■海軍兵学校沿革
教育参考館と新生徒館
生徒増員に伴つて問題となつたのが収容施設であるが,機関学校舞鶴移転後の第2生徒館の空室を利用して創られた教育参考館が先ず俎上に上った。
「海軍兵学校教育参考館は,大正14年,時の校長谷口尚真中将が創設せられたるものにして,其の趣旨とするところは生徒をして帝国海軍の淵源甚だ遼遠なるを知らしめ,且先人苦心の跡を味得せしむると共に身を以て国に殉じたる幾多先輩偉人の忠烈に私淑せしめ,光輝ある帝固海軍の伝統を永遠に継承発輝せしめんが為なり,爾来歴代校長相継ぎ鋭意整備を重ね今日に至れり。従って之等資料の多くは諸遺族を始めとし賛助諸家の寄託に負う所多く,就中侍従職並びに各宮家より貴重なる御下賜品を拝受するの光栄を荷い,益々其の内容充実し現に一万余点の貴重なる資料を蒐集し,今や海軍兵学校生徒並びに学生訓育上至大の効果あるのみならず実に帝国海車の至宝と成るに至れり。
然るに同館の収むる資料の大部は僅かに木造建築物たる,第二生徒館の一部に収蔵しある実情にして危険此の上もなく,依つて学校当局は勿論各関係当事者は適当なる参考館新築に付き常に考慮しつつありしも,財源其の他の関係上未だ之が実現の域に至らず甚だ遺憾とするところなるに,更に本年度よりは生徒採用員数二百人に増加せられたる結果,速に参考館新築問題を解決せざれば遂に之を閉鎖するの已むなき状況にあり。斯くの如きは再び得難き天下の至宝を永遠に保持して以て生徒訓育の資とせんとする同館創設の趣旨に悖るのみならず御下賜品拝受の光栄に反き,門外不出の珍宝を寄贈したる各位の好意を無にするものなり。今や同館の建設は実に緊急を要する問題なりとす。然らば同館建設並に維持は如何なる方法に依るを可とすべきや,又如何にせば最も有意義なりや,之れ又大に検討を要する事項なるが,具体的方策としては凡そ次の諦案の何れかに依らざるべからざるものと思考す。」
昭和9年1月,海軍省教育局第一課長佐藤市郎大佐の名で以上のような「海軍兵学校教育参考館建設甚金に関する件提案」が海軍兵学校卒業各期代表に配布せられ,大方の賛意が得られた結果,卒業者および一般有志から醸金をえて,教育参考館を新設することとなり,翌昭和10年2月起工。第2生徒館と第1講堂の中問に,鉄筋コンクリート造り2階建,一部3階建,近世古典様式,延4,481平方メートル(1,358坪),近代建築の教育参考館が翌昭和11年3月に完成したのである。
なお、旧教育参考館に保存されていた教育参考資料は,前掲の室配置によつて新教育参考館に陳列された。教育参考館の中心をなすものは『東郷元帥室』と『戦公死者名牌』であつた。
建築設計が始まって間もない昭和9年5月30日死去した東郷元帥の遺髪を,教育参考館創設者谷口尚真大将および東郷吉太郎中将の尽力によって,海軍兵学校に安置することとなり,6月7日,及川古志郎校長が遺髪を戴いて帰校,大講堂階上正面に安置した。将来、教育参考館が完成した暁には同館に安置して,同館の中心とすることが生徒訓育上最も相応しいとの決定を見たので,「東郷元帥室」設置のために設計の変更を行った。また,及川校長の発意によって「元帥遺髪安置の精神に就て」と題する次の一文が起草された。
「元帥の遺髪を兵学校に頂戴して安置するは偏えに生徒をして元帥に私淑せしめ居常の間元帥の霊的感化を蒙らしめ以て元帥の如く偉大なる海将たるを希念せしむる為に外ならず。然るに今兵学校に於て遺髪を神杜として奉安し或は参考館内の一部を神社化して奉祀し生徒生活に対し全く超越的なる意義を帯びしむることは啻に元帥の人間味ある御風格に副わざる感あるのみならず又処を得たるものとも称すべからず。蓋し元帥は如何なる後輩に対しても啻に溢るる如き恩情を以て接せられたるのみならず又殊に将来元帥の偉勲を恥かしめざる後継者を出すべき兵学校としては元帥を最も理想的なる大先輩として敬仰すると共に努めて其の霊的感化に浴することを念とせざるべからざるを以てなり。若し夫れ元帥を神として奉祀するは自ら他に適当なる処と施設あるべし,例えば東郷神社の如き靖国神社の如き然り。是等は何れも護国の英霊として元帥を敬仰する心意の表現に外ならず。勿論我兵学校に於ても一面此意義を以て元帥を仰ぐべきことは言う迄もなき所なるも同時に他の一般社会の敬仰方法とは多少趣を異にする方面を有せざるべからざるものなるべし。即ち元帥は我兵学校に取りては恰も一家族の中に於ける祖先の英霊の如く最も緊密親縁なる霊として日夜敬仰私淑せらるる対象たらざるべからず。俗の語を以て云えば元帥は我兵学校或は海軍に取りては全く「うち」の人として偉大なる先輩たるなり。換言すれば元帥は我帝国の護り神たるのみならず又我海軍にとりて最も偉大なる理想的大先輩として我等の行手に燦然として光を発する太陽の如き存在ならざるべからず。されば元帥の英霊を代表する御遺髪は一面に於て勿論神体としての意義は有するも同時に最も親しく感化を受くべき「我等の聖将」の表現ならざるべからず。
