Brasil日記    イグアスの滝  リオ・デ・ジャネイロ   サンパウロ  ニューヨ ーク編1  〃2

2/21
 ちょうど日本の反対側・ブラジルに来ています。成田→ニューヨーク(JFK)→SAO PAULOと、まるまる24時間の行程です。
 詳しいページは後で作ることにして、幸いインターネット環境が快適なので、簡単な旅日記を載せていきたいと思います。
 2・20成田発19:00アメリカンエアライン168便・ニューヨークJFK空港行きに搭乗しました。空港についてチェックイン(2時間前)したら、なんと出発が3時間半遅くなって、22:30になると聞かされました。この便は、ガラガラと聞いていましたが、JALの便と共用になるそうで、そちらの時間に合わせられたようです。
 こちらはNYで、同じく951便に乗り換えて、サンパウロに行く予定です。その乗り換え時間が無くなったら困ります。AAのカウンターで交渉したら、その場合は向こうで交渉してください、とのこと。せっかく席の広いAA便を使うのにJALの機体になるのか、というと、機材は当社の物ですから大丈夫です、198席中78席しかご利用がありませんから、手続きも時間はかからないと思います(飛ばすだけ良心的です)、という話でした。そういえば、インフォメーションには、「運行中止」という台北便もありました。
 ニューヨーク空港で待つのも、成田で待つのも同じ、とあきらめて、出国手続きを済ませて4時間も空港で待つことになりました。さすがに店も閉店し見るものもなく、ソファーでごろ寝するしかありません。
 飛行機の時間はあてにならない、とわかっていても3:30もの遅れを、お詫びもなく伝えられるのは、ちょっと腹が立ちました。それでも、出発は22:30ちょうどに離陸できました。確かに、機内はがらがらで、私の隣も空席・後ろ3列も空席でした。中央の6席は、一人しかいない列もあって、完全なベット状態でした。この時期、NYに行く人は本当に少ないようです。無理してビジネスクラスにしないで本当に良かった!


2/22
 JFK空港着は、11:45後、現地時間の20:20に着きました。乗り換え便は、22:30発です。2時間あればなんとかなるでしょう。しかし、トランジットとは言っても、チェックの厳しくなったニューヨークでは、いったん荷物を受け取り、入国手続き・出国手続きをしないといけません。ターンテーブルから出たスーツケースを持って、移動します。カートを借りるのに3$が必要です。20年前のコインがあったので、ここで使おうとこれを財布に入れてきました。が、大きな1$コインが使えません。係員も見たことないといった顔で、手にしていました。これは、更に70年代のカジノで使われていた本物のコインでしたが。
 チェンジする時間もないので、そのまま手で押して、移動しました。ゲート番号がわかったので列に並びましたが、スーツケースを持っている人はいません。聞くと、これは飛行機会社のカウンターに出す、ということなので慌てて戻り、チェックインカウンターに並びました。しかし、トランジット便のチェックインも成田で終わっているはずです。列は、チケットを購入する人の列でした。また、聞いて、荷物を渡しましたが、これで本当に積まれるのか不安でした。とりあえず、手荷物を持って先ほどのゲートの列に並びました。ここで人数調整されて進んだ先は、大行列です。荷物チェックも、尋常ではありません。女性は、ブーツも脱がされ裸足で進んでいます。上着もベルトも取って、ゲートをくぐり出国だか入国だか分からない審査です。2通の書類を事前に書いておいて良かった。スキャナーで指紋を取られ、デジカメで写真をとられ、やっと通過しました。 ビザ不要なんて、意味無いですね。
 951便に搭乗ゲートにたどり着いたのは、出発30分前ですでにゲートインが始まっていました。今は、エコノミークラスも座席番号でグループ化されて搭乗するようで、今がどのグループか分からないので、待ってすべてのグループになってから入りました。なんと、この便は満席でした。荷物の棚もいっぱいで、私の席の棚にはもう入りません。一つは座席の下のフットスペースに入れ、一つだけ隣の棚に押し込みました。でも、足が伸ばせなくなり、隣もいるので、かなりきつくなりました。
 全員乗り込み、後はもう8時間の我慢、と思っていると、アナウンスも途絶え、時刻を過ぎても動きません。成田発のAA便は日本語のアナウンスもありましたが、もうNY発は英語とポルトガル語しか話しません。ときどき機長が話す言葉に、もう10分くらいという単語が出るのですが、それを4回くらい繰り返したでしょうか、そのうち外は大雪になり、機体の雪払いや、滑走路の整備に時間がかかり、結局飛び立ったのは、1:30遅れの24:00でした。これが、アメリカの飛行機なのだと納得し、スーツケースが一緒に来なくても、半券にはサンパウロ便も書いてあるので、遅れても着くだろう、と心配するのも面倒になり、更にサンパウロの入国審査は2時間かかる、と聞いていたので、もう急ぐ気持ちも捨て、機内食の期待も無くなったので、ふて寝することに決めました。日本時間では朝でも、ここは夜中ですから。
 AAの飛行機は、若干座席は大きいようですが、その分通路が狭く、通る人が頭をかすめます。足を組めば、これも通る人に当たります。またトイレも少なく、しょっちゅう人が並ぶので、トイレに近い席は落ち着きません。食事は、通常より2回りも小さなトレーに、ちょっとだけ。これも、機内で食べるには十分ですが、間隔が長く朝食は少ないので、お腹はすきます。でも、24時間の中で20時間くらい寝て、4回食事をするのですから、これで十分でしょう。アルコールは、すべて5$の別料金というのも納得できます。


