■海軍兵学校沿革

教育参考館

 海軍機関学校の舞鶴移設によって,同校が使用していた第2生徒館が空室となった。時の海軍兵学校長谷口尚真中将は第2生徒館の階下を利用し、従来蒐集した記念品および訓育資料をここに陳列して,教育参考館を創設した。
 「頗るに大正6,余が常磐艦長として遠洋航海に赴きたる際,卑見に基づき諸官協力し,巡航各地より教育資料となるべき記念品を蒐集して,之を兵学校に寄贈したることあ,爾来,余は教育資料の蒐集に関して多大の関心を有し来たりたるところ,偶々,兵学校在任中の大正14,関東大震災後,一時合併教育することとなり居たる機関学校が舞鶴に移転し,第二生徒館階下は全部空室となりたるを以て,此際,之を参考館として活用せん事を着想し,時の教頭向田大佐等と計り,趣意書を起草して之を海軍部内の古参者(佐級以上),幕末海軍の生存者並びに遺族,貴族,名士にして海軍に縁故ある人,若しくは海軍文献を収蔵せりと思われる方々に配布して其の後援と援助を求むることとし,又一,海軍次官を経て海軍大臣に計画の趣旨を述べ,之が承認を求めたり。(中略)幸いにして,海軍大臣は直ちに之が承認を与えたるを以て大いに力を得,在来の記念品と新たに蒐まり来たりたる各種訓育資料を此処に陳列し,之を教育参考館と名づけて,今日の基礎を築くことを得たり」
 谷口尚真大将は,昭和113月に本建築の教育参考館が完成したのを記念して,同館創設の経緯を以上のように述べている。
 この時代の在校生徒であつた51期から乗艦訓練が始まつた。52期からは明治34年以後中断されていた馬術訓練が再開され,毎月1,日曜日を利用して広島の騎兵聯隊へ訓練を受けに出かけるようになった。また,幕営も始められ,校庭に本格的の400米トラックとフィールドが生徒の手で作られて各種陸上競技のほか,ラグビー,サッカーなども始められた。
 ワシントン条約の影檸で生徒採用数が減らされたのは53期と54期だけで,大正134月入校55期からは130名前後となった。大正157月には入校志願者の年齢制限が,従来の満20以下から満19歳以下に改められた。

八方園神社創建

 昭和31110,京都御所において御即位の大典が行われ,在校生徒全員が京都東本願寺前に整列して御大典歯簿を奉迎した。つづいて,同年1123,御大典記念事業として,内の一角に八方園神社が創建された。八方園とは第2生徒館の東側にあたる小高い丘で,周囲の斜面には老樹が鬱蒼と生茂つていたが頂上は小さな平地になっていた。たまたま,伊勢神宮で遷座祭が行われたので、もとの神殿の桧材を拝受して天照大神の神霊を祭る八方園神社を建てることになり,在校生徒全員の勤労奉仕によって神域が整備された。
 「江田島の生徒は,イギリス人が考えているような宗教上の教典を信ずる意味においては宗教的ではない。兵学校では,宗教約な礼拝が行われるわけではない。」校庭には1928(昭和3)に建てられた小さな神杜があるばかりである。(中略)一般の生徒は仏教徒でも神徒でもキリスト教徒でもない。彼等が考えている宗教の意味は,忠義と孝行の他の何物でもない。君に忠ということが彼等の生活の中心である。人生最高の目的は,天皇陛下の御為めに粉骨砕身することであって,のためには死をも辞すべきではないという信念を生徒は持つている」
 海軍兵学校に英語教師として在勤したセシル・ブロツクは,以上のように八方園神社を紹介している。同神社が在校生徒に海軍将校生徒たる衿持と自覚信念を深めさせるために与えた影響は大きかった。
 なお,昭和16年秋,この八方園神社に皇居遥拝所と方位盤が設置された。石でつくられた円形の方位盤には国内の主要地方のほかニューヨーク,ウラジオストック,シドニー等の方位が刻み込んであり,生徒は自分の出身地である家郷の方角に向つて思いを馳せたり,外国各地の方角を知って広い視野に立つことを自分に毅えたりした。

