日本海海戦今昔感 「海南新聞」
1914年5月28日
海軍少将 秋山真之 (談

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日本海海戦は対抗両艦隊の兵力多大なりしと、其の勝敗の差隔が著しく懸絶して露国艦隊は殆ど全滅したるに対し、我が日本艦隊の損害の過少なりし点より見て、空前の一大海戦であるが、又其の戦場の頗る広大なりしと、戦闘時間の甚だ長かりし点に就いても、古今未曾有と謂うべきである。実に此の海戦 当年5月27日払暁の頃、哨艦信濃丸が203地点の敵艦隊を発見したるに始まり、對馬海峡より鬱陵島(松島)附近に至る約3百マイルの大海面に於いて、翌28日の黄昏過ぎ迄2日間に亘り、晝夜連続各方面に戦われたるもので、其の間彼我艦艇の砲火を交へたる合戦は大小10ヶ所に散在して居る。今其の戦跡を辿って見ると、大要左の通りである。
此の一大海戦を組成せる10合戦の要領は先ず此んなものであるが、尚ほ各合戦を比較して、其の対勢と戦果を計算して見ると、頗る興味があると考える。此の海戦大は大なりと雖も、彼我対当の決戦とも認むべき合戦は、唯だ単に27日午後の第一合戦のみで第二合戦より第10合戦迄の9合戦は、何れも我が優勢を以って敵の劣勢に当たり、大抵其の勝敗も瞬く間に決して居る。而も其の戦果に就いて見ると、第一合戦では僅かに敵艦7隻(内3隻は計数の価値なき仮装巡洋艦なり)を撃沈し得たのみで、残余の敵艦10隻撃沈、5隻捕獲の大仕事は、皆第二合戦以後に於ける敗残の敵艦隊に対する追激戦を以って仕遂げられたのである。之を以って見ると、戦勝の正味の結果は花々しき決戦の時よりは、決戦終わりたる後の追激戦にて獲得せらるることが分かると同時に、矢張り数字上の優勢を以って敵に対すれば、容易く敵を圧倒することが出来ると謂うことも証明せらるるかと思う。然しながら此の当初の第一合戦に於ける対当の大決戦に、敵の有力なる戦艦4隻を撃沈して彼我勢力の均衡を破り、当日の勝敗を決し得たことが、此の海戦の大眼目とも謂うべきもので、若し此の肝心なる決戦に勝ちを制することが出来なかったならば、第二合戦以後の大戦果も挙がらぬのみか却って苦戦悪闘を続行して、我が損失を増大するの悪果を生じたのである。故に海戦に於いては初めより優勢を以って敵に対するか、或いは当初の決戦に勝を制すると謂うことが至極肝要である。
日本海の大海戦に於jける、我軍の大捷は前陳の如く、実に其の第一合戦の決勝より生み出されたものである。然らば此の第一合戦其物は如何に戦われて、如何に勝敗が決したかを討究するのも、亦趣味あることと思われる。実に此の第一合戦は5月27日午後1時55分、我連合艦隊司令長官東郷大将が彼の記念すべき「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の訓令信号を掲げ、我が主力たる第一及び第二戦隊を率いて、敵前に邁進したる時に始まり、其れより連続攻撃を続行し、日没に至りて熄みたる。約5時間の合戦で、其の戦場は沖ノ島の北方である。然りながら、此の第一合戦も亦其の過半は追激戦で其決戦の決戦たりし正味の部分は、僅かに当初の約30分間に過ぎない。日本海海戦の勝敗が僅々30分で決着したと謂えば、或は驚く人があるかも知れんが、其れが真正の事実に相違ないので、東郷大将の海戦戦報にも明白に其の事が記載してある。今此戦報を取出して、其の初めの方を見ると左の一節がある。

