■海軍兵学校沿革

戦時下の江田島

 昭和16128日を在校中に迎えたのは,71,72,73期の3クラスであった。午後5,校長草鹿任一中将は全校生徒及び学生を大講堂に集めて宣戦布告の御詔勅」を奉読した,次のような訓示を行った。
 
既に一同承知の通り,我国は今暁を以て,米英に対し戦闘状態に入り,宣戦の詔勅も発された。愈々矢は弦を離れたのである。此際,諸子は,素より武人として若き血潮が湧き立つのを覚えるであろう。校長も,うである。今や,吾々は,此の心持を以て,所謂打てば響くが如き,生き生きしたる気分の下に堅き決心覚悟を新たにして武人の本分に必死の努カをなすべき秋である。
 就ては,此の際,次の二項を改めて注意して置く。
 1 飽く迄落ち着いて課業に精進せよ。
戦争気分は腹の底に確りと収めて
,其の意気を以て諸子,当面唯一の職責たる課業に対し、従来以上の努力を望む。今後、多,修学年限の短縮さるることあるやも知れざることを慮り,教程内容の臨時改正,教科時間の増加などを実施するかも知れぬから,これまでに倍する意気ごみを以て勉強せんことを望む。殊に,此の際,学術技能の修得に細心の注意を以てし,苟も放漫に流れず,一層,綿密なる頭脳の養成に努めんことを望む。頭が空では如何に気張つても戦には勝てぬ。
 2 敵襲に対し,常住不断の気構えを持て。
如何なる場合も油断に基く不覚を取ってはならぬ。江田鳥といえども
,敵襲なきを保し難い。本校に於いても最悪の場合に応ずる準備を講ずるが,諸子は,万一の場合に対しても敵襲何物ぞという落着きを養うと同時に,課業中に於いても,就寝中に於いても,何時如何なる場合にも敏速,部署に就き得るだけの気構えを失なう勿れ。此の際の不必要の緊張と共に油断を厳に戒しむ。」
 この日以後も,課業は平常どおり行われ,徒たちも少しも動揺するところがなかった。その後,学科内容では軍事学の座学の時問が占める割合いが若干多くなって,歴戦の武官教官による実戦即応の講義が行われるようになり,た普通学のうち,実戦に不可欠の数学,数理,力学,熱力学,流体力学,三角,物理学,化学などの理科系課目が多くなった。これ等の諸学科は,在校期間の短縮に備え,午前3時間,午後2時間の課業では足りなくなって,73期では夜間授業まで行われるようになった。
 この時代の海軍兵学校の生活を最もよく伝えた記録として大本営海軍報道部監修の報道写真集海軍兵学校』がある。写真家の真継不二夫氏が,この写真集に掲載する写真を撮影するために来校して,一万枚以上も撮影したのは,174月から8月にかけてであった。従って,この写真集に収録されて,永遠に海軍兵学校生徒の顔と姿を残すことになったのは,71,72期、73期の3クラスの生徒であった。
 「兵学校に来て,私が強く印象づけられたの,生徒の顔の端正なことである。これほど揃つて,整った容貌を持つ生徒が,他の学校にいるであろうか。眉目秀麗の謂いではない。精神的なものの現われた,きびしい美しさである。鍛えたものの美しさだといってもよい。無垢で,清純で,玲瓏である。
