■海軍兵学校沿革

大講堂と校歌

 明治456月着工した大講堂が,大正6(1917)421日落成した。大講堂の必要性は明治38年頃から具申されていたが,容易に予算の承認をえられず,明治44年になって鎮遠,八重山,赤城の3艦が廃艦払い下げとなったのを財源として,45年から5か年継続の建設費が承認された。当時歴代校長が大講堂設立を強く提唱したのは,海軍兵学校を再び東京に移転すべしという江田島廃棄説を封ずる手段としたのだとも伝えられている 後年大講堂の屋根裏から発見たれた銘板に大正212日起工,6331日完成」と記されており,国会議事堂に使われたのと同じ倉橋島の花崩岩をもつて建造された。正面に玉座が設けられた荘重な構造で反響が大きく,底冷えがする欠点もかえって厳粛な気分を誘うのに役だっていた。階上には日清戦争の黄海海戦で奮戦した赤城艦長坂元八郎太少佐の血痕がついた海図や広瀬中佐の遺品などが展示されていて,後年教育参考館が設けられるまで江田島における精神教育の拠点となって,将校生徒の訓育に貢献した。
 なお,昭和33,大講堂の玉座に面して海軍戦死将校名牌」を奉掲,同月15日海軍軍令部長鈴木貫太郎大将の臨場を得て除幕式を行った。この名牌は,明治15年の京城事変から第1次世界大戦までの諸戦役に参加して戦死を遂げた海軍兵学校出身将校143柱の芳名を,聖徳太子直筆の法華経義疏」の写本から選び出した文字をもって,山口県秋吉産出の大理石に彫刻したものであつた。
 大正8(1919)918日をもって創立50年を迎えた海軍兵学校では,同年109日大講堂において、47期生徒卒業式に続いて創立50周年記念式を挙行した。翌大正93,創立50周年記念校歌が募集されて,50期生徒神代猛男作詞の江田島健児の歌」が入選,海軍軍楽特務少尉佐藤清吉作曲によつて大正11年に発表された。

八八艦隊計画と生徒増員

 大正3(1914)7月第1次世界大戦が勃発したが,わが国は日英同盟によって連合軍側に加わり、同年8月対独宣戦布告,太平洋全域において活躍したほか,遠く地中海にも作戦した。
 その結果,同年1月のシーメンス事件によって停滞を余儀なくされていた八八艦隊計画に対する風当りが好転し,大正5年の第39議会において,その第1段階として八四艦隊案が可決,翌大正6年の第40議会では第2段階の八六艦隊案が可決された。大正97月の第43議会で八八艦隊計画の実施が承認可決されて,戦艦8(長門,陸奥,加賀,土佐,紀伊,尾張ほか2)巡洋戦艦8(天城,赤城,高雄,愛宕ほか4)の第一線主力艦隊を建造できることになった。
 この八八艦隊の実現に備えて,海軍兵学校生徒採用数も大正6(48)180,7(49)195名と急増し,大正8(50)からは300人クラスが3年続いた。このため,大正108月から116月までの10か月問は在校生徒総数870名に近いという創立いらいの状態になった。その受入れ態勢を整えるため第2生徒,食堂等の増築,2普通学講堂,浴室,洗面,賄所,便所等の改築を行った。従来の12個分隊を18個分隊に改めたが,1個分隊の員数50名近くなり,寝室も自習室も超満員の有様となった。また,生徒は食堂において右手のみを使って食事すべしという不文律が生れたのはこの頃からであつたが,食堂が超満員となつ,両手を使うことが出来ない状態になつたからだと言われている。
 教育制度の面では、それまで11月と定められていた進級が,大正78月入校の49期から7月に改められた。また,従来の英語の他に独,仏語専修者が定められることになった。(49期は2学年から実施)
 服装の面でも明治4年から使用されていた金ボタン7個の短上衣(ジヤケツト)の制服(は紺サージ,夏は白麻で明治12年までは背広)51期から士官と同じ内側でフツクで止める冬服と,金ボタン5個の白麻の夏服になった。この長い上衣は昭和93月まで続き,同年4月に在校生全部がジヤケツトになった。た,夏服は七つボタンになったが,冬服はフック止めのままだった。

選修学生制度発足

 大正9(1920)7,海軍兵学校において選修学生を教育する制度が定められ,同年111期選修学生が入校した。選修校生とは兵,航空科の准士官(兵曹長)および一等兵曹から選抜した者に修業年限1か年の教育を行,将来尉官に準ずる勤務に服するための登用制度である。
 この選修学生は大正911月入校の第1期から昭和1712月入校の23期まで存続して,総員1,260名が卒業,全員太平洋戦争に参加した。

