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2001.5.7 S.H.さん(女性)
 はじめまして。”海軍兵学校”見せていただきました。
 きっかけは、偶々、先月 見学した江田島の第一術科学校があまりにも印象的だった
こと、友人が江田島に籍をおいているということ、海軍兵学校を出てロンドンに駐在した
人が遠縁の人にいたということ、阿川弘之氏著『井上成美』に書かれた人物像に惹かれ
たこと・・・”海軍兵学校”というところがなんとなくずっと気になっていました。
 正直に申し上げまして、軽い気持ちで閲覧しようとした私にとっては膨大な資料で、見
慣れない言葉や難しい言葉、漢字やらで読み終えるまで、辞書片手に悪戦苦闘でした。
それなのに読み終わった今、もう少し知りたいという欲求にかられています。
 残念ながら私自身が個人的に興味を持っていたことには深く触れられてはいませんで
したが、もう一つ深く知ろうとするきっかけができました。また、時代が変わってもその根
底に流れているものがあるということ、それが友人の中に垣間見られ、知ったことが驚き
でした。 
 この度の内容については、戦争を知らない世代の者として、あくまで”太平洋戦争”を知
る為の歴史の一端として見せていただきました。昨今では戦争そのものを知る機会も少
なく、”遠い昔の出来事”と思えてしまいますが、このような歴史があったという”事実”を
知っておくことは、戦後の平和な世の中に生きる者の義務であり責任でもあると思ってい
ます。
 私自身、身近なこととしていつも忘れないよう、このような資料を読み続け、許される限
り歴史的痕跡地を訪ね続けるつもりです。ですからこのようなことを、より多く より深く公
表していただけたらと思います。

追伸:兵学校の写真集が見られなかったのが残念でした。
    (私の方に問題があったかもしれません)

管理人からの返信
 メールありがとうございます。
「海軍兵学校写真集」ご覧になれなかったとのこと、反省材料とさせていただきます。
近々、改良を加えます。
また、色々と貴重なご意見ありがとうございました。
作成・公開から1カ月一寸ですが、私自身、勉強をしながら、サイトの充実を図っていきた
いと思います。
今後とも、忌憚のないご意見等、いただければ幸いです。
ありがとうございました。

2001.5.29 S.H.さん(女性)
 以前にもメールをお送りしたものです。
随時更新されるというご返事をいただき、時々見させていただいております。
 なかでも、閑話休題はちょっと楽しみにしています。なにしろ、知らないことが多いので、
とても勉強になります。(お恥かしい話ですが、巡洋艦・駆逐艦・戦艦などの違いもわから
ないド素人ですので・・・)
 その後、兵学校関係の本を数冊読みました。ただ兵学校が素晴らしかった事はわかる
のですが、とかく美談的・陶酔的なものが目に付いてしまいました。そんな中で、HPの中
で紹介されていたセシル・ブロックの”The Dart mouth ofJapan”の翻訳本を見つけ、
早速読みましたが、これはなかなか面白く読めました。またこのようないい本がありました
ら、是非御紹介ください。
 今後の更新、引き続き楽しみにしております。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
少しずつ、サイトの内容の充実を図っていきたいと思っています。
公開して2ヶ月ほどなので、まだまだ内容的にも不十分ですが、勉強しながらサイトの充
実を図っていきます。
こうしたメールを頂くと、大変励みにもなります。
Hさんには、リピートしていただいているようで、ありがとうございます。
今後とも、ご意見を賜りたくよろしくお願いいたします。


2001.6.3 M.H.さん(女性)
 突然のお問い合わせ、大変失礼いたします。
わたくしはM.H.ともうします。
実は、祖母が長年探している方がいます。
残念ながら、兵学校の21期生以下は工事中とのことで、調べることができません
でしたが、徳島県出身のT.H.さんという方が名簿にありませんでしょうか。
祖母がその昔大変お世話になった方だそうです。
 確か海軍機関学校または海軍兵学校の卒で、昭和19年頃、愛知県岡崎航空隊の
大尉または少佐として赴任、ということが新聞に載ったそうですが、その後全く
消息がなく、よく祖母がせめてどこでなくなったかなどがわかれば、お線香をあげ
たい、と言っております。
 たしか大正7年ぐらいの生まれで、もし万が一生きていらっしゃったら、83歳
ぐらいだそうです。もしもそういう方がいらっしゃったら、教えていただけません
でしょうか。
 突然の問い合わせ、失礼申し上げました。

管理人からの返信
 「海軍兵学校」のサイトへお越し下さいまして、ありがとうございました。
お問い合わせの、T.H.さんですが、海軍兵学校の出身者名簿には、掲載されており
ません。
因みに、全卒業者でH姓は、4名おります。
(略)
の方々です。
年齢、階級等から考慮しても、お問い合わせのT.H.さんには該当しません。
従って、海軍機関学校出身者である可能性が大かと思われます。
残念ながら、海軍機関学校出身者については、把握しておりません。
東京渋谷区に、東郷元帥を祀った東郷神社がありますが、この敷地内に「水交会」があります。
この会は、海軍に関係した人々や遺族の方々の集まりで、事務局があります。
海軍機関学校ルートや階級から、Hさんの情報を得ることができるかもしれません。
私の方でも、調べてみたいと思います。
この程度のことしか分かりませんが、あしからず。
お役に立てずに、恐縮です。

管理人からの返信
 ご照会の件は、下記の通りです。
T.H. 氏
海軍機関学校第47期
昭和24年4月13日死去
どこでお亡くなりになったかは、分かりません。
以上、よろしくお願い申し上げます。

2001.6.6 M.H.さん(女性)
 なんとお礼を申し上げてよいのか、わかりません。
祖母、S.A.もこのニュースを聞き、50年以上も昔に亡くなったHさんのこと
を考えて、胸がいっぱいだったようです。
海軍の別府の療養地で結核の治療をしていたということで、もともと体は弱い方
だったそうですが、祖母はああ、これで胸のつかえもとれた、と涙を流しながら
いっておりました。
 祖母はいま81歳です。(祖母は、どうもこのHさんにとても気に入られてい
たようで、でも、Hさんには婚約者がいらっしゃったので、もちろん、当時のこ
とですから、祖母もすてきな方とは思いながらも胸に秘めるだけだったそうですが、
(祖母と妹と二人でよく会いに行っていたそうです。余談ですが、祖母は、重光葵
氏のお給仕もしたことがあるそうです。)
 Hさんが病気が治り、これから軍にもどるというときに(天の夕顔)という中河
与一作の非恋の物語を祖母に渡し、その後は全く別府に帰ってこなかったそうです。
祖母はよく、Hさんが婚約者のかたが親に決められた人で、その人に全く愛されて
いないこと、療養地に全くお見舞いにもこない、と言うことで、結婚にも非常に
悲観的だったことが頭にこびりついている、と言っていました。(祖母の妹もそう
いっているので、本当でしょう。)
 もちろん、Hさんが戦地へ出発したあと、祖母は祖父と出会い、また皮肉なこと
に祖父も肺結核を患っていたのですが、祖父は幸運なことに、会社からインドネ
シアへ送られ、戦争へは行かずに79歳まで生きることができました。
 祖母からものごころついたころから聞いていた話ですが、祖父の手前、探すことは
いけないことのような、また、昔の話をぶちこわすようなことのようで、探すこと
はあまりしませんでした。
 去年、祖母は祖父の最後を看取り、1年半がすぎました。祖母は体の弱かった祖父
を気遣い、祖父も祖母を気遣い、そんな仲のよい夫婦でした。今は亡き祖父を天国
へ見送った(?)祖母はもう、いつでも死ねる、などと言っておりましたが、最近、
せめて、おばあちゃん孝行になれば、、、と思って探していた、というのがいき
さつです。
 私は戦争も知らず、かろうじて、父が戦中うまれというだけです。しかも、今は
外国で仕事をしております。少しでも、昔の日本、戦争から生まれたこともあるだ
ろう日本人の心を大切にして生きていきたいなあ、と思っています。
 命日まで調べていただき、これからお線香もあげることができます。ほんとうに
ありがとうございました。
(略)
 もしそうでなくても、お体にはくれぐれもお気をつけて、ウェブサイトをお続け
ください。
 時々サイトに遊びにまいります。
 本当にありがとうございました。家族一同、心からお礼申し上げます。
 M.H. S.A. 家族一同
 