此意義よりして遺髪安置の方式を考うる時之を神社の如くすることは兵学校として必ずしも相応わしからず。然らばとて一般戦死者遺品の如く或はネルソン遺髪の如く取扱うことも勿論元帥を敬仰する道にはあらず,要は我々の先輩として衷心より敬慕尊崇の気分を以て敬仰し得る如く安置するを趣意とせざるべからず。別言すれば吾々が家庭の神棚又は仏壇に祖先を祭る如き意味を以て恰も「在すが如く」仕え奉る意義を以て敬し得る如く安置すべきものなるべし。(後略)」
この結果,中央階段上の正面に『東郷元帥室』が設置され、その内部に特別設計の『遺髪室』を設けて,永久保存のため生前愛用の硝子コップ内を真空化して納めた遺髪を昭和11年3月18日の竣工式当日に安置した。
また,従来は大講堂の玉座に面して奉掲されていた『海軍戦死将校名牌』(昭和7年5月停戦の第1次上海事変までの150霊位の氏名および、戦死年月日)を2階特別室正面の壁面に移すと共に,新たに『元帥室』直正面の壁面に,海軍兵学校出身公死者(明治20年から昭和10年末までに殉職した298霊位)の氏名および公死年月日を大理石に刻んだ『海軍公死将校名牌』が新設された。
教育参考館竣工直後の昭和11年4月1日入校した67期240名の入校特別教育は,第1種軍装を着用して『東郷元帥室』と戦死者,公死者の名牌に参拝することによって始められた。以後各期の入校特別教育も同様であった。
なお,昭和11年10月27日,御召艦愛宕で江田島へ行幸された今上陛下は,この教育参考館にも立寄られたが,これが最後の海軍兵学校行幸になった。
在校生徒数の増加に対して次に採られたのは新生徒館の建設である。赤煉瓦の生徒館の西側海岸寄りにあった木造の教官室,選修学生関係施設,剣道場,砲台等を他に移して大きな生徒館を建てることになり,昭和10年9月7日起工,同12年4月完成した。中庭を囲んで四角に造られた鉄筋コンクリート3階建ての渚楚な建物で,その白色に耀く直線美は,赤煉瓦の旧生徒館と並んで好対照をなしている。
本部は大講堂の南側に移されたが,木造の粗末なものであった。砲台は練兵場の南西端に移されて近代的なものとなり,その隣りに40糎砲塔が新設された。また,練兵場の南側を埋立てて,敷地が拡張された。
支那事変中の海軍兵学校
地中海コース,アメリカコース,濠州コース,時に世界一周コースもあった正規の遠洋航海は、支那事変によって、64期が最後となった。昭和12年3月23日卒業の64期160名は,八雲,磐手に乗り組んで,内地,朝鮮,満州を3か月間巡航した後,6月7日横須賀を後に地中海コース遠洋航海の途に上った。7月7日華北の盧溝橋に端を発した支那事変の戦火は華中にまで波及して,8月9日第2次上海事変が発生,緊追した情勢になった。このため,最後の内南洋寄港を取り止めて,予定より2週問早く横須賀に帰港した。
昭和13年3月卒業の65期は内地航海半か月,遠洋航海3か月に短縮されて,台湾,中国、シヤムまで航海しただけで第1期候補生を終り,11月1日付で海軍少尉に任官した。次の66期は昭和14年3月卒業の予定であったが,昭和13年5月になってから同年9月卒業に繰上げることに決まった。このため,5月以後早朝授業,夜間授業,白習時問の授業転用,夏期休暇半減等の非常措置による速成教育が実施され,9月27日にあわただしく卒業した。遠洋航海もフイリピン,内南洋方面で翌14年1月下旬横須賀に帰港した。
67期と68期は最初から在校期間が短縮されて,第1学年8か月,第2学年,第3学年各1か年,第4学年8か月,計3年4か月となつた。昭和14年7月25日卒業した248名の67期はハワイヘの遠洋航海を行ったが,同15年8月7日卒業の68期は,新らしく練習艦隊用として設計建造された香取,鹿島に乗艦,近海巡航を終わって横須賀に入港すると「遠洋航海取り止め,少尉候補生は拝謁の後霞ケ浦航空隊に配属」の命令に接した。
昭和13年9月18日には江田島移転50週年記念式が挙行されたが,この頃から戦時体制が進み,外国語教育が次第に軽視されるようになって,同年末には外人の英語教師が姿を消し,昭和15年12月1日入校の72期からは独,仏,支,露語の授業が廃止された。
70期は69期入校と同じ年の昭和13年12月1日に入校した。同じ年度に2つのクラスが入校したのは,明治29年の26期,27期と明治31年の28期、29期のほかは、この69期と70期だけである。455名の入校によって,在校生徒が4期1,300余名になり,4部36個分隊に編成された。
69期からは在校期間が3か年となり,また,従来の練習艦隊が廃止された。昭和16年3月25日卒業した69期343名は,山城,那智,羽黒,北上,木曽で臨時に編成された「実務練習艦隊」に分乗して,各海域で実戦訓練を受けた後,艦船部隊,航空部隊等の実施部隊に配属された。昭和16年12月下旬卒業の予定であった70期は,卒業式が11月15日に急に繰上げられて,直ちに全員艦船部隊配属を命ぜられた。江田内から榛名で桂島沖に行き,聯合艦隊各艦に配乗した者が多いが,広島から特別急行列車で横須賀に行き,出撃直前の艦に深夜着任した者や,金華山沖で洋上移乗の離れ業を演じた者もあった。
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