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『昭和天皇の艦長』 | 大震災に見るリーダー | 緑の連隊長吉松喜三陸軍大佐 | 海軍と脚気 |
海軍士官モットー | |||
当サイトで以前取り上げた、反戦映画監督として知られる亀井文夫氏の原作「制空」(電通映画社制作)が、慶応大学と台湾関係者などにより、60年後、多くの人々の目に触れることになりそうだ。 |
☆工藤俊作と知られざる武士道精神工藤俊作は、明治34年1月7日に山形県の高畠町(現在)に生まれ、米沢藩主上杉鷹山によって設立された「興譲館」の流れを汲む、興譲館中学に進む。ここで、兵学校進路指導担当の我妻又次郎(法学者我妻栄の実父)の薫陶を受ける。我妻は、自ら兵学校を受験するも、視力検査で不合格になり進路を変更した。我妻は、英語の授業中、工藤に盛んに英語で質問を浴びせ、真夏でも、工藤が少しでも襟元を緩ませると「服装を乱すな、これでも海軍士官になれるのか」と、容赦なく叱った。工藤は、中学時代からすでに我妻を通して、兵学校教育の訓練を受けていたと言えよう。 海軍兵学校(51期)に入校した工藤は、3人の校長の指導を受けている。その内の1人が、後の終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎である。鈴木の教育方針は「武士道」であった。昭和20年4月7日、終戦工作を期待され組閣した鈴木は、5日後に米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトが急逝すると、同盟通信を通じてその死を悼む談話を発表した。これを伝え聞いたノーベル文学賞受賞作家トーマス・マンは、鈴木のこの行為を「東洋の騎士道を見よ」と絶賛し賞賛した。 工藤俊作少佐(当時)は、駆逐艦「雷(いかづち・1680トン)」の艦長としてジャワ沖海戦でその武士道精神を発揮することになる。昭和17年3月、英駆逐艦「エンカウンター」巡洋艦「エクゼター」二隻は、日本海軍に撃沈され、乗員約460人は24時間、漂流を続けていた。工藤は、報告を受けるや否や、戦闘海域にもかかわらず、迷うことなく「救助!」の命令を発し、救難活動中の国際信号旗をマストに掲げた。救助されたサムエル・フォール少尉(当時・後に駐スウェーデン大使)は「英海軍将兵は生存の限界に達し、軍医は自決用の劇薬を全員に配布していた。突然200ヤード(約180㍍)の所に日本の“駆逐艦”が現れた。当初、私は幻ではないかとと思い、わが目を疑った、そして、『日本人は野蛮人』との先入観から銃撃を受けるのではないかと恐怖を覚えた」後に語っている。 220人乗りの「雷」は426人を救助した。日本側水兵の差し出す救助の竹竿に掴まりながらも、力つきて水没した英将兵も多数いた。見かねて、命令を無視し、自ら海に飛び込み救助する日本水兵もいた。この情景を見て、工藤は「重傷者は起重機と網でつり上げろ」と命令した。「雷」艦上は英将兵で一杯となったが、日本水兵は重油と汚物にまみれた英将兵の体を貴重なアルコールや真水で洗い、ウェスで拭き取り、着替えも用意した。艦上に天幕を張り、日よけにも気を配った。このため、一番砲は使えなくなった。工藤は、英国海軍士官を前に「諸君は勇敢に戦われた。今や日本海軍のゲストである。英国海軍に敬意を表する」と流暢な英語で語った。 翌日、英国捕虜426名は、ボルネオ島パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡された。「エクゼター」の副長以下重傷者は、タンカーで移乗された。工藤は、負傷し横たわる「エクゼター」の副長をいたわり、「雷」艦内では当番兵に身の回りの世話をさせた。別れ際、「エクゼター」副長は、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明した。 工藤は戦後、この事実を語ることはなかった。親族はもちろん工藤の夫人ですらこの事実を知らなかった。「サイレント・ネービー」の発露であろう。工藤が艦長を退任したのち「雷」は、西太平洋で米潜水艦の攻撃により、乗員約260人を乗せたまま沈没した。この悲劇が、工藤をして英兵救助劇の事実を封印させたのかもしれない。 工藤は、終戦後自衛隊や大企業の招きにも一切応じることもなく、病院の事務の仕事をするなどして生計を立て、毎朝、戦死した部下や仲間の冥福を祈り仏前で合掌することを日課とした。享年78歳。 参考 『海の武士道』(産経新聞出版) 『産経新聞』(平成17年9月11日付け) 「海の武士道」関連書籍 |