管理人からの返信
 ご丁重なメールありがとうございました。
少しでもお役に立てたようなので、良かったと思います。
大変ロマンチックなお話で、私の知人等に話したところ、皆、感激しておりました。
Hさんのご遺族の連絡先等も把握いたしましたが、お話の内容から、お知らせする必要
もなかったようです。
今後、少しずつですが、サイトの充実を図って参りますので、是非また遊びに来て下さい。
因みに、私は戦後生まれです。
(略)
それではまた。
 
2001.6.10 M.H.さん(女性)
 祖母からです。
奥様が62年現在まではご遺族としていらっしゃった事実が、祖母と妹を非常に
安心させました。
二人によると、戦争で亡くなったのではなさそうで、それならきっと、戦後幸せ
な時代が少なくとも4年はあったんだろう、これで、胸を痛めずにすむ、とよろ
こんでおりました。
これからはお線香もたてられますし、お墓には行かなくても、やっとご冥福をお
いのりできるから、青春の1ページとして心に引っかかっていたことがなくなり、
また納得できました、ありがとうございました、ぜひF様によろしくとのことです。
ありがとうございました。



2001.6.4 Uさん(男性・ドイツ在住)
 海軍兵学校のホームページを訪問いたしました。大変よくお調べになられていて感心し
ております。
 おそらくはタイプミスだと思うのですが、人物伝の小沢治三郎提督に関する文章中で大
鳳の搭載機数が81機となっておりました。
日本の軍艦(福井静夫著)によりますと流星艦爆 24機+1機 彩雲艦偵 4機 烈風艦戦
24機 合計 52機+1機となっています。
 搭載機の大型化のため戦争後半に竣工した母艦は搭載機が少ない場合がありますね、
飛竜と雲竜で搭載機数が違う理由もこれだと思うのですが。また別な資料(丸スペシャル
軍艦メカ3日本の空母)ではマリアナ沖海戦時に搭載していたのは零戦 九九艦爆など75
機となっていますのでこれを基に考えると81機搭載という資料がどちらかにあったのかも
知れません。
活躍期間の長い翔鶴などでは搭載機数の変更が数回あったようですが、大鳳に関しても
計画段階から、搭載予定機材、機数がたびたび変更されていたようです。
 今後も新たな提督の人物伝など楽しみにしております。頑張ってください
 それではまた。

管理人からの返信

 私のHPを、遠くドイツでご覧いただき、ありがとうございます。
詳細にわたり、大変お詳しいので驚いております。
ご指摘の、「大鳳」の搭載機数については、淵田美津雄(兵学校52期)奥宮正武(兵学校
58期)共著『機動部隊』(PHP文庫)P,394を参考とさせていただきました。
その他の文献には、ご指摘のように53機と明記されているものが多いようです。
いずれにせよ、日本最大の航空母艦であったことは事実ですので、敢えて『機動部隊』の
数字を引用させていただきました。
 鋭いご指摘と励ましの言葉、ありがとうございます。
 今後とも、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。
 

2001.8.15 M.I.さん(男性)
貴サイト「海軍兵学校」拝見し感激しました。
私も戦争を賛美するものではありませんが、今日の平和と繁栄は、幾多の先輩の尊い犠
牲により、築かれていることを忘れることはできません。
貴重なホームページをいつまでも継続し、多くの方にご覧いただけることを祈念いたしてお
ります。
五省は、私の座右の銘としていますが
1.至誠に惇るなかりしか----と記載がありますが、私は「悖る」(もとる)と書き読んでいます
が貴、サイトの五省には、「惇る」とあるのは、何と読むのですか教えていただけませんか
「惇」−(トン・シュン・あつ・まこと)と辞書には、載っています。
私のホームページに掲載の 「交流ころば-心の旅ひろしま」 で「五省」をとりあげています
が誤字であれば、ご指摘くださいますようお願いします。

管理人からの返信

 メールありがとうございました。
また、貴重なご指摘ありがとうございました。
開設して半年足らず、間違いに気づかずおりました。
I様ご指摘の通り、正しくは「悖る」です。
内容、デザイン等まだまだ充分でなく、勉強を重ねながら充実して参りたいと思います。
今後とも、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。


2001.8.16 N.M.さん(男性)
 始めましてこんばんわ、Mと言います。
 今回初めてホームページを拝見させていただきました。
私にとって海軍兵学校の卒業名簿は非常に興味深く見させて頂きましたと言いますのも、
私の親戚にあたる人が、海軍パイロットで戦死しており戦死した場所等詳しくしりたくしり
たく思った為です。
卒業名簿の完成心待ちにしておりますので、よろしくお願いします。
大変な作業だと思いますが、がんばってください。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
海軍兵学校の卒業者は11182名、終戦時の在校生は15192名おります。単調な作業
故、遅々として進んでおりませんが、励ましのお言葉をいただき、感謝に堪えません。
頑張って内容を充実させて参りますので、今後ともよろしくお願いいたします


2001.8.18 お孫さんより
 祖父が明治37年生まれの海軍兵学校卒の海軍大学卒業だったのですが、ほとんど祖
父のことは知らないので、このページにアクセスしてみました。
 海軍兵学校第31期〜第72期卒業者の名簿は工事中ということでしたが、いつごろ工
事は完了されるのでしょうか。楽しみに待っていますので。

管理人からの返信
 お「孫」さんへ
 メールありがとうございました。
 海軍兵学校の卒業者は11182名、終戦時の在校生は15192名おります。単調な作
業故、遅々として進んでおりませんが、最近、ご要望のメールをいただくことが多くなり、
少しずつでも、内容の充実を計らねばと思っております。
 お祖父様のお生まれから察しますと、多分、兵学校52期から54期ぐらいのご卒業では
ないかと思われます。当時の生徒は、学術優等、身体頑健、志操堅固な人材でなけれ
ば入学は難しく、帝大に入れても、兵学校には入れなかったと言われております。また、
お祖父様は、その中でも海軍大学に入学されており、エリートの中のエリートと言えます。
 終戦時、ご健在であれば、中佐か大佐であったと思われます。
 少しずつですが頑張って内容を充実させて参りますので、今後ともよろしくお願いいたし
ます。

2001.8.21 お孫さんより
 ありがとうございました。
そして、大変な作業お疲れ様でございます。
 祖父の資料を探すことは母の数少ない記憶を頼りにするもので海軍大学、参謀、留
学、などの数少ないキーワードを手がかりにするのでなかなか祖父にたどりつくことは
できませんでした。
 私は現在大学生ですが、今の自分がどのようにしてつくられたのか、自分の先祖が
どのようなことを考えどのようなことをしてきたのか純粋に興味を持っています。
 ご指摘のとおり終戦時祖父は大佐であったと母も申しております。
 家族共々大変楽しみにしております。突然のお便りにご丁寧なご回答ありがとうござ
いました。

