■海軍兵学校沿革
兵学校出身者の起用と日清戦争
明治20年代の日本海軍は、旧幕府海軍および各藩海軍出身者、海外留学生,海軍兵学校出身者、その他など出身と派閥を異にする数種類の系統の士官によって構成された寄り合い世帯であった。なかでも、かつて海軍藩で鳴らした薩藩出身者が最大派閥となって要職を独占していた。このため,新しい教育を受けた海軍兵学校出身の青年士官は排斥されたり冷遇されたりしていた。
明治26年(1893)11月、時の海軍大臣官房主事山本権兵衛大佐立案による大整理を断行し、海軍兵学校出身者を重要ポストに起用する基を築いた。将官8名(全員薩藩出身者)佐官以下89名に及ぷこの整理案について、西郷海相が「一朝有事の際に配員上困りはしないか」と心配したのに対して、山本大佐は「いや、これ等は無為無能の凡才か病弱者ですから、かえって海軍の足手まといになる者ばかりです。それに、いまや海軍兵学校その他で新教育を受けた若手士官がどんどん育っておりますから、そういう御心配はご無用です」と答えたといわれる。
この画期的な人事刷新によって、明治海軍の宿弊といわれた薩摩海軍派閥は解消されて、海軍兵学校出身者に海軍士官としてのメーンルートが開かれたのである。
明治24年(1891)夏、日本各地を訪問して朝野を震駁させた七千屯の最新鋭甲鉄艦定遠、鎮遠を主力とする清国北洋艦隊に対し、12吋砲1門を無理に搭載したため、その旋回によって艦体が傾くような三景艦(松島、橋立、厳島)をもって立向うことを余儀無くされた日清戦争は、明治27年(1894)7月25日の豊島沖海戦によって火蓋が切られ、同年9月17日の黄海海戦によって制海権を獲得したのであった。
日清戦争には第1期から21期までの海軍兵学校出身者が参加した。約700名のうち400名は尉官クラス青年士官で、残りは佐官クラスの中堅士官になっていた。
開戦壁頭、英国商船高陞号を撃沈した東郷浪速艦長の英断は、国際法の研究を重ねていた結果として生れたものであり、黄海海戦において決定的勝利をもたらした単縦陣戦法は若い頭から割り出されたものである。また、世界最初の水雷夜襲戦として知られる水雷艇隊による威海衛夜襲に参加した艇長は何れも海軍兵学校出身者であった。
生徒増員と教育制度改正
明治28年(1895)4月17日、日清講和条約の調印が行われて、清国は台湾と遼東半島を日本に割譲することになったが、その後におきた三国干渉によって,日本は遼東半島をあきらめなければならない立場に追いつめられた。その結果,「臥薪嘗胆」の合言葉の下に、対露戦に備えての軍備大拡張が挙国一致体制で開始された。すなわち、明治29年から同38年までの10か年問継続による六六艦隊建造計画が議会の承認をえて実施に移された。この軍拡案に即応して海軍兵学校採用生徒数も、明治28年1月入校の25期が36名であったのが、翌年から急増して26期62名、27期123名、28期116名、29期137名、30期以後200名前後が8期続くことになった。これに伴い生徒食堂の増築と温習所の新築が明治33年11月落成した。この温習所は木造2階建で、後に生徒寝室にも使用し北生徒館と呼んでいたが、明治42年6月第2生徒館と改称された。
軍事訓練では、明治30年2月23日から1週間にわたり広島県加茂郡四日市付近の平五郎原において陸戦野外演習が実施され、翌31年にも3日問の野外演習が行われた。明治36年から毎年秋に原村(広島県加茂郡)の陸軍野外演習場に在校生徒総員が数日問野営して、対抗演習を初め各種陸戦訓練を行うことになった。これがいわゆる「原村演習」のはしりであった。なお、明治35年6月には古鷹山新設射撃場が完成している。