2/23
 

 ニューヨークから7672km・10時間のフライトで、サンパウロには現地時刻午前10:45に着きました。時計は日本との時差が12時間なので、同じ時刻を指しています。ちょうど24時間後の10:45に着いたわけです。24時間かかって12時間前に戻ったので、夜中に日本を出発して、翌日の昼に到着という感じです。
 もう急ぐことはありませんが、一刻も早く出たい気持ちで機外に出て、イミグレーションに急ぎました。空港内の写真を撮ろうかと思いましたが、外の風景は不思議とどこも似ています。2時間並ぶと聞いていたし、スーツケースが届くか心配だったので、どんどん歩きました。途中の通路は、表示に英語がなく、ドア1枚で通路脇の待合室に入れるようで、厳重という様子はありません。荷物の受け取り口も、外につながっていて、トレーラーが降ろした荷物が、そのまま入ってきます。3台目の車から、私の荷物が降りてきました。無事到着です。
 事前に書いたカードは出国用となっていたので、ビザのあるページを開いてパスポートを提出すると、やはり入国カードを要求されました。日系の職員を指して、あの人に聞けと言われましたが、グリーンのカードというのは書いてあったので、急いで出して渡しました。あっけないほど簡単に審査が終わり、外に出てしまいました。迎えの人込みを探しましたが、人影もまばらです。そのまま外に出てしまいました。なんと簡単な入国か・・。
 お世話になる友人が迎えに来るはずなので、再び空港内に戻って、迎えられる体制に入りました。そのときです。友人の姿が見えました。飛行機が遅れたせいで、入国審査のラッシュも過ぎて、予想以上に早く出られたようでした。気温は26度という表示どおり、暑いという感じはしませんでしたが、冷房の効いた車は、やはり夏ですね。先ほどまで、風邪を心配してマスクをしていましたが、あっという間に夏がきました。
 カメラを出して、車内からサンパウロの写真を撮り始めました。高速道路はどこも似たようなものですが、赤茶色の工事中の道や、見慣れない大型トラックが目立ちます。そんな高速道路に、荷物を持った人が立っています。渋滞の車に物を売る人たちだそうです。しかし、この日は迎えの友人もびっくりするほど渋滞がありません。サンパウロの市内に近づくにつれ、車も人も多くなってきました。渋滞がなければ40分くらいで着くという郊外の友人宅を目指します。
 サンパウロの第一印象は、大型トラックが多く走る中に、小型車とバイクと歩く人が同じ方向を目指して進む様子でした。4車線ある道が、川を挟んで上り下りどちらも同じ流れで進んでいます。車線の外側には歩道もあって、人も歩いています。市内を抜けて、郊外に入ると、車線は2車線くらいになりますが、中央の余裕を持ったグリーンベルトに歩道ができていて、ここにも歩く人が途切れません。ところどころ路線バスを待つプラットホームにも人が多く立っています。広いのに人も多い、というのがサンパウロの第一印象でした。