管理人からの返信
 お「孫」さんへ
 メールありがとうございました。
また、リピートしていただき、ありがとうございます。
 お祖父様の、ご卒業の期にたどり着くには、まだ大分時間がかかるかと思われます
が、長い目でご覧いただければ幸いです。


2001.9.27 (台湾在住の男性)
Your "Naval Academy" are a wondeful site!
So, When i saw you talk about the 好運艦「雪風」.
I suppose the following data is usefuel to you...
(but all 漢字 /_\ )...
中華民國海軍旗艦---「丹陽」(DD-12)
本艦原為日本甲型("陽炎"級)驅逐艦"雪風"號,..."雪風"艦在日本海軍可?是大大出名,?經
中途島,雷伊泰,到最後"大和"號?沒的沖繩之戰幾乎無役不與,居然還能全身而退,十八
艘"陽炎"級驅逐艦戰後就僅它一艘存活;是日本海軍著名的幸運艦,人稱「不死鳥」!
本艦為日本償艦之第一艘,1947年7月6日在上海移交,接收字號為"接1",成軍後命名"丹陽",
編號"DD-12".本艦移交時艦上火砲已全部拆除...服役後擔任封鎖大陸任務,並截獲過波
蘭籍蘇聯油輪.1966年11月16日本艦除役,但仍停留海軍官校小港碼頭做練習艦用,直到
1971年才拆解.
丹陽"艦的遺物有車葉二只(一置三軍大學、一置海軍官校),艦鐘一座(置官校史績館);
至於錨與舵輪則在1971年12月8日(太平洋戰爭爆發卅周年紀念)於須賀歸還日本,
現置江田島海上自衛隊術科學校與教育參考館...
Data refer form「中國軍艦博物館」:

管理人からの返信
Hello.
Thanks for your visiting to my cite and your advice.
Actuarry I'm very surprised to exist foreign country visitor.
Reading your advice,I make out situation "YUKIKAZE" going Taiwan.
I'm so impressed.
I added to my cite contents following your information.

Please allow you to my poor English.
See you.

Naval academy's owner.


2001.9.28 S.S.さん(男性)
 初めてお便りします。 
 28期卒の笹尾源之丞の曾孫にあたる物ですが、彼に関する事は少ししかしりません。
伊東元帥の兄にあたる伊東中将の娘と結婚した事とかしか自分は知らないんですが、
もし何かをお知りでしたら教えてもらえますか。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
 私も、貴殿の曾祖父に関しての資料は、残念ながら持ち合わせておりません。
判明していることは、大正8年10月24日、八丈島東方で「浜風T」に乗務中にお亡くなりに
なっております。
年代から考察すると、戦没ではなくご病気か事故が原因かと思われますが、推測の域を出
ません。
 ご遺族は、東京にお住まいとのことです。
 いずれにせよ、貴殿は伊東祐亨元帥の血筋を引く立派な方です。
 ご参考まで、28期の卒業記念写真をお送りいたします。画質が悪く恐縮ですが、この中に
貴殿の、若き日の曾祖父がいらっしゃることは間違いありません。
(但し、ヒゲを生やしている人物達は教官です)
 貴殿や、親戚の誰かに似ている人物が、ひょっとするとそうかも知れません。
 それでは、また是非私のサイトに来て下さい。

2001.9.24 S.S.さん(男性)
 わざわざお返事をいただきありがとうございました。
 曾祖父の笹尾源之丞は演習中に甲板から転落し殉職したと言う事は昔、父の従姉妹か
ら聞いております。
 自分なりに色々調べたいのですが(特に、どうして笹尾が伊東中将の娘と結婚できたの
か?など)誰も詳しい人がいず・・・。また、伊東祐麿中将に関しても伊東祐亨大将に比べる
と資料がなく困ってます。なにか、伊東祐麿について詳しいサイトとかはご存知ではありま
せんか?
  ほんと色々ありがとうございました。


2001.10.2 S.Hさん(女性)
 Hと申します。
 初めてメールさせて頂きます。
 私の父が海軍兵学校75期の出身で、普段はインターネットなどとは無縁な生活をしてい
るのですが、ある探し物をしておりまして、娘の私にインターネットとかいうもので何とかな
らないかと相談を受けました。
とりあえず「海軍兵学校」でサーチをしたところ、貴殿のホームページに辿り着いたわけです。
内容もかなり充実していて、事情にお詳しいのではないかと思い、お力をお借りできないか
とメールした次第です。
 父の探し物は、海軍兵学校で生徒が使用していた教科書です。
正確な題名はわからないのですが、代数、幾何、力学、物理化学といった理数系関係の
公式集のようなものです。
当然のことながら、本来は売り物ではないので、古本屋などにでも紛れ込んでいない限り、
なかなか手に入れるのは難しいと思うのですが、手に入る可能性が少しでもあるものか
どうか、また、せめてどこかで展示しているようなところがあるものかどうかどのような情報
でも結構ですので、ご存知でいらっしゃいましたら教えていただければ幸いです。
 突然のメールで、いきなりこのようなお願いをするのは不躾だと重々承知しておりますが、
どうかよろしくお願い致します。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
 ご照会の教科書の件、残念ながら私の手元にはありません。
また、私の知る限りは、公には残存はしておりません。
 とくに、海軍兵学校出身者は、秀才中の秀才ばかりであり、教科書を手にした段階で
全てマスターしてしまうといったような、人物ばかりの集団であり、なかには、教官に代わ
って生徒が授業をするようなこともあったようです。
海軍兵学校の生徒は、それほどの、優秀な人物達の集団であったと言えます。
そうした秀才達は、教科書を後生大事に保存するようなこともなっかったようです。
 終戦時に、在校していた生徒達も、新たなスタートを目指し、「古きもの」は潔く捨て去っ
たと思われます。
 もし、残存していれば貴重な資料と言えます。


2001.11.1 T.Y.さん(男性) 
 はじめまして
 海軍兵学校の写真集を見させて頂きました。
当時の写真(白黒写真)を他にも色々とお持ちですか?
兵学校卒業生の為に写真を探しております。
大変お手数ですが教えて頂けますか?
 以上、宜しくお願い致します。

管理人からの返信
 『海軍兵学校』のサイトをご覧いただき、ありがとうございました。
 「海軍兵学校沿革」のなかで、54期卒の連合艦隊通信参謀を歴任された、故・中島親孝
氏が執筆されていますので、写真に関連した部分を紹介します。
「この時代の海軍兵学校の生活を最もよく伝えた記録として大本営海軍報道部監修の報
道写真集『海軍兵学校』がある。写真家の真継不二夫氏が,この写真集に掲載する写真を
撮影するために来校して,一万枚以上も撮影したのは,昭和17年4月から8月にかけてであった。
従つて,この写真集に収録されて,永遠に海軍兵学校生徒の顔と姿を残すことになつたのは,
71期,72期、73期の3クラスの生徒であった。
 『兵学校に来て,私が強く印象づけられたのは,生徒の顔の端正なことである。これほど揃
って,整つた容貌を持つ生徒が,他の学校にいるであろうか。眉目秀麗の謂いではない。精
神的なものの現われた,きびしい美しさである。鍛えたものの美しさだといってもよい。無垢
で,清純で,玲瓏である。
 そして,ここには1号,2号,3号の段階を明瞭に現わしている。清純なうちに可憐さを残す3号
生徒に比して,1号生徒には鍛えたものの強さがあり,凛然とした美しさが一層強く現われて
いる。
環境は人をつくるというが,私は兵学校へ来て,男の男らしい美しさを見た』
 真継氏は同写真集に,海軍兵学校生徒から受けたありのままの印象をこのように書きし
るしている。」
 この写真集の復刻版はすでに絶版となっていると思われますが、古本屋では見かけます。
残念ながら私自身は、この写真集は持っておりません。私が転載している写真も、ほとん
どが諸雑誌・単行本などで紹介されているポピュラーなものばかりですが、今後も、出来る
限り紹介していくつもりです。


