。福島原発の津波に対する危険性は以前から言われていたが、全く対策を講じてこなかった東電と国の責任は重大である。津波の規模は「想定外」ではなく、東電が「想定しなかった」のである。官僚主義の蔓延した国策会社の悪しき面が一挙に噴出し、危機意識のないリーダー達は為すすべもない、体たらくの状態である。放射能の心配のない距離から現場を指揮する東電のリーダ-たちは、日露戦争の「203高地」攻略に、砲弾の飛来しない安全な距離から指揮した陸軍首脳部たちとダブって見えるのは、小生のやぶにらみか。(2011.4.9)

寄稿 長野龍雲





☆緑の連隊長 吉松喜三陸軍大佐


 戦争相手国から”感謝状”をもらった将校は、後にも先にも、この人以外にいない。吉松喜三陸軍大佐が、その人である。戦後、忌まわしい事件や悲惨な事実が明らかになる中、吉松大佐の「善行」は微笑ましいばかりでなく、驚きでもある。 吉松は、機動歩兵第三連隊の連隊長として中国を転戦した。この連隊は、戦車師団のうちで唯一の機械化歩兵であった。仮称が「あ」隊のため、戦車や装甲車に「あ」の記号が記された。

 吉松は、負傷し野戦病院に入院中、二階の病室の窓辺から見える煉瓦造りの洋館に茂る緑の木々を目にした。吉松が見た、銃弾が飛び交う野戦病院からのその光景は、不思議だった。一方、「・・・緑の庭をもち、やわらかな畳に育てられた日本人が、今は昼も夜も、黄色の土と石ころの家に住んで、泥濘の池や河水で朝夕の飯を炊く。そして、絶えざる戦闘と警備になれば、大陸にまれにしかない緑の立木を容赦なく伐り倒し、根こそぎにし、橋に使い、遮断に用い、戦いが終われば炊飯や採暖の薪として、惜しげもなく燃やしてしまう。日本軍の通ったあとは一物も残っていない。中国人たちは日本軍を東洋鬼とよび、恐れおびえている」のが現状であった。

 戦闘の後には荒涼とした大地が残り、将兵の心は殺伐として行く。中佐として赴任してきた吉松は、将兵間の荒んだ空気を察すると、すぐさま命令を布告する。それは、各隊が向こう3ヶ月間、競争して戦地に植樹をすることだった。「今度の連隊長は植木屋のせがれか」と揶揄する者もいたが、軍隊の命令は絶対である。部下たちは、上官の命令を不可解に思いながらも、過酷な中国大陸の風土と自然を相手に、悪戦苦闘しながら植樹を続けて行く。

 包頭では、市民のために、今までなかった公園や動物園をつくった。日本内地から送られてきた桜やポプラの木々でつくった並木は、現地の中国人の憩いの場になるとともに、将兵たちも日本と変わらぬ風景に心を癒された。

 破壊だけが戦争ではない。吉松は、現実を憂い、戦闘に明け暮れ荒んだ将兵の心を和ませるために、植樹を続ける。木々の緑を目にして怒る者はいない。過酷な戦場にあっても、将兵たちは一本一本丹精を込めて植樹した。必然的に、そうした木々に優しさや愛情が沸く。戦場にあっても、人間の心を失ってはいけない。そのことを、吉松は植樹を通じて部下たちに教えたかったのであろう。転戦しながら、そのあとには、必ず植樹をした。戦闘を休むことがあっても、植樹を一日たりとも休むことはなかった。こうして、終戦後まもなく吉松は、中国共産党軍から”感謝状”を受け取ることとなる。

 戦後、吉松は久留米市の建設事務所で、噴射ポンプの修理工として働く。その後、戦死者の遺族の調査をしながら、慰霊祭を執り行い、靖國神社の境内に桜の木2本を植えた。これがきっかけとなり、戦没者の霊をなぐさめるために、境内にある銀杏の実から苗木を育て、遺族に送ることを考えた。吉松は「・・・もしやこの銀杏の実や苗を、ふるさとの土地で育ててもらったら、これこそ遺骨の奉還になるのではないか・・・どんなに戦が惨烈をきわめても、部下の骨を拾って遺族にお渡しするのは、指揮官としての私の義務ではなかったろうか・・・こんな風に考えてまいりますと、不意に、希望と光明がどこからともなく湧いてきましてね・・・」と語っていた。神社の好意により、境内の一角を借り、吉松は、日課として拾い集めた銀杏の実を植え、育て続けた。次第に、銀杏だけでなく、桜、とち、楓なども手がけた。