2/24
 

 サンパウロから飛行機で2つの観光地を目指しました。まずは、となりのリオデジャネイロです。400Kmですから車でも6時間くらいで行けるようですが、今回は飛行機で45分を選びました。
 首都がブラジリアへ移る前は、ここリオデジャネイロが首都でした。旧い建物も並び、一級の観光地でもあります。日系人のガイドの案内で、有名なキリスト像やシュガーローフに登りました。キリスト像は登山電車で20分・エレベータとエスカレーターで、ほとんど歩くことなく900mの頂上につきます。時間帯によっては、雲がかかるほどの高さですが、リオが一望できる絶景が見られます。
 シュガーローフ(砂糖パン)の丘は、ロープウェイを2回乗り継いで、これまた歩かずに頂上へ登ります。カーニバルの間は、何万人という観光客が訪れるので、1日でこれらの施設を利用して登ることは不可能だそうです。ほとんど待つことなく、2つのポイントを見られたのは、かなり運も良かったようです。自然が作ったものと人間が作ったものが、見事に調和したリオは、ブラジルのというより、ワールドクラスの観光地です。
 コパカバーナの海岸近くのホテルに宿泊し、翌日は海岸を散歩しました。カーニバルは終わりましたが、外務省の海外危険情報では、かなりの危険度に指定されています。何が危険なのかが、徐々に見えてきました。人が多いのはサンパウロと同じです。スラムに職のない人が大勢集まり、何とか働こうと町に出てきます。交差点に車が止まれば、盗んだものを売る人が寄ってきます。駐車しようとすると、係員のように集まってきて、料金を請求したり、見張りの仕事をセールスします。レンタカーを借りて車で移動など、ほとんど不可能です。
 こういう「自営」の労働者たちが、縄張りや上下関係を作って仕事をすることが、観光客にとっての治安を悪化させているのです。大きなお腹の若い女性も多く見かけられます。彼女たちには子どもを作って生むことも、労働力を増やす仕事になっているようです。ブラジルの人の多さは、子どもの多さでもあります。子どもを生む女性の多さと、子どもの手を引く男性の多さは、サンパウロでも目立ちました。
 サンパウロ同様、リオでも落書きが目立ちます。これらを取り締まる法律も警察もありますが、犯人を捕まえた警官が、被害者宅につれて来て1000円程度の金を要求するそうです。金をもらえば、犯人をぼこぼこにしてくれるのだそうです。刑務所も満員なので、そのまま逃がすしかないそうです。ペンキメーカーが、定期的にコンテストを開くので、賞金を目指して子供達が描きまくっています。