2001.12.12 A.M.さん(女性)
 突然のメールで申し訳ございませんが、お願いがあります。
メールの出し方も全くわかりませんが、どうかお許し下さい。
 私事なのですがある人物をさがしています。戦争のことは無知なので申し訳ないのです
が、海軍にいたということは海軍兵学校の卒業生ということになるのでしょうか?(以下略)

管理人からの返信
 ご照会の件ですが
 1,海軍に所属した者全てが、海軍兵学校出身者とは言えません。海軍兵学校出身者
は、軍人を職業とするいわゆる「職業軍人」です。また、海軍士官を養成する教育機関で
あり、卒業すると自動的に少尉候補生となり、通常1年間の遠洋航海で、諸外国を歴訪し、 
見聞を広めるとともに、国際的視野をもった海軍軍人として、帰国後少尉となります。(中略)
 当方では、この程度のことしか分かりません。お役に立てず恐縮です。士官であれば、
「海軍機関学校」「海軍経理学校」「通信学校」「砲術学校」「航海学校」「機雷学校」等が
考えられます。また、「予科練」も対象となります。「予備学生」は、昭和16年からの制度で
すから、これは該当しないと思われます。
 なお、これらについては当方では資料を持ち合わせません。
 ただし、戦前の海軍将校倶楽部的な「水交社」の流れを汲む「水交会」が、原宿の東郷
神社敷地内にあり、何らかの手がかりを得ることできるかも知れません。

〒150-0001東京都渋谷区神宮前1−5−3
財団法人 水  交  会
電話03(3403)1491
FAX 03(3403)8563

 最後になりましたが、お祖父様のご冥福を心よりお祈りいたします。


2001.12.15 Sさん(男性)
 素晴らしいページを開いていただいてありがとうございます。
 先日、脳梗塞で病床にある父に代わり、海兵クラス会に出席いたしました。旧海軍兵学
校を会場に戦没者の慰霊祭を行い、かつて父がともに逍遙した学友であり戦友である方た
ちと感動の出会いを頂きました。
 一つお願いがあります。海軍兵学校には、全国から集まった旧制中学出身の生徒、いわ
ば帝国海軍のサラブレッドの方たちと、各種術科学校の優秀生徒の登竜門として設けられ
た選修学生、いわば志願水兵からの叩き上げ組の両方か学んでおりました。
言うなれば表舞台の生徒の皆様と、言わば忘れられた選修学生ということになるかと思い
ますが、国を思う熱き心は同じではなかったかと思います。
 そこでお願いですが、出身者名簿に約2000名の選修学生の部を設けていただけない
でしょう。
 ちなみに父は選修学生最後の第23期生で、196名が修業し、確か56名戦死、現在2世
3世を含めた交流を持っており名簿も整備されています。先日の自衛隊記念日の日に、65
名が江田島に集い、記念式典に参加後、当局の許可を頂いて、教育参考館内英霊銘碑前
で、海上自衛隊第1術科学校校長の臨席を仰ぎ慰霊祭を挙行した後、第26回目の学生&
2世3世家族会総会を開催いたしております。

管理人からの返信

 メールありがとうございました。
また、過分なるお言葉、ありがとうございます。
選習学生の件、ご指摘の通り、「国を思う熱き心は同じ」だとのこと、小生も同感です。
しかし、残念ながら私自身は、選習学生についての知識も資料も持ち合わせておりません。
今後、「海軍兵学校」のサイトの内容を、出来うる限り充実していくつもりですので、ご協力
をいただく場面があるかも知れません。
ご期待に沿えるよう努力したいと思いますので、その節は、是非ご指導ご協力のほどお願
い申し上げます。
  また、お父様が一日も早くご健康をご回復されることを心よりお祈りいたします。


2002.1.18 N.I.さん(女性)
 はじめまして。私は神奈川県在住の会社員・N.I.と申します。海軍兵学校のHPを拝
見しました。
 元々、私は海軍や軍艦などにはあまり興味を持っていません。
しかし、私の曽祖父についての調査をする上で、海軍兵学校に関して調べようと、HPにア
クセスした次第です。
 私の母方の曽祖父・山川有典は兵学校の23期生。
明治40年、馬公での松島撃沈事故で死にました。祖父が1歳の時の事です。
有典の妻も早く死んだため、彼に関する詳しい事はよく分かりません。
私は有典の短い海軍生活について、調べようと思っています。
 しかし、先ほど申しましたように、私は海軍や軍艦に関しては門外漢です。
どんな本を読み、何処へ行けば彼の兵学校時代から死までの資料を得ることが出来るの
か、皆目見当がつきません。
 大変あつかましいのですが、何かアドバイスが頂けたらと思い、メールをお送りした次第
です。
本日は、以上ご挨拶まで。
所でF.さんは何とお呼びすればよいのでしょうか?

管理人からの返信
  メールありがとうございました。
ご照会の件、私にとっては大変難問です。
残念ながら、手元に I さんの曾祖父に関する資料は、ありません。
また、馬公での「松島」の事故に関する資料も持ち合わせません。
 一般的な事柄として、兵学校第35期の少尉候補生172名を乗せ、遠洋航海中、馬
公で謎の爆沈をし、候補生34名他多数の死傷者を出したとのことは、理解しています。
当然、「松島」には候補生以外にも、多数の関係者が同乗しており、事故に巻き込まれて
います。
 山川有典氏は、事故当時階級は少佐ですので、兵学校の教官か、「松島」勤務の士官
どちらかでしょう。これらに関する資料も手元にありませんが、兵学校創立50周年記念と
して、「海軍兵学校沿革」が発刊され、昭和43年復刻版が原書房より出版されています。
この中に、事故に遭われた関係者の記述があるかも知れません。「海軍兵学校沿革」は、
大きな図書館にはあると思います。
 また、東京神田神保町の文華堂書店は、旧陸海軍関連の資料を含む関連図書が多数
置いてあります。
 お役に立てずに、恐縮です。
 「海軍兵学校」のサイトを、ご覧になった方からのお問い合わせが可成りあり、出来うる
範囲でお答えして入りのが現状です。今後、お問い合わせ内容を、公開して情報を求め
ることも考えております。本来、書き込みが出来る、掲示板を設ければよいのですが、管
理が大変ですので、今のところ避けています。もし、I さんが、ご希望であれば、近々設け
る「NAVY FORUM」(仮)に、内容を掲載させていただきたいと思います。

2002.1.22 N.I.さん(女性)
 ご丁寧なお返事、有難うございました。
 「海軍兵学校沿革」と文華堂だけでも、私にはすこぶる有り難い情報です。
今私が出来ているのは、松島撃沈直後の日日新聞記事をコピーしたくらいです。
記事は第一報のみが載っており、やはり詳しい事は分かっていません。
 有典は、北の海で何某かの艦を沈没させるという失態を演じたことがあるようです。
これによって、軍法会議にかけられたという話もありますが、本当なのか、いつの事なの
かは分かりません。海兵学校というよりは、海軍の資料も必要なようです。
 有典に関する情報は切れ切れの断片ばかりで、流れを成しません。
特に急ぐつもりはありませんが、いつか地味な海軍生活(これは私の想像です)の末、
運悪く死んだ彼の足跡がたどれればと思います。
 また、ご相談事やご報告できることがありましたらメールいたします。
 HPも拝見しておりますので、今後ともよろしくお願いします。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
ほとんど何のお役にも立てず、かえって恐縮です。
私自身、今後の課題とさせていただきます。
今後、「松島」に関して掘り下げて勉強させていただくこともあるかと思います。
これに懲りずに、お暇なときには、是非、私のサイトへ遊びに来て下さい。
それでは、また。


2001.12.2 A.G.さん(アメリカ在住・女性)
 アメリカ在住の明子と申します。先日、友人から古いアルバムを持ち込まれ、持ち主
を探すのを手伝ってほしいと頼まれました。
日本の海軍で、アメリカに来られた方の物だったようで、たくさんの写真があります。
うち、1枚は「昭和18年横須賀第二海兵団入団記念 海軍一等警備兵 町井俊明」
と書かれています。
この方のご親族を探し当てる方法を探しています。
何かよい方法を御存知ないでしょうか?