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☆米国の報道管制昭和17年6月4日のミイドウェー海戦に、米海軍は従軍記者を同道させなかったが、シカゴ・トリビューンのジョンストンは、国民にその大勝利を伝えるべく、乗組員への取材をもとに海戦の記事を掲載する。しかし、ジョンストンは、海軍省に尋問され、本人の行動がスパイ活動防止法違反にあたるかどうかの調査がなされた。結果、起訴はされなかったが、ジョンストンは「スパイ容疑」のレッテルを貼られ、従軍記者として活躍する場を剥奪されてしまった。ジョンストンが米海軍のスパイ容疑で調査した事実を知るのは戦後になってからであった。米海軍は、日本側の暗号を解読しており、ジョンストンの記事が余りにも正確であり、このことを日本側に知られることを恐れたためであった。 日本海軍による真珠湾攻撃による米海軍の損害は、戦艦5隻沈没・3隻損傷、巡洋艦と駆逐艦各3隻が大破、飛行機200機が破壊、2,344人の兵員が死亡した。日本は、これらの米国に与えた損害を正確に把握していた。しかし、米国の最初の発表では、旧式戦艦と駆逐艦各1隻が撃沈され、他にも被害を受けたが、日本側の被害がより甚大であるというものであった。昭和17年12月6日に新たに発表された米側の内容は、5隻の戦艦が「沈み、あるいは損傷を受けた」というものであり、5隻の具体的状況は明らかにされなかった。昭和41年に発表された「マッカーサー将軍報告」でも被害が8隻となるも「撃沈または損害」という表現に止まっている。真珠湾の被害を、報道管制により自国民に正確に知らしめなかったことは、当時の言論報道の自由な「民主国家」米国と言えども、戦時下でもあり、やむを得ないと言えよう。その被害よりも、日本の「奇襲」と「卑劣」さを強調することにより、国民の戦意高揚に「真珠湾」を逆利用したと言えよう。 米国では憲法により表現の自由が保障されていたが、戦時下では検閲がなされ、報道機関だけでなく、一般個人の手紙、電報、電話までが対象とされた。全ては、連合軍を危険におとしめる情報を敵に与えないとの大義名分によるものであった。 参考 『戦争報道の内幕』 |
☆『昭和天皇の艦長 沖縄出身提督 漢那憲和の生涯』 『昭和天皇の艦長』を恵隆之介が昭和60年に自費出版した際、昭和天皇が台覧され、その後、平成19年に「文芸春秋」10月号で、阿川弘之により天皇が晩年に愛読されていたことが紹介され話題となり、本書が昨秋、新たに発行された。 |
☆大震災に見るリーダー 東北大震災により、筆舌に尽くせない甚大な被害を受けた東北各地では、今なお15000人を超える行方不明者の捜索が続けられている。 しかし、被災者への支援の手も世界から差しのべられている。人的・物的損害により壊滅的打撃を受けた自治体は、行方不明者の確認もできない状態にあるが、被災者の受け入れなど、被災地以外の自治体の協力もある。 政府は、速やかに「復興計画」を打ち出し、行方不明者の捜索とともに瓦礫の撤去をすすめ、インフラ整備を復興計画を作成し、パフォーマンスのための会議をむやみにつくり、時間を浪費するのはやめ直ちに実行に移すべきだ。津波被害地の土地は、全て国が買い上げ、代替地に町ぐるみ移転し、住居は高台に建設させる。被災地失業者は期間を設け、国家公務員とし、復旧・復興事業に従事させ、給与を補償する。事業者には、当座資金を貸し付け倒産防止と雇用を維持する。これらを、実現するための法案を直ちに作成し、国会の承認を得るべきである。 今回の震災は地震、津波の自然災害に加え、人災とも言うべき福島原発が、早急な復旧・復興に大きな足かせとなっている。半径30キロと放射線の基準値を超える地域の土地を政府が買い上げる。