■海軍兵学校沿革
草創時代
海軍兵学校創立50周年を記念して、大正8年(1919)9月刊行された「海軍兵学校沿革」の緒言に、時の校長鈴木貫太郎中将が次のように述べている。
「大日本帝国海軍の主脳者たるべき将校の揺藍たる我が海軍兵学校は、明治2年9月18日を以て東京築地安芸橋内に弧々の声を挙げたる海軍操練所を以て其の前身となす。爾来,歳月を経ること正に五十閲年……」
明治新政府発足早々の明治元年(1868)7月,軍務官の実権者大村益次郎は,早急に西洋式近代海軍を創建拡充すべき旨を上奏し、「海軍興起の第一は海軍学校を起すより急なるはなし」と強調している。明治2年7月、軍務官が廃止されて兵部省が新設されると、まず、海軍操練所が創立された。
明治2年9月18日、兵部省は海軍操練所を東京築地の元芸州屋敷に置き、諸藩進貢の海軍修学生(18歳より20歳までの者、大藩5名、中藩4名、小藩3名)を教育する所とした。これは現在の中央卸売市場の一角に当る。翌3年1月11日、海軍操練所の始業式を行ったが、これが海軍始めの式の起源となった。2月23日「千代田形」を海軍操練所付属稽古艦と定め、3月には生徒2名に英艦乗組を命じている。
明治3年5月「大に海軍を創立すべきの議」を建議した兵部省は、その中に特に「海士の教育」という一章を設けて次のように述べている。
「軍艦は士官を以て精神とす。士官なければ、水夫その用を為す能わず、水夫用を為さざれば、船その用を為さずして、無用廃物となる。而して海軍士官と成るの学術,深奥にして容易に熟達する能わず、故に速に学校を創立し、広く良師を選挙して、能く学士を教育すること、亦海軍創立の一大緊要事なり」
同年11月4日,海軍操練所を海軍兵学寮と改称し、海軍操練所在寮生70余名から幼年生徒15名、壮年生徒29名を選抜し、全部官費と改めて入寮せしめた。ここに初めて、海軍士官養成の学校が創立されたのである。
このように、明治新政府がいち早く西洋式海軍の創建に着手し、特に士官教育を重視したのは、関係者の達見によるものであるが、徳川幕府がすでにその軌道を敷いていたためでもある。この観点から、幕府の海軍教育は軽視しえない存在である。
幕府の海軍教育
西力東漸の嵐に対処するため、近代的な西洋式海軍創建の必要を痛感した徳川幕府は、嘉永6年(1853)10月15日,長崎奉行水野筑後守忠徳を通じて、長崎出島駐在のオランダ商館長ドンクル・キルシユスに協力と援助を依頼した。その結果,翌安政元年(1854)8月長崎に来航したオランダ東洋艦隊所属の軍艦スームビング号(排水量400屯、木造汽帆併用外輪船)のフアビウス艦長は、同艦を教材として、幕臣,佐賀,黒田,薩摩の藩士200名に基礎的海軍術の教育を実施した。さらに,翌安政2年(1855)7月に再び長崎に来航した同艦を、オランダ国王ビレム3世の名において幕府に献上した。
そこで、幕府は同艦を観光丸と命名、海軍教育の実地練習艦に当てるとともに、旧乗組員のペルス・レイケン元艦長以下士官、水兵、機関兵など22名を教官として高給をもって雇い入れた。また、長崎奉行所の西役宅を講堂にあて、欧式海軍伝習を本格的に発足させた。これが、長崎海軍伝習所であり、安政2年10月に創設されたことになっている。所長に当たる諸取締には永井玄蕃頭尚志、伝習生には勝麟太郎以下幕府派遣の若い優秀な人材70名のほか、各藩委託の若い藩士130余名が入所して,航海術、運用術、造船術、砲術、船具学、測量術、算術、機関学などの伝習を受けた。
安政4年(1857)4月、幕府が膝元の江戸にも海軍教育機関を設置する必要を感じて、観光丸の江戸表回航を命じた。永井玄蕃頭を艦長格に103名の伝習生が乗組み、日本人として初めての洋式軍艦による航海をつづけて、無事回航の任を果した。幕府は、前年開所した築地講武所内に軍艦教授所を設置し、永井玄蕃頭に総督を命じ、観光丸を実地練習艦として、旗本、御家人、一般有志、各藩からの人材を集めて同年7月19日から、日本人教官による洋式海軍教育を開姶した。