管理人からの返信
 ご連絡が大変遅くなり、申し訳ありませんでした。
私の段階では、手掛かりを得ることができませんでした。
お知り合いの方が、写真を関係者の方々にお返ししたいとのお気持ちは、良く理解でき
ます。
ご返却されれば、ご本人や関係者は、大変喜ばれる思います。
本来、日本のマスメディア(新聞等)が取り上げれば、恐らく全部でなくともかなりの部分
は、解決すると思います。とくに、アルバム写真の中の一枚「昭和18年横須賀第海兵団
入団記念 海軍一等警備兵 町井俊明」は、大きな手掛かりになると思われます。
お役に立てず、恐縮です。
先日も、Gさんと同様のお問い合わせが、アメリカ在住の方からありました。しかし、
海軍兵学校出身者であれば、私も手掛かりはつけられますが、それ以外ですと不可能です。
戦争経験者の方々も高齢化を迎え、この様な件は早急に解決しないと、永久に当事者ま
た関係者の手元に返還されることはないでしょう。
(中略)
また、今後私自身「海軍兵学校」のサイトに、「お問い合わせ」のコーナーを設けることも考
えております。よろしければ、Gさんのお問い合わせの件も、ご紹介させていただけれ
ばと思います。
以上、よろしくお願いいたします。
お暇なときには、「海軍兵学校」のサイトへ是非お越し下さい。


2002.1.23 T.S.さん(アメリカ在住・女性)
 はじめまして。アメリカからメールします。友達の義理のお父さんが、戦時中にクェゼリン
から持ち帰ってきた日本海軍の兵士の遺品を、家族に返したいということで、頼まれたも
のです。
 ほかに、身体検査帖があって、たくさんの人の名前が、かかれています。3人の人の貯
金通帳と、1人の人の句集と子供の写真があります。
 せめて、卒業年月日か、出身地だけでも、調べたいと思うので、よかったら、メールください。
 中里久夫、池田長四郎、府島英昭、生沼利一さんのなまえをさがしています。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、「海軍兵学校」のサイトをご覧いただき、重ねてありがとうございました。
 ご照会の4名の方々は、私の調べた範囲では、少なくとも海軍兵学校のご出身者
ではありません。
(中略)
 お役に立てず、恐縮です。
昨年暮れに、T.S.さんと同様のお問い合わせが、アメリカ在住の方からありました。
しかし、海軍兵学校出身者であれば、私も手掛かりはつけられますが、それ以外ですと
不可能です。
 戦争経験者の方々も高齢化を迎え、この様な件は早急に解決しないと、永久に当事者または関係者の手元に返還されることはないでしょう。


2002.1.28 Y.S.さん(男性) 
 突然のメールで失礼します。
私はY.S.といいまして、48期卒業のH.S.の孫です。
(略)
・・・父も既に60歳を超えていますし、このへんで私が可能な限りの資料なり写真なりを
集めないと、多分、私以降のうちの後継者は、戦時中の自分の先祖について知る術を失
うと思います。
私にも子ができて、最近そんなことを考えて、神田の古書店などを見てはいるのですが、
まるで空をつかむ状態です。
もしもお知恵を拝借できれば幸いです。
ぶしつけなお願いで恐縮ですが、以下の点について、ご教示頂けませんでしょうか?
・Hは、その再末期には、(父の記憶では)鈴鹿の航空学校(?)で校長か、もしくは管理
職として教鞭をとっていた。
・空母翔鳳にのっており、珊瑚海で沈没し、その後駆逐艦漣に救助された(以後は地上勤務)
以上の情報しか知っていません。鈴鹿航空学校(航空隊?)、もしくは、空母翔鳳の関連で
調査をする方法はあるのでしょうか?
(翔鳳OB会、、、などは、ないのでしょうか?)
よろしくお願い致します。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
お祖父様の件、当方で把握できるのは、東京のご出身で、海軍大佐を歴任され、昭和
26年10月9日に、お亡くなりになっておられることです。
海軍兵学校出身者名簿には、通常、ご遺族のご連絡先が明記されておりますが、S大佐
に関しては、空欄となっております。
Sさんのお祖父様に関しての資料は、持ち合わせておりませんが、神保町に旧陸海軍の
資料や関連図書を扱っている、文華堂という古書店があります。ここに、手掛かりになる
資料があるかどうかは分かりませんが、お暇なときにお立ち寄りになっては如何でしょうか。
また、原宿の東郷会館内に「水交会」があります。これは、戦前の将校倶楽部「水交社」の
流れを汲むもので、旧海軍関係と自衛隊のOB・遺族等の団体となっています。
当然、海軍および兵学校に関する諸資料もあるかと思われます。
(中略)
事務局で事情を説明し、お聞きになれば親切に教えてくれると思います。
東郷会館の中ですから、気軽に入れますし、庭園も綺麗ですから、一度散歩がてら行か
れるのも良いかも知れません。
お役に立てず、恐縮です。
いずれにせよ、お祖父様は海軍兵学校のご出身者であり、海軍大佐を歴任された立派
な方とご推察いたします。当時は、海軍兵学校に入学するだけでも大変なことであり、尊
敬の対象でもあったとのことです。
最後になりましたが、お祖父様のご冥福を心よりお祈りいたします。


2002.2.7 H.N.さん(アメリカ在住・男性) 
小生、北米テキサス州在住で近くにある太平洋戦争記念博物館(旧Nimitz Museum)
に保管されてる日本語資料整理の手伝いをしております。その展示部物の中に海兵卒と
思われる”Z.A.”氏所有の物があります。氏は真珠湾攻撃、その後の南方作戦に
従事されておるそうです。多分海兵の57期以後の方と思われます。
もしこの方の略歴等がわかれば教えて頂けないでしょうか?
忙しい中すいませんが宜しくお願い致します。

管理人からの返信
メールありがとうございます。
 ご照会の、A氏は著名な方です。
山口県のご出身で山口中学を卒業後、海軍兵学校第64期として入学しています。
ご指摘の通り、真珠湾攻撃に携わっております。
色々なHPでも紹介されており、私は読んでおりませんが『艦爆隊長の戦訓』(光人社)
という書も出されているようです。
お住まいは東京で、現在もお元気のご様子です。
当方では、この程度のことしか分かりません。
お役に立てず恐縮です。


2002.2.11 R.S.さん(男性)
 小生は63期の故海軍大尉(戦死後少佐)M.K.の縁戚にあたる者です。63期の
入学及び卒業写真やそれ以外で63期に関係のある写真を探しております。(顔が識別
できる写真)購入方法を御存知でしたらお知らせいただけたら幸いです。
尚、秋元書房の「海軍兵学校」は購入済です