分隊編成は、明治19年に当時の海軍兵学校次長伊知地弘一大佐が英国海軍にならつて制定したと伝えられているが、同年2月制定の海軍兵学校条例に「生徒は分隊に編成し、各其分隊長に属するものとす」と定められたのが最初である。このときは横割りの分隊編成であった。明治23年2月5日「生徒の分隊を改正して8分隊となし、先進生徒を以て各分隊の部長、部長補を命じ、夫より1名宛席次を逐い、各分隊に分配編成す。但し、生徒分隊の編成は従来各号を以て組織せしも、新古の権衡を失し、往々支障あるに因り改正せしものなり」と定められて、各号混合の縦割りに改められた。
しかし、明治34年に横割りに戻した。すなわち、1分隊から4分隊までは1号生徒、5分隊から8分隊まで2号生徒、9分隊から12分隊まで3号生徒とし、各分隊の伍長、伍長補には1号生徒をあてた。明治36年6月再び学年混合の縦割りに戻され、さらに明治40年11月19日になって「各学年共,成績の順序により1分隊より12分隊に配布す」と定められた。
この各学年混合の分隊編成は、海軍兵学校独特のものとして廃校に至るまで続けられ、将校生徒育成のための教育訓練に貢献したのである。
日露戦争
明治37年(1904)2月8日の仁川沖海戦によって火蓋が切られた日露戦争は、翌9日夜から約3か月に及んだ旅順港封鎖作戦、同年8月10日の黄海海戦,同月14日の蔚山沖海戦を経て、明治38年5月27日の日本海海戦における圧倒的勝利によって局を結んだ。これ等の海戦には日清戦争に参加した第1期から21期までの卒業生のほか,22期から31期までの尉官級青年将校900名が参加している。また、明治37年12月14日卒業予定の32期生徒192名は卒業を1か月繰り上げて少尉候補生として戦場に駈けつけた。英国で教育を受けた東郷司令長官、海軍兵学校在校中米国に留学した瓜生司令官と、海兵士官学校卒業の武富司令官を除けば,聯合艦隊は海軍兵学校卒業生が指揮し、運用したのであった。
明治37年3月27日の第2回旅順港閉塞に使用した広瀬武夫中佐血染めの海図を、同年4月16日海軍大臣から特に海軍兵学校に交付し、また、明治39年3月17日には5月27日を海軍記念日に制定した。
日露戦争後、伊集院第1艦隊司令長官の猛訓練が「月月火水木金金」の語を生んだと言われているが、旅順閉塞隊の生き残りを始め歴戦の勇士を教官に迎えた海軍兵学校でもスパルタ式訓練が実施され、鉄拳制裁も盛んに行われた。訓育では「シーマンシップの3S精神」がモットーとされていたが,この3Sとはスマート(機敏)ステディ(堅実)サイレント(沈黙)で,日本海軍が「サイレント・ネービー」と言われるようになった伝統もこの時代に端を発している。
明治40年11月20日卒業の35期生は厳島、橋立、松島のいわゆる三景艦で、香港、サイゴン、ツリンコマリ(セイロン島)、マニラの遠洋航海を終わって馬公要港に帰港したとき、明治41年4月30日未明、松.島が火薬の白然発火によつて爆沈、乗組員350名の半数、候補生57名中33名が殉職するという事故が発生した。遠洋航海において,このような事故が発生して多くの犠牲者を出したのは,これが最初で最後であった。
予科生徒
大正元年(1912)8月29日、海軍兵学校規則が改正されて「修業期問は之を3学年に分け、第1学年は9月11日より翌12月末日に至り、第2、第3学年は1月1日に始まり12月末日に終る」となった。この結果9月から12月までの間は新旧2組の第1学年生が同時に在校すること第1学年予科生徒と呼称することに定めた。予科生徒の呼称を受けたのは大正2年9月入校の44期から大正6年8月入校の48期までである。