ダルトン・プランによる新教育

 昭和3(1928)12,永野修身中将が第32代目の海軍兵学校長として着任,449日に行つた校長訓示で,以後,ダルトン・プランによる新教育を実施する旨を通達した。このダルトン・プランとは米国教育家パーカスト女史がマサチユセツツ州ダルトン市の中学校で考案して成功した教育法であり,自由,自治,個性啓発,集団協同を基礎として,実験と勤労を重視し,創造能力の養成を目的とした教育であつて,その原理はジョン・デューイ(コロンビア大学教授,1859-1952)のデモクラシー理論の上に立つといわれた。
 永野校長は大使館付武官として米国に駐在していた時,当時米国で評判になっていたこのダルトン・プランに新らしい教育の在り方を発見したのであるが,海軍兵学校長を拝命したことから,この新教育法の実施に踏み切ったのであった。当然この教育方針に反対意見を持つ教官も少なくなかつたが,永野校長は断乎としてこのプランを推進した。その結果生徒教育に次のような変革が行われた。
イ 以後生徒は自啓自発」をモットーとする。従来のように教えられて学ぶのではなく,白分から積極的に学ぷことをモットーとせよという意である。
ロ 生徒は自学自習」によつて勉学する。昭和451日から日課を改正し,授業時問を午前4時間午後1時問に短縮,午後2時から320分までを自選時間」とした。この自選時問が自学自習のために新設されたもので,何をするかは生徒各自にまかされた。また,図解が印刷してある以外は白紙になつている軍事学教科書を生徒に与えて,白紙のぺ一ジには自分で勉強して必要事項を記入させる方式も実施された。
ハ 従来普通学と軍事学の点数で決められていた成績に訓育点と休育点が加峡されることになった。
 永野校長がダルトン・プランを導入した真意は,自啓自発と自学自習とによつて,日本海軍の将来のリーダーとなるべき一部有能な人材の才能と資質を自由に伸ばすための秀才教育にあった。少数の超優秀な指揮官が日本海軍に絶対必要であるという信念を持つていたから,全力を傾倒してこのプランを推進したのである。そのため,当時永野校長の頭を叩けば,自啓自発の音がする」といわれたりした。なおこの教育を徹底するために,昭和5年卒業の58期から修業年限を8か月延長して,4月第4学年に進級,11月卒業ということになった。
 この劃期的教育も永野校長退任の後は次第に旧に復し,自選時問がつぶされて,哲学,心理学,論理学などが精神科学という科目として取り入れられた。
 昭和7年入校の63期からは在校年限が4か年に延長されて,4月入校,3月卒業となった。在校年限3年のときの教育総時問は,3,153問で,内訳は文科系普通学13%,理科系普通学42%,軍事学4344%であったが,4年制の総時間は4,370時問で,文科系普通学13%,理科系普通学46%,軍事学42%となった。これからの数年問が教育内容のもつとも充実した時代あり,とりわけ,理化学等の理科系教育と並んで教養としての文科系の教育が重視されていた。飛渡の瀬往復の1万米競走,江田島一周の総短艇競漕,広島高等師範学校とのサツカー対校試合などが行われたのもこの時代であった。

天皇陛下行幸と記念軍艦旗

 昭和5(1930)1023,今上陛下には御召艦羽黒で海軍兵学校へ行幸された。当日,下には練兵場で観兵式および相撲と棒倒しを御覧になった後,校内の特別官舎(高松宮御殿)に御宿泊になった。
 翌
24日には,御昼食後,大湊校長の御先導で古鷹山に登られる御予定であったが,御出発の時刻から雨が降り出したので御取止めとなり,御召艦羽黒に御帰艦,26目に神戸沖で行われる特別大演習観艦式御親閲のため,神戸に向われた。
 天皇陛下が海軍兵学校へ行幸されたのは,519,東京築地の海軍兵学寮で行われた海軍始めの式に,明治天皇が御臨幸されたのが最初で,明治6,7,8年と続いて海軍始めの式に御臨幸になった。明治9年に海軍兵学校と改称されてからも,明治10,11年の海軍始めの式に御臨幸,明治121225日には事業御参観および御督励のため行幸された。明治141119日には生徒卒業証書授与式(8の卒業式は同年915日挙行ずみ),つづいて明治161015日に10期の卒業式に御臨幸になった。これが卒業式に行幸された最初であり,続いて11期卒業式(明治171222)12期卒業式(明治19127)と江田島移転ま11回行幸されており,江田島移転後は明治23422日の16期卒業式に行幸。以後大正時代は一度もなく,この回が移転後2回目の行幸であった。
 これよりさき,昭和3316日に挙行され56期卒業式に,今上陛下が行幸され,17には古鷹山へ御登攀の旨の内示があったため,全校挙げて奉迎準備を整えていたが,御不例のため急にお取り止めとなり,校長鳥巣玉樹中将に羽二重を御下賜になった。その1反をもって調製されたのが,4旒の特別軍艦旗であつて,それ以後,終戦にいたるまで,千代田艦橋に掲揚された。