ワシントン条約と生徒激減

 大正10(1921)1112日からワシントンで開催された海軍軍縮会議で,英米日の主力艦保有量を553の比率にすることに重点を置いた海軍軍備制限条約(ワシントン条約)が成,大正1126日調印されて,以後10年問を主力艦に関する建艦休日とすることになった。
 このワシントン条約は日本海軍に対し各方面にわたって絶大な影響を及ぼしたのであるが,海軍兵学校に関しては,大正11年度の採用生徒51名に激減される結果となった。しかも,51名も本来不要であるが期が欠けては海軍兵学校の伝統が中断するというので,最少限度を採用する意味で危うく日の目を.見たのである そればかりではなかった。51,52期の両300人クラスも大正11年夏季休暇で帰省するに当たり、ワシントン条約の結果海軍生徒も減員の止む無きに至つた。ついては,諸子が自発的に退校することによって,本条約の実施に協力してくれることを望む。休暇帰省中に諸子自身本問題について熟慮し,父兄ともよく相談して,白発的に退校するか,残留するかの意志を決定したうえで帰校してもらいたい」と申し渡されたのであった。時の海軍省教育局長古川テ三郎少将は,海軍将校たらんと志して入校して来た生徒,本人の意志に反して退校させるのは酷であるばかりでなく,海軍として大きな損失を招くことになる」という見解の下に在校生徒減員案を取り止めとした。そのかわり,学年試験の成績が1点でも規格に満たない場合,または健康と体力に多少でも難点がある場合には,容赦なく留年を命ずる苛酷な処置がとられた。293入校の51期が255名卒業,274名入校の52期が236名卒業と減員し,51名入校の53期が62名卒業となったのは,自発的退校者が相当数出たことにもよるけれども,この留年処置の結果でもあった
 生徒採用数激減のため,大正118月入校の53期は各分隊23名であり,次の54期から4月入校に改められて,大正124月に79名入校してからも,新旧3号併せて67名という有様であった。最後の300人クラスである52期が最上級生に進んだとき,18個分隊から12個分隊に減らされたけれども,各分隊に120名。256,367名ということになり,短艇も1号が漕がなければならないし,掃除も1号がソーフ(床拭き用雑巾)を握らなければならないという状況であった。大正712月に鈴木貫太郎中将が海軍兵学校長に着任したとき,鉄拳制裁の禁止を厳達した。この禁令は同校長退任後もよく守られ,下級生が少いという変則的分隊構成にも助けられて大正末年までは続いた。

皇族の入校

 大正10(1921)826,高松宮宣仁親王殿下が52期生徒として入校された。続いて大正11826日には伏見宮博信王殿下が53期生徒として,大正1247日には山階宮萩麿王殿下が54期生徒として入校された。その結果,124月から翌137月まで皇族3名が第1学年,2学年,3学年生徒として在校されることとなった。これは海軍兵学校創立いらい初めてのことである。
 皇族の海軍兵学校入校は,明治6129,明治天皇から皇族は自今海陸軍に従軍すべき」旨の御沙汰があったのに基いて始まり,校された方は次表のとおり19方である。明治18年までは皇族に限り通学が許されていたが,の後は一般生徒と同じように校内で生活することに改められた。従って高松宮殿下も大正958日から予科生徒として特別準備教育を受けられた間は,校内に新築された特別官舎(称高松宮御殿)に宿泊されたが,108月海軍兵学校御入校後は所属の第12分隊に近い第1生徒館内一隅に設置された寝室兼自習室に移って,食事も生徒と同じものを食堂の近くに設けられた個室で摂られた。但し,日曜と祝祭日には一般生徒のように外出してクラブヘ行くわけにはいかないので,特別官舎に帰つて休息された。課業も普通学が特別個人教授で行われた他は軍事学,訓育,体育等すべて一般生徒と同じであった。
 伏見宮,山階宮両殿下の場合も,生徒館内の当直監事室の隣りに設けられた寝室を使用され,休日には高松宮御殿の隣りに建てられた特別官舎に帰られる以外は,教育も分隊生活も一般生徒と同じ扱いを受けられた。
 なお,高松宮殿下在校中の大正112月に仏陸軍のジョッフル元帥,同年4月に英国皇太子プリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード八世,退位後ウィンザー公)が来訪された、また、大正11年3月には貞明皇后が行啓され、高松宮御殿に御一泊になった。

海軍機関学校臨時移設

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、横須賀にあった海軍機関学校が罹災し全焼したので,生徒科を江田島に臨時移設して海箪兵学校に同居することになった。機関学校生徒および選修学生の教育が臨時に海軍兵学校長に委託されたのであるが,制度上は機関学校生徒科長が兵学校長に直属して機関科生徒の教育を行い,選修学生の教育は校舎その他の施設を借用するだけで機関学校長がこれを行うことに規定された。
 921日機関学校職員の一部が下準備のために来校,同月28日には職員,同家族,生徒,生が軍艦迅鯨に便乗して着校,10月初めから教育が開始された。
 たまたま,海軍兵学校においては八八艦隊計画に伴つて増員された300名クラス3期合計900名を収容するための大増設を行つた後であり,大正116月に50272,127に51255名を送り出したのに対し,入校生徒が5351,5479名と激減したため,生徒館および教育施設に余裕が生じていた。
 教育はもちろん別個に行われ,分隊生活も兵学校は第1生徒館,機関学校は第2生徒館を使用し,相互不干渉が厳守されたが,入校式と卒業式は海軍兵学校長により両校合同で行われた。また遠漕,遠泳,弥山登山競技などの行事も両校合同で行われた。
 このように海再兵学校の52期から55期まで,海軍機関学校の33期から36期までの合計700近い両校生徒が江田島生活を共にすることによって,友情と連繋感を深めたのであつたが,1431,機関学校生徒90余名は選修学,職員,同家族と共に軍艦韓崎に便乗して舞鶴の新校舎へ移転するため江田.島に別れを告げた。

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