 そして,ここには1,2,3号の段階を明瞭に現わしている。清純なうちに可憐さを残す3号生徒に比して,1号生徒には鍛えたものの強さがあり,凛然とした美しさが一層強く現われている。
環境は人をつくるというが,私は兵学校へ来て,男の男らしい美しさを見た」
 真継氏は同写真集に,海軍兵学校生徒から受けたありのままの印象をこのように書きしるしている。
 39か月の太平洋戦争中,昭和1710月から昭和198月まで2年問近くの間校長であつた井上成美中将は,ラジカル・リベラリスト(合理的自由主義者)といわれていたが,人問尊重の立場から次のような教育方針の実施によつて,決戦下の海軍兵学校に人間的であつて,リベラルな空気を注入し,在校生徒の人問形成に大きな役割りを果たした。教科内容については,普通学に特に重点を置,各科目に細かい要望を出した。たとえば,歴史では,担当の文官教官が書いた教科書に満州事変と支那事変は,国民精神の高揚と軍隊の士気鼓舞;と役立っている」とあるのを削ら,生徒にしい歴史を学ばせるようにしたの,その一つである。
 また,英語教育の必要性を強調した。英語を使用すると非国民扱いされるような当時の風潮であったし,陸軍士官学校では,昭和15年以,入学試験科目から英語を除外したので,才だが英語が苦手の生徒が海軍兵学校を敬遠して,陸軍士官学校を志願する傾向が強くなったことから,海軍兵学校でも入学試験科目から英語を除外すべきであるという議論が強まった。150人の教官のうち、英語廃止に反対したものは6名の英語教官だけだったが,「優秀な生徒が陸軍へ流れるというのなら,流れてもかまわない。外国語一つ真剣にマスターしないような人間は,帝国海軍では必要としない。本職は,校長の権限において,入学試験から英語を廃することを許さない」と命令した。
 教科内容が多いのに加えて,規律やセレモニーが多過ぎるため生徒は忙しすぎ,また張り切り過ぎているため,もっとアットホームで,チュラルで,リベラルで,イージーな空気をつくって,心豊かな紳士を養成しなければならぬとして,杓子定規を止め,白由時問を与え,一日に一度でもよいから心の底から笑う時問を与えるように指示した。
 井上校長は,白らの所見を2か月にわたって教官に講話し,『教育漫語』と題する小冊子4冊にまとめて,昭和185月ごろ部内に発表した。これは同校長の主義主張をくわしく説明したものであり,教育方針の根本から教科書作成上の注意まで万般にわたっている。
 71581名は3年の教育を終り,昭和171114日卒業,1艦隊の戦艦6隻で2か月間実戦即応の訓練を受けた後,実施部隊に配属された。72期は2か月短縮して,昭和18915に卒業すると,半数の317名は聯合艦隊の戦艦その他で実務訓練を受けたが,307名は特別列車で霞ケ浦海軍航空隊に向い,41期飛行学生として入隊した。
 開戦直前の昭和16121日に入校した73904,昭和17121日入校の74期は1,028名と採用生徒数が年々増加し,教育期間が24か月に短縮された。戦争の規模が予想以上に大きくなり,人的消耗が急増するので,さらに劃期的増員が要求された。江田島では北生徒館や各科講堂が急造されたけれども,到底要求に応ずることが出来ないので,急遽分校を設けることになった。