農業、漁業、畜産業、企業などの補償は、昨年度売り上げ実績をベースに10年間補償する。東京電力は、どんなことをしても責を負うのが当然である。 今、わが国に求めれているのは、強力なリーダーシップを持った総理大臣である。大震災を利用して「大連立」を目論見、自らの延命に利用するがごとき姿勢は、被災者を愚弄することである。政府と与党が責任を持ち、この国難を乗り切る策を打ち出し、実行すべきである。「大連立」は、戦前の大政翼賛会であり、無責任の極まりない。実行できないのであれば、野に下るべきだ。 北茨城市の豊田稔市長を見よ。放射能汚染された海のため、漁に出られない漁民30人を市の職員として雇用すると発表した。職を失った市民に、市長が手を差しのべたのである。市長は「菅総理に直にお話ししたいことがある」と言っているそうだ。この市長が、菅総理に何を言いたいのかは、言わずもがなである。今の政権は、本当に国民のための政治を行っているのか。 各地の小中高大学が、被災地の生徒・学生の受け入れをしている。東京都の品川区にある清泉女子大学(門野 泉学長)は、大震災で被災した学生を、学費免除で人数制限なしで受け入れることを決めた。女子大でありながら男子学生も受け入れるという懐の広さである。文部科学省も「聞いたことがない」異例の措置である。期間は、1年間だが、学籍を元の大学に置いたまま授業を受け、学内施設も利用でき、試験に合格すれば証明書が発行され、元の大学での単位に充当できる。非常時には、国民のためになるのであれば、行政も超法規的措置を取るべきである。門野学長は女性であるが、「武士道精神」を発揮したと言える。 一方。東京電力の社長は、体調不良で雲隠れし、そのまま入院した。即刻、役員会を開催し、社長を更迭すべきだ。原発安全神話を作り上げてきた東電は、無責任としか言いようがない。福島原発の津波に対する危険性は以前から言われていたが、全く対策を講じてこなかった東電と国の責任は重大である。津波の規模は「想定外」ではなく、東電が「想定しなかった」のである。官僚主義の蔓延した国策会社の悪しき面が一挙に噴出し、危機意識のないリーダー達は為すすべもない、体たらくの状態である。放射能の心配のない距離から現場を指揮する東電のリーダ-たちは、日露戦争の「203高地」攻略に、砲弾の飛来しない安全な距離から指揮した陸軍首脳部たちとダブって見えるのは、小生のやぶにらみか。(2011.4.9) 寄稿 長野龍雲 |
☆緑の連隊長 吉松喜三陸軍大佐 戦争相手国から”感謝状”をもらった将校は、後にも先にも、この人以外にいない。吉松喜三陸軍大佐が、その人である。戦後、忌まわしい事件や悲惨な事実が明らかになる中、吉松大佐の「善行」は微笑ましいばかりでなく、驚きでもある。 吉松は、機動歩兵第三連隊の連隊長として中国を転戦した。この連隊は、戦車師団のうちで唯一の機械化歩兵であった。仮称が「あ」隊のため、戦車や装甲車に「あ」の記号が記された。 吉松は、負傷し野戦病院に入院中、二階の病室の窓辺から見える煉瓦造りの洋館に茂る緑の木々を目にした。吉松が見た、銃弾が飛び交う野戦病院からのその光景は、不思議だった。一方、「・・・緑の庭をもち、やわらかな畳に育てられた日本人が、今は昼も夜も、黄色の土と石ころの家に住んで、泥濘の池や河水で朝夕の飯を炊く。そして、絶えざる戦闘と警備になれば、大陸にまれにしかない緑の立木を容赦なく伐り倒し、根こそぎにし、橋に使い、遮断に用い、戦いが終われば炊飯や採暖の薪として、惜しげもなく燃やしてしまう。日本軍の通ったあとは一物も残っていない。中国人たちは日本軍を東洋鬼とよび、恐れおびえている」のが現状であった。 戦闘の後には荒涼とした大地が残り、将兵の心は殺伐として行く。中佐として赴任してきた吉松は、将兵間の荒んだ空気を察すると、すぐさま命令を布告する。それは、各隊が向こう3ヶ月間、競争して戦地に植樹をすることだった。「今度の連隊長は植木屋のせがれか」と揶揄する者もいたが、軍隊の命令は絶対である。部下たちは、上官の命令を不可解に思いながらも、過酷な中国大陸の風土と自然を相手に、悪戦苦闘しながら植樹を続けて行く。 包頭では、市民のために、今までなかった公園や動物園をつくった。