「五省」始まる

 昭和7(1932)424,勅諭下賜50周年記念式祝賀会および観兵式が挙行された後,長松下元少将は訓示を行って「生徒は自習室に東郷元帥謹書の聖訓を掲げて五省を始める」よう指示した。
 つづいて同年52,下記文面から成る兵学校訓第37号が出された。
1 爾今朝食時生徒は当直監事の着け」の令にて着席し「勅諭五ケ条」を黙誦することに定める。黙誦終り当直監事の食事に掛れ」の令にて朝食するものとす。
2 夜間自習止め5分前,喇叭「G1声」にて生徒は自習を止め,「勅諭五ケ条」及び五省」を黙誦(各分隊1名輪番拝)て一日の行為を反省自戒すべし。
 それ以後,生徒は自習止め5分前になって「G1声」のラツパが鳴り響くと素早く書物を机の中に収めて,粛然と姿勢を正す。当番の生徒が,自習室正面に掲げられている東郷元帥謹書の勅諭五箇条」を奉読,つづいて五省」の5項目を問いかける。
1.至誠に悖るなかりしか
1.言行に恥ずるなかりしか
1.気力に欠くるなかりしか
1.努力に憾みなかりしか
1.不精に亘るなかりしか
 生徒は瞑目して心の中で,その問いに答えながら今日1日を自省自戒する。自習止め解散」のラッパで緊張が解かれる。

国際的孤立と生徒増員

 昭和5(1930)422日調印されたロンドン条約によつて,主力艦建造中止の5か年延長,補助艦制限が決まつた。このとき,政府の回訓案の決定をめぐつて,いわゆる統帥権干犯」問題がおこり,同年11月浜口首相が東京駅で狙撃される事件まで発生した。
 昭和69月には満州事変,71月には1次上海事変が発生した。上海事変は問もなく収まったが,満州事変は進展を続け,昭和73月満州国が独立を宣言した。国際連盟は同年4月から満州事変に関する実地調査を行うため,リットン調査団を派遣して,その報告書を採択した。わが国はこのリットン報告書採択を不満として,昭和83月国際連盟脱退を通告した。この頃,国内でも,昭和73月の血盟団事件,同年5月の515事件と血生臭い事件が続いた。
 海軍兵学校生徒採用数は55期から63期までは130名前後であったが、昭和84月入校の64170,9年の65200,10年の66期と11年の67期は共に240名と次第に増加されていった。これと共に,63期から始まった在校4か年の制度は65期までの3期だけで,66期は6,67,68期は8か月卒業が早くなった。
 この生徒採用人員の増加は
,国際関係の緊張の反映であったが,航空要員の増加も大きな原困をなしていた。士官搭乗員の養成が本格的に始まったのは,大正10(1921)に海軍航空隊練習部令が制定されてからであるが,一般士官に対する航空教育も53期から1か月間霞ケ浦航空隊に入隊して,10回程度の操縦訓練を行うことになり,66期からは入隊期問が3か月に延長された。搭乗員採用数も539,5415,5528名から次第に増加して,68期では100を突破するようになった。

軍縮会議脱退と支那事変勃発

 昭和9(1934)6月から開かれていた第2次ロンドン会議予備交渉はわが国の提唱した共通最大限度案を米英が納得せず,同年1220休会となったので,わが国は同年1229日ワシントン条約廃棄通告を行った。昭和10(1935)12月から開かれた第2次ロンドン会議は,わが国の共通最大限度案を米英が受諾せず,建艦通報案の討議には永野全権が参加を拒否して,115日会議を脱退した。その結果ワシントン条約およびロンドン条約は昭和11(1936)1231日をもって失効となった。
 日本が脱退したあと,米英仏三国は軍艦の質的制限と建艦の予告および情報交換を中心とする第二次ロンドン条約に調印(325)した。新条約は新しく建造する主力艦を35,000以下,備砲14吋以下と定めており,わが国に対しても備砲14吋制限に同意するよう申し入れてきたが,これを拒否したので国際的孤立の度をさらに深めた。この虚に乗じて結ばれたのが日独防共協定であり,昭和11!1125日に調印されてから日本は次第に独伊枢軸側に披近し,やがて第2次世界大戦にまきこまれていったのである。昭和12(1937)7月蘆構橋事件が勃発し8月には戦火が中支に波及して全面的支那事変となった。これに伴って,昭和124月入校の68300,13年の69354名と増員されると共,69期は在校年限が3か年に短縮された。

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