2/25
 

 いよいよ今回のメインであるイグアスの滝です。サンパウロから南西の方角で、飛行機で1時間以上かかります。リオからサンパウロに戻り、ここで飛行機を乗り継ぎます。
 飛行機の窓から川が見えてきました。空港で迎えの車に乗り、さっそくイグアスの滝を目指しました。国立公園なので、入場料が必要です。滝を巡る散歩道に入るとすぐに見えてきました。
 まさに写真で見たのと同じ・・今年は雨が少なかったせいで水は濁っていません。あまりにもたくさんの滝が並び、これでもか・これでもかという感じです。船に乗って滝壷をめぐるコースもありますが、迫力は遠くから見るだけでも十分でした。橋を渡っていくと、水しぶきや風が回っていて、帽子も飛ばされてしまいました。
 気温は30度を超え、厳しい日差しでめまいがします。途中で、この公園のペットでもあるクアチが出てきます。これはねずみの仲間だそうですが、60cm以上の体長があり、縞の尻尾はレッサーパンダのようです。食べものをあげてはいけないと看板にありましたが、愛嬌のある姿は人を全く怖がっていません。
 イグアス川とパラナ川が合流するこの地点は、ブラジル・アルゼンチン・パワグアイの3国が国境を接するところだそうで、川を渡って密輸品がいきかう危険地帯でもあるそうです。国境を展望する地点には土産物屋が並び、パラグアイからの偽者の時計が、数$で売られていました。
 せっかくこの地域にきたので、国境を越えてアルゼンチン・パラグアイに入ってみよう、ということになりましたが、ガイドにもホテルの従業員にも、「よしたほうが良い」と止められました。国境という、新たな危険があるようです。


2/26
 

 イグアスは国境の町でもあります。ホテル前で客待ちをしているタクシーと交渉して、アルゼンチンやパラグアイに行くことにしました。日本では考えられませんが、国境の橋を渡ると、すぐに隣の国です。お決まりの国境をまたいだ写真を撮り、アルゼンチンのポルトイグアスの町に入りました。観光客の行き来も多いようで、高速道路の料金所のような税関を抜けるには、当然パスポートが必要です。その日のうちに出る場合は、パスポートにスタンプは不要なのですが、せっかく出したのでお願いしてビザのスタンプを押してもらいました。
 アルゼンチンは肉がおいしいというので、ステーキを食べることにしました。もう夜の7時ですが、客は殆どいません。アルゼンチンでは夕食は9時前には食べないそうです。しばらくすると英語圏からの観光客も増えできました。2人で50$(といっても2000円くらい)のステーキは、アメリカやオーストラリアの肉とも異なるやわらかくておいしいものでした。サラミがおいしいというので、市場に買いに行きました。残念ながら、日本には持ち帰られませんが、ブラジルの人はわざわざ買いにくるそうです。その他、革や羊毛の衣料品店もあり、ゆっくり買い物ができれば楽しそうな町でした。
 アルゼンチンはスペイン語です。タクシーの運転手が、ガソリンを入れていきたいというので、スタンドによりました。ブラジルよりかなり安いそうです。面白かったのは、運転手はポルトガル語で話し、スタンドの従業員はスペイン語で答えていて、それでも通じることです。私にはスペイン語もポルトガル語も音の違い程度にしか分かりませんが・・。
 無事にアルゼンチンから出国できたので、せっかくだからパラグアイにも行ってみよう、ということになりました。パラグアイは密貿易の国で、治安の悪さは南米1かもしれません。国境の橋は、担ぎ屋が荷物をしょって歩いてきます。一人150$までの荷物は、そのままブラジルに入ることもできますが、麻薬や偽ブランド品などの違法物資は、川の真ん中で落として、船が拾うのだそうです。
 そのような国境なので、雰囲気もアルゼンチンとは全く異なりました。何がおきてもおかしくない不気味さが感じられます。タクシーの運ちゃんも、橋を渡ったらすぐにUターンしてしまいました。ほんの数分の入国でした。ブラジル側からあらためてパラグアイを見ると、高層ビルが並び明かりがこうこうと光っています。ナイキやパイオニアなどの看板がブラジル側からも見え、工業製品の貿易だけで成り立っている国のようでした。
 翌日は、イタイプ発電所を見学しました。ここは、そのパラグアイとの共同施設で、使いきれない電力はブラジルに輸出しているそうです。