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
(略)
ご存知の通り、ミッドウェー海戦で、山口多聞提督率いる空母「飛竜」は、米空母「ヨー
クタウン」を大破炎上させながら、満身創痍となり、山口提督、加来艦長と共に、自軍の
魚雷により海底深く沈んだとのことです。
K氏もミッドウェー海戦で戦死されておられるようです。
通常、兵学校各期ごとに、在校時の様々な行事や、遠洋航海での各国歴訪の写真など
を、卒業アルバムとして発行しております。63期についても、当然アルバムが作成されて
いると思われます。しかし、戦災や戦後の混乱で、本人やご遺族がどの程度保存されてい
るかは不明です。また、それらの写真も、個人を大きく扱ったものはないと思います。
63期の方々は、年齢的には85〜86歳になっておられますが、ご健在の方々も多くおられると思います。(後略)

2002.5.3 R.S.さん(男性)
過日はM.K.の件では丁重なアドバイスを賜り有難う御座いました。水交会を足掛かりに、
海兵同期(63期)のH様、Y様の御厚情により、数多くの資料を送って頂きました。
海兵のクラスに対する思い入れに感激致しております。
今後共御指導御鞭撻を御願い申し上げます。
先ずは御礼と御報告まで。                                    敬具


2002.2.17 H.S.さん(女性)
 私はA県T市にある点字図書館M会館にて 音訳奉仕をいたしております。
さて 図書館より 依頼されました 城山三郎著「指揮官たちの特攻」に とりかかりますの
に下調べをいたしておりますが、終戦の時小学校入学という 所為か いままで不勉強で
ございました。
少しでも 早くテープに録音することが 私にとっての使命かと思っております。
原本の190p 参考文献
木田達彦    きだ たつひこ
船川睦夫    ふなかわ むつお
寺崎隆次     てらさき りゅうじ
井口善弥     いぐち ぜんや
     191p
門奈鷹一郎   もんなよういちろう
井上理二     いのうえ ?   
 このようなヨミでよろしいのでしょうか。 
井上氏の ヨミがわかりません。
典拠をあきらかに できる場合とアテヨミがございますが 実在していられることですので 
正確に読みたいと思っております。
お忙しい事と存じますが よろしくお願い申し上げます。
又 飛曹 という言葉がでてまいりますが ひそう でよろしいのでしょうか。

管理人からの返信

 メールありがとうございました。
 ご照会の件、下記の通りとなります。
190P
木田達彦
船川睦夫
寺崎隆次
井口善弥
上記の方については、新潮社に問い合わせしましたところ、編集部でも読み方については
分かりかねるとのことです。事情を説明したところ、読み方を間違ったとしても、失礼がない
範囲であれば、問題はないのではないかとの見解です。
但し、当方の調べでは、木田達彦氏は海軍兵学校第50期の卒業です。寺崎隆次氏が
私家版として『木田達彦伝』を出版されておられますが、これは隆次ではなく隆治の間違いではないかと思われます。なぜならば、兵学校同期に寺崎隆治氏がおられるからです。このことは、新潮社編集部に指摘したところ、城山三郎氏に申し伝えるとのことでした。
 191P
門奈鷹一郎(もんな たかいちろう)
井上理二(いのうえ りじ)
上記の方については、光人社に問い合わせし、確認いたしました。
また、「飛曹」は飛行曹長だと思います。
以上、あまりにお役に立てず恐縮です。
末尾ながら、Sさんの益々のご活躍を祈念いたします。


2002.2.20 J.H.さん(アメリカ在住・男性)
 はじめまして、アメリカはシアトルに住んでいる
J.H.と申します。
私の祖父の兄が海軍兵学校出身で、元大佐であった事は父から聞いておりました。
彼の名前は、林三子雄(みねお)と言いまして、「坂の上の雲」や「海は甦る」などの小説に
も名前が出ていましたが、このサイトを見て始めて彼が12期・明治19年12月卒業という
事が判りました。
蛇足ですが、私の祖父は陸軍兵学校に進学したらしいのですが、教官に逆らい退学させ
られたそうです。
ひとつ聞きたい事があるのですが、私が聞いた限りでは、林三子雄は「新田丸」に乗船指
揮している時に、バルチック艦隊からの砲弾によって倒れた、との事でしたが、この名簿に
依ると、「鳥海」艦長になっておりますが…
判る限りで結構ですので、この違いは何なのでしょうか?
また、卒業写真を見る限りでは、彼が何処にいるかハッキリしません。
もし、判っていれば何列目の何番目か教えて下さい。
ご返事、楽しみに待っています。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
ご連絡が遅くなり、申し訳ありません。
メールが返送できず、こうした形でのご返事をお許し下さい。
ご照会の件、連絡させていただきます。
「海軍兵学校出身者名簿」は、昭和53年12月20日発行の『海軍兵学校出身者(生徒)名
簿』に準拠しています。これによると、明治37年5月26日戦死、戦死場所が南山砲台で、
当時の肩書きが砲艦「鳥海」艦長となっております。
林三子雄氏は、兵学校12期を3番の成績でご卒業されておられます。また、大尉当時に
ドイツ留学をされています。
記録によれば、明治37年5月2日〜3日の第3次旅順口閉塞作戦の船団総指揮官として、
作戦の指揮を執っています。兵学校の名簿の記載に、間違いがなければ、戦死はこの後
となります。旅順口閉塞に使用された船団は、軍艦ではなく商船でしたので、作戦時に「新
田丸」に乗艦し指揮を執られたと思われます。但し、私はこのことに関して(新田丸を含め)、
知識を持ち合わせておりません。
何れにせよ、第1次・2次旅順口閉塞作戦の指揮官広瀬武夫が、軍神と崇め奉られたため、
第3次についての記録や記述があまり無いような気がします。
因みに、『海軍兵学校出身者(生徒)名簿』には、昭和53年当時のご遺族の連絡先が、大
阪府のF.H.氏になっております。
当方では、残念ながらこの程度しか把握できていません。
また、卒業写真では、後列の左から3人目の方が林氏の様です。
お役に立てずに恐縮です。


2002.2.21 T.I.さん(男性)
開戦翌年入校、終戦時3号生徒で、島根県松江中学出身S.S.さんは、現在どちらにお住
まいかわかりましたら教えてください。
勝手ながらよろしくお願いします。

管理人からの返信
 メールありがとうございます。
 ご照会の、S.S.氏は兵学校75期のご卒業と思われます。
入学は、開戦の翌々年の昭和18年12月1日、卒業は終戦後の昭和20年10月1日となっ
ております。
因みに、この期は大変生徒が多く、3378名おります。
S氏は、確かに松江中学のご出身で、昭和52年当時は島根の地元中学で教職に就かれ
ていたようです。
住所も当方で把握しておりますが、プライバシーに関わることでもあり、残念ながらお教えす
ることは出来ません。
但し、75期会がありますので、ご面倒でも、そちらのルートでお調べいただければ幸いです。
(後略)

2002.2.23 T.S.さん(アメリカ在住・女性)
Email にて失礼いたします。
私は、アメリカは LAの郊外に34年住んでいるものですが、 この ホームページを興味深
く見てましたら、今川福雄という名が 52期生に載っていましたので、メールさせていただき
ました。
I 氏は今でもしゃんとしていらっしゃいますので、やはり昔の軍人さんは 違うと私ども、いつも
頭が下がるおもいです。
彼は、私の家のすぐ近所に住んでおられます。
今年は、99歳になられるので、家族の方がそのお祝いをと 計画されています。
その時に、彼を知っている方がもし居られて、お祝いのEmail など送っていただければ 披
露をいたしたいと存じますが、如何なものでしょうか。
お返事をいただければ幸いです。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
当方の資料では、F.I.氏は昭和53年当時、埼玉県にお住まいになっておられました。
その後、アメリカにお住まいを変わられたのでしょうか。
何れにせよ、ご高齢にも係わらずお元気とのこと、何よりです。
F.I.氏が、今後益々ご健康で、長生きされることを祈願いたしております。