一方、長崎海軍伝習所にとどまった伝習生たちは、新らしくオランダから購入したヤッパン号(排水量300屯、木造、汽帆併用の内車船)を実地練習艦として、カッテンディケ元艦長以下同艦乗組のオランダ人教官指導のもとに伝習を続けていたが、オランダ側の国際的考慮と幕府側の財政難から、安政6年(1859)閉鎖された。創立後わずか4年足らずでその歴史を閉じてしまつたが、伝習生の中からは日本海軍の父と呼ばれる勝海舟、川村純義(海軍卿)、中牟田倉之助(初代海軍軍令部長)、榎本武揚(海軍卿)、柳楢悦(初代水路部長)など草創期海軍の中心的人物が輩出している。また万延元年(1860)に日本海軍の軍艦として、初めて太平洋を横断した威臨丸(旧ヤッパン号)の乗組員は、勝艦長以下長崎伝習所出身者が大部分を占めていた。
江戸の軍艦教授所は、のち軍艦操練所、軍艦所、海軍所、海軍学校と次つぎに改称、フランスから招いたバリー、ついで英国から招いたトレーシー等の海軍士官からも伝習を受けたが、大政奉還により慶応4年2月イギリス士官が帰国し、操練所は白然廃止のやむなきに至った。また、元治1年(1864)軍艦奉行勝海舟が神戸操練所を設置した。伝習生には佐幕,討幕,攘夷,開国など各党各派の志士が入所して談論風発,さながら梁山泊の観があつたといわれる。坂本竜馬、陸奥宗光、伊東祐亨などがいたが、その自由と蛮風が幕府の警戒するところとなり、間もなく閉鎖された。
海軍兵学寮
明治3年(1870)11月4日、海軍操練所を海軍兵学寮と改称したが、翌4年1月10日大政官布達をもって「海軍兵学寮規則」が公布された。その通則の一部を抜粋すると次のとおりである。
第1条 兵学寮は海軍士官並びに下等士官教導の為に設置
第3条 兵学寮を分かって,幼年,壮年,専業の三学舎とす
第4条 幼年学舎は19歳以下15歳以上の有志の者を教導し,後日の大用に具うる者故,専ら考究を旨とし傍ら術芸を教ゆべき事
なお、同年1月8日の始業式には有栖川兵部卿宮が臨場され、生徒はこの日から金釦一行の短上衣を着用した同年6月15日「富士山」を海軍兵学寮稽古艦と定め、8月5日教官を武官制に改めた。この翌5年2月27日兵部省を廃止し、新たに海軍省と陸軍省が設置され、海軍兵学寮は海軍省の所轄となった。このとき、幼年生徒は予科生徒、壮年生徒は本科生徒と改称された。このように制度は逐次整備されていったが、「生徒に告ぐ自今庭園内に小便するを禁ず」という禁令が出されたことからでも推察出来るように,志士、壮士気取の豪傑肌の生徒が多く蛮風が漂っていた。歴戦の荒武者は戦場を知らない教官の排斥を行い、教官室にちん入し、教官と格闘することもあったという。
しかし、明治6年(1873)7月、英国からア一チボールド・ルシアス・ダグラス海軍少佐ほか各科士官5名、下士官12各、水兵16名の教官団が着任したのを契機として、海軍兵学寮の面目が一新された。兵学頭中牟田倉之助少将が海軍士官教育に関する実際面の総てを一任したのに応えて、ダグラス少佐は「士官である前にまず紳士であれ」という英国海軍士官流の紳士教育を前提とし、学科は英語と数学に重点を置いて、教科書も講義もすべて英語、しかも座学よりも実地訓練に重点を置く教育方針を打ち出した。
翌明治7年度からこの教育方針が実施に移され、教育の成果が着々とあがるようになり、低迷と混乱を続けてきた日本海軍の初級士官養成教育も、ようやく本格的な軌道にのることになった。生徒に洋式体育と遊戯を行わせるようになり、日本で最初の運動会が開催されたのも、この年からであった。また、同年5月5日、機関術実地教育のための分校を横須賀に設置したのも、機関科教官フレデリツク・ウイリアム・サツトン、上頭機関士のアドバイスによるものであった。これが海軍機関学校の前身であるが、同年10月海軍経理学校の前身に当る海軍会計学舎も東京芝に設置された。
これより先、明治4年2月22、海軍兵学寮生徒11名と軍艦乗組員から選ばれた6名(東郷平八郎見習士官を含む)が、第1回海外留学生として英米両国に派遣された。その関係もあって,明治6年11月19日卒業の第1期生は2名に過ぎなかったが、明治7年11月1日卒業の第2期生は17名で,山本権兵衛、日高壮之丞の名が見える。明治9年(1876)8月31日海軍兵学寮は海軍兵学校と改称された。同年10月海兵士官学校が海軍兵学校付属となって、東京兵学分校と呼ばれた。海兵士官学校は明治5年7月に発足した海兵隊の士官育成機関で、初め砲術生徒学舎と呼ばれ、軍務局所管であった。なお、明治12年になってこの分校は廃止され、分校生徒は本校に編入された。また、明治7年5月設置された横須賀兵学分校は、明治11年6月海軍兵学校附属機関学校と改称され、本校機関科生徒全員を同校に移した。さらに、明治14年7月に、同校は海軍兵学校から分離独立して、海軍機関学校となった。