敵の戦闘部隊は我が第一戦隊の圧迫を受けて稍其の右舷に転蛇し、午後2時8分より砲火を開始せしかば、我は暫く之に耐えて、射距離6千メートルに入るに及び、猛烈に敵の両先頭艦に集弾せり、敵は之が為益々東南に撃圧せらるるものの如く、其の左右両列共に漸次東方に変針し自然に不規則なる単縦陣を形成して、我と並航の姿勢を執り、其の左翼列と先頭艦たるオスラーピヤの如きは須臾にして撃破せられ、大火災を起こして戦列より脱せり、此時に当り第二戦隊も既に盡く第一戦隊の後方に列し、我全線の掩護砲火は射距離の短縮と共に益々顕著なる効果を呈し、敵の旗艦クニヤージ、スウオーロフ 二番艦アレクサンドル三世も大火災に罹りて戦列を離れ、敵の陣形愈々乱れ、後続の諸艦亦火災に罹れるもの多く、其騰煙西風にたなびきて、忽ち海上一面を蔽い、濛気と共に全く敵影を包み、第一戦隊の如きは為に一時射撃を中止せるの状況なりし、又我軍に於ても各艦多少の損害を蒙り、浅間の如きは後部水線に近く3弾を受けて舵機を損し、且つ浸水甚だしく、一時止むを得ず列外に落伍せしが、幾もなく応急修理して、再び戦列に入れり、之れ午後2時45分に於ける彼我主力の戦況にして、勝敗は既に此の間に決せり。

此の戦報の通りに、敵の艦隊が初めて火蓋を切って砲撃を開始したのが、午後2時8分で、我が第一戦隊が暫く之に耐えて応砲したのが34分後れて2時11分頃なりしと記憶して居る、此の34分に飛んで来た敵弾の数は少なくとも3百発以上で、其れが皆我が先頭の旗艦三笠に集中されたから、三笠は未だ一弾をも打出さぬ内に、多少の損害も死傷もあったのだが、幸に距離が遠かった為め、大怪我は無かったのである、午後2時12分我艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭2艦集弾したるより、午後2時45分敵の戦列全く乱れて勝敗の分れたる時のまで、其間実に33分で正味の処は30分に過ぎない、然し未だ此時には敵艦1隻も沈没して居らぬのだ。此対戦に於ける彼我主力の艦数は、双方共に12隻であって我は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、彼は戦艦8隻、装甲巡洋艦1隻と装甲海防艦3隻より成り、其勢力は略対当であったが唯だ較や我軍にお戦術と砲術が優れて居った為に、此の決戦を贏ち得たので、皇国の興廃は実に此の30分間の決戦に由って定まったのである。然し戦術とか砲術とか或は勇気とか、膽力とか謂うものの矢張り形而下の数学的勢力は争われぬもので、若し此対戦に於て、我海軍が12隻の主力戦隊を戦線に出すことが出来なかったならば、此勝敗は未だ執れとも謂えないのである。実に此戦線に参加した我が装甲巡洋艦日進、春日の如きは開戦真際に伊太利より購入せらり、開戦后に我国に到着したのであるが、若し此二艦が無かったならばと想うと、吾人は今日も尚戦慄せざるを得ない。独り日進、春日のみならず、三笠にあれ敷島、朝日、富士にあれ、或は出雲、磐手、浅間、常盤の如き、何れも我海軍の当局が多年の惨憺たる経営に依りて製艦されたもので而も之を用うるは、主として僅々30分間の決戦であった。吾人が十年一日の如く武術を考究練磨しつつあるのも、亦此の30分間の御用に立つ為である。去ればこそ決戦は僅かに30分であるが、之に至らしむるには10年の戦備を要するので即ち取りも直さず連綿10年の戦争である。吾人は素より至尊の御威徳が直截間接に戦勝の大主因を成し、皇軍には常に天佑神助あるを確信する者であるが、去りとて吾々臣民が人事を盡さずして、神霊の加護を仰ぎ得らる可きではないと考える。過去の大海戦、斯くして皇軍の大捷に帰したが、未来の海戦は如何なる結果を呈するであろうか。今や三笠、敷島の如き当時の戦艦は已に全盛を過ぎて、舊式と化し去り、所謂ドレツドノート型若くは超ド型ならざれば軍艦にあらずと謂う時代となった。吾人は勿論火縄銃でも竹槍でも、與えられたる武器を以って極力奮闘し、唯だ斃れて後已むのが本分であるから、敢えて彼是と道具選びをする譯ではないが、過去の経験より将来を推度すると、如何にしても皇国の興廃が気に懸かって、安んぜざる處がある。日本海海戦の決戦は30分間で片が付いたが、武器の進歩したる未来の海戦は15分間で勝敗が決するのであろう。

■愛媛県松山市での講演抄録