2002.2.24 T.S.さん(アメリカ在住・女性)
早速のお返事ありがとうございます。
私も埼玉県の出身で、偶然にもF.I.氏と同居している 一番下の息子さんに会ったことか
らお付き合いが始まりました。
この息子さんは、私の中学時代の同級生なのです。
この広いアメリカで本当に信じられませんでした。
F.I氏のもう一人の息子さんはかつて、カンボジア紛争が あったとき活躍されたI大使です。
では、失礼いたします。


2002.2.26 A.T.さん(男性)
 このホームページで、私の祖祖父のI.T. は海軍兵学校の6期 (明治12.8)卒で 石
川県 出身で大佐、砲術学校の校長(明治32年)であったと知ることができました。
高桑家の墓は東京田町の常林寺にありそこに高桑勇夫婦墓もあります。
この墓には海軍大佐、従三位とかかれていて国からいただいた墓と父から聞いていました。
それ以上の詳しい話は亡くなった父も知らなかったようで、私の祖先はどんな人だったか知
りたいとおもっていました。
このホームページで少しわかって大変ありがたく、うれしくおもいましたが、さらに詳しく調べた
く、ホームページのデータのもととなる資料がありましたら、資料名など教えていただければ大変ありがたくおもいます。
まことにご多忙中勝手なお願いですが、よろしくお願いもうしあげます。
 
管理人からの返信
 メールありがとうございました。
 私のサイトが少しでもお役に立ったとのこと、嬉しく思っております。
一年前に、以前から興味のあった「海軍兵学校」を、自分の記録として残せればとの想いか
ら始めたのですが、徐々にアクセス件数も増え、反響もかなりあって、改めてインターネット
のメディアとしての可能性に驚いております。
お問い合わせの件ですが、出典の資料は、一般に公開や市販されているものばかりで、
取り立ててこれと言ったものはありません。資料を読みながら、自分の歴史観から「海軍兵
学校」と何であったのか、また、優秀なエリート集団でありながら、何故開戦を阻止できな
かったのか等を書き記していきたいとの一念です。
 今後とも、サイトへお越しいただければ幸いです。
末尾ながら、T様のご活躍を祈念いたしております。


2002.4.28 オットットの母(女性)
ホームページ拝見しました。
私の亡父(H.T.)も海兵出身です。
海上自衛隊でしたので、私が子供の頃には江田島の官舎に住んでいたこともあります。
懐かしいです。
72期くらいと聞いておりましたが、名簿が完成するのを楽しみにしております。
http://isweb37.infoseek.co.jp/travel/ma-am/

管理人からの返信
 オットットのお母様
HPをご覧いただきありがとうございます。
出身者名簿は、第68期のところですので、もう暫くお待ち下さい。
オットットのお母様も、楽しいHP今後とも頑張ってください。
それでは、また。


2002.5.1 H.E.さん(男性)
謹啓
突然のメールにて大変失礼いたします。
私はW大学教育学部助教授のH.E.と申します。日本英語教育史を専攻しております。
戦前期の英語教育史を調べていく中で、海軍が英語教育に大変熱心だったことを知り、
その正確な実態を研究し、広く伝えていく必要を感じております。
その一環として、海軍兵学校、機関学校、経理学校の英語教育と、そこで使用された英語
教科書を調査しております。すでに兵学校78期生らが復刻した『英語教科書
(予科生徒用)』(昭和20年3月刊)を初め、数冊は入手しましたが、まだまだ実体解明に
はほど遠い状況です。
そうした中で、兵学校77期の皆様が刊行された『昭和二十年 最後の海軍将校生徒』
(昭和59年刊)の40ページに写真が掲載されております『英語参考書其ノ一』(昭和19年
刊)および『英語参考書 英文法』(昭和20年)をぜひとも調査させていただきたいと考え
ております。とりわけ後者は、終戦間際にもかかわらず、兵学校では英語教育が行われて
いた証拠として、先述の予科生徒用教科書とともに、学術的にきわめて貴重な資料である
と思われます。
そこで、77期の記念誌の発行代表者(T.I.氏)の電話番号をたよりに連絡を試みましたが、
すでに電話は別名義となっており連絡不能でした。
こうした事情で、誠に厚かましいお願いですが、上記の『英語参考書其ノ一』(昭和19年
刊)および『英語参考書 英文法』(昭和20年)などの旧海軍の英語教材の所蔵者(所蔵
機関)等につきまして、どんな些細なことでも結構ですから、なにかヒントをいただけないで
しょうか。
なにとぞよろしくお願いいたします。       
                                                    敬具

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
ご照会の件、残念ながら私自身は、知識を持ち合わせておりません。
通常は、プライベートに関する事柄は、お教えしないことになっておりますが、先生の特別
な事情を察し、77期のT.I.氏のご連絡先をお教えいたします。
(略)
但し、私自身、I氏とは面識がなく、ご存命かどうかも確認しておりません。
もし、先生のお探しの参考書の手掛かりが得られないようでしたら、私のHPで「捜し物」
コーナーを設け、先生のお役に立てればと思います。その際は、ご遠慮なくお申し付け下
さい。
(略)
以上、よろしくお願い申し上げます。

2002.5.2 H.E.さん(男性) 
拝復
このたびは貴重な情報を賜り、誠にありがとうございました。
なにより、特別のご配慮で77期のT.I.様のご連絡先をお知らせ下さいまして心から感謝
申し上げます。
さっそく連絡を取らせていただきます。
また、水交会に問い合わせましたところ、77期会の代表の方の連絡先をお教えいただき
ました。こちらもさっそく連絡を取らせていただきます。
それにしましても、旧海軍関係の皆様の迅速かつ組織的な連携による対応ぶりには驚嘆
いたしました。これまでもいろいろと資料調査をして参りましたが、かくも迅速な対応に接し
たことはありません。これも江田島の伝統でしょうか。
このたび頂きました情報をもとに、粘り強く調査を続けて参る所存です。
なお本日、同志社大学に所蔵されている海軍兵学校の『英語会話参考書』(昭和六年九月
刊)を閲覧することができました。235ページにも及ぶ立派な内容で、水準も高いものです。
兵学校の英人教師だったA. P. Rossiterが執筆したもので、彼の肉筆サインの下に"Kyoto, 21 March 1932"と書かれてあります。
『続海軍兵学校沿革』によれば、「アーサー・パーシバル・ロシター」は昭和4年(1929)9月7
日に兵学校に着任し、昭和7年(1932)3月15日に退任したとありますから、時期的には江
田島を発った6日後の時点で京都見物をしていて、それから神戸港
から帰国したのではないでしょうか。ちなみにこの本は昭和6年に重久篤太郎に献呈され
ておりますが、重久は当時、京都の同志社高等商業学校の英語教師で、戦後は私も所属
しています日本英学史学会の重鎮でした。
この本は彼の没後に重久のご遺族から母校同志社に寄贈されたものですが、図書データ
ベースで調べても全国で所蔵されているのはこの同志社の1冊だけです。さすがに英学史
の大家だけあって、貴重な一冊を残されました。
本日の興奮のあまり、余計なことを書きました。
心からのお礼の気持ちをお察し下さい。
ありがとうございました。