明治16年(1883)6月、東京で最初の赤煉瓦造りといわれる生徒館が新築落成した。後に海軍大学校の校舎として使われたこの建物は、東洋一大きな2階建の堂々たるもので、地続きにあった木造の海軍省が粗末で小さな物置きのように見えたという。こうして、海軍兵学校の内容は次第に充実され、設備外観もそれと共に整備されていったのであるが、この頃から僻地移転の議が起つた。
江田島移転
明治19年1月に海軍兵学校次長兼教務総理に補せられた伊地知弘一中佐は、英国留学の経験から「兵学校を僻地に移転するの理由」なる一文を草して、江田島への移転を強く訴えた。その理由とするところは「第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を堅実ならしむるに在り。第二,生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精神勉励の一途に赴かしむるに在り。第三、生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都会を避くるを良策とす」というのであった。
明治19年5月、呉に鎮守府が設置された関係もあって、江田.島移転が本決まりとなり、同年6月には東京から派遣された視察団が建設用地の測量を開始した。また、海軍当局は島の有力者と「江田島取締方始末書」を取交わして、清浄無垢な教育環境の保持に努めた。
「江田島という島は,ほぼY字形をしている。兵学校は、ほとんど完全に陸で囲まれた江田内という湾を見下ろすYの字の分枝の内側に位している。兵学校の塀の外にはどちらかといえば見すぼらしい様子をした江田島の町がある。この町の外観と校庭内の秩序と規律を象徴する雰囲気とは、著しい対照をなしている。この島の大部分を占有する古鷹山の麓に近い傾斜には,沢山の段々に作られた稲田及び密柑畑がある。古鷹山の頂上から見下ろした兵学校の景色や、ここから眺めた瀬戸内海の姿は、こよなく美しいものである」
昭和7年から3年間にわたつて兵学校英語教官を勤めたセシル・ブロックは“The Dart・mouth of Japan"のなかでこう書いている。島の自然そのものが美しかったことも江田島移転の誘因の一つであったと思われる。
明治19年(1886)11月新校舎建設工事に着工、翌々21年4月物理、水雷、運用の3講堂と重砲台、官舎、文庫等落成。同年8月1日をもって海軍兵学校は江田島本浦の新校舎に移され、東京から回航して江田内に面した表桟橋に繋留された東京丸を生徒学習船として同月13日から開校された。
学習船は生徒館に代用されたもので、海岸と平行に四丁繋ぎ(船首尾の両側に錨を入れて固定すること)とし、陸上との交通は浮桟橋を使つた。最上甲板の中央に生徒喫煙室と診察所、後部と上甲板後部に職員事務所、上中甲板の前部に兵員室を設け、その他は教室兼生徒温習室、食堂、洗面所、浴室とし、食堂とその直下のホールドを生徒寝室として釣床用のフックを設けた。中部ホールドを2、3の教室に分けたが、船底が腐蝕して常に海水が浸入し、各室は採光不良で白昼でも暗かつたといわれる。
明治26年(1893)6月15日に生徒館,事務所、兵舎等が落成して、学習船から陸上施設に移転した。生徒館は赤煉瓦造り2階建洋館で、階上中央を監事部とし、その両側を生徒寝室にあて西洋式寝台が備えられた。階上の一番東側に講堂、続いて生徒展覧所があり、階下中央に生徒応接所、診察所、使丁室、信号兵詰所、その東側に生徒温習所、西側に講堂が設けられた。生徒館と並んでその裏側に建てられた別棟に食堂、喫煙所、洗面所、浴室、発電所などが設置された。
江田島移転後最初に卒業したのは15期生であり、赤煉瓦の生徒館を使用したのは20期生以後である。なお、明治20年7月海軍機関学校が廃止されて在校生徒95名が海軍兵学校に編入された。(明治26年に至つて再び海軍機関学校が独立している)
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