 吉松が植えた木々や、遺族に渡され植えられた木々の豊かな緑は、いまも、中国や日本全国で、目にする人々の心を癒し続けている。
 昭和60年、90歳で没。

参考 『完本・列伝 太平洋戦争』(PHP文庫)





☆海軍と”脚気”

 明治15年、海軍兵学校練習航海で、「龍驤」に大量の”脚気”患者が発生し、航行不能となる事態が起きた。これを契機に、米と魚中心の食事による兵士の”脚気”対策として、「洋食」にシフトした。また、西欧スタンダードの艦艇や兵器を運用するためにも、それ相当の身長と体格が求められた。”脚気”対策と体位向上のために採られた措置である。

 海軍経験者は、「洋食」という日本独自の文化とも言うべき西洋料理を、国民の間に定着、普及させた。和風ビーフシチューの「肉じゃが」をはじめに、「ライスカレー」「オムライス」「コロッケ」「チキンライス」など枚挙に暇がない。「カツレツ」はフランス語の「コトレット」、「コロッケ」は「クロケット」が訛ったものである。「ラムネ」は「レモネード」が語源だ。

 「海軍グルメ」と言われる西洋料理も、導入当初の評判は芳しくなかった。海軍に入れば1日3回、白米の食事が賄われるというのが、当時の世相であった。このため、大方の将兵は失望した。パン食は、おやつ感覚であった。明治23年には軍艦「海門」で米飯廃止反対のストライキまで発生した。食べ物の恨みは恐ろしいと言わざるを得ない。長い航海での食事は、将兵の最大の楽しみでもあったことが窺われる。

 明治初期の副食は白米と塩漬け牛肉であった。冷蔵設備のない当時、軍艦によっては新鮮な肉や牛乳を「保存」する手段として、甲板に牛小屋や鶏小屋を設置し飼育した。その後、缶詰技術の向上により、「牛缶」、「鮭缶」、各種野菜の缶詰などが使用された。

 ”脚気”対策を食事改善により対処したのが海軍軍医総監高木兼寛であった。一方、陸軍軍医の森林太郎(鴎外)は、日本食は栄養的に劣ることはないとして米飯継続を主張した。当初、高木の主張は受け入れられなかったが、徐々に理解され、陸軍でも一部部隊では、麦飯に切り替えられた。しかし、高木の”脚気”「栄養説」に対し、東大医学部や陸軍の「細菌説」が陸軍中枢を支配し、陸軍は日清、日露戦争でも白米を前線に送り続けた。このため、日清戦争では戦死者1270名に対し、”脚気”による死者が3944名。日露戦争では、211,600余名が”脚気”かかり、27,800余名が死亡した。

参考 『海軍グルメ物語』(新人物文庫)
 




 ☆海軍士官として心掛くべき主なモットー

1 頭よりも艦を早く走らすな

2 海の上には待ったなし

3 青年士官は青天井
   Always on deck

4 腕よりも経験よりもまず見張り

5 同じ航路も初航海

6 カームに衝突 月夜に坐礁

7 靴の裏金 事故のもと

8 私情を捨てよ舷梯で

9 多少の貯え 身だしなみ

10 重い物は下に積め

11  一寸待て やって良い事 悪い事

12 天気は西から

13 艦で真水は貴重品

14 左警戒 右見張れ

15 モラルの根源「士官室」元気の根源「ガンルーム」

16 捨てるものはスカッパーへ

17 タラップは駆け足で

18 外舷外に手を出すな

19 メモは手ばなすな

20 海上で編上靴は禁物

21 言訳するな

22 ユーモアは一服の清涼剤

23 艦内で口笛を吹くな

24 行動を起すところが思案点

25 五分前にはスタンバイ

26 風に立て

27 不関旗は最後の切り札(みだりに使うな)

28 もう一歩 捧げ銃 帽振れ(トイレットマナー)

29 砲声に赴け

30 将は人の「司令」なり

31 個艦戦力の最大発揮

32 走錨を警戒せよ
 
33 艦位は常に明確に
 
34 板子一枚下地獄

35 戦機に投ぜよ

36 ダロウに手を打つな

37 訓練には比率も制限もなし

38 わが全力で敵の分力を撃て

39 海戦は時計で闘うもの

40 攻撃終末点を適確に掴め

41 グレートホーサー(主舫索)のエンドをとって、さらにそのエンドをつまめ
 
42 『ダラリ』(ムダ、ムラ、ムリ)追放
 
43 一艦一命主義

44 整備旗一旈

45 勝つと思うな負けじと思え

46 寝ていて人を起すべからず 起きて人を起さざるべからず

47 靴のカカトをよく磨け

48 旗艦先頭単縦陣

49 死中求活沈毅快心

50 ボヤボヤするな