即席麺やハンバーガーなど、ファストフードのアンチテーゼとして生まれたスローフードという用語から連想した言葉なので、おそらく英語としては正しくない。ただ、現在の過剰なまでの仮想世界へののめり込みに対する同種の否定的意見として提案したい。
コンピューター技術の発達によって、テレビやパソコンの画面で簡単に3D映像が楽しめるようになった。昔を知るものとしては驚くほど映像が滑らかに動く。遠くにいる相手ともリアルにゲームが対戦できる。ブロードバンドが普及している韓国ではオンラインゲームの『リネージュ』が大変な人気らしい。
ずいぶんストレスの解消になるとのことだが、単純にそうとも言い切れないのは、このゲームで遊んでいた中学生が殺人を犯してしまったとの噂話があることだ。ストレスを解消しているのではなく、別のストレスで覆い隠しているというのが本当のところだろう。
ITによる仮想世界の実現はさまざまな可能性をもたらしている。しかし仮想の世界に遊ぶためにこれほどの仕掛けが必要なのだろうかと思うことがよくある。鯨尺一本で気分は赤胴鈴乃助であったし、風呂敷一枚で月光仮面にもなれた。あくまでこちら側の気分のことなので、いまでいうコスプレと大した違いはない。資金を投じて作ったCG映像だけを仮想であるとすることには違和感がある。
CGを利用した設備や施設には半没入型や没入型を売り物にしているものが多い。商業利用が目的の場合、刺激の強さがセールスポイントになるので致し方ないとしても、もっと別の使い方があるのではと思わせることがよくある。
日本にはもともと自然や風物の中に仮想世界を見立て、それに遊ぶというすぐれた感性が受け継がれている。各地に富士山があり、ちょっとした商店街はすぐ銀座になる。陶芸作品にさえ風景を重合させているほどである。
きわめつきは庭園であろう。池を湖に見立てたり、築山を名山に見立てたりする。深山に迷い込んだかのように錯覚させる仕掛けを施した庭園もある。知れば知るほど、庭師あるいは造園家によって綿密な計算がなされていることがわかる。
これほど直接的ではないにしても、昔の町並みと現在の町並みを想像の中で重ね合わせることも、こうした遊びにつながる。
人跡未踏の地でないかぎり、どこであれそこには歴史的な事柄が染みこんでいる。そこに住んできた人々の思いが、記憶も含め何らかの形で残っている。見慣れた街の風物にも掘り起こせばいろいろな物語が必ず潜んでいるはずだ。ひょっとして何の変哲もない街角に壮大な仮想世界が拓けるかもしれない。
テクノロジーを画面の中だけのこととして捉えるのではなく、こうしたことに気付くきっかけをあたえることも仮想技術の役割であると思う。何気ないことのようであるが、案外に高度な技術が必要とされているのかもしれない。
(金森國臣 2002年7月30日)
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