昭和19年8月、軍艦「名取」は敵潜水艦の攻撃を受け撃沈された。この際、生存者195名はカッター3隻で、食料も真水も航海用具も持たず、フィリピン・ミンダナオ島までの600キロを2週間かけてたどり着く。奇跡ともいうべきこの快挙は、実体験した松永市郎による『先任将校』で知られている。 しかし、海軍兵学校の生徒が終戦後、江田島から大分まで復員した事実は知られていないし、確認もされていない。何故、陸路ではなく、海路でしかも危険の大きいカッターを使用したのか。訓練を受けた海軍兵学校の生徒であれば、江田島から大分までの距離を短艇で漕ぎ渡ることは不可能ではないと思われる。 当サイトをご覧になったO氏が、友人のご尊父が実際その「実行者」であったとの由、メールを寄せられた。 事実であれば、大変興味深く、陸路でなく海路を利用した意味も明らかとなる。 また、N氏から未確認ではあるが、ご尊父がカッターを使用して周防大島に復員をされたようであるとの情報が寄せられたのでご紹介する。 当事者あるいは関係者の方で事実を掌握されている方は、是非情報をお寄せください。 「海軍兵学校を考える会」 |
■平成22年8月8日 O氏 |
■平成22年9月13日 N氏
最近になって、このホームページを知りました。海兵の名を聞くと、父の姿を思い浮かべ懐かしく思います。 海軍兵学校から終戦時の復員にカッターを使用したと言う話を読みまして 小生からも、皆様にお尋ねいたします。
父が、周防大島[屋代島]へ復員に際して、江田島よりカッターで松山方面に帰郷される方と一緒に航海したようなことを言っておりました。細かいところまで聞く前に、仏壇へ上がってしまい後悔いたしております。 ご存知の方が居られましたらお教え願いたいものです。 参考までに、復員時に持って帰ってきて現在小生が持っているもの ・短剣(刀身は、長さ7センチぐらいのペーパーナイフになっています。)
・木製の三角定規(生徒隊と焼印が入っている)
・洋服用のブラシ(生徒隊と焼印が入っている。)
・日記帳 昭和20年8月分は、削除されています。
(周防大島の久賀には、久賀分校があったので、連絡用の通船で帰郷したのかもしれませんが)
突然ぶしつけで、申し訳ありませんでした。
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■平成22年10月23日 はじめまして、オーストラリアダーウィン在住の平山幸子と申します。 佐世保出身の田尻正男さんという方をさがしていて海軍兵学校のホームページにたどり着きました。今は第二次世界大戦のことについて調べていますので、他のページも参考にさせていただきたいと思います。 さて私は、ノーザンテリトリー豪日協会の会長をしており、来年のダーウィン空爆70周年に合わせて日本からのツアーを企画しています。そこでダーウィン沖に沈む伊124号の乗組員の家族にも是非参加していただきたいと思いご遺族を探しているのです。 もし、どなたか伊124号についての情報をお持ちの方がいれば、教えていただけないでしょうか? 乗組員の方の名簿を添付していますので、ご参照いただくようお願いします。 (そういえば、HPでは田尻さんの戦没地がポートモレスビーとなっていますが、ポートダーウィンだと思います) オーストラリアは非常に日本に対して友好的です。戦争のことについても、多くの人が、あれは過去のこと、忘れることは無いが、過去から学び、次へ生かそう、という考え方を持っているようです。 日本からダーウィン空爆式典への参加も歓迎してくれると、主催者のダーウィン市も言ってくれています。 ブログもありますので、よかったらご覧ください。 http://ameblo.jp/happychild-peace/ またこちらは、昨年の式典の様子です。私も参加して、日本兵の為にお花を供えたのですが、それがテレビに取り上げられました。 http://www.abc.net.au/news/2011-03-02/push-to-recognise-japan-wwii-soldiers-in-darwin/1963514 http://www.youtube.com/watch?v=3p_k7q_gc-8&feature=player_embedded きっとこの事が話題になれば、日本とオーストラリアの友好が深まり、日本を元気付けることとなると思います。また、日本ではあまり敬意を受けていない兵隊さんたちへ、日本人感謝するきっかけになると思っています。 是非ご協力いただけるようお願いいたします。 Sachi Hirayama President of Australian-Japanese Association of NT inc |