2/27
 

 サンパウロに戻りました。あちこち移動して、何となくブラジルという国が分かってきました。日本人町で日本食を食べました。ここには、日系の人が多く集まります。移民資料館も見学しましたが、ブラジル移民の歴史は、戦前と戦後に分かれていて、どちらかというと今は、戦後移住者の時代のようです。彼らは、必ずしも農業をするためにこの国に移住してきたわけではありません。日本型のビジネスをブラジルに応用させよう、という考えの人が多かったようです。野菜を食べる習慣があまりなかったこの国に、大根や白菜・なすなどといった日本野菜を多く普及させたり、必ずしも日系人だけを対象にはしていなかったようです。
 ブラジル移民の歴史も、北米やハワイとは異なり、政治的な差別や混乱は少なかったようです。そんな中で、日系人社会を形成するよりは、現地の人に溶け込み、指導的な立場を得て活躍してきたようです。白人系のブラジル人は、ポルトガル・スペイン・イタリアなどヨーロッパ各国からの移住者の子孫です。黒人も多く、彼らはポルトガル時代の奴隷の子孫でしょうか。アメリカ系の黒人とは少し異なるように感じました。人種差別は殆ど無いようですが、貧富の差は大きく、都市ではいたるところにスラム街が存在します。
 都市から離れた別荘地や農場地帯は、きれいな高速道路の両側に美しい風景が広がっています。こういう地域はスラムとは無縁に思えますが、見えない場所にスラムは存在するのだそうです。今日は週末なので、サンパウロのスラム街から銃声が聞こえてきます。これは、麻薬の取引があることを知らせる合図だそうです。風船に爆竹をつないで上げることもあるそうで、朝からパンパン音がしています。 そのスラム街を車で通過してみましたが、言われなければそうとはわかりません。子供達が道路でサッカーをして遊び、道路脇の屋台のような店に、多くの人がたむろしています。これは、通常の住宅街でも同じです。
 休日は一般に開放されるという市場に買い物に行きました。野菜・果物・肉。魚・乾物や生花まで、何でも揃っています。夏なのに白菜や大根もあります。ナス・インゲン・トマトなど、野菜は日本でおなじみのものばかりです。果物は、見たことがない沢山のものが並んでいます。魚は、鮮度の良いイカやたこまであります。アジは今日はいいものが無いが、鰯なら良いのがある、ということで買い求めました。山河焼きにして食べましたが、日本のマイワシとは異なる鱗の硬い痩せたもので、さばくのに苦労しました。味は、鰯というよりアジに近いものですが、生でも十分いけました。市場には、肌の色も異なるブラジル人がばかりなのに、売られている食材が日本と同じなのには驚きました。何よりも、値段の安さにびっくりします。ほぼ、1/4です。
 今回は日系の友人宅にお世話になっているので、食事も言葉も「日本」そのものです。テレビもNHKの衛星放送を見ています。そのニュースの中で、治安が悪化する日本で、ひったくりの被害にあわない方法や近づいてくる不審者から身を守る方法などを放送していました。「日本もだんだん危なくなって来た」という感想より、「日本の国際化」の中で常識の範囲の防衛本能が求められているのだと思いました。