予科生徒の呼称が初めて用いられたのは、明治5年8月海軍兵学寮の幼年生徒(15歳以上19歳以下)を予科生徒、壮年生徒(20歳以上25歳以下)を本科生徒と改称したときである。海軍兵学校と改称されてからも、この区分は存続したが、明治15年5月からは予科生徒は海軍関係の子弟に限られることになり、明治17年4月には海軍関係の遺児で海軍兵学校に入学した官費生徒の呼称となり、明治19年2月に廃止された。したがって本科生徒は必ずしも予科を修める必要は無く、中学校や攻玉社(海軍兵学校受験のための私立予備校)などから直接受験して入校できる仕組みとなった。
訓育提要制定
大正2年(1913)9月3日、「訓育提要」が海軍兵学校によって制定された。第一編訓育綱領、第二編訓育学科、第三編訓育実科、第四編生徒隊内務、第五編兵学校沿革概要に分れていて、冒頭に次のような生徒守訓があった。海軍生徒は後来海軍将校として護国の大任を負うべき者なれば、常に次の条項を銘心服膺して瞬時も忘却すべからず。
第1条 凡そ軍人たるものは確固不抜の志操なかるべからず。不抜の志操は一意専心大元帥陛下を奉戴し忠誠を致して他を顧みざるに在り。苟も此の志操なきものは決して軍籍に在るを許されず。
第2条 明治天皇が軍人に賜わりたる五か条の勅諭並びに今上陛下の賜りたる聖勅は共に是れ軍人精神養成上の経典たり。軍人たるものは夙夜嗣勉 聖旨を奉体し忠勇義烈の熱誠を養い学術技芸に習熟し世界の大勢を達観し思想を堅実にし、以て我が金瓶無欠の国体を擁護し国威を海外に輝かさんことを帰すべし。
第3条 海軍将校の本文とするところは戦闘に臨みて其の指揮宜しきを得、膀を制するに在り。故に左の諸項を銘記せんことを要す。
1 如何なる危急の際にありても泰然白若、其の節度を失わず毅然として自己の任務を遂行するの勇気あるを要す。勇気は各自の資質に因る所多しと雖、而も平素鍛錬の功によりて之を養成すること難しとせず。真の勇気は愛国の熱誠と不撓不屈の精神と沈毅果敢の気象とより生ず。
2 敏捷果断は軍人の最も緊要とするところなり。干戈倉皇の際は勿論、平日と雖、軍務の遂行に当りて明確なる判断を欠き躊躇逡巡、為に事を誤るが如きは軍人として最も忌むべき所とす。平素より事機を見ること明に、学術の運用に習熟し咄嵯の事変に方りて即時に機宜の処置を取るの修養あるを要す。
3 将校たるものは部下を心服せしめざるべからず。服従は威圧を以て之を得べきにあらず。公明以て率い慈愛以て臨み,信賞必罰部下をして衷心悦服せしむるに在り。斯の如んば之を如何なる艱難の地に移すも其の親みや兄弟の如く、決して乖離の患なし。
以上の三項全く備わりて初めて将校たるの性格を得べし。この性格たる天稟に帰すべきもの多しと雖も、而も又精神の修養学問の錬磨に須つべきもの尠なからず。生徒たるものは常に之を服膺して、他日実行の基礎となさんことを心掛くべし。
第4条 将校は其の徳性、技術、学問に於て兵卒の模範たるべきは勿論なり。されば将校たるものは其の品行徳望を修め部下をして不言の間に敬虔心服の念を懐かしむるを要す。品行徳望は一朝一夕のよく之を修得すべきに非らず。生徒たるものは入校の当日より常に此の心を養い寸時も忘却すべからず。
第6条 浮華文弱は軍人の蠧毒たり、此の風は平生飽逸偸安の悪弊に発す。軍人たるものは常に兵馬の間に処し、敵前に在るの、悟を以て日夜軍務に精励し、超然此の悪風の外に立たんことを心掛くべし。
次ページへ
TOPページへ
「海軍兵学校」関連書籍
|