日本内地から送られてきた桜やポプラの木々でつくった並木は、現地の中国人の憩いの場になるとともに、将兵たちも日本と変わらぬ風景に心を癒された。 破壊だけが戦争ではない。吉松は、現実を憂い、戦闘に明け暮れ荒んだ将兵の心を和ませるために、植樹を続ける。木々の緑を目にして怒る者はいない。過酷な戦場にあっても、将兵たちは一本一本丹精を込めて植樹した。必然的に、そうした木々に優しさや愛情が沸く。戦場にあっても、人間の心を失ってはいけない。そのことを、吉松は植樹を通じて部下たちに教えたかったのであろう。転戦しながら、そのあとには、必ず植樹をした。戦闘を休むことがあっても、植樹を一日たりとも休むことはなかった。こうして、終戦後まもなく吉松は、中国共産党軍から”感謝状”を受け取ることとなる。 戦後、吉松は久留米市の建設事務所で、噴射ポンプの修理工として働く。その後、戦死者の遺族の調査をしながら、慰霊祭を執り行い、靖國神社の境内に桜の木2本を植えた。これがきっかけとなり、戦没者の霊をなぐさめるために、境内にある銀杏の実から苗木を育て、遺族に送ることを考えた。吉松は「・・・もしやこの銀杏の実や苗を、ふるさとの土地で育ててもらったら、これこそ遺骨の奉還になるのではないか・・・どんなに戦が惨烈をきわめても、部下の骨を拾って遺族にお渡しするのは、指揮官としての私の義務ではなかったろうか・・・こんな風に考えてまいりますと、不意に、希望と光明がどこからともなく湧いてきましてね・・・」と語っていた。神社の好意により、境内の一角を借り、吉松は、日課として拾い集めた銀杏の実を植え、育て続けた。次第に、銀杏だけでなく、桜、とち、楓なども手がけた。 吉松が植えた木々や、遺族に渡され植えられた木々の豊かな緑は、いまも、中国や日本全国で、目にする人々の心を癒し続けている。 昭和60年、90歳で没。 参考 『完本・列伝 太平洋戦争』(PHP文庫) |
☆海軍と”脚気” 明治15年、海軍兵学校練習航海で、「龍驤」に大量の”脚気”患者が発生し、航行不能となる事態が起きた。これを契機に、米と魚中心の食事による兵士の”脚気”対策として、「洋食」にシフトした。また、西欧スタンダードの艦艇や兵器を運用するためにも、それ相当の身長と体格が求められた。”脚気”対策と体位向上のために採られた措置である。 海軍経験者は、「洋食」という日本独自の文化とも言うべき西洋料理を、国民の間に定着、普及させた。和風ビーフシチューの「肉じゃが」をはじめに、「ライスカレー」「オムライス」「コロッケ」「チキンライス」など枚挙に暇がない。「カツレツ」はフランス語の「コトレット」、「コロッケ」は「クロケット」が訛ったものである。「ラムネ」は「レモネード」が語源だ。 「海軍グルメ」と言われる西洋料理も、導入当初の評判は芳しくなかった。海軍に入れば1日3回、白米の食事が賄われるというのが、当時の世相であった。このため、大方の将兵は失望した。パン食は、おやつ感覚であった。明治23年には軍艦「海門」で米飯廃止反対のストライキまで発生した。食べ物の恨みは恐ろしいと言わざるを得ない。長い航海での食事は、将兵の最大の楽しみでもあったことが窺われる。 明治初期の副食は白米と塩漬け牛肉であった。冷蔵設備のない当時、軍艦によっては新鮮な肉や牛乳を「保存」する手段として、甲板に牛小屋や鶏小屋を設置し飼育した。その後、缶詰技術の向上により、「牛缶」、「鮭缶」、各種野菜の缶詰などが使用された。 ”脚気”対策を食事改善により対処したのが海軍軍医総監高木兼寛であった。一方、陸軍軍医の森林太郎(鴎外)は、日本食は栄養的に劣ることはないとして米飯継続を主張した。当初、高木の主張は受け入れられなかったが、徐々に理解され、陸軍でも一部部隊では、麦飯に切り替えられた。しかし、高木の”脚気”「栄養説」に対し、東大医学部や陸軍の「細菌説」が陸軍中枢を支配し、陸軍は日清、日露戦争でも白米を前線に送り続けた。このため、日清戦争では戦死者1270名に対し、”脚気”による死者が3944名。日露戦争では、211,600余名が”脚気”かかり、27,800余名が死亡した。 参考 『海軍グルメ物語』(新人物文庫) |
☆海軍士官として心掛くべき主なモットー |