2/28

 今日でブラジルともお別れです。ニューヨークJFK空港に向け出発します。帰りは、ニューヨークで2泊して、ちょっとだけ見物しようと思います。最後のサンパウロなので、お土産を探しに町に出ました。
 サンパウロは、今日は晴れて暑くなりましたが、比較的涼しい日が多く、雨も適当に降りすごしやすい気候です。しかし夏特有の湿り気が無く、晴れるとかなり乾燥しています。喉が渇いて、風邪を引いたときのようにがらがらします。サンパウロ滞在中、徒歩で道路を歩くことはありませんでした。家の城壁のような囲いは、すべて鍵がかかっていて、出たら入れません。ここに30年住む友人も、歩いて外出することは無いそうです。そういう点では、日本の治安は良いのでしょう。
 街中の店も、高級なところは施設のガードマンが立っています。お金を持っていることが危険なのです。所持していなくても、自宅に持っていれば、強盗は車に同乗して、自宅までついてきます。どこにも持っていない人が安全なのです。 自家用車で移動できる階級と、バスや地下鉄・徒歩しか移動手段の無い階級と、経済的な差別は大きいようです。
 ブラジル名物は石なのですこしばかり水晶を買いたいと話したら、石を売っている店に連れて行ってもらいました。大きなスーパーのような店で、ここにもガードマンが立っています。中に入ったらびっくりしました。ちょっとしたお土産用の石、と考えていたのですが、高級な原石屋でした。あるはあるは、水晶やアメジストがびっしり並んでいます。値段は、質の違いでKgいくらという表示です。日本で買ったら10万円しそうなものが、2・3万円で買えそうです。台湾でも石屋は見ましたが、規模と種類と値段が異なります。
 見ているうちに不思議な魅力に取り付かれ、あっという間に、予算の10倍もの買い物をしてしまいました。遠くまで来て、いつまた来られるか分からない、という気持ちもあったと思いますが、こんなに重いものを買ったら、持っていけるのかと心配になります。ニューヨークでは、もう何も買うまい!と思っても、円高に財布の紐が緩みっぱなしです。


3/1

 帰りは日本まで友人と一緒なので気が楽でしたが、空港でトラブルです。出国前の荷物チェックで、事前にいろいろ聞かれると教わっていましたが、いいかげんに答えたら荷物チェックをされてしまいました。別の場所に連れて行かれ、スーツケースを開けて、中の箱・袋はすべて検査されました。後で、無差別なサンプルチェックをされただけだ、と言われましたがまさか出国時にと、やはり不愉快でした。
 サンパウロからの約9時間のフライトは、夜中に出て朝着く夜行便感覚です。友人のアイディアで、飛行機の席を中央の5列席の両端をとったので、ほぼ満席でしたが、この列は他に一人だけになりました。後は夕飯を食べて寝るだけです。気温-2度・雪のニューヨークJFK空港に、現地時間5:45に着きました。空港ゲートの営業が6:00からなので、しばらく待たされて機外に出ました。
 帰りは日替わりのトランジットの権利を行使して、ニューヨークに2泊して、ちょっとした観光を組みました。あいにくの雪ですが、乗合タクシーでマンハッタンのホテルに向かいました。車中から、初めてのニューヨークの風景が近づいてきます。まだ8時前のマンハッタンですが、通勤ラッシュは始まっていました。イエローキャブを押しのけて、ミニバンが客をそれぞれのホテルに送り届けていきます。ホテルに着いて荷物を預け、早朝の町へ出かけていきました。
 雪は殆どやみましたが、やはり寒いです。これで3年連続赤道を越えて季節の変わり目を2回経験します。何となく、1年で2歳年をとるような感じです・・。
 垣間見たニューヨークは、地球上のあらゆる人種・言葉・習慣が一つに溶け込んでいます。「ここが、地球の都市」という印象です。その中にある、日本やブラジルなどの割合が比例して見える、という構造です。そのような中で、日本の割合が以外に少ないこと、ユダヤ人の割合が多いことを再認識しました。応援したい気持ちで、昼はうどん・夕飯はYoshinoyaの牛丼を食べましたが、いずれも日本語など通じず、店員も南米系・スペイン系で、日本はどこにもありません。
 地下鉄で「GROUND ZERO」に行きました。3年以上たつので、もはや大きく開いた穴は無く、立ち入り禁止の鉄柵で囲われていました。貿易センタービルが無くなった後の、大きな空の空間が象徴的です。こんなところにジャンボ機が飛んできたなど、とても想像できません。