分校急設

 昭和18年11月15日、岩国航空隊内に海軍兵学校岩国分校が開校された。江田島本校990,岩国分校224分隊となり,3学年の73160,2学年の74230名が岩国分校に移った。
 昭和18121,753,480名の入校式が千代田艦橋前で行われた。校庭で行われた入校式の最初である。式後約300名が岩国分校に配属された。1号生徒である73期の在校期問は24か月で,昭和193月卒業の予定であるか,4か月の問に4倍以上の3号生徒に海軍兵学校の伝統を受け継がなければならない。73が海軍兵学校各期の中で最も檸猛なクラスと呼ばれ,厳しい指導を下級生に行つた理由もここにあった。
 昭和19322,73898名の卒業式が高松宮殿下御臨席の下に挙行された。式後巡洋艦香椎,鹿島に乗艦して江田内を出港,大阪から特別列車で伊勢神宮に参拝した後解散,3月末日まで特別休暇を許された。331日東京品川の海軍経理学校に参集した73期少尉候補生は,軍機関学校54,海軍経理学校34期と共に42日参内,拝謁の後宮城前広場で解散,それぞれの配属先へ急いだ。航空要員500名は42期飛行学生として霞ケ浦航空隊に入隊,艦船要員400名中300名近くは呉に直行,戦艦大和に便乗して424日出港,51日リンガ泊地に到着して第1機動艦隊各艦に配乗した。
 昭和19930日に海軍機関学校が海軍兵学校舞鶴分校となったのに続いて,同年101,大原分校が設置された。江田島本校990,岩国分校224分隊,大原分校440分隊となり,74280,75600名が大原分校に移った
 大原分校は本校の北2キロの津久茂にあり,江田内に面した農地その他を埋め立てた20万坪(66万平方メートル)の校域に,庁舎,生徒館,各科講堂があり,昭和195月起工,同年9に竣工した。東側に木造2階建の第1,5,3,7生徒館、西側に同型の第2,6,4,8生徒館があり,渡り廊下で結ばれ,その北にはそれぞれ2,000名収容の東食堂,西食堂.その中間に大浴場があった。生徒舘の西側と北側に各科講堂,東北側に柔道堵,剣道場があり,南側は練兵場になっていて,その南端に桟橋とダビットが設置されていた。
 76期と77期の採用試験は昭和197,同時に行われた。採用予定者と決定した7,300余名の中から,昭和34月までに生れた3,57076,残りの3,771名が77期に振り当てられた。
 昭和19109,763,570名のうち機関専攻生徒542名は直接舞鶴分校に入校,残りの3,028名は江田島本校の千代田艦橋の前で入校式を行った後,本校,大原分校,岩国分校に分属した。
 74期生は岩国航空隊で実施された航空実習中の適性検査と志望調査によって,在校中に航空600余名と艦船班400余名に分けられ,昭和195月から分離教育が行われ,同年11月末には航空班の半数300余名が在校生徒のまま霞ケ浦航空隊に入隊して飛行訓練を受けることになった。
 24か月の修業期間を終えた74期の卒業式は昭和20330,御名代久邇宮御臨席の下に江田島本校干代田艦橋前の校庭において挙行され,本校,岩国分校,大原分校の700余名が参列した。霞ケ浦航空隊へ派遣されていた300余名の卒業式は,同航空隊に於てささやかに行われた。卒業式を旬日後に控えた319,島に敵機動部隊の初空襲があり,グラマン戦闘機の機銃掃射を受けて,742,761の生徒が戦死した。また,霞ケ浦航空隊では離着陸訓練中の事故によって,生徒1名が殉職した。在校中に戦死者が出たのも,卒業式が2所で行われたのも,74期が初めてである。
 卒業後の74期生は練習艦隊による実務練習,拝謁も行われなかった。霞ケ浦派遣の航空班は,少尉候補生拝命と同時に43期飛行学生を命ぜられ,5月上旬,練習機の翼を連ねて北海道の千歳基地へ移動して,6月練習機教程を終了した。江田島等に残った航空班の300名は50名が44期飛行学生として千歳基地に配属されただけで.り250名は航空基地要員、水上水中特攻隊要員,陸戦隊要員などに振り換えられた。一方,艦船班の400名は瀬戸内海の島蔭に分散退避していた艦船,潜水,砲術,電測などの各術科学校,水上,水中特攻基地などに小分けして配属された。世界最大の新鋭戦艦大和乗組を命ぜられた42名と,新鋭軽巡矢矧配乗の24名は,ようやく連絡がとれて,42日三田尻沖で両艦に乗艦出来たが,両艦が海上特攻として沖縄に突入することになり,46日午前2時に出撃準備であわただしい中を,涙ながらに退艦するという一幕もあった。
 前年9月に採用予定の通知を受けていた773,771名の入校式は,昭和20410,江田島本校と舞鶴分校で行われた。この日江田島は雨であったので,大講堂で入校式が行われた,憧れの短剣が支給されず,上級生の短剣を借りて式に臨むという逼迫した有様であった。本校組1,500,大原分校組久宮邦昭王殿下以下1,300,岩国分校組300名に分れて訓練が始められた。なお,舞鶴分校で入校式が行われたのは機関科専攻生徒656名であった。
 この頃から兵学校の教育も実戦即応的になり,八雲,磐手による乗艦実習,短艇巡航等は行われたが,遠泳は乗艦が撃沈されたときの脱出訓練に換えられた。兎狩りや幕営等の行事は廃止され,夜問上陸訓練や野外演習が実施された。しかし,普通学とくに語学と理科学の教程を減らされることはなかった。

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