2002.5.25 J.T.さん(海軍兵学校77期)
 77期のJ.T.です。「五省いまだ我が心にあり」について諸士の人生の軌跡を編集したい
とかねがね思っています。同志の方と連絡を取りたいと思います。
このホームページを作成された方々に敬意と感謝を示すと共に、多くの諸士との繋がりが
出来れば、幸せです。
 

2002.7.14 Y.S.さん(男性)
前略
 海軍兵学校のHPを読み、今の教育制度を考えて学ぶべきことの多い事を痛感します。
昔、小学校で「五省訓」を学びました。
これを孫たちにも伝えたいと思いますが、正確な文言を失念いたしました。
もしご存知ならばご教示くだされたく、お願い申し上げます。
                                                    早々

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
 ご照会の件、下記ご参考にして下さい。
また、私のHPと相互リンクしている「交流広場」も是非ご覧下さい。
 今後ともよろしくお願いいたします。
 
昭和7(1932)424,勅諭下賜50周年記念式祝賀会および観兵式が挙行された後,校長松下元少将は訓示を行って「生徒は自習室に東郷元帥謹書の聖訓を掲げて五省を始める」よう指示した。
 つづいて同年52,下記文面から成る兵学校訓第37号が出された。
1 爾今朝食時生徒は当直監事の着け」の令にて着席し「勅諭五ケ条」を黙誦することに定める。黙誦終り当直監事の食事に掛れ」の令にて朝食するものとす。
2 夜間自習止め5分前,喇叭「G1声」にて生徒は自習を止め,「勅諭五ケ条」及び五省」を黙誦(各分隊1名輪番拝)して一日の行為を反省自戒すべし。
 それ以後,生徒は自習止め5分前になって「G1声」のラツパが鳴り響くと素早く書物を机の中に収めて,粛然と姿勢を正す。当番の生徒が,自習室正面に掲げられている東郷元帥謹書の勅諭五箇条」を奉読,つづいて五省」の5項目を問いかける。
1.至誠に悖るなかりしか
1.言行に恥ずるなかりしか
1.気力に欠くるなかりしか
1.努力に憾みなかりしか
1.不精に亘るなかりしか
 生徒は瞑目して心の中で,その問いに答えながら今日1日を自省自戒する。自習止め解散」のラッパで緊張が解かれる。
 
(「海軍兵学校沿革」)
 
2002.7.15 Y.S.さん(男性)
早速、ご返事をいただき恐縮しております。子供や孫たちにも伝えるとともに私も座右の銘としたいと
思います。
日本人が失いつつある大切な心構えと思います。
有難うございました。


2002.7.29 M.M.さん(男性)
前略 
 初めまして。M.M.と申します。海軍兵学校には全く関係のない者ですが、知人のお父
様が兵学校出身者でしたので、興味がありました。
兵学校の名簿の件ですが、52期に淵田美津雄がいると思うのですが名簿に載っておりま
せん。何か理由があるのでしょうか?
大変有名な人物だと思いますが、記載がないので驚いた次第でございます。
                                                     草々

管理人からの返信
 「海軍兵学校」をご覧いただきありがとうございました。
また、ご連絡が大変遅くなり恐縮です。
ご照会の件、海軍兵学校74期の作家・生出寿の次の言葉を引用し、回答とさせていただ
きます。
「淵田の淵はほんとうは『渕』である。しかし、『渕』は『淵』の異体字なので、正字の『淵』を
使うことにした。」(『淵田美津雄中佐の生涯』)
一般的には、色々な書物で淵田が使用されていますが、正確には「渕田」のようです。
昭和52年刊の『海軍兵学校出身者名簿』は「渕田」となっており、当方もこれに準拠して
います。
貴重な、ご指摘をいただきありがとうございました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。


2002.8.17 M.Tさん(男性)
私の祖父は、A.K中尉と聞かされております。
生前に祖父が、江田島の兵学校にて書き記した書類など御座いましたならば拝見したい
ものだと考えておりますが、
何しろ具体的な卒業年など判らないものですからどうすれば良いのか判りません。
南方の海域にて、潜水艦にての戦死らしいのですが、卒業回期と潜水艦のお名前だけで
もご教示戴けないでしょうか。

管理人からの返信
 「海軍兵学校」のサイトをご覧いただき、ありがとうございます。
ご照会のお祖父様の件、下記の通り回答させていただきます。
1,私が調べた範囲では、A.K.中尉は、海軍兵学校のご出身ではないと思われます。
2,海軍に所属した者全てが、海軍兵学校出身者とは言えません。海軍兵学校出身者
は、軍人を職業とするいわゆる「職業軍人」です。また、海軍士官を養成する教育機
関であり、卒業すると自動的に少尉候補生となり、通常1年間の遠洋航海で、諸外国
を歴訪し、帰国後少尉となります。
当方では、この程度のことしか分かりません。お役に立てず恐縮です。
士官であれば、「海軍機関学校」「海軍経理学校」「通信学校」「砲術学校」「航海学校」
「機雷学校」等が考えられます。また、「予科練」も対象となります。「予備学生」は、昭和
16年からの制度です。
なお、これらについて当方では出身者名簿等の資料を持ち合わせておらず、確認でき
ません。
(略)
最後になりましたが、お祖父様のご冥福を心よりお祈りいたします。


2002.8.17 M.Tさん(男性
初めまして、ホームページ拝見いたしました。
AOLを使っているのでフォームのメーラーが使えないので、自分の形式でメールさせて
頂きます。
たまたま、井上成美の事を検索していて、貴ページに当たりました。びっくりしたのはあち
こちに井上大将の記述が出てくることでした。最近になって、結構評価されているようで
すが、年配の方には人気がない方ですから、一杯書いてあって嬉しくなりました。実はわ
ざわざ調べなくても知ってる事ばかりなのは判っていたのですが、NETで見た事がなかっ
たので、初めてGOOGLEの検索に入れてみましたら、井上大将の記述が結構多いのに
びっくりしました。
尊敬する人としてあげている人も多いので2度びっくりしました。
詮索する訳ではございませんが、研究者の方なのでしょうか?(もし、兵学校のOBの方
でしたら、申し訳ございません。)私はこういう資料を後世に伝える事は非常に大切な事
と思います。度々、更新もされているようなので是非頑張って続けてください。
皇室と海軍の記述も興味深いですが、やはり文献頼りだと、もう知ってる話しか出てない
のが辛い処ですね。
旧海軍の方の残られている人も数少なくなっている現状では新事実などは期待できない
のかもしれません。
そういう私も旧海軍の方に知り合いいるわけではないので、井上大将の伝記をこれはとい
う方に差し上げる時Fさんの所にお邪魔してお話を聞かせて頂くのが楽しみなくらいです。
長くなりましたが、どうぞ、これからも、頑張って頂きたいと思います。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
 また、ご感想や励ましのお言葉、ありがとうございました。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
 ご返事が遅れましたことをお許し下さい


2002.9.2 T.A.さん(男性)
素晴しいサイトですね。兵学校出身者の卒業年次・没地(艦)迄わかり嬉しく思います。
今までは豊田穣さんの著書で68期ぐらいしか知り得なかったですから。
私は父が自衛官であった為、横須賀にて小学校迄過ごし、以来海軍ファンです。
江田島に行きましたのは昭和59年、大学出てすぐの頃です。
現在博多に住んでいますが、40歳過ぎた今でも、好きな歴史研究のひとつとして、大津島の
回天記念館や、東和町の陸奥記念館、佐世保や九州各地にある大戦の史跡、航空基地跡
等を訪れています。
今後も楽しみに見させていただきます。
では、失礼いたします。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、お褒めのお言葉を頂戴いたしまして、ありがとうございます。
 今後も、サイトの充実を計っていく所存です。
ご意見等賜れば幸いです。