3/2

 ニューヨークの風景は、テレビや映画で見慣れているせいか、初めて見る気がせず懐かしさすら感じます。ロックフェラーセンタービル名物のスケート場や、Day after tomorrowの映画で見た図書館、マンホールから立ち上る湯気など、記憶にある映像と同じです。TVなどの映像が氾濫する現代の、地球上の最も多くの人の網膜に残っている風景なのでしょう。
 私は都会が嫌いな田舎者で、ニューヨークは正直興味はありませんでした。どうせ銀座と同じ、見栄とファッションだけの町だろう、くらいにしか思っていませんでした。しかし、何者をも拒否しないる混在の都市は、地球そのものを代表する、包容力のある町でした。1日や2日歩いたってどうにもならない巨大都市、と思っていましたが、歩く範囲だけでも次々に興味を誘う物があふれています。「ニューヨークが好き」と言う人の気持ちが少しは理解できました。
 日本の銀座や新宿・原宿などの町はそれぞれ色があって、周りと異なる色は浮いて排除されます。ニューヨークは、最初から虹色になっていて、どの色も調和し溶け込んでしまう、といった印象です。街中の道路や地下鉄の通路などですれ違う人たちは、無視の視線でなく許諾の視線を交し合っている気がします。そういう視線に慣れてくると、物騒という印象は薄れてきます。悪名高いニューヨークの地下鉄よりも、日本の鉄道のほうがむしろ危険を感じる事が多いように思えます。実際は、私服の警官が乗り込んでいて、警備をするようになったので安全になったのだ、と友人が教えてくれました。
 あのテロ以降、ニューヨークを守ろうという姿勢が、市民だけでなく行政にも反映されているのでしょう。そちこちで見かける警官の姿は、恐らく世界で一番頼もしく、信頼できる存在に見えます。南米の旅行中も、ガードマンや警官の姿が、かえって緊張や不安感を与えることが多かったのですが、ニューヨーク市警は、銅像のように動かず目立たない姿勢で立っています。

 

3/3・4

 サンパウロからニューヨーク経由で成田へ帰国です。帰りはニューヨークで2泊して、ちょっとした見物をしていましたが、いよいよ今日は帰国の日です。
 実はこの1週間、ひどい下痢に悩まされていました。下痢止めを飲んでも、2・3日でまた再発します。イグアスから帰った日に始まり、翌日は熱も出て、1日絶食しました。12時間の睡眠で何とか熱も下がり回復したかに思えましたが、下痢は治まりません。 いくつか思い当たるのは、イグアスの空港で食べたサンドイッチのマヨネーズが変だったこと、足の痛み止めの内服薬を飲んだ日に下痢が重なっていること、サンパウロに戻った日に、部屋に飛んでいた蚊を潰したら血を吸われていたこと、などです。
 日ごろ胃腸は弱いほうではなく、下痢もめったに経験しないので、若干不安になっていました。「帰国した成田で検疫に引っかかり、強制入院になったら・・」などと不安が過ぎります。この下痢で、思い切って食べられなかったことが唯一の心残りですが、その分太りすぎずに、腰や足への負担が減ったのでしょう。最大の懸念の「ぎっくり腰」は回避できたようです。10年前のカナダ旅行では、ぎっくり腰になって車椅子で帰国する羽目になりましたが、今回は大丈夫そうです。
 ニューヨークJFK空港には、出発2時間30分前に着きましたが、かなりの混雑でチェックインに1時間30分もかかってしまいました。更に、厳重なセキュリティチェックがあり、靴もベルトも上着も、すべて外さないとゲートがくぐれません。「飛行機は寝るだけ」と、旅慣れた(?)私はジャージ・サンダル姿で搭乗することにしているので、ゲートは一発で通れます。ここは相変わらず罵声が飛び交う修羅場になっています。ゲートに着いたのは、搭乗開始10分前でした。
 遅れを心配しましたが、定刻の離陸で順調な飛行を続け、成田上空に着いたのは12時間後の15時40分でした。しかしそこから50分、空港からの指示で上空旋回待機をさせられ、着陸できたのは16:50でした。出発のときは3時間半の遅れでロビーで待たされ、帰国のときは上空で1時間待たされる旅でしたが、やっと雪の成田空港に直陸できました。